世界は何も変わらずこともなし
行ってしまおうとしている夏に、いったいあれってなんだったんだろうと思う、そう思うのは決まって暑い日で、つまりその、あれってなんだったんだろう、と思うことが、いつだったかの暑い日のできごとだったというわけ
そのあたりのとき、連日、三十五度をこえるような暑さで、わたしは、なにげなく
―昔って三十五度をこえるような日ってあったかなあ
ヒトリゴトみたく、それも、少しだけ芝居がかったように言った
―あるよ
すかさず聞こえてきたその言葉は、悪意がふんだんに含まれているのが明らかで、あんた何言ってんのよとその人物の表情が言っていた
そうだっけえ
心の中だけで思い、言葉にはできなかった
わたしとその悪意の人物のほかは、聞こえているのは確かなのに、まったく反応がなく、そのことにさびしさがあった
もしかして、と、そのときのわたしは思った、わたしだけ、いまとは違う世界で生きていて、何かの折、わたしはそうなることを聞かされないまま、こちらの世界に来ることになった、元いた世界は、三十五度をこえるような日なんてなかったのだけれど、わたしが新たにやって来たこの世界は、三十五度をこえるような日があたりまえにたくさんあって、それでわたしは、馬鹿にされ、悪意を持たれたのかな、と
あれから多くの暑い日を経験し、けれど、やはり思う
昔ってこんなに暑かったかなあ
昔ってこんなに暑い日たくさんあったかなあ
昔って三十五度をこえるような日ってあったかなあ
昔って猛暑日なんて言葉あったかなあ
聞いてみたい
いまこれだけ暑いけれど、昔もこんなに暑かったですかねえ、と
あの悪意の人物に聞いてみたい
昔も こんなに 暑かったですか?
きっと、あの悪意の人物は、悪い魔法つかいだったのかもしれない
夏の夕暮れに、一日の疲れや空気の濁りが、ゆるくほてった空気のなかにあわく溶け込んで、それが、そよ吹く風にさああと流されるさまが、きっと、わたしは好きなんだろう
悪い魔法つかいの機嫌も、その時間は、比較的いいようで、だから風が、激しい乱れをみせるなんてこと多くはないし、悪い魔法つかいがたくらんでいるワルさを、風が知らせてくるなんてことも、そうそうあるわけでもない
お昼に食べた冷たいうどんが思いのほかおいしくて、はからずも食べることへ、気持ちがすこし、向いてきている
からあげと
エビフライと
サラダをたくさん
ドーナツと
アイスはやっぱりバニラを
食べることへ、だいぶ気持ちが、向いてきている
いったいあれってなんだったんだろう
数字を見るだけでげんなりしてしまう暑さは、行ってしまおうとしている
いったいあれってなんだったんだろう
気持ちが急いてしまうのは、せかせか歩くから、なのかなあと、それはわたしなりの考察
何か用事を頼まれたとか、待ち合わせに遅れそうとか、そういうことは何もなく、なのにせかせか
ふっと力を抜いて、ゆったり歩いてみるのだけど、空で輝く太陽が、やんややんやと急かしてくるみたい
体重はいっこうに減っていかない、けれど食べないことの不安のほうが勝っていて、だからしっかり食べている
太陽のあおりを無視して、ゆるやかな歩幅、ほんの少しの余裕、自分の姿勢の悪さにも気がつける
炭酸の抜けてしまったサイダーほど、まぬけで哀れなものはないよなあと、おぼろげに、そういった思いがおなかの底から湧いてきた
もっとちゃんと英語まじめに勉強しておけばよかった、海外留学しようかなって思ってるんだ
そう言っていたクラスメイトの話も流さず、真剣に聞いておけばよかったなあ、英語きちんとできるんなら、クリスティを原書で読んだりできたかな、ロンドンで探偵事務所でもひらいたりしたかなあ
求めていたのは、この本ではなかった、きっちり最後まで読んで、やっとそのことに思い至る、いじめのシーンが出てくるお話は読めない、中学のときのこと、以前、働いていた会社のこと、様々、思い出してしまうから、やっぱりあれ、いじめだったよなあと、だれも助けてくれなかったよなあと、よくがまんしてたよなあと、よく泣かなかったなあと
気持ちをきりかえようと、パスタを茹でてみる、その時間で、何か変わるだろうか
こともなし
こともなし
世界は何も変わらず
こともなし
いったいあれってなんだったんだろう
なんだったんだろうね