手形か結婚か
いつまでこの港町に身を潜めていられるだろう。ここなら王殺しの女を捕らえようと血眼になっている人たちも探しに来ないだろう、と考えて来たわけなのだけれど。
今朝、王の役人がやってきて新王アラスターの即位を発表した。弟のクラーク王子は宮廷での覇権争いに負けたわけだ。が、クラークとてそんな簡単に諦めるような男ではないだろう。
ミルクに蜂蜜を入れたお粥を木のお皿によそった。
マチルドは風呂屋に行った帰り。こざっぱりとしたモスリンのドレスに身を包み、ぽってりとした唇に微笑を浮かべていた。上気した頬がもぎたてのスモモの実みたい。
長い髪を一人でせっせと結い上げている。
「あなたは私のお姉さんと同じ名前なのよ」
マチルドは結い上げた髪を髪留めで固定している。
「お姉さんと?」
ヴェラがおうむ返しにたずねた。
「ええ」
少女が幸福そうな笑みを浮かべてうなずく。
「そのお姉さんはどこにいるのかしら」
マチルドの顔がくもった。
「誰もちゃんと教えてくれないけれど、この港町にいると思うの。船乗りの人たちが陸にあがってすぐに行く場所。男の人たちが一晩過ごす場所よ。私わかるの」
マチルドのお姉さんは家の財政が傾いて、もう建て直しが効かないまでになったので、仕方なく港の娼婦となったのだろう。今度は妹のマチルドが借金の形となって、ある男に身を売らなければならなくなったのだが。
「お姉さんには会いたいのよ。でも、私が会いに行ったらきっと悲しむと思うの。だって、あんなに綺麗な姉さんが……。それに私だって結婚しないといけないし。私の花婿をね、お姉さまは嫌っていたの。お姉さまも一度求婚されたんだけどね、それが手ひどい断り方で……」
ヴェラは今でもマチルドがその男と結婚するつもりなのではないかと危ぶんだ。子どもが大人の男と結婚するなんて、あってはならないこと。でも、マチルドにはそれが理解できないのだろう。
マチルドは「父親の魂のため」に結婚するのだと言った。妻を若くしてうしなった父親。かつて港町で一、二の財産をほこった家は破産の憂き目にあい、赤貧の中に死んでいった父親のために。そして、飢えをしのぐために、最愛の長女を売春宿に売るしかなかった父親のために……。
ヴェラは胸を痛めながらも、こういう類いの悲劇が何も珍しいものではないのを知っていた。マチルドの父親や姉のような人、かろうじて生きてはいても、貧困のために自らの魂を切り刻んで売り渡さないといけない人たち……




