みなしごマチルド
ヴェラは宿の部屋の暖炉に薪を足した。パッと赤い炎が燃え上がり、ヴェラの石膏のように白い頬をかすめる。
ベッドには海辺で出逢った少女が横たわっていた。顔を真っ赤にして、何やらうわ言を言っている。額が燃えるようにあつかった。
医者を呼んだみたものの、体を暖めてやるように、とか、そのまま死ぬといけないので寝かせないように、とか月並みな助言をするだけで、大して役に立ってくれない。貧乏がうつるといけないと思ったのだろう、最後の慈悲とばかりに脈をはかって、そそくさと安宿を出て行ってしまった。
長い夜になった。
けれど、寝ずの看病は遂に功をなして、少女の顔に血の気が戻ってくる。痙攣じみた震えもなくなった。か細い声のうわ言も……
今は起き上がって、不思議そうに部屋の壁を見つめている。なんだか陽の当たらない塔の中で、百年も眠っていたお姫さまみたい。
ヴェラは温めたワインを飲ませた。十二、三歳くらいだろうか。長く、灰色じみた金髪と目の下の濃いくまが少女を不自然に大人びて見せている。
「もうすぐ鐘がなる……。花婿のところに行かないと……」
少女はベッドから飛び出して廊下に出たかと思うと、その場でくずおれた。まだ歩けるほどに体力が回復していなかったのだ。
ヴェラは何も言わずに少女を部屋に連れ戻した。少女はもう逆らおうとしないで、ヴェラに体を預けてくる。
「こんな状態ですもの。花婿だってわかってくださるわ」
ヴェラは少女に毛布を二、三枚かけてやった。そうして、近くの椅子に座り、ドレスのポケットから小型本を取り出して、読書を始める。
徹夜したせいだろう、睡魔が襲ってくる。文字が紙の上でゆらゆらと踊り出した……
「いいえ、約束ですもの!」
少女のきつい、怒ったような声がきこえた。
一瞬、夢かと思う。なんだか、その声は少女に似合わなかったのだ。あまりに気迫に満ちていて、そのか弱い体から出たものとは思えない。
ヴェラは本を膝の上において、ぼんやりとした眼差しを少女に向けた。
「結婚する約束でしたもの!失望させたに違いありませんわ。私、悪い子だわ、約束を破ったりして……。昨日、……。昨日のことかしら、わからないわ。眠っていて、時間の感覚がなくなった……
昨日、海辺に行ったのは死のうと思ったから。死んだら、約束を破ったことにはならないと思って。だって死んだっていいけれど、嘘つきにはなりたくないもの。でも死ななかったの。私って悪い子だわ。悪い子で無責任。私のせいで、死んだお父さんは天国にも地獄にも行けないの。魂が地上をさまよって、きっと凍えているわ。だって、幽霊は服なんて着れないもの……!」
少女の頬を涙が流れた。
なんだか変ね。こんな幼い子が「責任」だの「死」だの……。尋常ならざる事情があるに違いない。
「お嬢さん、名前はなんて言うのかしら」
ヴェラの声が自然に優しくなる。あんまりに憐れっぽくて……
「マチルド」
無垢な顔をして、一言だけ返事をした。
「素敵な名前ね。お母さまから選んでくださったの?」
「さあ、わからないの。だってお母さまは生まれてすぐに死んでしまったから。あなたの名前はなんて言うの?」
「ヴェラよ」
マチルドはふっと涙ぐんだ。かと思うと目を閉じて、すやすやと眠りだしてしまう。白く、愛らしい寝顔。でも、どう見たって花嫁になる年ごろじゃない。
明日またマチルドに聞き出そう。こんな年齢の子が結婚から逃げるために自殺を図るなんて、無情な世の中だこと。




