二人目の花嫁候補
ジーナ嬢は泣いていた。たった今王太子に「デカ過ぎる」と言われた鼻をかみながら。何度も何度も鼻をかんだせいで、赤くはれて、ますます大きく見える。
ヴェラはレースのハンカチを令嬢に差し出すと、ため息をつきたくなるのをこらえて廊下に出た。そして宮殿をずんずん歩き出す。男みたく大股に闊歩して、猫背のまま。
王太子は厩舎にいた。乗馬服で馬にこっそり角砂糖をやっている。
「殿下」
ヴェラはためらいがちに厩舎の入り口に立った。
「ヴェラ、君か」
アラスターがちらりと視線を向ける。
ちょっと微笑んで馬の鼻面を撫でると、こちらにやってきた。
「行こう」
アラスターは宮殿の廊下を抜けて、ヴェラを閉め切った舞踏室につれていった。長らく使われていないのだろう、埃が宙にまい、赤いカーテンには銀色の蜘蛛の巣がはっている。シャンデリアがチャリチャリと鳴っていた……
ヴェラは石の長テーブルに座って微笑んでみせた。
こんなことを空想してみる。この部屋は百年前に閉ざされて以来、今日まで開ける者は誰もいなかった。
百年前には毎晩舞踏会が開かれていたはずだ。靴をすり減らして踊る乙女たち。あんまりに奔放に、情熱的に踊るので、可愛い小ちゃな靴は一晩でだめになってしまう。王とお妃様は玉座に並んで座って、柔和に笑っておられるはずだ。
揺れるスカート。薔薇色の頬。騎士たちの心は恋に燃え上がる……
「母が早産で娘を亡くしてね。以来この舞踏室を閉め切ってしまった。王女が生まれるまでは、この部屋は使わないって。母はいつまでも女の子を欲しがった……」
アラスターが天井近くの窓からもれる明かりを見つめて言った。
覚えている。王妃は幼いヴェラを膝の上にのせ、宝石やら化粧品を触らせてくれたものだ。
「王妃様も、殿下の花嫁を娘のように思うはず……」
アラスターは苦笑した。
「どうしてジーナ嬢を拒絶するのです?」
ヴェラが立ち上がって王太子に近づく。
「彼女に問題はない……」
でもそんなこと言って、この人は二人目の花嫁候補のジーナを拒否してしまったのだから。
「ジーナは泣いていたわ。悪口が聞こえてたってご存知?お見合いの相手に鼻がデカいなんて、言われたらとんでもなく傷つくのよ。わかっていらっしゃる……?あなたは傲慢で心のない人だわ」
ヴェラは憤慨して、だが言い聞かせるような、説得するような口調で言う。
「ジーナ嬢には謝るよ。だが、彼女を花嫁にはできない。父親に断りの手紙を書いてくれ」
アラスターは表情を変えずに言う。ヴェラに背を向けて、壁の黒い甲冑をぼんやりと見た。
「ヴァージニア・レトーは、子爵夫人はあなたの何なのです、王太子殿下?」
アラスターが振り向いて、意外そうな顔をする。そして、驚くほど冷たい声を出した。
「ヴァージニアと君に何の関係がある?そんなこと君に話す義理はない」
「王室の縁組み人として知っておかなければなりません。アンジェリカもジーナも拒否したのは彼女のせい?」
アラスターは苛立たしげな様子で、ヴェラの肩に触れると椅子に座らせた。
「ヴァージニアとは恋仲だ。だが、君が思っているような関係ではない。彼女が私と結婚することはないだろう」
ヴェラはうつむいて自分の白い手を見つめる。
「彼女を愛してないと?」
恐る恐る訊ねた。
「ある意味では」
アラスターはそう言って皮肉な笑みを浮かべる。
「君は純粋だ。ヴェラ、君はあの時から何も変わっていない……!」
「でもあなたは変わってしまったわ。不誠実になってしまった……」
ヴェラは心の中でそう答えた。
彼は本当にヴァージニアを愛していないのだろうか。結婚した後も彼女との関係を続けるつもりなのだろうか。
一瞬、王太子はヴェラをこの城から連れ出して、誰も知らないところに行けたなら、と思った。
ヴェラは変わっていない。美しいままだ。ブルーグリーンの澄んだ瞳、抜けるように白い肌、漆黒の髪。昔よりもかえって賢く、優しくなって……。
子どもだった頃、森の中の秘密の小屋でキスしたものだ。そうするとヴェラは白い歯を見せて笑い、裸の木の床を転がりまわる。
彼女を壁に押しつけてキスしてやりたいと思った。ヴェラは怒るかもしれない。怖がるかもしれない。兵士に乱暴されそうになった時のように……
アラスターは森で見た光景を思い出す。白い、むき出しになった足、スカートがまくられ、下着は引き裂かれている。ヴェラは体を震わし、目に涙さえ浮かべていた。いつも堂々と振る舞うヴェラが、あの時はひどく頼りなげに見えた……
「……こういうことですね。殿下は人妻への愛のためではなく、令嬢の鼻がちょっとデカ過ぎるので縁談を断る、と」
ヴェラが何かしゃべっている。
けれど彼女もなんて意味のないことを喋るのだろう。彼女をこんなにも欲しているのだ。それなのに花嫁候補のことなど……。妻を娶ることなど王太子としての義務というだけで、本当はどうでもいいのだ!
ヴェラを抱くことは許されない。彼女を愛人になどできない……
アラスターはヴェラの白い美しいうなじを見つめていた。翡翠のペンダントが光っている。
ヴェラは王太子が何も言わないので、振り向いて困惑したような、優しい笑みを浮かべた。
「どうされましたの?」
なんでもない、と王太子。
ヴェラの考えていることがまったく分からない。礼儀正しくはあるが、内心は自分を批判しているようで。
「縁談のことはまた手紙で知らせてくれ。それから困ったことがあったら言ってほしい。あの森の中で起こったことに、また遭遇したらいけない」
ヴェラの顔から笑顔が消え、表情をこわばらせた。
アラスターとヴェラは顔を合わせても、あの物騒な事件のことに触れていなかったのだ。明らかにこの話題を嫌がっている……
「有難いお話ですけれど」
とヴェラは微笑んでみせた。
「あのことで何か責任を感じていらっしゃるようなら思い過ごしですわ。あれは単に来る戦争のせいなのですから。兵士も何もかも。忌まわしい戦争の……」