暴漢ども
レオナルドとアリスがめでたく幸せな結婚をして、みんなに祝福されたとなると、ヴェラはもう愛しい我が家のことが恋しくなってきて、家に帰ることより他に何も考えられなくなるのだった。
ジャックと共に帰途の旅について、はや三日、ヴェラはゴトゴト揺れる馬車の中で小説を読んでいる。隣にはおもちゃのベッドにサファイアの目をしたお人形。右側の窓にはひたすら黒い森、森、森。左側の窓には蒼い丘陵。道は黒い森へと続いていた……
不意にヴェラが本から目を上げると、道端を歩く男の子が視界に入った。肩に薪木を背負い、よろめきながら歩いている。ジャックは手綱を操りながら、男の子に声をかけた。
「森を通るなら馬車に乗るといいわ」
ヴェラが窓から顔を出して言う。
男の子は振り向いてヴェラを怪訝そうに見つめた。
真昼の太陽を受けて、少年の畑仕事で汚れた顔には汗が光っている。肌はれんが色にやけ、唇は乾燥してひび割れ、白くなっていた。
けれど、この女の人は何者なんだろう?貴族のやんごとなき方なのか、貿易商人の妻なのか。趣味か娯楽かなんかのように貧しい家々をまわってパンや衣服を恵んでくださる貴婦人は大勢いるけれど……
野良仕事の帰りに馬車を乗せてくれるこの人は何者だろうか。
人さらいなのかもしれない。森に棲む魔女なのかも。
「お駄賃はとらない。荷物が重たいでしょう?馬車に乗ってハムやウィスキーボンボンを食べましょうよ」
結局少年は馬車に乗ることに決めた。甘いお菓子の誘惑に勝てなかったのだ。
箱馬車の中はジャスミンの良い匂いがする。女の人はたいそうご機嫌で、甘いお菓子を次々と出してくれた。ついでにジャムやチーズを少年のポケットに押し込んで、聞いてもいない旅の話までしてくれる。
サイナヤ地方まで旅に出ていたが、無事に用事がすみ、もう黒い森を抜けたら生まれ故郷のエスカテル村にたどり着くんだとか。
「兄弟はいるの?」
いるけど皆都会に出るか嫁に行くか、死ぬかしてしまった。呪われた村なんだ。
ようやく黒い森を抜けようとしたところ、馬車が五、六人の兵士に止められた。鎧に身を包み、長い槍をもった男たち。
「馬車を降りろ。国王陛下の命令により、馬を没収する」
兵士の一人が大声で命令する。
ヴェラは少年に馬車の中にいるように言い、兵士たちの前に出て抗議した。この馬たちは自分が働いて手に入れたものだ。そんな簡単に手放すつもりはない。
「働いて?この女は貴族の妾だぞ」
兵士たちが虚な笑い声をひびかす。
「それとも旦那と一緒に街の男どもを慰めてきたか」
ヴェラは顔を赤くした。彼らはこう揶揄したのだ。ヴェラは夫のジャックの公認のもとで体を売っている娼婦だと。
「私は娼婦ではありません。誰かの愛人でもないんです。わかったなら道をあけてください」
「そうはいかないね」
兵士たちがヴェラににじり寄ってくる。
「馬と馬車を置いて立ち去れ。さもないと国王陛下の名のもとに逮捕する」
地下牢が待ってるぞ、看守がお前のような罪深い女にどんな扱いをするのかはわかってるだろ。
思わず鼻でわらってしまった。やってごらんなさいよ、好き勝手王の名前を使って。あんた達はみんなケチな卑怯者だわ。
兵士の一人がぐいとヴェラの手首をつかんで引き寄せる。男はヴェラの白い両頬を片手でつかんだ。
「ヴェラ!」
ジャックがそれ以上はやめろ、と警告している。
「今言ったことを取り消せ。亭主も言ってるだろ」
兵士の息が顔にかかった。
「彼は私の夫じゃないわ」
ヴェラは兵士の腕を振り解こうとする。が、腰をつかまれ、男の股間を押しつけられた。
「やめてよ!」
「腕をつかんでろよ」
男が荒い息、爛々と目を光らせて言う。
もがけども、仲間の兵士が抑えつけてくるせいで、身体はびくともしない。ジャックがヴェラの名前を呼びながら兵士たちに襲いかかっていったが、殴り倒され、喉元に刃をつきつけられた。
暗い森の中、スカートがまくしあげられ、下着が音高く引き裂かれる。男の体がヴェラの顔にのしかかってきた。
息ができない。暗闇、絶望だ。屈辱だ……
もうこれまでか、と思われた時、馬の蹄の音が響いた。
「これは何事か」
男の声。
兵士の体が離れた。でも視界がぼやけて何にも見えない。
「奴らが国王陛下の命令に背いて、馬を渡さないって言うんです。頑固な不敬者で……」
「女を襲うよう命令した覚えはない。この者たちからは馬を徴収するな。わかったなら仕事を続けろ」
ヴェラは謎の馬上の人の手を借りて立ち上がった。面をあげると、男の後ろから馬に乗って、白いドレスに身を包む女の姿が見える。髪を解き放ち、超然とした態度でそこにいる。
ハッとした。ヴェラを救ったのはアラスター王太子だったのだ。神話の英雄のように……
「大丈夫か」
アラスターがいくらか柔らかな声で訊く。
「ええ、もう大丈夫です。王太子殿下のおかげで……」
ヴェラがかたい声で言った。
神経質にドレスについた土を払う。白いドレスの女が悠然と馬から降りて、王太子の隣に立った。細面の顔がヴェラを見て微笑んでいる。
いつか自宅の庭先で見たあの女だった。
「ヴェラ、こちらはヴァージニア・レトー子爵夫人だ。ヴァージニア、前に話していたヴェラだ」
王太子が女の指輪をたくさんはめた手にうながされ、紹介する。
二人の女が優雅な微笑を浮かべ、挨拶を交わした。
子爵夫人か。高貴な生まれからにじみ出る気品。野心的なキリリとした目の方が印象的だった。
果たしてレトー子爵夫人は王太子の愛人なのだろうか。二人のやり取りを見ていると愛人にしか見えないけれど。
それならレトー子爵は一体……
「ヴェラ……」
子爵夫人は曖昧な笑みを浮かべた。苗字を訊ねているのだろう。けれど、ヴェラの家には苗字はなかった。仕事上、相手の信頼を得るためにスワン嬢と名乗ることもあるけれど、宮廷では、幼い頃からヴェラを可愛がってくれた王妃のいる宮廷では使っていない。
「ただのヴェラです。農民の出ですから」
ヴェラが澄んだ瞳で答える。
子爵夫人はあら、とだけ言った。
それから王太子は思い出したように、母上が君と騎士とのお見合いの件で会いたがっていると伝えた。