舟遊び、桜の花びら
ヴェラはジャックの操る馬車から、カールソン邸に降り立った。
ミルトン嬢は、柳編みのかごにこぼれんばかりに花々を入れ、庭園を歩いている。白のモスリンのドレスが風に揺れて美しい。控えめですっきりとした服装だ。
バーナード・カールソンは令嬢の腕をとって呑気にとなりを歩いていた。
「レオナルドはもうすぐ来る。出かけているもんでね」
老人がヴェラとアリスの二人に言う。
「いつ頃からですの?」
アリスがきく。
「昨日の夜、慌てて出ていったよ」
老人は無頓着な様子で答えた。
アリスの顔が蒼くなる。狼狽したような身ぶりで遠くを眺めた。
夏が近づいていた。木々は黄緑色の葉をたくわえ、川辺では子どもたちが水遊びをしている。
そして街を流れる運河には白鳥と恋人たちの小舟が……
それにしても、ヴェラにはなぜ若い二人があんなにも嫌い合っているのかどうしても理解できない。二人の嫌いようにはなんだか、芝居がかったところさえあるのだ。単なる反発心なのか、それとも本当の本当に憎み合っているのか……
しばらくすると、レオナルド・カールソンが慣れた様子で、庭の黒い縦格子の塀をこえてやってくるのが見えた。急いでここに向かっていたらしく、息を切らしている。遅れたことをヴェラとアリスに対して詫びた。
今日のレオナルド・カールソンは際立って魅力的だ。金髪は優雅にカールし、頬骨のあたりは上気して赤くなっている。まるで白馬の王子様のようだ。
そんなレオナルドの姿を見ても、アリスには微塵も心動かされる様子はなかったが。
若い二人は同じ時を過ごせば、誤解もとけ、お互い好きになるだろう、というのが爺さんの見解だった。
ヴェラとバーナードは二人が乗る小舟を岸辺から眺めて、成り行きを見守っている。
春最後の桜の花びらが舞い、船上で誰かがマンドリンをかき鳴らしていた。女優か商売女らしき人物が細い小型の船の上で、ちょうちん形のズボンを履いて、踊っている。ボートは女の体重に危なっかしげに揺れた。女の恋人は寝そべってダンスを見物し、時々締まりのない笑い声をあげている。
アリスはその向こうで、櫂をこぐレオナルドと差し向かいに座り、うつむいていた。レオナルドが最初に口を開く。二人はそのまま二言三言ことばを交わした。
と、いきなりアリスが立ち上がる。顔に憤慨と拒絶の表情をはりつけ、ほとんど泣きそうになりながら……
なぜアリスが怒っているのかはわからない。
だが、彼女が次に出した言葉は川の近くにいた人全員に聴こえた。
「なんて恥知らずな人なの!恥知らずで、破廉恥で……!あなたなんか最初から嫌いだったわ!」
レオナルドが何か懇願している。頼むから座ってくれ、落ち着いて、僕の話を聞いて……。
彼が立ち上がってアリスの腕をつかむと、女はますます怒って叫んだ。
「触らないで!」
「なんてこった……」
お爺さんがため息をもらす。
「あなたと一緒の船にいるよりも溺れ死んだほうがましよ!」
アリスはそう言うなり、川の中に飛び込んでしまったのだ。
大騒ぎになった。レオナルドは間抜けな顔をして船に一人取り残され、近くにいた高級娼婦がヒューと口笛をならす。人だかりができ、誰かが叫び声をあげた。野次馬の一人が川に落ちたのだと言う。
カールソンの爺さんはカンカンになっていた。孫への侮辱をカールソン家への侮辱と同義にとらえたのだ。それもこんな大勢の人の前で……
あの娘っ子がレオナルドの靴の泥をなめて謝罪してきたって結婚してやるもんか。
爺さんのほうからレオナルドとアリスの縁組みを破談にしてしまったので、ヴェラはすぐにミルトン邸を訪ねなければならなかった。
意外にもお婆さんはこの状況を愉快がっていた。激昂してアリスに手厳しい折檻でもしているのではないか、と心配になっていたのだが……
「スワンのお嬢さん、アリスが何をやらかしたのかご存知でしょう?」
婆さんがいつも以上にカクシャクとして、ヴェラを暗い家の中に招き入れる。
「へえ、あの子にあんな根性があったとはねぇ。アリスは遂にバーナード・カールソンの鼻をへし折ってやったんだよ。あの男ときたら立派なお庭と旧いお家柄を自慢するばかりで。破産しかかっているのにね!」
アナベル・ミルトンは以前からカールソンの爺さんを気に食わなく思っていたのだ。けれどアリス嬢だって根性うんぬんよりも、単に癇癪を起こしただけじゃないかしら……
それはともかく、婆さんはヴェラにお決まりのスープを持たせて孫娘に会いに行くように言った。
踊り場の窓を閉め切っているせいで、階段は真っ暗でムッとしている。
令嬢の部屋に近づくにつれ、すすり泣くような声が耳に入った。部屋の扉は開いている。ヴェラは入るのをためらった。
アリスは壁に寄りかかって泣いている。下着姿で、髪の毛は濡れたまま。着替えの途中だったのだろう。
でも、アリスは綺麗だった。女のヴェラをもハッとさせるような色っぽさ。濡れたまつ毛に、亜麻色の髪からむき出しの肩に垂れてゆく水滴、キュッと細く白いくるぶし、泣いて赤くなった唇……
「どうか入って、扉を閉めて……」
アリスはヴェラに気づくと、慌てて立ち上がり、手のひらで頬の涙をふいた。
「お祖母様は怒ってません」
ヴェラが言う。
アリスは首を振った。
「違うんです。もうお祖母様は怖くありませんわ。私、とんでもない大失態を演じたんです。レオナルドは……。ああ、私これで一生不幸ですわ!」
「起こったことは起こったことです。でも今からでも取り返しはつきますよ」
ヴェラはアリスをベッドの上に座らせ、肩にショールをかけてやった。
「あなたは知らないんです、私たちの秘密を……。ええ、だって私たちは芝居をしていたから……。でもこうなっては全ておしまいです」
アリスが打ちひしがれた様子で言う。ヴェラはアリスの冷たい手をとり、その秘密とはなんなのか教えてくれるように言った。
アリスは目に怯えを見せ、胸を上下させ、しゃべるのをためらった……