邂逅②
「北原さん。」
真っ白な診察室で、まっさらな白衣を着た医者がノエルに呼びかける。
「その後、調子はいかがですか?
薬は飲めていますか?」
「…はい。」
「夜は?
眠れていますか?」
「…はい。」
「では薬の量はそのままでいきましょう。
また一ヶ月後に来てください。」
「…はい。」
「では、待合室でお待ちください。」
「はい。」
ノエルは硬い表情を崩さなかった。
診察室の引き戸は、ノエルの気持ちと反して、軽く滑るように開いた。
クリニックの隣にある薬局から外に出ると、ノエルの頬に雨粒がひとつ落ちた。
「雨かぁ…。」
雨は徐々に強くなり、ノエルはパーカーのフードを被った。
サァァァァと大きな音を立て、辺りは一瞬で冷たい雨の世界に包まれた。
ノエルの髪や服、リュックに拭えぬほどの水滴が落ち、染み込んでゆく。
ドクン。
突如、ノエルの心臓が強く跳ねた。
そして脳裏にあの日の光景がフラッシュバックする。
雨に濡れたアスファルト。
その上に横たわる香奈子。
頭からは鮮血が流れ出ている。
ドクン。
仄暗い恐怖が、ノエルの背中から全身を包み込んだ。
汗が吹き出し、喉の奥が詰まる。
ノエルの息がヒュッと鳴る。
やば…息が…。
いきなり呼吸の仕方を忘れたかのように、息が出来ない。
ノエルは水たまりの上にばしゃっと膝をついた。
苦しげにヒュー、ヒューと息が漏れる。
喉の奥、玉でも、詰まってるみたいだ…。
あぁぁもう、落ち着け。落ち着け。
ノエルは目の前にあった公園の車止めに右手をかけた。
背中を丸め、なんとか呼吸をしようと息を細く長く吐いた。
この程度、いつものことでしょ…雨の日は特に…。
ドクン。
雨に濡れたアスファルト。
その上に横たわる香奈子。
頭からは鮮血が流れ出ている。
ドクン。
あぁだめだ。
頭、まわんない。苦しい。
あぁムカつく。
暗い。怖い。クルシイ。
ねぇ香奈ちゃん。
僕が…。
ノエルは呟く。
「…香奈ちゃん………香…。」
「大丈夫ですか⁉︎」
頭の上から大きな声が降ってきた。
ノエルがなんとか見上げると、そこには制服を着た少女がいた。
長めの前髪に、緩いおさげをした見覚えのない子だった。
傘も荷物も持っていない。
うずくまるノエルの目線に合わせるように姿勢を低くし、必死に話しかけてくる。
「だ、大丈夫ですか?
救急車呼びますか⁉︎」
「…や……
だ…いじょぶ…。」
「で、でも!」
「…や…
救急車…とか…そーゆーんじゃ…ないから。」
ノエルはなんとか呼吸を整えながら返事をした。
少女は、心配そうに顔を曇らせ、次の言葉を探しているようだった。
ノエルはボソボソと続けた。
「…とにかく…慣れてるから…ほっといて…だいじょ…。」
そう言いながらノエルは体を起こし、歩き出そうとしたが、次の瞬間にはまた水溜まりの中にべしゃっとひざまづいてしまった。
少女は堪えきれないと言わんばかりに、大声を出した。
「…ほ、
ほっとけるわけないじゃないですかぁ…!
病院いきましょう⁉︎」
「…だから…行ったんだって…これでも…。」
「嘘だぁ!真っ青ですよ!
フラフラだし!苦しそうだし!」
「なんなら病院帰りだってば…。」
「えぇ?
それなら治ってないですって!」
リアクションでっかいなこの子…。
…なんかもうだんだん拒否するのも面倒くさくなってきた…。
「ほんと、大丈夫だから…家近いし、寝てれば…大体治る…。」
「あ、じゃあタクシー呼びますか⁉︎」
「いいって。」
「じゃあせめて近くまで送らせてください!
肩に腕まわして!
大丈夫ですよ!
バイトで力仕事してるんで、任せてくださいっ。」
「……はぁ。」
この子…香太と同じニオイがする…。
こっちがうんって言うまで引かないタイプのおせっかいだ…。
あ、でも…喋ってると、ちょっと息出来てきたかもしれない…。
「…じゃあ、うん。お願いします…。」
「はいっ!」
少女はノエルをぐいっと立ち上がらせると、にこっと笑ってみせた。
「立って大丈夫そうですか?
辛いですか?」
「だいじょぶ…ねぇ、
それよりあんた、濡れちゃうよ…。
僕びしゃびしゃ……」
「心配無用です!
傘忘れちゃって、私ももう濡れちゃってるんで!」
「……。」
少女はえへへと陽だまりのような笑顔で言う。
ノエルは急に陽光に当てられたように目を細めた。
「…あんた、高校生?」
「はい!
ここの近くの紫高です。」
「…うん、知ってる…。
僕たちと…香奈ちゃん、そこ通ってた。」
「?
カナ…?」
「着いた。ここ僕の家。」
そこには洋風でシンプルなデザインのアパートがあった。
塗り直したての白い壁が、曇天の灰色に沈んでいる。
「わぁ、可愛いお家…。」
少女が呟く横でノエルが部屋の鍵を開ける。
ふたりが、部屋に一歩踏み込んだ途端に、少女の肩がふっと軽くなった。
ノエルが廊下にばたんと倒れ込んだのだ。
「きゃー!
だ、だ、大丈夫ですか⁉︎
いや、大丈夫じゃないですよね!
あの、ご家族は…⁉︎」
「…や、大丈夫。
くらくらしてちょっと動けないだけ…。
あと…一人暮らし…。」
ノエルは肩で息をしながら答える。
「えっと、あ、ね、寝るにしても、そのままじゃ…!
あっタオルとかお借りしてもいいですか⁉︎」
「…うん。」
お邪魔しますと呟いて、少女は洗面所の方へ小走りで向かう。
…あぁ最悪だ。
これ動けなくて今日潰れんじゃないの。
とんぷく薬、もらっとけば良かったかな。
あぁでもあれ、たいして効かないんだよなぁ。
どうせ、僕のいるところまでは、届かない。
薬も、何も。
その時、ふわっと温かい何かがノエルの頭に触れた。
少女がタオルで、ノエルの濡れた頭を優しく拭いているのだ。
ノエルは、喉の詰まりが緩んでいくのを感じた。
少女はにこっと笑って言う。
「勝手にすみません。
軽く拭いちゃうんで、ちょっとだけ待ってくださいね。
このままじゃ、さすがに風邪ひいちゃいますから!
って、わ、すみません!」
緩いおさげにした髪の毛から、雨粒が滴ってノエルのまぶたに落ちた。
少女は焦ってノエルの顔と、自分の髪もぽんぽんと拭いた。
ノエルは上手く働かない頭で、少女の手の温かさや、優しい手の動きを遠くから眺めているかのように、ぼんやりと感じていた。
すると遠い記憶が、ノエルのまぶたの裏にやってきた。
『ノエルくん!香太!』
香奈子の声が響く。
ノエルと香太のふたりはまだ小学生だ。
ふたりはずぶ濡れで帰宅してきた。
桐谷家と北原家はマンションの隣同士だ。
『ふたりとも傘は⁉︎』
『忘れたぁ!』
『もぉ〜
風邪ひいちゃうよ?』
そう言いながら、香奈子は自分が使っていたタオルでノエルの頭を優しく拭いた。
柔らかく笑う彼女の中学の制服もびしょ濡れだった。
香奈子は笑うと、困り眉になって、涙袋がぷっくりする。
ノエルはその笑顔が、大好きだった。
その手は、温かっただろうか。
今はもう、思い出せない。
思い出せないことが、他にいくつあるのだろうか。
ノエルは深く息を吸い込み、小さな声で呟いた。
「…手、ぬくいね。」
「へ?
すみません、なんて?」
「んーん。」
ノエルはむくりと起き上がり、なんとか壁に寄りかかった。
少女は心配そうに見守っている。
「ん…ちょっと、もちなおした。」
「…本当ですか?」
「ん…きかえて、ねる…。」
「はい、良かっ」
「ひっぱって。」
「た…」
「?」
ノエルは自分のパーカーの袖を少女の前に差し出していた。
「?
きかえるから、ひっぱって。」
少女は動揺して耳が真っ赤になっていたが、ノエルがそれに気づく様子はない。
「じゃ、じゃあ、失礼しますっ!」
「?
うん。」
なんでそんな大げさな…。
その時、玄関扉が開いた。