邂逅①
「ねぇ香太。」
「ん?
というかノエル。お前、寄っかかんのやめろ。」
大学の図書館でふたりの少年が、横並びで座っている。
黒髪の小柄な少年がノエル。色素の薄い髪色をした長身の少年が香太だ。
香太にもたれかかっているノエルが、気だるそうにスマートフォンを確認している。
「なんでこんな必修あるの。
大学生になったら遊べるとか嘘じゃん。
必修と実験入れたら、もうスケジュールいっぱいなんだけど。」
「理系はこんなもんだよ。」
香太が、手元の資料の山を整理しながら答える。
「レポートも多いし、
ほとんどの単位、テストも点とらなきゃなんでしょ?
はぁ〜文系にすればよかったかも。
香太のせいだ。」
「はぁ?
俺と同じとこ入った方が、色々楽って言ったのお前だろ。
はい、それよりこの資料のコピー取ってきて。
来週のレポートで要るらしいから。
今日中に友達に返さないと。」
「えー写真撮ればいいじゃん。」
「俺は紙派なの。
ノエル、自分のもとっとけよ。
写真でもいいから。」
「はいはーい。」
香太がノエルに分厚い資料を手渡す。
ノエルは渋々受け取り、面倒くさそうに席を立った。
窓からは、桜の花びらが気だるげに過ぎてゆくのが見える。
「小説書く時間ほんと無いんだけど。」
コピー機を操作しながらノエルが呟く。
香太が顔を上げた。
「締め切りは?」
ノエルはコピーし終えた資料を香太に手渡し、席にとすんと座りながら言った。
「明後日。
詰んだもう。
寝らんないよ、これ。」
ノエルは強く眉を寄せた。
眠たげなタレ目をしているのに、ノエルがいつも不機嫌そうに見えるのはこの癖のせいだ。
「進捗は?」
「五十パー。
あ、ねぇ香太。
晩ご飯作りに来てよ。」
「いーけど、バイトの後になるよ。
夜遅いよ。」
「うん、いーよ。いつでも。
どうせ原稿で寝られないし。」
「たしか材料あったし、鍋でいい?」
「えーまたぁ?」
「文句ばっか言うな。」
香太が丸めた資料でノエルをぽこっと叩いて、鞄からパソコンを取り出した。
「とりあえずは今週のレポートやらないと。
今やれるとこまで進めるぞ。」
ノエルは不服そうに「うぃ。」と言った。
大学からの帰り道、香太が空を見上げて言った。
「雨降りそーだな。」
「ん。」
予報にはなかった曇天がふたりの上に広がっている。
「レポート全然終わんなかったな。
というか、お前に関してはほぼ寝てたし。」
ノエルが返事代わりの大あくびを返し、「あ、そうだ。」と続けて言う。
「香太が書き終わったら見せてよ。
それ参考にして書くからさ。」
「はぁ?やだよ。
つーかダメだろ。」
少しだけ後ろを歩いていたノエルの前に、香太が立ち塞がった。
「お前、中2の時の読書感想文。
俺にほぼ全部書かせた上に、文句たらたらだったの忘れてないからな。」
「あーやだもう、ねちこいんだから。そんな昔のこと。」
ノエルは悪びれもせず、ぷいと横を向く。
しかしすぐ視線を上げ、香太の目を見て言った。
「香奈ちゃんなら、絶対優しく教えてくれるのになー。」
香太はすぐ言葉を紡げなかった。
曇天はゆらゆらとその雲の形を変えている。
「……嘘つけ。
お前、姉貴の前じゃ良い子ぶるし、
勉強教えてもらってるのなんて見たことないよ。」
「ん〜まぁ香奈ちゃん勉強ニガテだしねぇ。」
ノエルはうんうん、と自分で納得したようにうなずいている。
香太は、ふぅと息をついた。
「レポートは今日の夜、一緒に終わらせよ。」
「うえー。
香太、教えてよ。これはほんとに。」
「はいはい。」
ふたりはあじさい公園の前で二手に分かれた。
香太は丘の上にある墓地にいた。
人気のない墓地を進み、桐谷家の墓石の前で立ち止まる。
「お、花がある。
月命日だし、母さんが来たのかな?」
供えられたかすみそうが、曇天の下でもまばゆい白さをたたえていた。
「…久しぶり。姉貴。」
香太の表情は柔らかかった。
資料や教科書の詰まった鞄から、一冊の本を取り出す。
「はいこれ。ノエルの新作。
すごいよな。本屋に普通に並んでるんだよ。
もー立派な小説家だよ。
あの何事もやる気なさげなあいつがさ。」
かすみそうがわずかに揺れた気がした。
「…姉貴の夢だった、小説家だよ。」
香太は、姉である香奈子から返事があったかのように少し間を置いた。
実際には、四月にしては冷たい風が、墓石と香太の間を吹き抜けてゆくだけだった。
「あいつ、めっちゃ忙しくしてるよ。
大学も始まったし。
俺と同じ横浜理科大。学科も一緒でさ。
あ、提出物自主的に出さないのは、今も全然変わんないよ…。
俺、今からあいつの単位が心配で心配で…。」
香太はおどけて胃が痛んでいるかのように、胸を抑えるポーズを取ってみせた。
しかしすぐ、表情を曇らせた。
その心のうちには、独りで立つノエルの後ろ姿が浮かんでいた。
「…でもあいつ、多分まともに眠れてないんだよ。
もうずっと、長い間。
多分姉貴が…いなくなってからずっと…。
どこまで行こうと…してるんだろうな…。」
香太は空を見上げる。まぶたに一雫。
「…あ、雨。
…ノエル…降られる前に帰れたかな…。」
香太は少し右の方を見て、優しく呟く。
「ね、ノアちゃん。」
墓地の墓石たちは、雨に塗られてまだら模様に変貌してゆく。
桐谷家の墓の右隣には、北原家の墓が並んでいる。
そこにはノエルの小さな妹、ノアが静かに眠っていることを香太は知っていた。