【前日譚】たゆたう残り香
「ノエル…うわっ」
部屋を覗き込んで思わず声をあげたのは、長身の少年、香太だ。
雑にひかれたカーテンの隙間から、朝日が差し込んでいる。
床中に散らばっているレポート用紙を、細い光が真白に浮かび上がらせ、荒れた部屋の輪郭を明らかにしていた。
その部屋の主である小柄な少年、ノエルがすみっこのソファで丸まって眠っている。
呼吸に合わせてわずかに膨らむ背中からは、深い寝息が聞こえてくる。
香太は呆れたようにため息を一つ落として、床に散らばる教科書やぐしゃぐしゃに丸められたレポート用紙を避けながら、ソファで眠る少年、ノエルに近づいた。
まったくもう荒れてんなぁ…ガキの頃から変わんないなホント…。
「ノエル起きろ!大学遅刻するぞ!」
ソファの後ろ側から香太が声をかける。
ノエルは何事もなかったかのように、穏やかな顔で眠っている。
香太はその横顔を見下ろし、わずかに眉間に皺をつくった。
そして横顔から唇に視線を移した。
薄くひらいた唇は、誰にも触れられずにそこにある。
香太はソファの前側に移動し、ノエルの顔を正面から見た。
「……」
右手をゆっくりとあげ、少しためらいながらもノエルの顔に近づけていく。
ノエルは深く眠っている。
香太の人差し指がノエルの柔らかい唇に優しく触れた。
刹那時が止まったように感じられた。
「んー…」
ノエルが寝返りを打った。香太は驚き、反射的に後ろへ体を引いた。
ノエルはまだ眠っているようで、うにゃうにゃと寝言を言っている。
「にんじんは嫌いだってば…うん…」
心臓がドキドキしている。ノエルが起きなくてよかった…。
「…ね?…香奈ちゃん…」
ノエルの背中越しに聞こえたその名前に、香太は表情を固くした。
そして吸い込まれるように、ノエルの勉強机に飾られている写真たてに視線が移動した。
そこには学ランを着たノエルと、セーラー服を着た香太の姉、香奈子のツーショット写真が飾られている。
これを撮ったのは香太だ。香太とノエルのふたりが香奈子の通う高校に入学したときの写真で、背景には桜の花びらが舞っている。
香太は目をつむり、長い息を一つ吐いて、眠りこけるノエルをぽこっと叩いた。
「起きろ馬鹿。俺まで遅刻するっ」
「たっ」ノエルが短い声を上げた。
「はぁ……なんだ香太か」
ノエルはのろっと起き上がり、香太の姿を確認すると気だるそうに言った。
「香奈ちゃんは、もっと優しく起こしてくれたなぁぁー」
「甘えんな。姉貴はお前に甘すぎただけだよ」
香太は部屋を出るべく扉の方へ向かった。ノエルもぽてぽて後をついてくる。
「いま 夢で香奈ちゃんに会ったよ」
ノエルがなんでもないことのように言った。
「幽霊とか、信じてないけど、会いにきてくれたのかもとか思った」
香太がノエルの方を振り返った。
「もうすぐ三回忌だし」
ノエルの顔には影が落ち、その表情は、まるでやりきれなさが滲んだかのように険しかった。そこに朝日は差し込んでこない。
香太もノエルと同じ暗がりにいた。同じ顔をしていた。
香太は強く目をつむり、言った。
「…そうだな」