第72話 バッキバキの筋肉痛
「ぜ、全部食べちゃった……」
夜、寮の自室にて。
ユフィは空っぽのお皿を前に目を丸くしていた。
いつものゴボウに加えて、ジャックにもらった茹でた鶏胸肉に干し肉、ブロッコリーをもりもりと食べてしまったのだ。
まだまだ貰った食糧は残っているが、普段の自分の食事量からすると凄まじい量を食べたことになる。
まるで鍛錬で消費したカロリーを補うかのように、食べ物が体内に吸い込まれていった。
「とんでもないトレーニングだったのね……」
改めて、ジャックが考案したトレーニングメニューの過酷さを実感する。
自分がこれほどまでに体力を消耗したのは久しぶりのことだった。
(ユフィ、この干し肉とっても美味しかったよ、ありがとう)
シンユーが机に乗ってきて、ユフィに擦り寄ってきた。
大きな琥珀色の瞳が優しく輝いている。
「ふふっ、良かった」
おすそわけで分けてあげた干し肉を、シンユーはお気に召したようだった。
そんなシンユーがユフィを労わるように言う。
(今日はとっても頑張ったみたいだね)
「ううぅ……死ぬかと思ったよ……」
その言葉を象徴するかのように、鍛錬による疲労はまだ身体から抜け切っていない。
太ももや脹脛の感覚はぼんやりとしており、体全体がまだ熱を帯びている。
シンユーはユフィの膝に飛び乗ってにゃあんとひと鳴き。
(今日は本当に頑張ったね! ユフィは偉いよ本当に!)
「ありがとう、シンユー……」
頑張った日にはシンユーに全力肯定よしよしえらいえらいしてもらうに限る。
柔らかい毛を撫でながら、ユフィは少しずつ疲労が和らいでいくのを感じた。
そんな中、ふとシンユーがユフィに尋ねる。
(今日はこんなに頑張ったんだし、回復魔法の威力、ちょっと上がったんじゃない?)
「はっ、確かに!」
ユフィは早速台所に行き、ナイフを手にする。
そして慎重に、いつもと同じ場所、同じくらいの長さ、同じくらいの深さで指を切った。
全く同じ条件の傷じゃないと回復魔法で治す時間にばらつきが発生するため、この作業には職人のような技術が必要とされる。
しかしもう何年も自分の指を切り続けているため、ユフィにとっては朝飯前の作業であった。
血がじわりとにじみ出るのを確認した後、この前購買で買った魔道具──『タイマー』と呼ばれる、特定の時間を正確に測る器具のスイッチを入れた。
同時に、「癒しの力よ……」と、回復魔法をかけ始める。
彼女の指先から温かい光が漏れ、傷口に優しく触れていく。ユフィは集中して回復魔法をかけ続けた。
10分経ち、30分経ち、そして……。
「治った!」
早押しクイズのようにタイマーのスイッチをスパーン!と押す。
表示されている数字は『59分50秒』
「10秒短縮してる!!」
ユフィは歓喜の声を上げた。心臓がドキドキと高鳴り、顔中に喜びが広がる。
「やった! やった! ついに! ついにやった!」
ぴょんぴょんと跳ねて、喜びの舞を踊る。
いつもゾンビのように死んでいる目には、努力が報われたことへの喜びが宿っていた。
回復魔法をかけ始めて三十秒くらいで飽きてベッドにゴロンしたシンユーが、(良かったねー)とでも言うように尻尾を一回だけ振った。
「私に足りないのは、体力だったんだ……!!」
たった10秒。されど10秒だが、今までの人生で回復魔法の進歩を実感した試しのないユフィにとっては大成果だった。
「あの鍛錬で10秒の短縮……ということは……」
目を輝かせながらユフィは計算を進める。
「6日で60秒、365日やり続けたら3650秒短縮できる……!?」
3650秒と言うと、ちょうど1時間くらいだ。
今、ユフィは擦り傷を1時間かけて治している。
「つまり、1年あの鍛錬を敢行したら、一瞬にして傷を治せるくらいになる……!?」
毎日1キロずつ痩せたら100日後には100キロ痩せるというガバガバ理論である。
しかし、回復魔法の進歩が目に見えてわかった嬉しさでいっぱいで、きっとそうに違いないとユフィは思っていた。
「もっと……もっともっと体力をつければ……」
回復魔法の威力が上がるのは確実だ。足掻いても足掻いても抜け出せなかった暗闇の中、ようやく見えた光明。先ほどまでの疲労感はもうどこかへ吹き飛んでいた。
「明日も頑張るぞ!」
いきいきとした表情で、ユフィは強く誓った。
過酷を乗り越えた先に待つのは、きっと輝かしい未来だ。
最高の聖女になるという未来を信じ、全力で突き進むことを決めたのだった。
◇◇◇
ぼんやりとした意識の中で、弾けんばかりの声が聞こえる。
「それでは、五月祭の演舞会、回復魔法の儀を始めます!」
大きなホール。
席を埋め尽くさんばかりの観客たちが歓声を上げている。
煌びやかなシャンデリアが輝き、豪奢な装飾が施されたホールはまるで夢の世界ように美しい。
「それでは、一年一組代表、ユフィ・アビシャス!!」
コールの後、ユフィはステージに降り立つ。
彼女の服装はまるで天使の羽衣のような純白のローブ。
光が差し込むと、彼女のローブはまるで虹色の光を放ち、周囲の観客を魅了した。
ユフィが髪はふわりと揺れ、瞳は星のように輝いている。
その姿はまさに聖女そのもので、誰もが息を飲むような美しさだった。
「それではユフィさん、不幸を抱え傷ついた者達に、癒しの祝福をお願いします」
司会が仰々しく頭を振ると、ユフィはゆっくりと頷く。
ステージの中心に集められたのは怪我や病気をした人たち。
子供から大人まで、さまざまな人々が不安げな表情を浮かべている。
彼らの顔には痛みと苦しみが刻まれており、希望の光を失った目でユフィを見つめていた。
ユフィは静かに微笑みながら、両手を広げた。
「癒しの力よ……」
瞬間、ユフィの手から柔らかな光が放たれた。
光が人々を包み込む。
まず病に侵された子供が光に包まれると、苦しみの表情が和らぎ、笑顔が戻ってきた。
次に、足を怪我した兵士の傷が見る見るうちに治り、立ち上がって歩き出すことができるようになった。
老人の咳が止まり、呼吸が楽になる。
手首から先を失った女性に、新たな手が誕生した。
人々はまさしく、聖女の奇跡で癒されていった。
その光景を目の当たりにした観客達から拍手と歓声が上がり、ホール全体に響き渡る。
彼らの目には涙が浮かび、感動と敬意が溢れていた。
「ありがとう……ありがとう……」
癒された人々が、次々とユフィに感謝を伝える
ユフィは微笑みながら、さらに力強く光を放ち続けた。
「優勝は、ユフィ・アビシャス!!」
司会者の声がホールに響き渡ると、ホール全体が揺れんばかりの大歓声に包まれた。
観客の誰もが納得の表情を浮かべている。
ユフィは圧倒的な回復魔法を見せてくれた。
故に、彼女が優勝するのは当然の結果なのだ。
「ユフィ・アビシャス! ユフィ・アビシャス!」
「素敵ー!! 結婚してー!!」
大歓声に包まれながら、ユフィは手を上げ得意げに微笑んでみせた。
「いやあ、おめでとうございます!」
司会者がユフィに握手を求めた。
ユフィが握手に応じると、司会者は光栄とばかりの笑顔を浮かべて言った。
「あなたはその天性の才と弛まぬ努力によって、回復魔法の極地に到達するに至りました。その功績は大きく、豪華な優勝賞品を贈呈しなければなりません」
「賞品なんて、そんな」
ユフィは謙虚し、頭を振って言った。
「私は当たり前のことをしただけです。私の回復魔法によって救われた方々の笑顔が、何よりの優勝品です。私に贈られるはずだった賞品は、恵まれない方々へ分け与えてください」
その瞬間──司会者の口元がニヤリと歪んだ。
「そうはいきません」
「え?」
空気が、一瞬で変わった。
ホール全体が、冷たい緊張感が漂い始める。
先ほどまでの歓声は消えていた、否、観客自体一人もいなくなっている。
ユフィが着ていたはずの天使の羽衣は、いつの間にか学園の制服に戻っていた。
「あなたには、なんとしてでも優勝賞品を受け取ってもらいます」
司会が指パッチンをすると、観客席全体がボボボボンッと音を立てて煙が上がる。
瞬間、今までモブだったはずの司会の顔が、よく見知った顔に変身した。
「ジャ、ジャックさん!?」
司会改めジャックは声を張る。
「優勝賞品は鶏肉とブロッコリー1万年分だぁ!!!」
観客席の煙が晴れると、そこには鶏胸肉とブロッコリーがぎゅっちりと並んでいた!
「たーんと食って強くなれよなああああああ!!!!」
ジャックの掛け声によって、ホール全体を埋め尽くす鶏胸肉とブロッコリーが、まるでそのひとつひとつが意志を持ったかのように動き出した。
そしてステージの中心で呆然としているユフィに向かって一斉に殺到する!
「きゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
鶏胸肉とブロッコリーの洪水に揉みくちゃにされるユフィ。
うっひゃっひゃと響きわたるジャックの高笑い。
意識が、遠のいていく──。
「うううーん……鶏胸肉が……ブロッコリーが……」
ベシッ!!
「あいてっ!?」
突然の衝撃にユフィは跳ね起きた。頭に痛みが走り周囲を見回す。
「と、鶏胸肉は!? ブロッコリーは!?」
焦った様子で叫びながらきょろきょろと見渡すと、そこはホールではなくいつもの教室だった。
ぼんやりとした意識の中で、ユフィは「ふー」と安堵の息をついた。
「夢かぁ……良かったあ……」
訳のわからない事を口走ってしまい、クラスメイト達の視線を集めてしまったが、彼女にとっては、タンパク質の洪水に押し潰されなかったことの方が重要だった。
「随分とユニークな夢を見ていたようだな」
「はっ!?」
ドスの低い声が鼓膜を震わせ、ユフィは思わず立ち上がる。
ガタンッと椅子が音を立てると、それに負けないくらいのビキイッという音が、ユフィの太腿あたりから聞こえた。
「はう、あっ……」
(ききき筋肉痛が……!!)
太腿が固まって動かなくなったまま、やっとのことで振り向く。
そこには顔は笑っているのに目からハイライトが消えたシャロンが立っていた。
「ひっ……」
息が詰まり、サーっと血の気が引いていく。
シャロンの怒りのオーラを前にして、ユフィはまるで鋭い爪を持つ猛禽に狙われた小動物のように震え上がった。
「私の授業で寝るとは良い度胸だな、ユフィ・アビシャス!!」
「ひいいいいいごめんなさいごめんなさい!!!!」
「謝って済むなら法律は不必要だ! 罰として校庭百周! 今すぐだ!」
「こ、校庭百周!?」
(今この筋肉痛で走ったら死んでしまう!)
連日のトレーニングによって、ユフィの足の筋肉は石膏のように硬くなっている。
今や歩くだけでもビキビキと痛みを発する有様なのだ。
「走るのだけは……!! それだけは勘弁を……!!」
懇願するユフィの胸ぐらを掴んで、シャロンは低い声で言う。
「本来なら鞭打ちをしてやりたいところだが、それを飲み込んで罰をランニングにしてやってるんだ。安いものだろう?」
「………………鞭打ちの方がいいかもです」
今走ったら死ぬ。
「馬鹿言ってないでさっさと行け!」
「は、はいいいいっ!!」
こうしてユフィは足を引き摺りながら校庭を走る羽目になったのだった。
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