雨の瞳に映るのは
梅雨の時期になると、俺はいつも妙な夢ばかり見るようになる。
ある時は田舎の田園風景。
ある時は都会にひっそりとある小さな公園。
またある時は、人の踏み入れない様な自然に溢れた何処か。
どの場所も皆、同じ様に雨が降っているが、その雨は時間がゆっくり流れる様な、スローモーションやストップモーションでも見ているような……景色をコマ送りにした様なものだった。
雨粒1つ1つに映り込む景色は、とても美しい。
いつから見始めるようになったのかは覚えていない。でも、梅雨の時期だけ……しかも雨が降っている時にだけ見るのだ。
特に寝不足になるわけでも、嫌な夢でもないが、少し気になっていた。
今日の夢で見たのは、何処かの田んぼだった。
まだ背の低い稲を写し込んだ雨粒。
田んぼには無数の落ちた雨粒によって不規則な円が描かれ、雨粒が当たる度に稲はゆらゆらと上下に揺れる。
稲の淡く若い緑を写したこの雨粒も、他と同じように重力に従ってゆっくりと落ちてゆく。
そして、徐々にそれは稲の先端に近づいて行き……。
俺は目を開けた。
――……もう少しだけ。
つい、夢の続きを見たいのと眠気に勝てずに、二度寝を決める。
そして、今日も慌てて学校に行く用意をして足音うるさく家を出た。夢は見なかった。
空を仰げば、天気は生憎の曇り空。
梅雨時期特有の湿った暑さが、俺を包み込む。
この湿気と暑さ。重く灰色な空。色味に乏しい薄暗い景色。
雨は降りそうで降らず……たとえ降ってもしとしととしか降らない。
なんとも色褪せていて、はっきりしないこの時期が俺は苦手だった。
走った甲斐あって、どうにかチャイムギリギリで教室に滑り込み、遅刻は免れた。
窓には、ポツリポツリと雨粒が打ち付ける。
雨の日の授業は、いつにも増して眠い。
落ちてくる瞼を必死で押し上げるが、健闘虚しく、両の瞼は閉じてしまった。
意識の端で、ポツリ……ポツリと雨の音がする。
目の前に広がった景色は、何処かの校舎だった。
淡いクリーム色の外壁が、雨粒に逆さに映る。俺の通っている中学の壁とは違うものだ。
深い緑色の雑草が目立つグラウンド。錆色になった鉄棒やうんてい。
そして、校舎の周りに植えられている淡い緑色の木々。
それら全てが丸い世界に閉じ込められて、ゆっくりと落ちていく。
雨粒に当たる僅かな光が、写し込まれた景色を明るく、鮮やかに見せる。
やがて、それは木の葉に当たって幾つもの雫に別れた。
先程よりも小さくなった雫の一つ一つに、校舎と遊具と木々を写し、また下へ下へと落ちていく。
雨粒が映しだす世界は、俺が見ているものよりもずっと明るく、色に溢れていた。
いつも通りに授業が終わり、俺は帰路につく。この時間、雨は上がっていたが、朝と変わらず雲は厚い。
変わり映えしない日常。梅雨時期なのも相まって更に色褪せて見える。
なんとも言えない閉塞感を抱えたまま、俺は家に帰る。
宿題を片付けながら、ふと窓の外を見ると、また雨が降り出していた。
降ったり止んだり……どっちつかずな、ぐずついた天気にため息を1つ。
窓を見つめ、机に頬杖を着きながらぼぅっとしているうちに、俺の視界はいつの間にか暗くなっていた。
屋根にパタリ、ポツリと雨粒が当たる音がする。
何故だろう?
あの夢を見ている間は、この蒸されるような暑さが少し和らぐ様な気がするのは……。
見えたのは、見慣れた濃い色の屋根。
観葉植物が置かれた玄関。夕刊が入ったポスト。
そして、伸び盛りの植物達がひしめく花壇……。
俺の家の風景だった。
学校から帰った時に比べて、雨粒に写った家はやはり明るく、色もはっきりとして見えた。
自分が毎日見ている景色も、見る場所を変えれば、こんなにも違って見えるのかと、ぼんやりした頭で思った。
屋根を転がり、中庭へと落ちる雨粒。
その時、丸く歪んだ景色に映ったのは、窓の縁と家の中の様子。そして……
勉強机で、頬杖を着いてうたた寝をしている自分の姿……。
俺は音がしそうな勢いで目を開ける。
すぐ様立ち上がり、半ば転がるように窓に飛びついて勢い良く開けた。
雨粒はとうに地面に落ちていた。だが、俺の目に映ったのは、中庭の茂みで動く何か。
白くてしなやかで、けれど艶のあるホースの様なそれは、直ぐ様茂みの奥に消えてしまった。
――白い、蛇だった。
呆気に取られていたその時、空が光った。
続いて響く地鳴りの様な音。雷だ。
その時、俺はふと幼い時の事を思い出した。
あれは、俺が小学校の2年生くらいの時だった。
その頃から俺は雨が嫌いだった。
特に梅雨時期は雨が多くて、約束していた友達と遊べなくなってしまうことが度々あったから。
その日も、友達と遊ぶ約束をしていた日だった。
母が雨が降ると言っているのに、頑なに「降らない」と言って傘も持たずに家を飛び出したのだ。
やっぱりというか、母の天気予報は的中。
俺は本降りになった雨の中、走って帰っていた。友達と遊ぶ約束もチャラになってしまった。
不機嫌な顔を隠しもせずに雨の中を走っていると、突然雷が鳴り出した。
段々と大きく、近くなる音に怖くなった俺は、すぐ近くにあった神社に駆け込んだ。
早く鳴り止まないかと落ち着きなく待っていたその時、雨でも雷でもない音が聞こえてきた。
パシャパシャと水を叩くような、水で遊んでいるような音。神社の裏手の藪の中からだ。
俺は藪の中にそっと入っていく。
そこに居たのは、大きな池で暴れている1匹の白い蛇の姿だった。
池は深く、底が何処まであるか分からない。
よく見てみると、尻尾が水草か何かに絡まって、池から上がれなくなってしまったようだ。
近くで蛇が掴まれる様な枝も無く、蛇が溺れてしまうのも時間の問題だった。
俺は、近くに生えていた長い木の枝を折って持ってきた。
蛇が俺に気づいて、こちらを威嚇する。
俺は、池のほとりを回り込み、蛇に一番近い場所から恐る恐る蛇の尻尾が絡まっている場所を木の枝でつつく。
蛇は、木の枝に噛み付いた。
怖がりながらも何度かつついていたその時、蛇の尻尾が絡まっていた水草がちぎれた。
木の枝を伝ってこちらに来た蛇に驚いて、俺は木の枝を茂みの方へ放り投げ、走って逃げた。
更にびしょ濡れになったまま神社で雨が止むのを待っていたその時、誰かに声を掛けられた。
「君、こんな所でどうしたの?傘は持ってないの?」
神社の人だと思って、声のする方に俺は背中を向けた。
「持ってない。忘れた」
俺のつっけんどんな物言いに、神社の人は何も言わなかった。
ただ、少し間を置いてから、
「きっともうすぐ雨が止む。それまでゆっくりしていると良い」
穏やかで、優しい口調だった。
てっきり叱られるかと思っていた俺は、何故か肩透かしを食らった気分になった。
それがどうにも居心地悪くて、俺は空を見上げる。
黒い雲。先程よりも少しだけ弱くなった雨。
空に向かって、俺は呟くように言った。
「雨なんて大嫌いだ」
「……どうして?」
神社の人が、不思議そうに聞いた。
「雨なんて無ければ、今日友達と遊べたのに……こんな天気じゃ、どこにも行けない」
――「雨なんか降らなきゃ良いのに」そう言った俺に、神社の人はやはり不思議そうに問い掛けてくる。
「でも、梅雨の雨は恵みの雨だ。これがないと、作物が育たない。穫れなくなってしまう。
家の中でも出来ることはたくさんあるし、今の時期にしか出来ないこともたくさんあるはずだよ?」
今なら、その言葉も少しは理解出来る。
でも、今より更に子供だった自分には、やっぱり理解も納得も出来なくて……。
俺は、「あーあ」とため息混じりに言った。
「雨に目がついてれば良かったのに」
「…………どうして?」
先程よりも長い沈黙の後に、神社の人は言った。とても不思議そうな声だった。
「雨が見ているものを俺も見れたら、こんなに、つまらくなんてないから……」
もし、空から降る雨の視点で世界を見る事が出来たなら……そこにはどんな景色が広がっているのだろう?
きっと、自分が見た事の無い景色が沢山あるに違いない。
不意に、そう思ったのだ。
今思えば子供っぽいというか、馬鹿っぽいというか……。
そんな、なんとも突飛な事を言い出した俺に、声の主は「そっか……」と言った。
きっと変な子供だと思われている。呆れているに違いない。
そう思っていた。
でも、声の主は言ったのだ。
――「それは、とても素敵だね」と、
その言葉に驚いた俺は、振り返って神社の人の方を見る。
けれど、そこには誰もいなかった。
思えば、それからかもしれない。あの夢を見るようになったのは――
俺は、じっと窓の外を眺める。
先程まで鳴っていた雷は止み、雨だけがポツリポツリと降っている。
――『今の時期にしか出来ないこともたくさんあるはずだよ?』
――自分の……この変わり映えのしない毎日も、今しか出来ないことがたくさんあるんだろうか……?もし、あるなら……。
不意に、視界が明るくなった。
雨粒に洗いあげられた世界が、少しづつ、鮮やかに色付いていく。
見上げると、雲の切れ間から差し込む強い光に、思わず目を細めた。
――あぁ、また来年か……。
今度、あの神社に行ってみようか……そんな事を考えた。
久しぶりに見えた空は、どこまでも青く、どこまでも高い、
夏の色をしていた。
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