前編
※軽い気持ちで読んで頂ければ嬉しいです。
「――楽にしてくれて構わない。今日呼んだのは、個人的な話のためだ」
澄んだ声がよく通る。
美しく洗練された部屋の中で、それに相応しい声音を聞きながら、アゼイリアは勧められた長椅子に座った。
その向かいに腰を下ろした人物を、少し緊張しながら伺う。
互いの間にあるテーブルの上には、侍女が用意した紅茶が置かれているが、それに手をつけるほどの余裕は今のアゼイリアにはない。
もっとも、第二王子を目の前にして落ち着いて紅茶を飲むなど、アゼイリアでなくても難しいだろうが。
「先日はそなたのおかげで助かった。改めて礼を言う」
「勿体ないお言葉です」
第二王子の言葉にアゼイリアは恐縮しきった。
先日というのは、茶会の最中に短剣を持って飛び込んできた刺客から第二王子を守ろうと、アゼイリアが盾となったときのことだ。
あのときは大きな騒動になったと、アゼイリアは記憶を遡る。
アゼイリアは第二王子の護衛ではないが、女性騎士ということで、女性王族の身辺を警護することが多い。
あの日は王妃も茶会に参加していたので、近くに侍っていたのだ。
そんな中に刺客が乱入し、その一番近くにいた第二王子に短剣を目がけたのをアゼイリアが気づいた。
「怪我の方はいかがだ?」
第二王子はアゼイリアの右手に巻かれた包帯を見て尋ねた。
刺客が振り下ろした短剣は、アゼイリアの利き腕である右手に刺さった。
短剣が刺さった状態で血を流しながらも、アゼイリアは刺客を取り押さえて騒動を治めたのだ。
「日常生活には問題ありません。ただ、剣を握るのは難しいと、お医者様の診断です」
短剣で負った傷を診た医師は、身の回りのことをするには何の問題もないと言った。
しかし、以前のように剣を持つことは二度とできないと続けた。
それはアゼイリアの騎士生命が終わったということだった。
「そうか……申し訳ないことをした」
「いいえ、殿下をお守りすることができましたので、悔いはありません」
少し声音を下げて言う第二王子に、アゼイリアは首を横に振った。
剣を握れないことは辛いが、もう一度あの時に戻ったとしても、アゼイリアは同じことをするだろう。
騎士として職務を全うできたことに後悔がないのは事実だ。
けれど、剣を握れずに騎士は続けられないので、職を辞して田舎の実家に戻るつもりでいると、先日上司にも伝えた。
この王宮を去る日もあと少しだ。
「……あの、お話とは何でしょうか?」
アゼイリアはずっと気になっていたことを切り出した。
長く勤めてはきたが、王族から個人的に呼ばれたことはこれが初めてだ。
すると、第二王子は向かいの席から立ち上がり、アゼイリアが座る長椅子の側へとやってきた。
自分より身分の高い相手が立ち上がったため、慌ててアゼイリアも席を立つ。
すぐ側に第二王子が並ぶ。
王族の近くで警護を担うことはあったが、これほど近くで真正面から第二王子を見たのは初めてだと、アゼイリアは思った。
噂通り、男性ながらに中性的で美しい面立ちだと思わず目を奪われる。
けれど正面から見つめては不敬に当たると慌てて気づき、目を反らそうとしたとき。
第二王子が静かに口を開いた。
「そなたに結婚を申し込みたい」
その瞬間、まるで雷が落ちたような衝撃を感じた。
「アゼイリア! 第二王子殿下から求婚されたんだって!?」
友人で城のメイドをしているエドナからそう声をかけられて、アゼイリアは唇を横に結んだ表情で振り返った。
「あら、嬉しそうな顔じゃないわね」
「当り前だ!」
不思議そうに言ったエドナの言葉に、思わず声を上げてしまう。
その声が石造りの廊下に低く反響した。
「どうして? 玉の輿よ。あなた騎士を辞めたら田舎に帰らなきゃならないけれど、結婚相手なんて見つからないってへこんでたから良かったじゃない」
「相手を考えろ! 第二王子殿下に私みたいなのが釣り合うわけがない」
アゼイリアの声が廊下に響いて自分の耳に戻ってくる。
男ばかりの騎士団での生活の中で、口調も所作も男のようになってしまった。
そんな自分が第二王子と結婚だなんて、とアゼイリアは今度は心の中で叫んだ。
声に出さなかったのは、自分と王子が結婚という言葉を口に出すだけでも恐れ多かったからだ。
「けど、その殿下が求婚したのだから、問題はないと思うけど?」
「問題しかない。そもそも、国王陛下がお認めになるわけがない」
エドナはお気楽に考えてくれるが、そう簡単にはいかないだろうと、少し興奮が落ち着いたアゼイリアは溜息と共に零した。
第二王子が何を間違えてあんなことを言ったのかは分からないけれど、まず二人には身分差がある。
「貴族令嬢ならともかく、私は騎士だ。王子妃として相応しくない」
アゼイリアには男爵家に嫁いだ伯母がいるが、それを縁に貴族社会と交流を持ったこともなければ、学校を卒業してすぐに騎士の世界に入って以来この仕事一筋だ。
淑女のマナーも知らなければ、剣を振るう以外したこともない。
その上、騎士として体も鍛えており、自分で言うのものなんだが女性らしくはない。
訓練で日に焼けてもいるし、手だって荒れてがさがさだ。
だから無理だ、と力強く言った。
その言葉を聞いたエドナが、そうかしら、と呟いた声は聞こえていなかった。
きっとあれは冗談だったのだろう。
そう思っていたのだが。
数日後、第二王子が夜会の前にアゼイリアを迎えにきた。
騎士団の隊舎前に現れたその姿を見た瞬間、言葉を失うほど驚いた。
「そなたのエスコートをさせて欲しい」
一瞬何を言われたか理解できなかったアゼイリアだったが、数秒遅れてはっと我に返った。
王子の地位にある方が、騎士に対してさせて欲しいと願い出るなど、あり得ないことだ。
「い、いえ……。私などが殿下のお供は……」
「供ではなく、そなたの同伴者としてエスコートをしたいのだ」
しどろもどろになりながら返事をしたが、アゼイリアの解釈は間違っていたらしい。
アゼイリアにはもう訳が分からなくなった。
確かに今宵開かれる国王主催の夜会には、功績を残した騎士も招待されており、先日の件で第二王子を守り負傷したアゼイリアも参加予定となっている。
だが、それは騎士としてだ。
エスコートを受けるような令嬢としてではない。
「も、申し訳ありませんが、私はドレスを持ち合わせておりませんので、今宵の夜会にも騎士服で出席する予定でありますので……」
通常の制服ではなく式典用の制服だが、それでも騎士のズボン姿という格好だ。
男性にエスコートされる絵面ではないと、アゼイリアは自分で思った。
「もちろん騎士服で構わない」
「ええ、不釣合いなので……っえ!?」
第二王子相手ということも忘れて思わず声を上げた。
今度こそ本当に言葉が理解できないとアゼイリアは思った。
大広間にざわめきが広がる。
その人々の視線の先には、第二王子と、騎士服姿の女騎士だ。
突き刺さるような視線にアゼイリアはいたたまれなくなり、騎士人生の中で初めて俯いて歩いた。
俯いた視界に、すぐ側を歩く第二王子の足元が見える。
今は足元しか見えないが、第二王子の今宵の装いは、黒の礼装に襟元や袖口には金糸が彩られているという豪華さだ。
とてもじゃないけれど、直視できないほど麗しかった。
アゼイリアが一歩後ろに下がって歩こうとするたびに、歩調を遅らせて隣に並び直されてしまう。
令嬢のように腕を組んでエスコートされることは全力で回避した。
騎士服姿で腕を組んで歩くなど、あまりに滑稽だろう。
それに、第二王子と腕を組んでエスコートされるなど、恐れ多くてできなかった。
第二王子は納得できずにいる表情を浮かべていたものの、無言で頷いて了承してくれた。
最終的に並んで行くことになったのだが、騎士として王族の側に侍ることはあっても、隣を歩くことなどなかったアゼイリアにとって、それだけでも今にも倒れんばかりのことだった。
周囲の人々の奇異の視線を見てしまったら、きっとみっともなく倒れるか逃げ出してしまう。
そんな騎士らしからぬことを思ってしまうほどだった。
なので下だけを見つめて進んだ。
今宵の夜会は国王主催なので、招待を受けている者は国王に挨拶をする決まりだ。
もちろんアゼイリアも国王夫妻の前へ行かなければならない。
第二王子はそこまでアゼイリアをエスコートしてくれた。
そのため余計に緊張が増した。
そんな心境に、第二王子が緊張を爆発させるような発言をした。
「父上、母上。彼女が結婚を申し込んだ女性です」
思わず体が固まってしまう。
けれど、いっそのことこの場で、認められないと言って貰えればこの緊張から解放されると思った。
一介の女騎士でしかない自分が国王夫妻に認められるわけががない。
しかし。
「そなたが我が息子を刺客から守ってくれた女騎士か!」
「どうかよろしくね!」
国王夫妻からそう言われて、アゼイリアは茫然となった。
聞き間違いだろうか。
しかし、その後に会った第一王子からも同じようなことを言われた。
「我が弟は何を考えているか分かりにくいが、よろしく頼む!」
何を考えているのか分かりません、と同調して言うことはさすがにできなかった。
これではまるで家族公認だ。
予想と違い過ぎて、アゼイリアは混乱して足元がふらついた。
「どうした? 座って休むか?」
「い、いえ……」
第二王子が声をかけてくれるがうまく答えられない。
「何か飲み物を?」
「え……あっ、取って参ります!」
頭が混乱していたせいで気が回らなかったことに今ごろ気がついて、アゼイリアは慌てて飲み物を探した。
しかし、動きだそうとした体の前で、第二王子の手が静かに行く手を遮った。
「そうではない。そなたが飲む物を聞いている」
「は――え……?」
第二王子の言葉は理解できないことが多すぎて、口からはたどたどしい返事しか零れなかった。
そんなアゼイリアを、第二王子は流れるような仕草で手を取った。
指先が持ち上げられたまま、ゆっくりと動きだす。
アゼイリアは自分の手と第二王子を交互に見ながら、決して強い力で引っ張られているわけではないのに、まるで前足を持ち上げられた子犬のようについていくことしかできなかった。
連れて行かれたのは壁の近くに置かれていた椅子で、導かれるままに腰を下ろした。
「取ってくるのでここで待っているように」
「あ……」
第二王子はアゼイリアを椅子に座らせると、飲み物を配る給仕へと近づいていった。
給仕からグラスを二つ取り、再び戻ってくる。
アゼイリアの前に立つと、その内の一つを差し出した。
それをいつまでも受け取ることができずにいると、再び指先を取られてグラスを握らされた。
「やっと、そなたと話ができる」
第二王子はアゼイリアの隣に腰を下ろしながらそう言った。
「話、ですか……?」
「ああ。そなたのことを聞きたい」
「わ、私のことですか……?」
自分のことなど聞いてどうするのだろうと、アゼイリアは思った。
特に面白い話題など持ち合わせていない。
騎士団に入ったばかりの頃に、上司や先輩たちを目の前にして自己紹介をしたときのことを思い出したが、それで良いのだろうかと考えた。
「何でも良い。好きな食べ物や、趣味など」
「好きな食べ物ですか……、体力をつけるためでしたら何でも食べるので……」
「そうか。では、趣味は?」
「趣味は……剣の手入れでしょうか……」
そう言って、もうその必要もないのだと思った。
騎士として剣を持つことはできなくなったのだ。
今着ている騎士服も、もうすぐ必要なくなる。
王宮から去る日も近い。
そうなれば、第二王子と会うこともなくなるのだ。
「……私は、長く騎士として生きてきました。外見も女性らしくありません」
グラスを持つ自分の手を見つめた。
男性ほど大きくはないとはいえ、可憐な令嬢のように白く柔らかいわけでもない。
今は手袋をつけているが、その下には傷もはっきりと残っている。
全て、騎士として生きてきた成果だ。
「騎士として仕える主を守ることができて、光栄に思っております」
アゼイリアは自分の手から視線を動かし、隣に座る第二王子を見つめた。
あの日のことを、第二王子は気にしているだけだ。
アゼイリアが手を負傷し、騎士を辞めることになったことを。
けれど、騎士として自分の身を挺してでも、主を守ることだけを常に考えてきた。
たとえ女だとしてもだ。
その覚悟を持って騎士をやっていなければ、あの一瞬で体が動くはずがない。
「殿下が気に病まれることなどありません」
「私は……」
第二王子が口を開きかけたが、アゼイリアは首を横に振って遮った。
あれは自分の職務だったのだ。
なので感謝することも、ましてや責任を感じる必要もない。
「ですから、どうぞお忘れください――」