天湖着水
「私は朱麗と申します」
観念して、娘、朱麗は名を名乗った。まさかここで顔見知りに会おうとは、夢にも思わないことだった。が、貴志のことはある程度だが知っている。虫も殺せぬお人好し、と王侯貴族の子弟・令嬢たちの間ではそう評判だった。
他の人物もその貴志と知り合いならば、大丈夫だろう、ととりあえず信用することにした。
(あ、でも)
お人好しは表の顔で、裏の顔があり……、ということなら。自分はなにをされるのかと、次に不安をおぼえた。
そもそも、どうして天湖に船が浮かんでいるのか。人知を超えた業でなくば、不可能な話である。
朱麗の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
(どうして、私の人生はこんな嫌なことばかり)
様々な思いが胸にあふれる。そもそも良家の令嬢でありながら天頭山を崇拝する天頭山教の信徒となり、教主の教えに従い人身御供になったのは……。
「世子の側室になれと言われて……」
「世子の……」
貴志はごくりと唾を飲んだ。
「世子って?」
「暁星の王位継承権のある王子のことです」
劉開華の問いに公孫真が答える。
「私は、いやですと断りましたが。何度も何度も側室になることを求められ、ついには我が朱家に対し、謀反の疑いありとあらぬ疑いをかけられ」
「そんなことが」
貴志は絶句する。
「光燕世子は、乱暴なお人だったが……」
「私はいたたまれなくなって、逃げたのです。逃げた先でお世話になったお方が天頭山信仰をされて、私も信仰をするようになり」
良家のお嬢様が逃げ出すなんて、なんという大胆なことをするのだろうと驚かされるが。そんなことがあれば、世子は朱家を許さないのではないか。
「でも、どうして人身御供なんかに。あたら命を粗末にすることもないでしょうに」
劉開華が言えば、朱麗はうつむき、
「教主の天君さまを紹介され、身の回りのお世話をするようになりました。いやなことをされず、親切にしていただいて。すっかり信用をしていたのですが。思えばそれにつけこんだのでしょう、人身御供になれといわれて。はいと答えてしまい」
天頭山教の教主は代々天君を名乗っている。
この世がいやになっていた朱麗は、天頭山信仰をするようになり、それを通じて俗世から逃げ神の世界にゆくことを望むようになっていた。
それが人身御供によって叶えられると。
力なくこれまでいきさつを語った。
「でも」
貴志には疑問があった。天頭山教は噴煙や毒気の危険を冒してまで天湖にゆき、米や酒を捧げても、人までは捧げなかった。それがどうして、突然人身御供、生け贄を捧げようとしたのか。




