担々麺屋
ちょっとからかうつもりで武神の化身と騙ったことも信じているようで、苦笑しながらその背を見送る。
桃の匂いにつられてまた歩き出そうとすると。
「あ……」
視界に「桃園」という看板が入る。
開け放たれた扉の横に置かれた木の立て板に、墨痕鮮やかに「桃園」と縦に力強い筆跡で書かれている、が。
「あんまり上手じゃないなあ」
木の板に書かれた字のかたちをながめて、そんな感想を漏らした。とはいえ、桃の匂いはこの看板のある家屋からする。
見れば食堂のようだ。
木造りで朽ちそうな雰囲気で。桃園という字も、その筆跡の技量とあいまって、どこか哀愁漂うのを禁じ得ない。
貧民窟の中にある食堂でもあり、味は期待できそうにないが。とりあえずはいることにした。
開け放たれた扉から入れば、卓と椅子が無造作に置かれている。客は入っていない。
店の者も見えない。
「あのー、すいません」
しーん……。と、静まり返ったまま。返事がない。
(あれ、誰もいないのかな?)
不用心だなあ、と思いつつきょろきょろする。やはりぼろい食堂である。扉や窓は開け放たれているが、日差しはあまり入ってこず、薄暗い。
しかし。
「桃の匂いはするな。これは」
雰囲気に合わぬ桃のいい匂い。
ふと、
「すいませーん。桃を食べたいんですが」
と言うと。
「はいはい、いらっしゃい」
と、女が出てきた。
貴志はその女を見て少し驚く。
女は赤い着物を着ており。年のころは二十代前半のようであり、艶のよい黒髪を背中まで伸ばしている。貴志を見る目つきは、あの娼婦と同じように強く凛としたものさえ感じさせた。
(驚いたな。こんなきれいな人が)
目鼻顔立ちは整い。背筋も伸び。赤い着物もきちんと着て。凛として、貧民窟に合わぬ雰囲気を醸し出している。
(まさか)
「すいません、聞きたいことがあるんですが。あなたは、担々麺の行商をしている香澄と源龍をご存知ないですか?」
と尋ねれば。女は探る目つきになって、貴志を見据える。
桃の匂いは、まだする。なぜこんなに桃の匂いがするのだろう。
「あんたは?」
女は貴志を客として見ていない。すると、
「誰か来てるの?」
と、子供の声がし。ひょこひょこと、奥から子供が姿を現した。
「!!」
貴志は子供の姿を見て、驚きを禁じ得なかった。その子どもは、あの世界樹で観た金髪碧眼の子どもだった。服こそ辰の服だったが。
「なんでもないよ。奥にいな」
「はいはーい」
と言いながら、いたずらっぽい笑みを貴志に向けて。奥に引っ込んでゆく。
「ああ、あの、世界樹をご存知ですか?」
などと、そんなことをつい尋ねてしまった。女は、ふっ、と笑う。
「来るべくして来たわね。李貴志」
「僕の名を」
「これもすべて、世界樹のお導き」
「夢じゃなかったのか」
「私らにはもう、夢も現もないよ。見るものそのものが、実在それ自体さ」
何やら哲学的ともいえることを女は言うが、貴志は要領を得ない。
「私は羅彩女。あんたと同じようにして、世界樹で、あのちびどもと会ったさ」
担々麺屋 終わり




