憤怒的鬼
そう言えば、帰ってきてからあれこれとおしゃべりするばかりで、茶以外口にしていなかった。ふと、にわかに空腹を覚えた。それだけ帰還が緊張の連続であったということだった。
屋敷は二階建てだが、二階も広く作られて、いくつかの部屋もあった。それぞれの部屋に入った面々にも、食事が運ばれた。
二階への階段の上下に、屈強な武士が立って。護衛を兼ねた見張りの任に着いている。
「そうそう、母上は」
「奥様はふせったままでございます」
「僕が突然帰ってきたことが、よほど驚いたんだね」
召使いは少し頷いて言葉を発しなかったが、貴志の言う通りなのは間違いなかった。
しかし、机は使用中。食事を置けない。
「あ、いいよ」
貴志は立ち上がり、盆を受け取り。代わりに、
「悪いけど、この道具一式洗っててくれないかな。あと、替えの水も」
言われて召使いは頷きながら一礼し、書の道具一式を手に取って部屋を後にし。机に食事を置いて寝床に腰を据え、箸を手に取り。
「いただきます」
と、まず一口つけて、
「ふう」
安堵のため息をつく。
がっつかず、ゆっくりかみしめるように食事を味わっているさなかに、召使いが替えの水を持ってきて。食事を中断し、再び筆を洗う。墨もそうそう簡単に落ちるものではない。水で墨を落とし、乾かした後二度洗いをすれば、また墨が水に溶け落ちる。と、筆の手入れも手間がかかる。
だから普段は筆を数本使い分けるのだった。
「ふわあ」
と、筆洗いのさなかにわかに眠気を覚えて、あくびが出て。筆の、天下の様子を見て。ひとまず筆置きに置いて乾かしにかかり。残りを平らげたあと。
寝台に横になって寝た。
筆は筆置きを枕に、貴志同様静かに横になるのみ。
さて、ところは変わり、漢星の王宮。
荘厳、壮麗なつくりはもちろんのこと。華麗な赤い瓦葺きの屋根が印象的であった。
宰相の李太定は至急にして内密の用があると、国王、雄王に面会を求めた。
「何事か」
雄王とて国王としての執務がある。ほどよい狭さの執務室にて、その手を止め、人払いをすれば。太定は滑り込むように、執務室に入った。
「突然の事にて、王様に深くお詫びをいたします」
「よい。世子がついに、何かを?」
その話題を予想していたとは。王は世子の素行を憂いて、廃嫡も考えていた。しかし、何故か他の王子たちは、王位を望まぬと言う。
この不自然さ。おそらく世子が裏で手を回して、他の王子に王位を望まぬよう仕向けているのであろう。
と思うと。太定の憂いも深まるというものだった。