憤怒的鬼
さすがに自宅でもあるので、召使いの案内は不要だったが。向けられるまなざしは、なぜ戻ってきたのかと不思議そうなのと、どんな沙汰を言い渡されるのかという心配がないまぜになったものだった。
それをやりすごし、大広間からてくてく歩いて久方ぶりに自分の部屋に戻った貴志は、部屋中を見渡す。
壁中窓以外本棚が覆い、本がぎっしりと詰め込まれている。まさに本の虫の部屋だった。その本たちを見ると、心が落ち着く。
窓は召使いがあらかじめ開けて、中を陽光が照らし出す。いつぶりに開けられたのか。留学中開かずの間だったと聞く。
真ん中に寝床が置かれて、その横に卓。壁はすべて本棚が覆っている。だから部屋の真ん中に寝床を置き。またそれを椅子代わりにして、卓を使用していたのだ。
懐から、あの筆を取り出す。筆には、源龍の打龍鞭のような、名前はない。
(自分でつけていいのかな?)
と、筆に天下と名付けた。手触りもよく、腕のいい職人の手によるよい筆だが。一体誰が何のためにつくったのか。
ふと、あの時のように宙に天下の字を書こうとしたが。何もない。
「特定の状況でなければ書けないのか?」
ふと、寝床に腰掛け、机の引き出しを開けて、硯箱を取り出し。召使いに頼んで水も桶で汲んできてもらった。
机の上に毛氈(下敷き)を布き、紙を置き。上に文鎮を置いて固定し。その右横に硯を置き。
水を硯の平らな部分、陸に垂らし、墨を当てて陸全体を使い、縦に動かし、あるいは円を描くように磨ってゆき。適度な粘り気が出れば、斜めの部分の波止を経て、窪み、海に導く。
墨を磨るとき、力を入れてはいけない。赤子程度の力で磨らねばよい墨は出ない。貴志はその絶妙な力加減に長けていた。父と母はそれを見て、「よい墨を出す」と、たいそう褒めてくれた。
その褒められる通り、水は墨と交わって、漆黒に染まった。それを見て、
「よし」
とつぶやき。筆をつけ、紙に、天下と書いた。
「……」
しかし、何も起こらない。天下の字を書いた紙を手に取りくしゃくしゃに丸めるとごみ箱に捨て、紙を変えて。今度は、自作小説の題名「鋼鉄姑娘」の字を書いてみた。
「……」
しばらく眺めてみたが、同じように何もない。
「うーん。普通に良い筆だな」
手触りや書き心地、書体の出来。すべて納得できる。が、納得できない。桶の水に筆をつけ、底に着かぬよう気を付けて、丁寧に揺らして墨を落とす。
桶の水は落とした墨で真っ黒になってゆく。
その時、
「よろしいでしょうか?」
と召使いが呼び出すので、何かと思えば、
「お食事をもってまいりました」
と言う。