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(8)ナナミ

 その週は、なにごともなかった。

 次の週も、平和に過ぎた。

 だがその次の週末、ステージ前に軽く食事をするために、カンナと待ち合わせた洋菓子店の二階のカフェへ行こうと急いでいた時、背後から声をかけられた。

 「これから仕事ですか。」

 ふり返ると、リュウが立っていた。

 思いつめたように固い表情。この子の、こんな顔は初めて見た。

 次の瞬間、あたしの頭はプレスティッシモの速さで動き、リュウを納得させるような嘘を何とかでっち上げようと試みた。でも、むだだった。

「僕、調べたんです。あなた、ナイトクラブで歌ってるんですよね。」

 土曜の靖国通りは歩行者天国で、人また人であふれ返っていた。そのうちの何分の一かは、吸い寄せられていくようにして歌舞伎町に流れて行く。

 あたしも、その一人だった。でも、今は動けない。

 ステージの時間が少しずつ、迫ってきていた。何か言おうと口を開きかけた時、声高にしゃべり合う中国人の一団が傍らを通り過ぎ、あたしを突き飛ばした。

 よろけるあたしを、あわててリュウが支えて肩を抱き、中国人グループの方をにらみつけた。しかし、彼らの姿はとうに消えていた。

 「あたし、行かなきゃ。」

 「そんなところ、行っちゃだめです!」

 「あたしは、ただの歌手よ。ホステスの仕事はしてないのよ。」

 「でも、ナナちゃんには、ふさわしくありませんよお。」

 「あの店は、高級で上品なところよ。それに、違うジャンルの歌を時々歌うのも勉強なの。何一つ、やましいことはしてないわ。お願い、わかって。」

 あたしはリュウの手を取ると、ゆっくり歩き始めた。

 「あなたに、あたしの歌を聞いてもらえると一番いいんだけどな…」

 そう言うと、あたしはリュウに微笑んだ。

 うんと可愛くかわいく、天使のような笑顔を作ってみせたのに、リュウは石のように固い表情を崩さなかった。

 「店の経営者は、どんな人なんですか。だいたい、なんだっってそんな所で歌うことになったんですか。」

 あたしは、麻記子のことを話そうとして、ためらった。

 娘の学校の保護者同士なのだと言えば、ひとまず安心するかもしれない。でも、リュウは麻記子のことを調べ始めるだろう。警官って、そういうものだ。

 麻記子の存在を知られるのは、絶対に避けたかった。

 それに、カンナのこともある。月島カンナという友達がいるということは、リュウに話していた。カンナは、あたしが外泊する時のアリバイを引き受けてくれていたからだ。そのカンナの保険金殺人と麻記子を結び付けるだけの頭がリュウにあるかどうかは疑問だったし、第一管轄が違うから、下っ端の若造が口を出したところで上が耳を貸すとも思えなかったけれど、万が一ということもある。黙っていた方が得策だ。

 「大学時代の先輩でジャズをやってる人がいて、その人に頼まれたの。経営者は知らないわ、お店には出て来ないもの。」

 と、言い逃れた。

 「先輩の顔をつぶさないためにも、あたし行かなきゃ。」

 リュウの顔が悲しげに歪んだ。

 そんな顔しないで…心が痛んだけれど、麻記子の仕事に穴をあけることは出来ない。

 あたしは顔をそむけると、区役所通りへ向かって駆け出した。


 翌日のステージには、緊張した。麻記子が、大切な客を連れて来るというので、あたしは念入りにバンドやピアニストと打ち合わせをし、リハーサルを繰り返した。

 衣装も、一番気に入っていて高価なものを用意した。宝塚のステージで見て気に入ったドレスをコピーしたもので、ローズピンクの地に白いレースと白黒ストライプの大きなリボンをふんだんにあしらったデザインである。

 気合いを入れてのぞんだかいあって、ステージはうまくいった。

 麻記子の大切な客というからには、暗黒街の人間かと思ったけれど、そんな風には見えなかった。むしろ官僚かなにかみたいな感じがした。

 でも、相手の職業が何であろうと、心を込めて歌っているかどうかくらいはわかるだろう。人の上に立つ人間というのは、こわいくらいに心理を見抜くものなのだから。

 あたしは、リュウを思い浮かべながら、コンクールに出る時と同じくらい丁寧に歌った。うまく感情移入のスイッチを入れられるかどうかは、音楽をやる者の生命である。

 十分満足してくれたらしい麻記子達が引き揚げ、あたしも帰りじたくを終えた時、カンナから電話が入った。

 今夜カンナは、二丁目のショーパブに女の子達を連れて遊びに行き、解散後はゴールデン街に回ると言っていた。で、ニ丁目だけなら、あたしもつき合うという約束をしていたのだ。

 カンナ達は、たった今店に着いたところだというので、あたしもすぐに向かうと言い、外へ出た。

 相変わらず、あやしげな人間や酔っぱらいだらけだ。でもこの街では、あたしがどれほど派手でフリルに埋もれていようと猫耳の帽子をかぶっていようと、笑われることはなくて知らん顔。気楽さと寂しさが半分ずつ。

 そりゃあ、可愛いあたしは今までに、いろいろと声をかけられたけれど、うちの店に来ないかとか、AVに出ないかとか、そういうのだけはさすがに断った。断られた時のスカウトの連中達の、しんから残念そうな顔はまさに金の卵を逃した時みたいだったから、あたしは大いに満足したけれど。

 風林会館のあたりで、いったん人波は途絶えてきた。

 と、見覚えのある白いカローラが、ちらっと見えた。

 リュウの車に似ている。まさか、リュウが…?

 あたしは、ナンバーを確認するために、そっと近付いた。運転席には、誰も座っていないようだった。

 「ナナちゃん…」

 かすかな声が聞こえたような気がして、ふり向こうとした時、腰のあたりに激痛が走り、全身の力が抜けていくと同時に、あたしは意識を失った。




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