(7)ナナミ
リュウは、エスカレートしていた。
つき合い始めて三ヶ月になるけれど、リュウのあたしへの気持ちはヒートアップする一方だった。夫と別れて、自分と結婚してくれと言うのは毎度のことだけれど、その言い方に、以前にはないねちっこさというか、執念みたいなものが加わってきた。
精神が不安定なのだろうか。
ある時は、ささいなことで号泣したり、かと思うと急に貝のようにおし黙って、一言も口を利かなくなる。
そのくせ、ベッドの中では馬鹿みたい激しいのだ。
もともと噛むのが好きだったけれど、最近はそれがひどくなって、あちこち所かまわず噛み付いている。痕が残るからやめて、と言っても無視、である。
あたしも、いけないのかもしれない。リュウ相手では、どうしても強く出ることが出来ず、甘い言い方になってしまうのだ。それで、調子に乗ったリュウに吸い付かれ、噛み付くことを繰り返され、あたしの体は、大ダコと格闘したみたいに紫色のあざだらけになり、頭の悪い犬の飼い主みたいに噛み傷だらけになった。一度など、足の小指を思いきり噛まれて、ばっくり切れて、病院へ行く羽目になったことがある。あの時の痛さったらなかったし、本当に腹が立った。
でも、あたしには、リュウと別れる気はなかった。
夫は、あたしをかえりみない。あたしの魅力を全くわかってないどころか、あたしがだらしないからこのうちはゴミ屋敷だとか、料理をしないとか、文句ばかり言う。
娘の成績が悪いのと、思うようにピアノが進まないのとで、あたしが怒り狂うと、おれ達の子供がそんなに優秀なわけないだろう!?と怒鳴り散らす。
このあたしにそんな事を言うなんて、夫は何もわかっていない。それに、娘の出来が悪いのは、あんたに似たんだよ。
あたし達夫婦がセックスレスであることも、影響していた。
あたし達は、娘が生まれてから中学生になる現在まで、一度も関係していない。世間の夫婦なんてそんなものだから、別に不思議なことじゃないって思ってた。
でも、リュウに出会ってから、自分がいかに可愛くて魅力のある女の子だったのかを思い出して、夫は頭がおかしいのだということがはっきりして、かえってほっとした。
リュウは、あたしをお姫様扱いしてくれる。リュウの周りの男達も、あたしをちやほやしてくれる。そんなの当たり前のこととはいえ、やっぱりうれしくてたまらない。
これまでは、運が悪かっただけなのだ。
あたしに魅力を感じて、やりたい気持ちになる男はたくさんいたに違いないのに、あたしは清らかな心で生きてきたから、気付かずにいただけなのだ。リュウと出会って、やっとそのことがわかった。
ちょっと遅すぎたような気もするけれど、誰もあたしが四十才だなんて思わないから、いいのだ。
自分を、お姫様でいさせてくれる場所――どんな事があっても絶対に離すものか。
ただ、ちょっと気になる事があった。
週末クラブで歌っているため、どうしても帰りが遅くなる事を、リュウは会うたびに持ち出してきて、しつこく追求するのだ。本当に、オペラ公演の練習をしているのかどうか、怪しみ疑っているようだった。
警官独特のカン?まさかね。
リュウは、決して有能な警官ではない。愛想だけはやたらに良いので、地元の年寄り達には大もてなんだけど、上司からは叱られてばかりだと、よく愚痴をこぼしていた。
リュウの夢は、今よりももっと山奥の駐在所へ行く事だ。駐在所なら、基本的に一人で何でもこなす事になるわけで、そうすると、いやな上司に怒鳴られることもなく、自分の好きなやり方で物事を進めることが出来る。職住一体というのも魅力みたいだった。
「ね、いいでしょう?朝昼晩と、一緒にいられるんですよ。山奥なら、きっと暇だから、場合によっては昼間からやれるし、そうなればナナちゃんだってうれしいですよね?」
正直、ありがたくない話だった。それどころか、とんでもないと思った。
離婚することはさて措くとして、あたしの仕事、人間関係、娘の将来、それらすべてを捨てて山奥へ引っ込めというの?そんなこと出来ない、あたしは絶対にいや!
リュウのことは好きだったし、手放すつもりもなかったけれど、だからといって、あたしが譲歩して山奥の駐在所?そりゃないでしょう!?
「そうよ、あたりまえじゃない。」
「え、何がですか?」
リュウに聞かれて、あたしは自分が独り言を言ったのに気がついた。しかし、リュウはそれ以上聞かずに、再び駐在所ドリーミングについて、滔々としゃべり続けた。そして、ナナちゃんに是非とも見ておいてもらいたいものがある、とタンスの奥から何やら取り出してきた。
貯金通帳。額面一千万と少々。
あたしは、目を見張った。
「すごい!よくためたのねえ!」
「まあ、僕は酒も飲まないし、これといった趣味もありませんしね。車は親父のお下がりだけど、今のところこれで十分だし、丹沢にいると本当に金使わないで済むんですよぉ
。」
リュウは得意げに言い、
「これはナナちゃんとの結婚資金ですから、必要な時はいつでも言って下さいね。」
と言うと、元の場所にしまった。
それから、あたし達は食事に行き、あたしはそのまま国立へ帰るつもりだったが、リュウは、もう少し一緒にいてくれとくどくど言い出し、また週末のオペラのことをむしかえした。
「練習の合間に、ちょっとだけでも会えないんですかぁ。」
「無理よ。休憩時間は短いし、監督も演出家も、とってもコワい人達なのよ。」
一番恐いのは麻記子だが。
「じゃあ、練習してるところをチラ見するだけでも。」
「部外者は立ち入り禁止なの!」
リュウは不服そうに、なおもぶつぶつ言い続けていたが、ようやく厚木駅まで車で送ってくれた。
あたしが駅の構内へ完全に姿を消すまで、じっと見送っている。
振り返らなくてもわかる。いつもそうなのだ。