(11)ナナミ
玄関のドアが音もなく開いた。
二つの黒い影が、土足で部屋へ上がり、こちらへ近付いて来る。
一人は女だった。片手にナイフ、もう片方には何故かファブリーズを握りしめている。背後には、大男がぬうっと立っていた。
「やっぱりね。こんな事だろうと思ったわ。」
カンナは怒ったように言うと、派手にファブリーズをふりまき、それから慎重にあたしのロープをナイフで切り始めた。その間、ずっと小声で悪態をついていた。
体が完全に自由になり、さるぐつわを外されても、あたしはぼんやりしたまま何も考えることすら出来なかった。
「帰るわよ、ナナミ。それとも、ずっとここにいたい?」
カンナはあたしにコートを着せかけながら、訊ねた。
「…わからない。」
「このままここにいたら、死ぬわよ。」
「大丈夫と思うけど。」
リュウに殺されるのなら本望なのだろうか。
「せっかく、いい話を持って来たのに。あなた、今度のオペラ公演で主役が出来るかもしれない。」
あたしは、驚いて目を見張った。
「…本当?本当なの?」
カンナは重々しく頷いた。
「もちろん、姐さんがらみだけどね。ただ、あなたの歌を認めたお偉いさんがいるのは事実よ。その人に頼めば主役は確実だわ。」
見当がついた。
ここへ拉致される直前にこなしたステージを聴いた、麻記子の客だろう。
「それに」
カンナは、少しためらうように言った。
「あなたを一番待ってるのは、アサミちゃんよ。」
娘のことを持ち出されても、あたしの表情は変わらなかったと思う。それなのに、反射的に涙があふれてきた。混乱した心とは関係なく、涙が次から次へと流れて止まらなかった。
「帰りましょう。」
カンナはやさしく言うと、あたしを抱き起こそうとした。大男が手を貸し、あたしはゆっくりと立ち上がった。
頭がくらくらして、真直ぐに立つのが困難だ。よろけて、近くの柱につかまった。柱を握りしめながら、あたしはカンナの目をじっと見た。
「リュウは、どうなるの?」
カンナは答えなかった。
あたしはもう一度訊いた。
「リュウは!?」
「みやげがいるのよ。」
カンナは顔をそむけながらも、ぴしゃりと言った。
何を言いたいのか、すぐにわかった。
ここへは、麻記子の許可があったからこそ、来れたのだろう。
カンナの、準備が良過ぎるほどの装備も、先程からあたし達のそばに控えている大男を使うことも 、すべては麻記子の了解がなければ出来ないことだ。そして、あたしがいなくなった後にリュウが騒ぎ出して面倒を引き起こす前に始末する…それが予定調和への絶対条件なのだ。そして、麻記子には、略奪品を納めるのがこの世界の鉄則なのだ…。
あたしは、小さなタンスを指さした。
「そこに預金通帳が入っているはずよ。印鑑も。」
カンナはすぐに見つけだして、残高を確認し、口笛を吹いた。それから、通帳をあたしのコートのポケットにねじこんだ。
「あなたから姐さんに渡した方がいいわ。」