さざなみの雲
夕霧が部活を止めたのは、冬の匂いが強い晩冬のことだった。
独創的だか先鋭派だかなんだか色んなむつかしい言葉で表現されているが、俺は夕霧の絵をどこがすばらしいのか全く理解出来ない。肌の色が原色の緑で、髪の毛が陰毛みたいに縮れていると思えば隣の一部分だけはさらさらの小木ちゃんみたいなストレートだったりで、目んたまが怪獣みたいに三角なんだ。
これでたしか『足枷』という題名だったと思う。俺には到底理解出来ない芸術性である。
俺には理解出来ないだけで、きっと夕霧は才能の塊なんだろう。そうでなければ、俺たちの住む市のコンクールどころか、県のコンクール、もっといって関東地域のコンクール、更に更に行って日本の偉い人が開く中学生のためのコンクール……そんな全てのコンクールの全ての金賞を掻っ攫っていくことは無いのだ。俺は特に何かに秀でたわけでは無い平凡な男だけれど、だからってそんな非凡な女夕霧和音に嫉妬するなんてダサいことはしないんだ。だって、考えてみれば生まれた時から夕霧は非凡人生が約束されたようなものなのだ。ひらがな最後の三文字、わおん。俺はそんな名前をつけた親に少しだけ会ってみたい気もする。だってさ、わおんって、すげー変な名前じゃん。
無駄は無駄なりにも頑張って勉強しようと思い切り開いたり折込みしたりし過ぎて随分ボロボロになってしまった世界史Bの教科書。その裏っ側に、でっかく相合傘が書いてある。これは先週末に行われた統一模試の帰りにお疲れ&残念会と称された打ち上げのようなもの……別段いつも遊ぶ時と変わりは無いのだが、とにかくマックに行って、ポテト食べてた時に福田が勝手に書いたものである。俺の苗字、熊手と、クラスで三番目くらいに可愛いと言われてる小木ちゃんの相合傘は、瞬く間に皆のうわさになり、つい先日俺は告白したわけでも無いのに振られた。こんなことってあるのか、とすごく落ち込んだし、福田を恨んだ。福田は自分で書いて自分でその話を皆に広めたのだ。自作自演も良いところだと思う。
世界史の授業がある度に、そのくすんだ青の背表紙に書かれた可哀想な傘が嫌でも目に付く。天下の馬鹿と自負している俺が言うくらい馬鹿だと思うが、俺はこの時世界史Bとオサラバしてしまった。高校生活も残り一年になる晩冬のことである。
「いちたろーってほんと馬鹿だよね。なんで世界史捨てたんだよ。お前の唯一出来る教科だったのに」
「今なら間に合うから先生に言ってきたら?」
三年は受験生なのでクラス換えは無い。変わり栄えの無いクラスメイトは少々退屈過ぎる。俺はクラス換えが好きなんだ。だから三年生もクラス換えをするべきだと思う。もしかしたら二年の時のクラスがすごく嫌だっていう生徒もいるかもしれないじゃないか。
「お前らはほんと変わんないな」
「いちたろーに言われたく無いんだけど」
「たろちんの馬鹿は筋金入りだから一生治らないよ」
「そういや風邪とか引かないしね」
「馬鹿に付ける薬は無いから風邪引いたら大変だね」
「ばかたろー」
「ばかたろちん」
勝手に俺をダシに使って盛り上がってるんじゃない。そう言おうとして、ふとこのクラスに異分子を感じた。何かが違う。例えば、いつも作ってるカレーにいきなり隠し味を投入したみたいな違和感。それはきっと擦ったりんごとかとろとろの蜂蜜とかひとかけらのチョコレートとか小さなものだけど、俺には分かるのだ。何かが起こりそうな予感がする。
「ねえねえ、この名簿……夕霧って一番したに書いてある」
「あ、本当だ。去年この人、芸術科だったのに。絵描くのやめちゃったのかな」
「でもこの前また賞貰ってたじゃん」
「謎だね」
「謎だよ」
謎の転校生ならぬ謎のクラス換え……俺たち同様に他のクラスメイトたちもその異変に気が付き、謎だ謎だと口々に言い合う。俺は少しくらい謎があった方が人生楽しいと思うけど、どうやらそんな異変を喜ばない人の方が多いみたいだ。俺にとって、それこそが謎であった。
そんな謎も、HRが始まるギリギリに滑り込んできた謎の張本人・夕霧の登校により、ピタリと止んだ。福田も築地も、小鳥のようにピーピーお喋りしていたのに夕霧が来た途端その口をさっと閉じた。女子の噂話や悪口ってこんな感じなんだろうな、と何となく思う。俺は女子じゃないから良く分かんないんだけどさ。
担任が来て、適当に挨拶をして、そのまま体育館に移動する。俺と福田はそこで抜け出した。築地は恋人である吉井と手を繋ぎながら他の場所へ消えていった。どうでもいいけど吉井を恋人として選んだ築地の気持ちが理解できない、吉井は百貫デブで、将来は相撲取りか大食い芸人になるしかないんじゃないかと将来を危ぶまれているのだ。
「志望調査、出した?」
「書いたけど、捨てた」
「そんなに振られたの悲しい? あんたが好きだっつーからあんま言わないであげたけどさ、小木めっちゃヤリマンだからね」
「ちょっとーそういうこと言うなよー小木ちゃんがヤリマンとかあり得ないだろー……」
「ほんとだって。男って見る目無いよね」
言わなくて言いことを勝手に言っといて、福田はその名の通りぷくぷくと怒り出し、携帯を弄くり初めてしまった。カチカチと爪が携帯に当たり、俺たちは黙って体育館から聞こえてくる校歌に耳を傾けるのだった。
「誰か来る」
携帯をすばやくカーディガンのポケットにしまい込み、慌てて身を縮めるが、すぐに足音は俺たちの近くまでやってきて、ぴたりと止まってしまった。俺がちらりと壁から顔を出すと、足音の主は案外近くにいて、目の前がそいつの膝小僧の肌色でいっぱいになる。膝小僧が出てるということは女の子だ。しかし膝小僧より上は紺色のやぼったいスカートで覆われていて、どうやら福田や築地のようなみじけースカートに改造するような子ではないのだなと分かる。顔をあげる。随分ボサボサの髪の毛だ。しかし太陽のひかりで細かい毛がきらきらと光っていてなかなか良い。やぼったいスカート同様にボタンを全部閉めたブラウスに、もはやこの学校の誰もが机の奥底やら机のはしっこやらに押しやってしまったであろう一応着用を義務付けられている赤いリボン……それがなお更芋臭さを醸し出している。顔は逆光で見えないけど、もうこんな格好をしている人はこの学校に3人くらいしかいない。ので、なんとなく推測できた。この人はあれだな、うちのクラスに突然やってきた人だな。転校生ではないけれど、一種の異質なおんな……名前は忘れたけれど、存在はしかと覚えている。
「なんだ、夕霧かよ」
チッと舌打ちをする。携帯を必死に隠してあたふたしていた先程の福田の姿はもう無い。教師でないと分かった途端にこれだ、現金なものである。
「ゆうぎりさん」
「はい」
「こんなところで何をしてるんですか」
「教師の目の届かないところを探していました」
どうやらゆうぎりさんはサボりらしい。こんなだっせー制服着てる癖に結構ダイタンだな。そんなギャップは少し面白いと思う。いかにもな典型的にサボってそうな奴よりも、こういったゆうぎりさんのような真面目そうな人が校舎裏でサボってた方が、意外性に富んで面白いじゃないか。典型的にサボってそうな人間の俺が言うのもあれなんだけどさ。
「どうでもいいけど、早くどっか行ってくんない。そこいたら目立つし」
「そうだな、立ってると目立つし、ここ来いよ」
隣にスペースを作り、手で数回叩く。ゆうぎりさんが何らかの反応を示す前に、福田が素っ頓狂な声をあげた。ついでに肩を怒らし、なぜか俺の背中をばしんと叩く。そうして、嵐のように去っていった。生理か。
福田が去っていったあとも、ゆうぎりさんは俺の作ったスペースに座ることなく突っ立ったままだった。数分くらい経ったあと、ゆっくりと隣に腰を下ろした。正確に言えばうんこ座りをした。福田や築地がそうしたなら確実にパンツ丸見えだろうが、ゆうぎりさんはスカートの丈が長いのでそういったことにはならなかった。どうでもいいけど、パンツついでに思い出したこと……築地のパンツってやたら面積が狭いんだ。擦れて痛くないのだろうか、体育の時に困らないのだろうか、前々から気になってはいるものの、セクハラみたいだから聞けないでいる。そして奴は抜けているのか単に見せつけているだけなのか知らないが一日に三回くらいパンツが見られる状況を作り出す。風が吹いたなら確実にお目にかかれるけれど、余りにも頻度が高いので余り希少価値は無い。
「いいんですか」
「なにが?」
ゆうぎりさんは福田が立ち去ってった方を見て「あの人は、いいんですか」とまた聞いた。どうやらさっきのことを気にしているらしい。そんなこと気にしなくてもいいのに。俺だって何にも気にしていない。きっと虫の居所が悪かったんだ。そう思えばいい。俺は笑って言った。笑い事じゃないけど、ゆうぎりさんがそわそわしているのでなんだかおかしかったから。
「……そうですか」
「気にすんなって。ゆうぎりさんは、サボりに来たんでしょ。だったら考えること止めておもっきしサボろうぜ」
今日は日差しが強いので、風が少し強いけれど心地良い日だ。
「ゆうぎりさん」
「はい」
「ゆうぎりさんのゆうぎりってどんな字書くの」
「夕方の夕に、霧雨の霧です」
「ふーん。あ、名前なんてゆーの?」
「わおん」
「わおん?」
随分変な名前だ。親は名前を決めるのが面倒だったのだろうか、それとも奇抜な名前にしたかったのか。
「わおんはわは和菓子の和に、おんは音楽の音」
「へー。確かに、夕霧さんは和菓子っぽいよね」
顔も少しこけしっぽいというか、醤油顔だから、染髪のされていない濡れ烏のような黒髪と相まって古き良き日本女子の雰囲気を醸し出している。和菓子というよりは煎餅の方が似合いそうではあるが……。
俺がそう言うと、夕霧は少しむっとした顔をして……いやいや、彼女は常にどこかむっとした、不平を感じているような表情をしている。きっと、そういうのってすごく不便なんだろうな。何もしていないのに、この顔のせいで不都合を感じていることがあると思うんだ。これは流石に失礼なことだから口にはしない。だけれど、クラスメイトの女子がかつて夕霧のことを「いつも不満そうな顔して、自分が出来る人だからってさ」と悪く言っていたのを聞いたことがある。その時は夕霧のことなんてこれっぽっちも知らなかったけれど、今改めて思い直す。女は愛嬌。彼女には笑顔が足りない。
「女の子なんだから、もっと笑ったほうがいいよ」
体育館からは校長の長話が延々と続いている。夕霧は黙ったままだった。むっとした顔をそのままに、それから反応を微々たりと変えたりはしない。と思ったら、怪物のうなり声みたいな腹の虫が聞こえてきた。しかと聞いてやったぞ、夕霧さんの腹の虫。
とっておきとばかりにカーディガンのポケットのから取り出したチョコレート、期間限定チーズケーキ味。世の中のケーキ屋さんでは長年ショートケーキが王座に君臨しているけれど、いつかはチーズケーキが下克上を果たすと俺は信じている。なぜなら俺はチーズケーキが一番好きだからだ。どうしてこうしてショートケーキが不動の人気であることに疑問を感じてならない。あれって飽きない? 俺は飽きるよ。きっと他の人も途中で飽きちゃうと思うんだ。
「食べるかい?」
「いらないです」
「やや、夕霧さん今お腹鳴ってたよね?」
「……」
無言で俺の手からチョコレートをひったくる。野良猫が警戒しているみたいだ。チョコを手に取ったはいいものの、夕霧は一向にそれを口に運ぼうとはしない。毒でも入っていると思っているのだろうか。「毒なんて入ってないから」夕霧は肩を揺らす。俺のトンデモ発言にちょっとびっくりしたみたい。
頂きます、とやけに小さい声がした。隣を見れば、既にチョコは無くなっていた。あれだけ吟味していた割には一口で食べてしまったらしい。
それから、俺は持ってる分のチョコを夕霧が食べ終わるたびに渡した。一気に渡せばいいんだけど、それだとなんだか面白くないし、第一そうしたら断られそうだったから。
「ありがとうございました」
ポケットの中身が空っぽになったのでそれを伝えると、夕霧はぺこりと頭を下げた。
「いいよ、これ家にあったやつだし」
「でも、助かりましたんで」
「ご飯食べてないの」
「食べ損ねました。死にそうでした」
「そうかあ」
夕霧は顔に似合わず食いしん坊なんだなあ。
「これ、飲む?」
あれだけチョコを食べたら喉が渇いてしまうだろう。そう思い、俺は鞄の中からゴゴティー(レモンティー味)を取り出した。ずっと突き出すと、夕霧は困ったように首を振っている。手も一緒に振っている。なんだろう、猿のおもちゃみたいで面白い。
「飲まないの?」
「いいです」
「喉渇かねーの?」
「乾きましたけれど」
「じゃあ、はい」
「ああ……」
蓋を外して、また差し出すと、今度は観念したかのように受け取った。もしかして衛生面を気にしている人なんだろうか。俺は飲み物の回し飲みなんてしょっちゅうだし、しかしそんなこと言っていたらキスの一つも出来ないじゃないか。潔癖症の人って大変だろうな。キスするだけで「今自分の口の中にはいったい幾つもの細菌が入ったのだろうか」なんて考えなきゃならないだろうし……。
「……どうも」
「うん」
ぐいっと口元を拭う。ハンカチとかタオルは持っていないみたいだ。と言っても俺も持っていないので、その様子を見ていることしか出来なかった。
それに気がついたのか「たまたまです」とまたむっとした顔をしてそっぽを向いてしまった。
「俺なんて年中持ってきてないから、気にすんな」
「あなたと一緒にしないでください」
「女だからって別にタオルくらいいいじゃないか」
「世間はそう甘くない」
「今は俺しか見てないよ」
「あなたは甘いんですか」
「俺は誰にでも優しくがモットーだから」
だれにでも優しく。これは生まれてからのモットーだ。代わりに厳しい助言とか現実的なことは言えないから、本気で相談したいなら他のところへ行っておいで。聞くだけならばいくらでも出来るけれど。
程なくして体育館から大勢の生徒の足音が聞こえてくる。これに紛れてしまおうと腰を上げるも、隣に座った彼女は全然動こうとはしない。「行かないの?」「うん」「俺行くけど」「どうぞ」。体育座りをして、まっすぐに前を見ている。その視線の先には花壇の植え込みしかない。人が行き来するならまだしも、こんな何も変わらない景色をずっと見ていたって、ちっとも面白くはないだろう。
「行かなくていいんですか」
「別にいいよ」
「そうですか」
もう生徒たちの騒がしい足音は聞こえなくなってきた。きっと教師たちも職員室へと戻っていっただろう。それでも俺たちはここにいた。流れる雲を見つめながら、考えることを放棄して。
こうやって、たまにならぼーっと空を眺めるのも悪くない。
そんな風にのんびりした心地でいた。夕霧もそんな感じでまったりとしていた。多分。
しかしそれは、教師の俺を呼ぶ怒声のお陰で、全部吹っ飛んでいった。
夕霧とはそれ以来特に接触していない。しっぽり怒られてしまった俺たちだが、その後に夕霧だけまた別の件でお説教を喰らっていた。その内容は締め出された職員室で行われていたので知らないけれど、福田曰く、きっと美術部を退部した件のことらしい。
「やさぐれてんじゃないの?」
「なんで夕霧が不良化に」
「だってさあ、転科だよ? どう考えたって、何か訳有りだろ」
「あの子クラスでいつも一人ぼっちだって聞いたよ~」
「ほら~ね~」
机の周りで福田と築地が小鳥のように騒がしく喋っている。そうか、夕霧って芸術科だったのか。だから一人だけクラスにぽっと入ってきたのか。俺は一人納得する。
「しかも、芸術科の中でも美術部に入れる人ってすっごい少ないんだって。入部試験とか三つくらいあるらしーし、うちの高校の美術部にいたってだけで推薦バンバン取れちゃうんだって!」
「あームカつく。こっちは三年間必死こいてやってきてるってのに」
「その割にはあずにゃんけっこーサボってね?」
「うっせーんだよ築地ィ!」
「ごめぇ~ん」
うちの高校(名は山辺高校という)の芸術科ってやつは、俺たちの通う普通科とはもはや別物で、近々校舎を分けようという話さえ出来ているほどだ。もちろん評判も雲泥の差で、芸術科の奴らは山辺に通ってますじゃなくてヤマゲー通ってますと言うらしい。山辺と言ってしまえば、もれなく普通科のおばかな奴らと一緒にされてしまうかもしれないからな。廊下ですれ違った知らない男子がそう笑っていた。その男子は廊下でたむろっていた不良(築地の元彼だ)に跳び蹴りされて背骨にひびが入ったと聞いた。その跳び蹴りした不良はムキ停学のあと退学させられたっけ。世知辛い世の中ですなあ。
廊下にはあの時の不良と同じような不良がうんこ座りをしてつまらなそうにしている。しかしそこから少し離れたところにいる不良の塊は楽しそうに笑っていた。不良にも色々あるんだな、でもやっぱり笑ってた方がいいよね。人生は楽しく行こう。
廊下や教室にはたくさんの生徒がいたけれど、少し先まで歩いて渡り廊下の向こうまで行けば、まるで廃墟のように閑散とした旧校舎が見えてくる。シンと静まったこの辺りは不良も寄り付かない。なんだかドロドロしているし、以前移動教室でこの付近を通りがかったときに「ここには何かがいるよ」と築地が明後日の方向を見上げながら呟いていた。そもそも不良だって好き好んでこんな寂れたところに来ないでも、街に行けば楽しいものがいっぱいある。昔のドラマで見た不良はこういうところをたまり場にしていたけれど、今の不良にはマックがあるしカラオケもある。時代は常に変わっていくものだ。
階段を上り、奥から二番目の空き教室。塗装が剥げて材木が見えている扉には『マンガ研究部の部室・一般人立ち入り禁止』と書かれたポスターが張ってある。これは俺が書いたものだ。確か一年の時だっけかな。その時はまだ部員が何人かいて、漫画を描いたりしていたけれど、その人たちは皆先輩だったので進級と共に数を減らしていった。そうして俺が三年に上がると、ついに俺一人となってしまったのだ。
「熊手くんは、初めは不良がなんでこの部に入るんだって思っていたけど、実は良い人だったよね」
一つ上の先輩が卒業式の時に言っていた。俺は全然不良なんかじゃないのになぜか不良に間違われてしまう。でも、わかってくれたのなら全然いいんだ。先輩の名前は覚えていないけれど、その言葉だけが残っていればいいんじゃないかな。名前よりもずっと強い思い出。ちょっとだけ素敵なことに思える。
あの先輩と、あと数人の部員が卒業してしまったので、俺は今一人だ。別に漫画なんて描かないから、正直漫画を読んだり備品のパソコンで遊んだりするしか道は無い。
少しだけ退屈になるなあ、と良い暇つぶしが無いかと考えつつ扉を開ける。……開ける? 俺まだ鍵開けてねーってのに? そういえば今日から俺が鍵を管理しなくてはならなかったんだった。だからまだ鍵は職員室にあるはずで……なんだけど……。
「どういうことだ……?」
思わず漏れてしまった独り言が虚しく宙に舞う。最悪の事態を考えて背筋が凍る。以前、この部室の鍵がボロッちかった時、部室の備品を狙った盗難が起こったことがある。映画泥棒ならぬ漫画泥棒だ。ここは漫画がたくさんあるし、結構貴重な絶版した漫画を置いてあったりする。
頭の中に、黒いスーツを身にまとい変な動きをしている男の姿が浮かび始める。ノーモア、漫画泥棒!
まだドアノブを回しただけで止まっていたが、意を決して扉を開ける。ギィと鈍い音と共に、見慣れた部室が広がる。勿論、黒いスーツの漫画泥棒なんかいない。けれど、うちの高校の制服を身にまとった女性徒ならば、いた。
ボサボサの黒茶色の髪の毛が、窓から差し込む陽に照らされている。髪の毛にきらきらの粒子がくっついているみたいだ。
俺が部室に入ってきたことに気がついてか、手に取っている漫画を閉じ、机の上から腰を退かした。こいつは行儀の悪いことに新調したばかりの長机に座っていたのだ。
「……ども」
そう短く言って、ブレザーのポケットからくしゃくしゃになった白い紙を取り出した。それを、俺の元までやってきて渡す。なんだこれ、ラブレターだろうか。
「本日付で入部しました」
よろしく。無愛想ながらもぺこりと軽く会釈をし、またさっきと同じように漫画が収納された本棚を漁り始めた。よれよれのくしゃくしゃの紙には『入部希望・夕霧和音、3年』と書かれている。
つまり、夕霧は美術部も辞め芸術科も辞め漫研に入ったということか。以前夕霧の描いたという絵を見たことがあるけれど、どれもが理解し難いものだった。きっとその手の人にしかわからないんだと思う。それなのに、なぜ漫研になんか入ったんだろう。
「夕霧さん、なんで漫研に?」
ソファに腰掛け、長机の上に腰を下ろして漫画をペラペラ捲っている夕霧に声を掛ける。
「漫画のすばらしさに気がついた。それが一月前」
「随分遅咲きだな。描く方になりたいの?」
「そう。だから今、勉強中」
「そっか」
会話している間も、その手は止まらない。俺もこれ以降夕霧に話しかけることはなかった。夕霧も同じように口をずっと閉ざしていた。俺たちはひたすら漫画を読む。俺は元々漫画は読む専(一回だけ描いたことがあるが、壊滅的に絵が下手だったので1ページも埋められずに終わった)なのでいつも通りの部活内容。しかし、夕霧は描き手になるべくして入部したのだ。いずれは先輩たちのように作品を作っていくのだろう。
下校時刻に差し掛かる前に、携帯から子犬のワルツが流れ出す。初期設定をそのままにしているだけであって断じてクラシックに詳しいとかそういうのではない。
どうせ福田あたりだろうと放っておいたのだが、夕霧は鳴り止まないそれをジッと見つめるので、仕方なく出ることにする。
「今サイゼいるんだけど来ない?」
「今日めっちゃ疲れてるから無理~じゃあね~」
切る前に「ちょっと~!」と福田の声が聞こえたが、もう切ってしまったので遅い。
そろそろ帰ろうかと携帯をポケットに押し込め、鞄に手を掛けると、先程と同じように夕霧がジッと俺を見ていた。その丸い目は猫かフクロウのようで、暗闇じゃないのにこの部室にぼうっと浮かんでるように思えた。
「うるさかった?」
「疲れてるの?」
質問に質問で返しちゃいけないって小学生の時に習ったでしょ! そんな突っ込みはさておき、この疲れてるの?はきっとさっきの電話口での言い訳のことを指しているのだな。あれは言い訳なので本当に疲れているわけではない。その旨を伝えると
「よかった」
漫画を元の場所に片付け、夕霧はちゃっちゃと帰り支度を始める。ものの数十秒で完了。「では」夕霧はそのまま部室を後にする。
一緒に帰らないんだ。声を掛けようにも、もう既に遅い。
残された俺は、下校時刻なので帰りましょうというアナウンスを聞きながら、しばし呆然としていた。
基本的に俺たちは毎日部室にいた。寂れた廃墟のような旧校舎に二人(本当は他の部もあるんだけど静かすぎて全然人気を感じられない)、ただ黙々と漫画を読んでいた。部費はほとんどがこの漫画に消える。それに歴代の部員たちが収集した漫画は全て残っているので高校生活三年間をかけても読みきれない量なのだ。
夕霧が入部してから二週間くらい経った。いつものように特に会話するでもなくただ漫画を読み耽っていたのだが、三時も半ばを過ぎた辺りで「原稿用紙はどこですか」といきなり口を開いたのだ。
「そこの、棚にある鳩サブレのカンカンに入ってると思う」
「……入ってない」
「あー、じゃあ、無いな。うん」
そもそも部員は現在俺と夕霧しかいないのだ。俺は元々漫画は描かないし、去年の先輩が使い切ってしまったのだろう。
「どこで売っていますか」
「えーとなあ、確か……画材屋さんに売ってた気がするぞ」
「画材屋……」
「夕霧さん絵描いてたんでしょ? なら分かるんじゃない」
芸術といえば画材だ。夕霧は俺なんかより画材屋さんに詳しいに決まっているので、俺から何か言えることは無い。
しかし夕霧は渋い顔をしている。いや、いつも渋いんだけどね。眉間の皺がきゅっとしている。目が細まって
「私、そういうところ行ったことない」
えー。どういうことですかー。
「じゃあ今まで道具とかどうしてたんですかー」
「ネット」
「ああ……」
どうやら夕霧は相当ヘビーなネットユーザーらしい。
いやでもさすがに美術系極めてる(今はどうか知らないけれど)人なのにネットで済ませちゃうのどうよ、と思い色々聞いてみると、なんと衝撃的なことに「そもそもどのお店自体も入ることがほとんど無い」とのことだった。
「えー。それってどうやって生きるの? 生きてるの? 生きれるもんなの?」
「ネットは便利。ネットを使わないとか情弱の極み」
なんだか難しい単語が出てきたのでふーんと軽く流しておく。やっぱり芸術系の人って変わり者なんだな。家から全然でないのだろうか。
「じゃあ、近くに画材屋さんあるから行こう」
「はい」
ソファから腰を上げる。夕霧はペンとメモを渡してきた。なぜ? 意味が分からない。
「えっと、これいらないんだけど」
「これに書かないと私お店まで行けませんが」
「え? 一緒に行かないの?」
「え?」
「え?」
お互い顔を見合わす。夕霧はぎょっとしているというか、とにかく驚いた顔をしていた。俺はアホ面で、なんでこんなにすれ違っているんだろうと素朴な疑問がもくもくと頭に浮かび上がってくる。
結局、俺と夕霧は画材を買いにいくことにした。往復すると時間を食ってしまうのでそのまま帰宅できるように身支度をして近くの画材屋までやってくる。駅ビルに入っているので人はそこそこいて、夕霧はその人混みに何回も押しのけられ波に流されてきたくらげのようになっていた。どうやら人混みも不慣れらしく、どれだけ常日頃引きこもっているのだろうと疑問を抱く。
画材屋に来ると、人混みに揉まれまくってどんよりしていた夕霧ではあったが、それと打って変わってそわそわし始めた。俺が原稿用紙を探している間にあちこち歩き回り絵の具やら筆やらを見ては手に取っている。目は心なしかきらきらと輝いていて、まるで初めておもちゃ屋に来た子供のようだった。
「夕霧さん、あったよ」
原稿用紙の他に、なんだかよく分からない模様が描かれた紙やたくさん種類のある色鉛筆なんかも置いてある。漫画の描き方なんて本もあって、パラパラ捲って流し読みしていると、いつの間にか夕霧は隣に来ていた。模様の描かれた紙を手にとっては戻し、違う種類のものを手に取りまた眺めを繰り返している。
「これ、何に使うの?」
「これは、確かトーンと呼ばれるもので、細かい描写などはこれを使うといいそうです」
「あー、あの、周りに花とか散ってるやつか? あれ週間連載でよく描けるなーって長年の疑問だったんだよね」
「そうなんですか」
しげしげと眺めること早十分。夕霧は数枚のトーンと原稿用紙を買い物かごに入れ、レジへ向かった。一緒についていくと、合計で二千円ほどになり、結構高いんだなと思っていると、レジのおねーさんは固まってしまった。隣を見ると、同じように固まっている夕霧。こいつの財布は小学生でも今時持つことの無い小さながま口で、まあ、どこからどう見たってたくさん金の入るようなものではなかった。
あ、だのう、だの色々弁解しようとしていたが、レジのお姉さんが青ざめた顔色をして「お客様、あの、代金は、2150円です」と申し訳なさそうに言うと、またもや固まってしまった。
「あー、はい。これでいいですよね」
「あ、はい! えー、おつりが350円になります。ありがとうございました、お品物になります。またお越しくださいませぇ!」
店員のお姉さんはそう、笑顔で言ってのけた。すごい商業根性だ! と素直に感心した。
夕霧はとぼとぼと俺の後ろを着いてくる。何回か足を止めて夕霧と並んで歩こうとしたのだが、そのたびに俺と同じように足を止めてしまうのでいずれも叶うことはなかった。
「そんなに! 気にすんなよ!」
「……」
「金くらい! 誰だって忘れる!」
「……」
小豆色のおばあちゃんが持つみたいながま口は、まだ夕霧の手に握られている。
足を止める。やっぱり夕霧も足を止める。それを見計らって、俺は思いっきり逆走した。野良猫みたいに目を見開いた夕霧が「ぎゃっ」と悲鳴を上げる。逃げようとしているその肩を掴むと、また「ぎゃっ」と動物みたいな悲鳴が聞こえてきた。
「これも~らい」
半ば無理やり手の中のものを奪い、中を拝見させてもらう。おお、見事に小銭しかない。しかもなぜか五円玉ばっかりで……それでも五枚くらいしかない。百円玉と五百円玉が一枚ずつ、あとは一円玉が数枚あるだけだ。普段店で物を買わないからだろう、しょっぱい中身だった。
確認するだけして、また夕霧の手の中に小豆色のがま口を戻す。呆然としている夕霧の腕を引っ張って駅へ向かった。こうでもしないと全然動こうとしないんだもんな。たまに学校生活においても性格的な意味でこういう奴を見かけるけれど、なんで自分から動こうとしないのか不思議でならない。他人に動いてほしいのなら、まず自分が動かなきゃならないのに。
「あのさ」
「はい」
「これからは一緒に帰ろうぜ」
「……」
「お前なんかしんねーけど先に帰っちゃうし」
「……すみません」
「謝るってことは、帰っていいってことだな」
それから特に喋るわけでもなく、そのまま俺たちは歩き出した。途中手は離したけれど、そのことについて文句を言ってきたりはしなかった。
「私、こっち」
「おお、じゃあな」
「あ……はい」
そのままホームで別れる。手を振れば、軽く会釈を返された。
『お前、今度会ったら殴る』
福田からそんなメールが入っていたことに気がつくのは、随分後のことだった。
「お前はどうしたいんだ?」
担任の松林が長いため息を吐く。俺の進路調査票が机の上に置いてある。真っ白なままだ。だって何も書いていないんだから仕方無い。
「特に具体的な将来像を思い描いてはいません」
「就職するにしたって、今からやんねーと」
「はあ」
気の無い返事が空き教室にこだまする。模試を受けたのはいったいいつだっただろうか。もうとうに昔のことのように思えていて、俺はとにかく部室に行きたかった。まだ読みかけの漫画があるんだ。ソファに寝転んでぐうたらしていたいと思うことの何がいけない? 別に誰も責めちゃいないけど、きっと口に出したらとやかく言われるに違いないので、ひたすら「すみません」とうわ言のように謝罪の言葉を口にしていた。
どうにか開放されると、廊下で福田と築地がうんこ座りをしながら携帯を弄っていた。どうして最近の若者ってうんこ座りが好きなんだろうね。俺には理解し難い。そしてやっぱり築地のパンツは丸見えだった。もはや見せているとしか思えないけれど、女友達のパンツなんて俺は見たかない。ゆえに無邪気な幼稚園児のパンチラを見てしまったのと同じような気持ちになる。罪悪感、その他諸々。
「おつー」
「おつかれ~あっ、まっつも説教おつかれ~」
松林は「お前ら早く帰れよ」と職員室へと戻っていった。築地が愛想よくふりふり手を振りかざすなか、福田は「何話してたの?」と口元を緩ませている。
「進路のことだよ」
「あー、あんた白紙だったもんね」
「だって何も決まってないのに嘘つけねーよ」
「はー、馬鹿だねえいちたろーくんは……適当に大学とか言ってりゃいいのにさ」
「ねーこれからガストいこーよー。まりこ山盛りポテト食べたい」
「えーたまにはロイホとか行こうよー。いちたろーはどこ行きたい?」
「え? 俺も行くの」
「は? 当たり前じゃん。なに? まさかこれから部活行きます~とか言うわけ?」
「ああ……はい……」
昨日、どうやら夕霧と画材屋に行ったことがバレていたらしく、朝のHRで「メール見たぜ」と笑いかけたら、漢和辞典でガコンと殴られたのだ。そのこともあり、気迫負けしてそのままずるずる引き摺られるがままにガストとロイホの間を取ったデニーズでのんべんだらりと飲食に励んだ。読みかけの漫画の続きは明日にしよう。そう決め込んで、今は福田と築地のくだらないおしゃべりに付き合うことにしたのだった。
「昨日は、どうしたんですか」
聞き間違えかと思った。だって夕霧は手を休めずに、ただ口元だけもごもご動かしてそう呟いたのだから。
昨日はデニーズの後もボーリング行ってカラオケ行ってまたファミレス行って結局朝までずっと遊んでいた。俺にとっては遊んでいたというよりは福田たちに振り回されていたという方がよっぽど近い。女子高生ってタフなんだな、男子高校生の俺なんかより三倍くらいは体力あるよ。
遊びまわっている間、夕霧に連絡を入れようという考えが浮かんだのだが、そもそもメアドも電話番号も知らないのでそれは叶うことがなかった。あの廃墟みたいな部室に一人でいるのかなあとか、俺がいないから帰っちゃったかなあとか、部室にポツンと佇んでいる夕霧を思い浮かべて、そのたびにこんな不毛なことはやめようとイメージを打ち消すのだが、数分後にはまた同じようなものが頭に浮かび上がっていた。きりが無いけれど、こういうのって自分では止められない。しょうがないから福田たちと会話しつつも夕霧のことを考えていた。案の定上の空を指摘され、何度かどつかれてしまったけれど。
「え?」
だから、思わず聞き返してしまう。すると夕霧は「なんでもないです」と今度はさっきよりきっぱりと答えた。
「昨日はなあ……呼び出しくらって、そのまま疲れたから帰ったんだよね」
そこでやっと手が止まる。野良猫の瞳が俺を見据えた。
「聞こえてたんじゃないか」
「うん」
「……私といると、疲れるのですか」
酷く悲しげな声色で、夕霧はぽつりとそう呟いた。慌てそうになる胸中を沈める。落ち着け、俺はクレバーな男なのだ。
「いや、そういうわけじゃなくて……担任にさ、小言言われたんだよ。進路調査表白紙で出したし、中間やばかったからな」
一息でそう言うと、数秒くらい沈黙する。
「……そう」
夕霧の手には鉛筆が握られている。それを握ったり離したりしているうちにコロコロと机の端まで転がっていってしまった。
部室は、さっきと同じように鉛筆が走る音と時折俺が捲る雑誌の音で充ちている。読みかけの漫画はもう読み終わったので、今は今朝方買って来たご当地ラーメン決定版を読んでいる。俺はラーメンは醤油ラーメン派。もちろんさっぱり味が好みだし、鶏がら出汁だと尚更いい。でも醤油とんこつも捨てがたいな。味噌は昔好きだったけれど、醤油の方が店によって味が違うから今はめっきり醤油派なんだ。
「私もです」
シャッシャと鉛筆が忙しなく音を立てる。そういえば、ついに漫画を描き始めたんだな。
「調査表のこと?」
「うん」
「白紙?」
「そう、です」
自分以外に白紙で出した奴がいるなんて思わなかった。けれど、何となく夕霧さんならそうしかねないなとも思った。彼女は異分子だ。平和なクラスに注がれた炭酸水のような人。俺は酒を飲めば絶対にソーダ割にする。パチパチとはじけるそれは、味気ない酒も面白くなるんだ。
「夕霧さんは、将来漫画家になりたいの?」
部室は再び静寂を取り戻す。開け放った窓からは吹いてきた風と共に運動部の掛け声が入ってきた。
紙を揃える音がする。なぜだかその音は、昔習っていた学習塾で居残りをさせられていたときを思い立たせた。授業に着いていけなくて居残っているくせに、なんでだかあの時の居残り授業は、不思議といやな気持ちではなかった。なんでだろう、先生が女だったからだろうか。でもあんまりタイプじゃない、地味目な人だったし……。
ガタンと椅子が音を立てる。夕霧は足早に部室を出て行く。というより、出て行こうとした。扉に手を掛け「それでは」とぼそっと呟いてそのまま帰ろうとしている。
「待ってって」
「なんでですか」
「一緒に帰るって言ったじゃん」
「昨日はいなかったじゃないですか」
「だからぁ、昨日は色々あったの。でも今はいる。そんで、一緒に帰るのは俺とお前の約束。お分かりですか」
「……勝手だ」
「なんで?」
「べつに」
お前は荒んだ女優か。
俺の手を振り払う。鞄を持って、その後姿を追いかけた。すると観念したのか、ポケットに手を突っ込みもごもごさせながら足を止めた。駅まで歩いている途中、夕霧はずっとポケットに手を突っ込んだままだった。まるで画材屋に行ったときに手を繋いだことを思い出しているかのように。
駅に着くと、俺が話を切り出す前に夕霧は俺から距離を置いた。そして、ジッと俺を睨むように見上げ
「さよなら」
さよなら。そう言ったその時、ほんの一瞬だけ。夕霧はくしゃりと今にも崩れ落ちそうな顔をした。それはきっと、俺が知らない何かが含まれている。
今すぐそっちへ走り出したかった。でも、それよりも先に
「夕霧!」
最初に振り返ったのは本人ではなく、近くにいたおばさんだった。違う、お前じゃない。振り向いて欲しい奴は、あいつなんだ。
「本当は俺、福田たちと遊んでた!」
遊んでたっていうか、連れ出されたんだけど。でもそんなことウダウダ言うような奴は男じゃないよ。一人の女を悲しませた罪は、何よりも重い。
すうっと息を吸う。こんな大声出したの久しぶりだった。早速声が枯れ始めているし、周りの目線がズキズキ痛いぜ。
「でも! 俺ほんとうは、部室で漫画読んでるほうが好きだ! 遊ぶの嫌いじゃないけど、なんかもう疲れてんだよ色々! そういうもんだろ!」
でも、そんなのへっちゃらだった。伝えたいことを伝えたいときに言える。こんなチャンス逃せるわけがないだろ。ここで言わなきゃ、男が廃るってもんだ。
「もし夕霧が! 辛かったなら! ごめん! 謝る! このとーりだ!」
勢い良く頭を下げる。下げてから気付いたけど、なんだかこれ知らない人から見たらただの痴話喧嘩にしか見えないんじゃないか? いや、今は他人の目なんてどうでもいい。俺と夕霧。その関係が、大事なんだ。
目を開けると、夕霧の足が見えた。
「顔を上げて」
その言葉に従う。ビンタの一つされても構わないように歯を食いしばって心の準備を整える。
しかし、ビンタも罵声も一向に飛んでくる気配は無かった。
いつも通りの、むっつりとした、和菓子みたいな顔。
「明日も、一緒に帰りましょう」
そう言って、夕霧は一枚の紙切れを差し出した。ぼうっとしていると、その手が俺の手を掴んで、無理やり開かせる。そこに紙切れを握らせた。
そこに書かれた英数字と@マークは、俺と夕霧を繋ぐ魔法の文字だった。
夕霧の漫画は始めてから一週間ほど経ったのちに出来上がった。トーンなども使ったみたいで、しかし漫画ペンを買っていなかったので聞いてみると「私は0.25ミリの細ペンで描いてます。太くしたければ重ねればいいのですから」とのことだ。漫画描くにも色々あるんだな。
「どうぞ」
手渡された漫画は結構な厚さだった。軽く50ページはあるだろう。しかも表紙はツルツルしていて題名のところはモコモコしているしなんだかよく分からないけど大層な作りとなっていた。
「これ、サイズでかいね」
「同人誌サイズだから」
「同人誌ってなに?」
「素人の作った漫画みたいなもの」
「ふぅん」
どうせならジャンプコミック風にすればよかったのに。それでこっそり本屋に置いて来るんだ。そうしたら夕霧の漫画は売れるのだろうか。売れたらきっと嬉しいだろうな。
夕霧はソワソワこちらの様子を窺っている。居てもたってもいられないといった風に部室を歩き回っていたが、俺の読む速度が遅すぎるのを悟ってソファに腰掛けた。ぎしりと二人分の重さを受けたソファは鈍い音をあげる。一旦読むのを中断し、鞄の中からアニマルクッキーを取り出して夕霧に与える。これで少しは気が和らぐだろうか。さくさくと租借するなか、俺は夕霧の処女作を読む人第1号としての役目を果たしていた。
「よ……読んだ?」
「うん」
「ハァーッ!」
ソファをぎっしぎし唸らせながらジタバタもがく。夕霧は意外と恥ずかしがりやなのだろうか。いっつも作品とか展示されていたのに、いちいちこうしていたのなら身が持たないだろう。
「じゃあ言うけどいいか?」
「は……はい」
「まず絵ね」
「はい」
「なんか……シュール。中身青春物なのに登場人物石像みたい」
「おお……」
手がプルプル震えている。やっぱり傷付くよな。実は俺、こういう本格的なアドバイスを人にするの初めてで、加減がよく分からないんだ。だからキツくなってしまうかもしれない。その時はごめん。
「ほ、他には?」
「あー、あと具体的に言うと、ジョジョっぽい。うん」
「ジョジョ?」
「漫画の名前。前ジャンプでやってたやつ」
「ふぅん」
「あとはなー、この劇画チックなのはまあ置いといて、それよりもまずコマ割が変だな、うん。これは漫画いっぱい読んで技盗んでいくしかないな。あとトーン使いすぎてくどい。ちょっとでいいよ。こんなワンシーンにゴテゴテ使っちゃうと何漫画か良く分からなくなるし……」
もしかして俺漫画の編集者になれるんじゃないだろうか。するすると口から零れてくる批評を聞いて夕霧は落ち込んでしまうんじゃないかと思ったけれど、意外とへこたれずに小さなメモ帳に俺の言葉を書き留めていた。
こうしてみると、夕霧はやっぱり真剣に漫画のことを思っているんだと実感する。描くだけじゃなく頭にインプットするために漫画を読むことは欠かさないし、本人曰くネットで大量の漫画を発注しているらしい。一昨日の部活では「昨日はタケシ=オバタと作品を読みました。彼の絵は繊細でいてダイナミックですね」と良く分からないけれどずっとタケシ=オバタという人のことを語っていた。それが小畑健だということに気がつくのは数分後のことである。
もうすぐ夏休みだ。独り言のように呟けば、そうですな、と返ってきた。思わず笑ってしまう。なんで? と頭にハテナを浮かべている夕霧を見て、また笑い出す。ああ、久しぶりに笑ったな。
「なんで笑ったんですか、理解に苦しみます」
「だって、ですなって、お前おっさんかよ」
「え? そんなこと言ってました?」
どうやら言い間違えたらしく、夕霧は不満そうに眉間に皺を寄せていた。ひとしきり笑ったら、なんだか腹が減ってきた。今日はモス気分。頭のなかであのCMが流れ出す。すると一層腹は空くしモスに行きたい欲もむくむく湧いてきた。
「夕霧さん」
「……」
「おなかすかね」
「はい」
即答だった。部活中にも度々お菓子食べてるので本格的に腹ペコキャラが定着しつつあるが、果たして夕霧がモスバーガーなんて食べるのだろうか。そこも心配だけれど、またあの時の画材屋でのことのようになったりしないだろうか。財布にはたったの600円そこそこ。モスはハンバーガーチェーン店の中でもお高めなのできっとあのままだったら物足りないと思う。
尻ポケットから財布を取り出す。昔サイパンに行ったときに買ったパンダの刺繍がある財布だ。なんでサイパンに行ってパンダ財布を買ったんだろう。小銭ポケットを開けると、500円玉が三つ入っていて、お札は二枚。これならば十分夕霧におごれるだけの金はある。
「なんか食べない?」
「購買ですか? 私は今日あいにく財布を忘れていまして」
「あー違う違う。お店行ってあったかくてうまいもん食べようよ」
「お、お店ですか」
あれ以来、俺たちはどこかに寄り道することはなかった。夕霧から言い出すことは勿論無いし、俺も特にそういったことが頭に浮かんでくることが無かった。
夕霧は明らかに難色を示している。唇がきゅっと結ばれて、右手に持ったペンを唇に当てている。やはり難易度が高いのだろうか。でもこういうのは経験だ。だからもっと外へ繰り出してしまえばいずれは慣れると思う。そのためにはいざ、モスを食べに。
「お金?」
「いや、お金は平気……です」
勝手にお金が無い子みたいに認定してしまっていたが、そういえば画材屋に行った翌日にお札を三枚渡されたので、きっと外で買い物をすることが無い為に金を最低限しか持ち歩かないのだろう。しかし原稿用紙などは部費諸々で落とせるので三枚のお札は丁重にお返しした。
「いいです」
それはNOのいいですなのか、それともYESのものなのか。
「……行きます、ごはん」
「いいの?」
「食べましょう」
グッと突き出された拳からは、小さな指人形みたいな親指が突き出ていた。
「ほう……これは真に面妖な食べ物ですね……」
「なんでそんな古めかしい喋り方するの?」
「昨日見た深夜アニメで見たキャラクターの真似」
「あー、ふーん」
「これはどうやって食べるのですか」
「え? いや、包み持って、そのまま」
余りの無知さに若干呆れつつも、手本を見せてやろうとハンバーガーを手に持ち口に運ぶ。「ひえー」なんで悲鳴を上げるのか全く理解出来ないんですけど。
「ナイフとフォークは無いんですか」
「お前……いつか世間で大恥かくぞ。練習しておけよ」
「はあ」
包みを手に持ち、恐る恐る口元へと近づけていく。決心が着いたのか、口を開けて思い切りかぶりついた。口の中の面積が小さいのか単に慣れていないからなのか、その口元はトマトや肉やらソースやらとにかく汁にまみれていて、なんだかこっちが居たたまれなくなってきたので、租借が終わったのを見計らい紙ナプキンを手渡す。夕霧は口を拭き拭きして「これは美味しい」と野獣のように一気に平らげてしまった。その後ポテトを信じられないくらいのすばやさで同じように平らげ、それでも足りなかったらしく再びレジに並んでデザートまで注文していた。さすがにデザートは一気に食べずに飲み物と交互にちょこちょこ食べ進めている。
「ハンバーガー食べたことないんだ」
「はい」
「あれか。親御さんが厳しい人で、俗っぽいところは入れなかったんだな」
「そういうわけではないです。ただ単に行く機会が無かっただけ」
「友達いなかったの?」
「はい、全然、これっぽっちも」
こんなこと聞いちゃっていいのかどうか分からなかったけれど、以前から言動の節々にそんな感じのことを匂わせていたので、この際だからはっきりと直接聞いてみようとしたのだが、案外普通に返答してくれた。ので、これを機に色々聞いてみようと思う。俺も話すし、だからこそ夕霧についてのあれこれを聞き出すのだ。
「今から質問タイムな」
「え?」
「さっき俺が質問したから、今度は夕霧さんの番ね」
「え? えー……あなたに、ですか」
「おう。バッチコイ」
玄米フレークをしゃくしゃく頬張りながら、夕霧は眉間に皺を寄せ「うーん」と冠g苗始めた。短い間だけれど、夕霧は意外とベタな反応をするので面白い。ベタとはいうものの、こういう風に素直な反応をする子って今あんまりいない気がする。
夕霧が考える人になっている間、残りのハンバーガーを平らげる。ちなみに俺はてりやきで夕霧は絶品ハンバーグ。ポテトと白ぶどうソーダは勿論欠かせない。
「あの」
「はい」
「……」
「……」
「……名前」
「え?」
「名前、教えて」
「え!?」
「……」
しばらく時が止まる。
思い返してみれば、夕霧は俺のことを一度も苗字でも名前でも呼んだことは無かった。それに俺も自己紹介をした覚えは無い。
しかしだね、こいつぁちょっと傷付くものが、ありますね……。
「す、すみません。でも、あの、つい、聞き逃してしまって、その……あ、な、名前というか、苗字は知っているんです。あ、違う、逆です。名前は、知っているんです。ですがそのあのいきなり名前で呼ぶのもあれでしてだからあの教えて欲しいのは名前ではなく苗字でして」
「あー、もう落ち着いて」
早口で捲くし立てられる。早口すぎて全然聞き取れない。夕霧の顔は真っ赤だった。耳たぶも頬も全てが茹蛸みたく。
唇が忙しなく動いている。「い、いちたろっ」そう確かにはっきりと俺の名前を呼んだ。なんだ、知ってるじゃないか。俺はいちたろーだ。テキスト製作ソフトで有名だ。全然関係ないけれど被ってしまっているのだ。
いちたろう。それでいいのに。大体俺のことを苗字で呼んでいる人なんてほとんどいないっていうのに。なんで夕霧は今まで俺の名前を口にしなかったんだ? やっぱり疑問に思ってしまう。といっても俺も夕霧のこと心のなかでは夕霧って呼んでるけど実際にはさん付けしているから、そんな感じなのかな。
「知ってんじゃん」
「え、だからねあの」
「なんだ~俺びっくりしちゃったよ。夕霧さんも冗談言うんだな~引っかかったよマジで。今ので金玉縮んだよね」
「きっ!?」
野良猫みたいに髪の毛が逆立つのを見て、俺は朗らかに笑った。なんだか良い気分だった。
その夜、俺は夕霧にメールをした。教えて貰ってから二度目のメール。初めは『俺です、登録よろしく』と思わず送ってしまって『あなた誰ですか。メールでオレオレ詐欺ですか』と不審がられてしまった。翌日ちゃんと説明したけれど。
メールをした、というには少し語弊がある。正確に言えば、現在進行形で送るメールを製作中だ。さっきからずっと文章を打っては消し打っては消しを繰り返している。
埒が明かないので、福田や築地に送ったメールを見返すことにした。しかしどれも一言二言の簡潔なもので、全く参考にならない。思えば俺はメールすること自体が少ないので参考文献はほとんど無かった。
『ハンバーガー好きになった?』
結局食べ物ネタで釣ってみる。これならきっと返信してくれるだろう。ベッドに寝転がり、読みかけの雑誌をパラパラめくる。しかし、内容は頭にちっとも入ってこない。メールはなだ来ない。そういや初めに送ったときもすげー遅い返信だった。
こうして待っていたって不毛なだけだ。先に風呂に入ってしまおう。パンツと寝巻き代わりのTシャツを手に取り階段を駆け下りる。リビングから母の怒声が飛んできた。すみませんねうるさくて。
『はい』
内容は、その二文字だけだった。簡潔過ぎだろ、とかもっと話を広げる努力をしろとか色々思ったけれど
『また行こう(。・ω・。)』
とりあえず、それだけ送っといた。
携帯を閉じる。ああ、なんかもう今日は疲れた。色々考えたりするとすぐ疲れてしまうのは、常日頃から考えることが無いからだ。
眠い。眠気がぶわっと波のように訪れた。目を閉じると、眠りの世界に瞬時へログインできた。つまり俺は寝た。今は朝の7時。
ベッドの下に転がり落ちている携帯をつかむ。チカチカと赤色のランプが光っている。新着メール1件。夕霧からだった。件名にはRe:Re:了解とある。了解って。そもそも件名のところに書くなよ。と思っていたら、本文にはこんなことが書いてあったのです。それは俺の半ば眠っている脳味噌を無理やりゆすぶり起こすのだ。
『ところでいちたろー、知っているか? 明日からは、期末試験だ』
結論から言えば、期末試験はボロボロだった。
「ごめんなさい」
試験期間の為にここ一週間ほど夕霧と顔を合わせていなかった。なので部活明けの今日、第一声にして俺は夕霧に平謝りし続けている。
不思議そうな顔をして「私に何をしたのです?」とネームを練っているそこのクールでシュールな地味ガール。俺は高校生活三年目にしてついにやってやったのだ。喜べ! 祝え! 酒だ酒! 酒池肉林! 血湧き肉踊る合戦だ!
「俺ってば三年間補講皆勤賞なんです!」
「えっ」
両手を空に上げ、ぎょっとしたポーズを作る。いつも思うけど本当にベタな反応だ。ベタ過ぎて古臭さを一周駆け巡って新鮮なくらいだ。
「そうなんですか……」
そんな悲しい顔すんなよ子猫ちゃ~んなんていえるだけの器量も無いのでとりあえず「ごめん」とだけ謝っておく。子猫ちゃ~んと言ったところでこの捨てられた子犬のような顔をひまわりみたいな笑顔にすることなんて出来ないけれど。そもそも俺ってば夕霧の笑顔なんて見たことないし。笑ったところを見たことが無いって相当じゃないか? 初めて会ったときに女の子は笑顔の方がいいとそれとなく勧めておいたのに。しかし、あの時夕霧なんだか怒っていたような気もしなくも無いので、もしかしたらそのことを根に持って笑わないのかもしれない。そんな粘着質な性格だとは思えないけどね。
終業式も終わり、その日は夜から福田たちと共に残念会を再び開いた。ちょっとリッチにロイホに行ってオムハヤシを食べたんだけど、これめっちゃ美味いんだ。今度夕霧にも教えてやろう。
そんなこんなで補講初日に遅刻ギリギリで登校する。教室に入った瞬間にチャイムが鳴り響いた。しかしながら、教室には中年教師が暇そうに教卓に立っているだけで、他には誰もいなかった。どうやら他の補講受講者はブッチしたみたいである。
俺マンツーマン授業かよ……と半ば諦めかけたその時「遅れてすみませんです」という声と共に、夕霧が入ってきた。お前も補講受けんのかよ!
夏休み中、ぎっしりと入った補講を受け(結局俺たち以外に数人来たり来なかったりだった)その合い間に部室にいっては夕霧は漫画を描き続け、俺はひたすら漫画を読んだり新しく始めた携帯サイトの無料アプリゲームをカチカチやっていた。この無料アプリゲームは無料とはただの宣伝文句で、本気でやるとなると多大なる金が必要になるもので、しがない高校生のしょっぱい小遣いでは最大限に利用できないために一ヶ月も経たずにやめてしまうのだが、とにかく夏休みの間はそれでめいいっぱい遊んだ。女ってすげーな。俺バーチャルの女にすごい金をつぎ込んで貢ぎクン状態になっちゃったもん。飽きたけどね。
しかし、高校生活最後の補講だからか妙に教師たちは熱意に溢れていて、しきりに「お前たち、こんな問題も解けないんじゃあ将来どうすんだよ……」と涙を滲ませた声色で数式や英語の方程式を懇切丁寧に教えてくれた。微塵にも頭に入っていないのは、夏の暑さで脳味噌がゆだってしまったからだと思う。だって夏に休みを設けるのはそのためなんだろ? だったら補講はもっと涼しい場所でやるべきだと思う。しかしクーラーも暖房も無いしょぼい高校にそんな快適な勉強場所を求めるなんて酷なことだ。
補講を受けている間、夕霧は意外と真面目に受けていた。と思ったら、シャッシャとなんだか文字を書く音ではないものが聞こえてきたのでそっと覗いてみると、教科書を楯にしてノートに人物のデッサン(これは夕霧に教えてもらった美術用語である)をしていた。さすが元芸術科。見事な鉛筆捌きだ。そんなことを思っていると、設問に答える順番が夕霧に回ってきた。集中していて気がつかなかったのかしどろもどろだったのがすごく可笑しかった。
「高校の勉強なんて無駄です」
補講が終わったあと、売店で買ったガリガリくんを齧りながらソファに身を委ねる。この暑さには夕霧も叶わないようで、窓を全開にして少しでも風が入ってくるようにしているのだが、今日はあいにくちっとも風が吹かない日なので逆に暑くなってしまっている。
「だべな」
「あなたは受験しないんですか」
「どうだろ」
夕霧の方に体を向ける。アイスが溶けて食べるのに苦戦していた。
アイスは溶けて、ポタリとその青色が溶けて頬を伝い顎から滴り落ちる。暑くてだるくて、でもその青いものはすごく鮮明で、それだけがはっきりとぼやけた中に鮮やかに映っている。
「それ、一口頂戴」
絶対に断られると思っていた。だからこそこんなことを言ったんだ。
「どうぞ」
顔は真正面を向いてそのままに、アイスを持った右手がひょいと俺の方までやってくる。
目の前に青が広がる。目と鼻の間に付いてしまう位近い距離。くん、と鼻を鳴らすと、甘い香りがくすぐった。
「……早くして」
「おう」
キンと歯に冷たさが伝わる。頭は鈍く痛んで、ああこりゃアイスだとよく分からない実感をかみ締めた。匂いも甘いが、味も甘い。
色っていうのは不思議なもので、その色自身から連想させられる何かが存在するのだ。言葉も持たず、ただそこに色が広がるだけなのに、人間の先入観とは不思議なものである。
俺にとっての青ってなんだろう。この、空を落としたような青色。
「疲れてるんですか?」
夕霧が不思議そうに顔をのぞき込んできた。
「そうだな、夏は暑いもんな」
「早く秋になって欲しい」
「うん」
「……」
「……」
「……」
「にしても、暑いな」
「ん」
「夕霧」
「ん」
「……アイス、溶けてる」
ポタポタと滴り落ち、暑さに負けどんどん溶けていくアイスは、何とも夏をギュッと詰め込んだようだ。夏の終わりの一抹の寂しさも、猛暑も、魂も、全て詰め込んで、きらきらと輝いている。
電話口の向こうでは、数人の笑い声が聞こえる。電波が悪いのかノイズ音を挟んだ後に「あ~、もしもしぃ」と女の声がした。誰だろう。夕霧でも福田でも築地でもない。そのほかに頻繁に連絡を取るような奴もいない。間違い電話だろうか。
「どちらさま?」
「え~ちょっとちょっと、いちたろーくんそれ酷くな~い?」
「は、はあ」
「え、もしかして本気で分からない感じ?」
「ですねそんな感じ」
「うわ~……私って相当痛い子じゃん」
「まあ、とりあえず名乗ってくださいよ。そうすれば思い出すかも」
「私だよ、私! 去年同じクラスだった小木です!」
「ああ……」
しょっぱい思い出が瞬時にフルカラーで再生される。あれは結構悲しい思い出だ。なので封印していたはずなのに。
「何の御用で?」
「えーまあーうんーていうかー今暇ぁ?」
なんだか俺の知っている小木ちゃんではない。もっと清楚で明るくて可愛くて……しかし、4月頃に福田が言っていたことを思い出す。「あいつ実はヤリマンだから」それは俺のちょっとだけ荒んだ心にすーっと入り込み、瞬時に体制を整えた。納得する。うん、火の無いところに煙は立たない。
しかしまあ本当に暇だったのでつい「うん、暇」と答えてしまった。
「じゃあ、今から十分くらいで」
そこから先は、壊れたダムから溢れ出す水流のような怒涛の展開だった。
「ざっけんな、てめー!」
脳天に手刀がぶち込まれる。朝からこれはきつかった。福田は前置きも置かずオブラートにも包まずとにかく言いたい放題言いまくって殴って蹴って嵐の如く去っていった。築地がそれをのんびり追いかけていった。俺はただ呆然とそれを見ているだけだった。
いくら鈍感な俺でも、福田が怒っている理由は分かっていた。なんたって俺は先週、流されるがままに小木ちゃんとおセックスをしてしまったのだ。電話を受けた後、指定の場所まで行くと、あの清純派で通っていた小木ちゃんはべろんべろんに酔っ払っていて、俺を見るなり「あ~やっと来た~!」と甲高い声を上げながら抱きついてきたのだ。その時点で俺は若干引いていた。来なければ良かったとさえ思っていたのだが、まあ、お下品な話になると彼女は泥酔しているためかいやに積極的で、ヘビ女の如く絡みついて離れてくれなかった。そこで、指定の場所である。そこはおピンクな繁華街で、いわゆるホテル街と呼ばれるところだった。猫なで声に誘われるがままに、ホテル街の中の一ホテルにて小木ちゃんとヘビーな一夜を明かすことになってしまった。という事の経緯である。お分かりだろうか。
だからそれが福田に知れて以来、あいつは俺を無視するようになった。築地は福田にくっついてはいるが、福田の目を盗んでは俺に「まだ怒ってるよ、今回長いね。あずちゃん推薦取り消されちゃったしたろちん全然構ってくれないから拗ねてるんだよ」とこそこそ内緒話をするみたいに寄ってくる。
「あとね」
築地の長い睫毛が下を向く。
「夕霧さんが、この話聞いちゃったみたいなの」
「えっマジで」
「うん。ごめんね、トイレで話してたら、個室に入ってたみたいで……ほらぁ、あずちゃん声デカくてさ。丸聞こえだったみたい……」
夏休みが開けても、休み明けテストだって中間テストだって全然気にすることなく俺たちは相変わらず部室に居着いていた。最近夕霧は漫画に詳しくなってきたようで色々とネットで購入しては部室に持ってきて俺に勧めてくる。ので、部室の漫画よりも最近は夕霧の持ってきた漫画の方を中心に読んでいる。ちょっとサブカル系のマイナー気味な作品が好きらしく、コミックフラッパーやコミックビーム辺りのものを良く勧めてくる。大体単巻が続いても3巻くらいで終わるのでそのたびに感想を伝える。そうすると嬉しそうにはにかむのだ。
そう、最近夕霧はむっつりからはにかみ少女へと変わってきていて、それをやんわり指摘すると「そう?」と不思議そうな顔をする。自覚は無いみたいで、あと敬語交じりの変な言葉遣いもだんだん減ってきているのさえ自覚は無いらしい。
夕霧が漫画を仕上げる速度は上がったり下がったりだけど、素人の目から見ても分かる通りメキメキ上達していた。さすが天才だ。漫画の才能もあったんだな。絵もさることながら、ストーリーも引き出しの幅が広く読んでいて飽きることは無く、時折はっと目を見張るような場面も見受けられる。これなら絶対プロになれる、そんな恥ずかしいこといえないけれど、心のなかでは何十回も叫んでいる。だって俺ファン1号だから。もし夕霧が本当に漫画家になっちゃったら、それが俺の一生の誇りのように思えると思う。
時々だけど、ご飯を食べに行くときもあった。この前なんか、夕霧から誘ってきたんだ。最近になってやっと夕霧から話を振ってきてくれるようになったし、俺は単純に嬉しくて、あと微妙に優越感なんか抱いたりもしちゃっている。だってこの学校の誰もが夕霧のくだらねー会話なんて聞いたことがないんだから。
「あなたの色は、群青色」
「どんな色?」
「こんな色」
スケッチブックの右隅には女の子が一人描かれている。その子の服を指す。群青色。なんだかアンニュイな色だ。俺はもっとクルクルパーな感じに受け取られているかと思っていたので、意外だった。面白いな、夕霧は。
「夕霧はなあ、ガリガリくんだな」
「イヤミ?」
「いやいや、そうじゃなくて、ガリガリくんの色! 空みてーな色」
「私たち二人とも青なのか」
「そうだな」
「私、色のなかでは青が一番好き。コバルトブルーも空色も水色も……ぐ、群青色も」
「……」
「……今のは忘れて」
頬が真っ赤に燃えている。4月の時より幾分か伸びた髪の毛は、漫画を描くときに邪魔らしく一つに結われていた。
手を動かすたびに揺れる髪の毛が、以前の寝癖のついたものではなくなっていたのを、その時俺は気がつくことが出来無かった。
築地の話を聞いたあと、俺は急いで旧校舎へと向かった。足がもつれる。廃墟特有の静かな陰気さが今日に限って強く感じられる。
部室の鍵は開けられていた。しかし、中に夕霧はいない。
帰ってしまったのだろうか。ソファの端に紙袋が置いてあることに気がつく前に、背後から声を掛けられる。
「熊手」
初めて呼ばれた。以前モスで呼ばれたのは名前の方だったから。というか、いつの間に俺の苗字を知ったんだろう。熊手なんて呼ばれたの久しぶりだ。だから、それが自分だってことにしばらく気がつけなかった。アホみたいに呆然としている俺をよそに、夕霧はソファにある紙袋を手に取り、そして俺の方へ突き出した。
「こ、これなに?」
返事は無い。ただ、握られたそれをブンと一回振る。早く受け取れって意味だろう。素直にそれを受け取ると「それでは」と部室を後にしようと俺の横を通った。しかし、俺はそれを阻止する。細っこい腕だった。容易く俺の手ですっぽりつかめてしまう。ああ、夕霧って華奢なんだな、とか、あんなに食べるのに細いんだなとか、そんなことが瞬時に浮かんできたのは、もはや男の性みたいなものだった。
「あなたの考えていることが、ちっとも分からない」
「なにが分からないんだよ」
「……誰にでも優しい、は、誰にも優しくない、と同じ……だから」
今日は風が強い。
「あなたは、ずるい人だ」
開けっ放しの窓から風が入ってくる。夕霧の紺色のスカートがはためいた。それは膝より10センチくらい、丈が短いもの。
冷たい風は、確かに秋の終わりを告げていた。
「私、やっぱり大学行くことにした」
夕霧からのメールは、最後の冬休みを目前にした12月に届いた。最後の期末試験を終え、またもや成績の悪かった俺はまたしも補講を受けなくてはならず随分と落ち込んでいた、そんなときのこと。
「……」
今思考回路を巡らせると、きっと夕霧を困らせてしまうことを口にしてしまう。だから俺は勤めて意識を遮断させ「そっか」とだけ返しておいた。
あの時貰った紙袋には、ノルディック調の模様が描かれているイヤーマフと、手紙が入っていた。
「いつもありがとう、良い誕生日を。そして、未知の灯火が、あなたを照らしますように」
未知の灯火。やけに抽象的で、馬鹿な俺にはその意味がちっとも分からない。
いつの間にか福田は今までの態度を改めて元通り普通の友人として振舞ってくれるようになった。夕霧がHRが終わると急いで帰ってしまうことを知ると
「やっぱり、あれ?」
「気にすんない」
「答えになってないし」
「んー、まあ、色々あんだよ、色々な」
落ち込んでしまっているので背中を軽く叩いて笑いかけると、顔を真っ赤にして「どうしてあんたそうなのよ!」と一発蹴りをかましてまたぷんすか怒って去っていった。しかし前のようにずっと無視し続けるわけではなく、大抵は一日経てばまた元通りに戻る。起伏の激しい奴だ。でもそれだけ、良い奴なんだ。
「たろちん、ほんとに受けないの?」
「あー……うん」
「これじゃあたろちんじゃなくてプーたろちんだねえ」
「築地はどうしたのよ」
「私はもうとっくに決まってるし~今流行りのAOだし~」
「ほーん」
「あ、あずちゃんセンター利用で行けたって! 推薦落ちたときはもうまりこまで死んじゃうかと思ったよ」
夕霧はアトリエという美大受験のための塾のようなところに通っているときいた。あれからもうずっと話していない。メールを数回送ったけれど、全て返信は無かった。
夕霧が来ない間も、俺は欠かさず部室にいた。暇だったけど、ぼーっとしているうちに時は過ぎていってくれて、幸い冬ということもあり日が落ちるのも早かった。日が暮れたらお家に帰ろう。鼻歌を歌いながら一人で歩く帰り道も案外悪くはなかった。
小木ちゃんとはあれ以来特に接触していない。なぜ福田にあのことが伝わったのかというと、これはあくまでも噂なのだが、どうやら小木ちゃんの好きな男が福田にゾッコンだとのことで、福田の近くにいる男を喰ってしまおうという一種の逆恨みである。当然俺の小木ちゃんへの熱はマイナス10度くらいにまで冷え込んでしまっているのでもうどうとも思わなかった。
イヤーマフをつけると、耳が暖かくて心地良い。手袋は持っていないのでなんともチグハグな格好だけれど、このイヤーマフが特別なのだ。冬も終わりに近付いている。別れの季節がやってくる。
職員室に鍵を取りに行く。しかし、鍵は既に誰かに取られていた。仕方無いのでそのまま部室に向かう。扉は開けっぱなしだった。そっと中を覗く。クラスで姿くらいは確認できていたけれど、部室でこうやって夕霧を見るのは本当に久しぶりだった。時が経つのは早いもので、明日には俺たちは卒業する。つまり、今日でこの部室とはオサラバなのだ。世界史とオサラバしたのも去年の今日あたり。別れの季節に相応しい最後だ。
どうやって声をかけよう、と迷っていると、気配を感じてか夕霧の方が先に気がつく。肩が揺れる。手に持っているのは大きな紙袋。どうやら私物を片付けにきたらしい。
「……久しぶり、です」
「おう」
「ずっと、ここにきてたんですか」
「おう」
さっきからおうとしか言っていない。目も合わせらんないし、気の利いたことも言えない、いつも通りに出来ない。
生返事とも取れる『おう』を繰り返しているうちに、夕霧は荷物を纏め終わっていた。
「私……」
何かを言いかけ、しばらく口を噤む。びゅう、と冷たい木枯らしが窓から入ってきた。ここの窓は夏でも冬でも開けっ放しだ。
「東京に、行くつもりです」
「そっか」
「はい」
紺色のプリーツは元通り、長いままだ。防寒対策の黒タイツのお陰で一層足が小鹿のように見える。
夕霧が帰った後も、俺は部室でソファに寝転がっていた。
東京。そうだよな、大学行くとなれば、そうだよな。
「ちくしょう」
机を思い切り蹴ると、俺の脚の方が悲鳴を上げた。どこまでも貧弱で馬鹿な俺だった。ボロリとあふれ出る涙に向かってもう一度「ちくしょう」と呟いた。
そういえば、口調。また、敬語に戻っていたな。
0:最後の話
熊手一太郎はがらんどうとなった教室を見渡していた。平均より上背のある、しかし体重はさほど重たくも無い一太郎を支える椅子は、一度だけ重たげに軋んだ。
黒板にはこのクラス全員の名前が書かれている。女子特有の丸みを帯びた可愛らしい文字が、赤や青、黄などのチョークが面積いっぱいに最後を見送る花のように飾り立てていた。その中に『熊手プー太郎』と書かれているのを見つける。言うまでもなく一太郎のことである。
きっとあれは福田が書いたのだろう、そう安易に想像させられる気安さが感じられた。その福田自身はちゃっかりと『祝・大学合格』などと書いていて、その横に小さく『卒業寂しいね』と猫のキャラクターと一緒に呟くように書かれていた。なんとも彼女らしいものだと一太郎は密かに笑みを浮かべた。
今朝、いつも通りに遅刻ぎりぎりで教室に入った一太郎は、泣いている福田や築地を見て、この卒業式で自分はきっと泣かないし泣けないんだろうなあと妙に確信めいたものをはっきりと感じていた。
雲は、どこから生まれ、どこへ行く。
イスから降りる。そのまま教室を後にし、廃墟のような旧校舎へと駆けて行った。三年間乱雑に使い続けた鞄は、机の上に置き去りのままである。
誰もいない校舎は、廊下は、階段は、走り抜ける一太郎をやんわりと受け入れる。窓の外には風に揺れる桜の樹。そこにはまだ桜色は姿を見せず、硬く閉ざされたつぼみが行儀良く並んでいるだけである。
部室は、他人の匂いがした。部室なんだから人ではない、無機物だ。けれど、一太郎はその今まで自分が利用していた部室と今目の前にしている漫画研究会の部室との違いを上手い言葉に言い表せるほど、頭が冴えているわけではなかった。
ずっと読み続けていた漫画。収納された本棚。昨日も今も変わらずにそこにあるのだけれど、今ではなんだか余所余所しい。触れてもいいのだろうか、そんなことさえ思ってしまう。既に学校の備品となってしまったこいつらは、これから誰に触れて貰えるのか。
いつもそこに座っていたんだ。一太郎は長机に座っている和音を思い出す。机の上には一冊のスケッチブックが置いてある。先週には荷物を全て片付けておいたはずなのに。黄色の表紙は一太郎を待ち構えているかのようにポツンと浮かんでいた。
いつも和音が座っていたそこに座る。和音が座っていた椅子は、和音の陰が残っている。そう思うと、もしかしたらこの校舎のどこかに隠れているんじゃないか、そんな馬鹿な考えが浮かんできた。そんなことは絶対にありえない。和音は今頃東京にいるし、大学に入るための試験を受けている。
二人は結局、別れの言葉を口にはしなかった。和音の赤らんだ頬に触れたとき、あの肉の柔らかさと一太郎の指を跳ね返すような弾力感。それは一太郎と和音とをはっきりと断絶させた。しかしそこには嫌悪の念も恋慕のこじれた苦い思いも無く、ただ和音と一太郎というはっきりとした個がそこにある、ただそれだけのことであった。一太郎はそれが当たり前だと知っていた。そして、和音が自分を遠ざけていたことも知っていた。和音が、心のしがらみから放たれたならばそれでいい。慈愛とも同情とも似つかぬそれはなんと呼んだら良いだろうか。芸術科の生徒とも普通科の生徒とも違う、一太郎は嫉妬という感情を、和音と近くにいて感じることは一度も無かったのだ。だから、なお強く思う。和音には数多くの輝きを持つ『未知』が残されているのだと。
「未知の灯火が、あなたを照らしますように」
いったいどんな気持ちで、これを俺に伝えたんだろう。
やや迷ったものの、シンと静まった校舎から唆されるような好奇心に気がつかない振りは出来ない。惜しむようにゆっくり表紙を捲る。一枚目には、何も書かれていない、ただの白紙だ。
次のページから真ん中くらいまでは和音の描いたイラストの落書きで埋め尽くされていた。鉛筆だけで描かれたそれらを一つ一つ目で追っていく。
落書きのページが終わると、また白紙に戻る。白いページはまるでためらいを感じているようだった。
ここから、何が描かれているのだろうか。ページを捲る手は自然と止まる。
いつの間にか、体育館からは歌が聞こえてくるようになっていた。どうやら在校生によるものらしく、卒業を祝う言葉がところどころにちりばめられ、一太郎の耳にまで届いてくる。
それに背中を押されるように、止まったままの指を動かす。四回白紙が続いたあと、端っこに小さく文字が書いてあるのを、見逃すわけにはいかなかった。
『私たちは、始まっていたと思いますか?』
――俺は、思っているよ。
ページを捲る。同じ右隅に書いてある、小さな癖字。
『私は、始まる前に終わってしまったのだと、思います』
熊手の手が止まる。空気がひんやりと熊手の指を冷やしていった。まだ、三月の始め。雪はまだ残っているし、春はしばらくやってこないだろう。
惜しむように、次のページを開く。そこに、何が書かれている? それとも、ただの白紙があるだけだろうか。瞼を閉じる。やけに緊張していた。冷えも忘れるほどだ。
和音の癖のある字が頭の中に浮かび上がる。『熊手くん』和音の言葉が文字になる。熊手くん、熊手一太郎くん。一太郎だなんて覚えている限りほとんど呼ばれていない。しかし、熊手の頭の中には、鮮明に和音の声で再生されていた。
『それは、私とあなたの気持ちが、元々ずれたところにあったからです』
坂道を下る。小雨はまだ降り続いていた。鞄を教室に置いてきたので、入っていた折り畳み傘だけでも持ってくればよかったと後悔する。
しばらく雨に濡れていると、案外濡れるのも悪くないと思えてきた。体育館から流れるのは卒業生に向けた昔流行した歌謡曲。それを口ずさみながら、一人、坂道を下っていく。空は灰色の雲に覆われている。熊手は顔を上げた。うんと高く、首が痛くなるほどに。
――群青色だ。
遠くの雲から覗くのは、群青色。
熊手は走り出した。早く、一秒でも早くあそこに着きたかった。和音の言っていた、あの群青を目指して。