02
マリーの出席を喜んだのは叔父だけにとどまらなかった。長らくその機会がなかったせいか、久しぶりに主の姿を整えられると知った侍女たちはいたく張り切ってしまい、当の本人を少々辟易させるほどだった。
ああでもない、こうでもないと議論する彼女らに付き合わされること数時間。長い支度を終え、満足げに部屋を辞した侍女たちと入れ替わるように、アンソニーが姿を現した。今夜はいつもの眼鏡を外し、仕立てのいい夜会服に身を包んでいる。束ねた髪にはいく筋かの白が混ざっているものの、礼装した叔父はいつもよりいくらか若やいで見えた。
「準備はいいかい?」
「ええ。叔父さまこそ、猫背が直っていませんよ」
マリーは緊張した面持ちで姿見と向き合い、念入りに最後の点検をしていた。
どんなに美しく着飾っても、少しでも服装に乱れがあれば、それはそのまま自身のだらしなさとして印象を損なってしまう。侍女たちを信頼してはいても、最後の確認だけは自分で行うのが常だった。
今宵のマリーは、露出を控えたシンプルなドレスをまとっていた。美しい胸元は淑女の誇りだが、小柄なマリーにはあまり向かない。その代わりに腰元のリボンが全体のシルエットを引き締め、きゃしゃな体つきをより優美に見せている。ほとんど青に近い薄紫の生地は、瞳の色に合わせたものだ。夜会巻きになった栗色の髪は、鈴蘭を模した花飾りを挿すことでその柔らかさを引き立たせていた。
姿見の中の自分は、いつもより少し大人びて映る。不安げに揺れる紫瞳を見つめ返し、マリーは自分自身に言い聞かせた。
ひとたび姿を現せば、「マリー」ではなく「ミュートス家の娘ローズマリー」として振る舞わなければならない。ドレスは舞台衣装、化粧は意識を切り替えるためのおまじないだ。社交の場とは、一皮むけば虚栄と思惑の交差する魔窟でもあるのだから。
なればこそ、礼節を欠いてはならない。美しさは気品と矜持によって磨かれるものだ。亡母が「レイデンの華」と謳われたのは、その両方を持ち合わせていたからだとマリーは知っていた。そして、今の自分にはそれが十分でないこともよくわかっていた。
自分はいまだ華とは呼べない。ならば、せめて出来ることをしよう。
マリーはアンソニーが恭しく差し出す手に手を預け、しゃんと背筋を伸ばした。鏡の中の少女に、もう不安は見られない。
「では、参りましょう」
ミュートス家の令嬢は貴やかに微笑んだ。
かつて直轄領として栄えた首都レイデニアは、古くから美の都として知られる。なだらかな丘に囲まれた河畔の街は古今東西の芸術家に愛され、また代々の国王もこの土地を住まいとした。商業にも優れ、絢爛たる建物が並ぶレイデニアを、人々は「大陸の女王」と呼びならわした。今夜の集まりはその中心部、旧王城に近い屋敷が会場となっている。
二人が到着したのはすっかり夜のとばりが下りた頃だった。庭園の花々は月明かりに照らされ、昼間とは違った蠱惑的な表情を見せている。大広間では早くも大勢の招待客がにぎわっているようだ。マリーはアンソニーと視線を交わし、優雅な足取りで会場へと進み出た。
喧噪、照明、入り混じった香水の香り。一歩入ればそこは別世界となる。マリーにはすっかり慣れ親しんだものではあるが、久方ぶりの社交の場は、以前よりもまばゆさを増したようだった。仰々しい近代の円舞曲が奏でられ、参加者の装いも本式の舞踏会さながらに凝っている。マリーはかすかにたじろいだ。
良く言えば華やか、悪く言えば派手だ。招待者は画家としてのアンソニー・ミュートスを評価していたので、今夜は中規模のサロンに近いものだとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。
同じ違和感を抱いたらしく、アンソニーもやや表情を引き締めていた。彼が気遣わしげにマリーを見やった途端、しかし目ざとい貴婦人の声が上がった。
「あら、アンソニー様!」
「……ご無沙汰しております、ダルトン夫人」
さっそく注目を集めてしまったアンソニーはひそかに苦い顔をしたが、さすがに手慣れたもので、すぐさまにこやかな対応を見せた。
「ごきげんよう、今夜はローズマリー様もご一緒ですのね」
物見高い婦人は興味津々といった様子でこちらを見つめている。アンソニーより一歩下がるところにいたマリーは、その声に応えて丁寧にお辞儀した。口元にはつぼみのほころぶような笑みを浮かべている。
「お久しぶりでございます」
乙女らしく清々しい美しさに、周囲からほう、と声がもれる。意味ありげな視線を取り交わす者も少なくなかった。してやったりとマリーは内心胸を張った。
ひとまず最初の壁を超えることは出来た。肝心なのはここからだ。一般的な夜会は宵の口に始まり、朝まで続く。それまで乗り切って初めて試みは成功だと言えた。
永遠に喪に服すかと思われていたローズマリー・ミュートスの登場は周囲の、とりわけ男性の興味を強く引いたようだった。知った顔も知らぬ顔も、次々とマリーのもとへ群がってくる。
「お久しぶりですローズマリー嬢、ぜひ私と一曲」
「お見かけしない間にますます美しくなられましたね」
「ローズマリー嬢、僕の手紙は読んでいただけましたか?」
浴びるように挨拶、賛辞を投げかけられながらアンソニーの方をうかがうと、彼は彼で知己の男女に囲まれていた。画壇の人であるアンソニーは、マリーとはまた別の意味で注目を集めているようだ。しばらくは叔父の助けなしで過ごさなければならない。
飲み物に手をつける暇すらなくともマリーは笑顔を崩さなかったが、その実、胸の内はあまり穏やかではなかった。
談笑する人々のなんとわざとらしいことだろう。極端に着飾り、華麗な様式にすがるのは、彼らが紛争を忘れることに躍起になっているからだ。細められた目、半月型に吊り上がった口元。誰も彼も謝肉祭の仮面をかぶっているかのようだ。以前と変わらぬレイデンに居座ろうとするあがきは、いかにも白々しく映る。まるで時間を止めようとしているかのような茶番には嫌悪感すら覚えた。しかし自分が厭世的になりすぎているのか、周囲がおかしいのか、今のマリーには判別がつかなかった。
マリーは気の乗らない会話を交わしつつ、ならばせめてと従兄弟の姿を探したが、あいにく近くにはいないようだった。代わりにある集団が目に入り、一瞬で体が硬直する。
マリーは助けを求めてアンソニーに視線を送ったが、折悪しくも叔父は旧知の評論家に捕まったようだった。近代美術史についての話に花を咲かせているようで、こちらに気づく様子はない。
助け舟が期待できないことを悟ると、マリーは周囲に向け精一杯の愛嬌を込めた微笑みを作った。
「申し訳ございませんが、どうしてもお話ししなければならない方がいらっしゃいますので」
数人の男性が色めき立ったが、あいにく今のマリーには細やかに対応するだけの余裕がなかった。そそくさとその場を離れ、盆をかかげた給仕にぶつかりそうになりながら大広間を抜けていく。
幸いにも無人であったテラスに逃げ込み、ようやくマリーはまともに息をすることが出来た。体を締め上げるコルセットは呼吸を浅くする。ただでさえ吸いづらい夜の冷気に、生理的な涙がにじみそうになった。
苦しげに上下する胸を押さえ、なんとか呼吸を整えたマリーは、血のにじむほど強く唇を噛みしめた。
大広間の奥まったところに黒服の集団がいた。あれはクローネの将校だ。レイデン人が死神のようだと忌み嫌う彼らが、なぜこんなところにいるのか。
喧噪を離れ、澄んだ空気に生気を取り戻した頭が徐々に働き始める。同時にマリーの内には冷ややかな怒りが込み上げてきた。
茶番だというマリーの感想はどうやら間違っていなかった。要するにアンソニーとマリーは、この場の招待客はすべて利用されているのだ。本来は賓客のみが招かれる場に、略式礼装のクローネ将校。主催者はいつのまにか、あるいは初めからクローネ受容派に与していたらしい。
馬鹿にして、とマリーは内心歯噛みした。
しょせんこの場も、クローネとレイデンの上下関係を確認するためのものでしかないのだ。叔父への招待も、「ミュートス家の当主でありレイデン指折りの画家」という看板を求められたに過ぎない。なんという屈辱だろう。人を馬鹿にするにもほどがある。
身の内にはまるで青い焔が揺らめくようだったが、マリーにとって何よりも悔しいのは、いまの自分がそれを覆すだけの器量を持ち合わせていないことだった。
あふれるような感情を抱えかね、マリーはテラスの欄干にもたれかかるようにして空を仰いだ。晩秋の夜空には星々が煌々とした光を放っている。マリーは今すぐにでも出て行ってしまいたい気持ちだったが、大広間にいるアンソニーに退席を申し出ようにも、すでにそこまで行くことすら億劫だった。
かといって、朝までずっとここにいる訳にはいかない。当初の目的からも大幅に外れているし、第一そんなことをすれば、口さがない婦人たちに何を噂されるかわかったものではなかった。
マリーが思わずため息したその時、不意に背後から男性の声がした。
「失礼、そこの方」
「きゃあっ!?」
物思いに沈んでいたせいか、マリーは思わず悲鳴を上げた。相手は相手でマリーの反応に驚いたらしく、声の主がたじろぐのが背中越しにでもわかった。
マリーは恥ずかしさで顔から火が出る思いだったが、まさか無視するわけにもいかない。なんとか冷静さを取り繕い、優雅に振り向き会釈する。
「……ごきげんよう、私に何かご用でしょうか?」
そうしてゆっくり顔を上げたマリーは、はっと息を呑んだ。そのまま目が離せなくなる。
声の主はレイデン人ではなかった。
秀麗という言葉がふさわしい、すっきりと整った顔立ち。色素の薄い短髪が、月光を受けて銀色にきらめいている。そして切れ上がった琥珀色の双眸は、驚いたようにマリーを見つめていた。
宵闇に溶け込むようなその黒衣は、忌むべきクローネの軍服だ。
そこに立っていたのは、若いクローネ人の将校だった。