01
もうじき秋も終わろうかという、十月半ばのことだった。
庭の落葉樹はすでに色を変え、冬枯れの近さを思わせる。やがて降雪期がくれば樹霜をかぶり、あたりは一面の銀世界となるだろう。寒帯ほど気温の下がらないレイデンとはいえ、やはり冬になると木々は眠りにつく。
「マリー、聞いているかい」
窓越しに秋風を受けていたローズマリー・ミュートスは、叔父の声に振り向いた。ゆるやかに波打った髪が風に揺れる。紅も差さぬのにうすく色づいた頬は、彼女がいまだ少女期を抜け出していない証だった。
「ええ、もちろんです。……出席はしません」
きっぱりとしたマリーの返事に、叔父のアンソニーはあからさまに弱っていた。眼鏡の奥の瞳には疲労の色が濃い。もともと内気な彼がそういう表情をすると、こちらの良心はひどく痛むのだったが、それでもマリーは首を横に振った。
「私はまだ、そういう気持ちにはなれません」
「しかしねマリー、先方もぜひ君の顔が見たいと言っているんだ」
アンソニーはなおも食い下がった。マリーはすっかり冷めてしまった紅茶を口に運びつつ、卓上の封筒を一瞥した。瀟洒な字体で記されたそれは、この秋最後の夜会への招待状だった。先ほどからマリーは、出席するアンソニーへの同伴を頼まれているのだった。
「頼むよ、ごく短い時間でいいんだ」
「わざわざ好きでもない夜会に出席なさるのは、私を連れ出すためですか?」
マリーは少し語気を強めた。たぐいまれな紫の瞳が冷ややかな光を放つ。人混み嫌いを公言している叔父は、やはり図星だったようで目をそらしたが、意を決したように居住まいを正し、マリーの方へと身を乗り出した。
「その通りだ、君はいつまでも引きこもっているべきじゃない。君には外の空気が必要だ」
「ちゃんと外には出ていますし、日光も浴びています」
「そういう意味ではないのはわかるだろう。それにね、ローズマリー」
呼び方が愛称でなくなるのは真剣な話に入ろうとしている証だった。何度か似たような話が浮かんでは消えを繰り返していたが、今度こそ叔父も譲らないつもりらしい。マリーが反抗しなくなったのを見ると、彼にしては珍しいことに、アンソニーは苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「あまりこういう話はしたくないが……。僕たちが弱みを見せると、周囲が黙っていないだろう」
今度はマリーが目をそらす番だった。
昨年、マリーの故郷であるレイデン共和国は、隣国クローネ連邦との領土紛争に敗れた。民間の死者こそ少なかったものの、百戦錬磨の後者に対し、長年争いに縁のなかったレイデンは大きな打撃を受け、ミュートス家もまた深い傷を負った。
「高貴なる者の義務」として従軍していた父は国境線で、夫の訃報に心身を病んだ母はマリーの目の前で、それぞれ息を引き取った。一人娘を遺し、二人はあまりにも早く逝ってしまった。
それ以来、マリーはずっと闇の中にいた。後見人でもあるアンソニーは手を尽くして励まし、支えてくれるが、もはやなにものもマリーの心を惹くことはなかった。以前は大好きだった夜会も、流行のドレスも、すべてが色あせて見えた。心がゆっくりと死んでいくのがわかるようだった。いっそ世俗を脱し、神に仕えたいと思ったことすらあったが、アンソニーはそれを許さなかった。
「どんな夜にも終わりがある。軽々しくそんなことを口にしてはいけない」
彼は厳しくも優しくマリーを諭したが、アンソニー自身がそう思っていないことは明らかだった。
ミュートス家には反クローネを標榜していたものが多く、彼らのほとんどが敗戦後政府を追われた。画家であるアンソニーは名誉こそ傷つけられることはなかったが、突然押しつけられた当主の肩書はどう見ても彼には重すぎた。
加えて、少し前から舞い込むようになった求婚の手紙も、彼の悩みの種だった。マリーの父が健在であれば、少女の魅力の証であると好意的に受け止めるところだが、今となっては素直に喜べない。
要するに、目をつけられたのだ。ミュートス家はレイデンでも有数の、いわゆる濃い血を引く一族だ。貴族制が撤廃されたとはいえ、その末裔を迎えたとなれば、新興の家にも箔がつく。ミュートス直系の娘であるマリーは、いわば格好の獲物なのだった。
むろん後見人であるアンソニーとしては、兄の遺児を見も知らぬところへやる訳にはいかない。しかし彼の庇護にも限界がある。誰も表だっては口に出さなかったが、マリーが女であるということは、この状況に置いては明らかに不利だった。
せめてポーズだけでもミュートス家が衰えていないことを示さなければ、いずれは名誉も財産も喰いちぎられてしまう。マリーはすでに十八であったから、そのことはいやというほど理解していた。
「……私は、どなたの元へも嫁ぐ気など」
「わかっているよ。僕の力が及ぶ限り、君を意の沿わぬ結婚の犠牲にはさせない」
弱々しいマリーの呟きに、アンソニーは優しく答えた。居間の隅にひかえていた侍女に合図し、紅茶を温かいものに取り換えさせる。熱い湯を注がれた東洋茶葉の花のような香りが部屋に広がった。砂糖と牛乳のたっぷり入った紅茶をマリーに勧め、叔父は人当たりの良い笑みを作った。
「それにね、君が姿を現すことで、元気づけられる人もいるかもしれないよ」
「そうは思えませんが……」
先ほどからうつむいたままだったマリーに、アンソニーは招待状の文面をなぞってみせた。
「オルコット家も招かれているそうだ。フランは君と会えれば喜ぶんじゃないかな」
久方ぶりに従兄弟の名前を聞いて、マリーはようやく顔を上げた。お互いの無事こそ確認していたものの、彼らには紛争の始まる少し前から会っていない。かれこれ一年ぶりにもなる再会に興味がないといえば嘘になった。
勧められるまま、マリーは華やかな模様の描かれた茶器を手に取った。温かいミルクティーがのどを滑り落ちると、少し気持ちが落ち着いた。そのぬくもりにほっと息をつく。水面には以前よりも少しやつれた顔が映った。
外への誘いこそ断ってきたが、マリーはアンソニーのことが嫌いではなかった。むしろ、軟弱だと陰口をたたく者もいるが、彼の善良さを愛していた。寒空の下、墓標の前で泣き続ける彼女に最後まで付き添っていてくれたのはアンソニーだ。その献身に心から感謝していたし、元来人前が苦手で、お世辞にも活動的とは言い難い性格でありながら、マリーの前では弱音の一つも吐いたことがない彼を尊敬もしていた。
叔父のように、優しく誇りある人物になりたい。たとえ何を奪われたとしても、自分はミュートスの末裔で、誉れ高い父母の娘なのだから。
すうと息を吸い、胸に手を当てる。あるいは、今がその一歩なのかもしれない。自身の目の色にちなんで与えられたローズマリーの名は、小さくなっておびえていた心にわずかな勇気を与えてくれた。
視線を合わせると、アンソニーは困ったように眉尻を下げて、マリーの返事を待っていた。マリーは少し逡巡して、ぎこちないながらも花のような微笑みを作った。
「わかりました、ご一緒させていただきます」
懇願を重ねつつ、それほど期待はしていなかったのだろう。アンソニーは一瞬空けて顔を輝かせた。
「本当だね?」
「ええ、嘘は言いません。壁の花になるかもしれませんが、それでもよろしければ」
「ああ、もちろん構わないさ。そうなると新しいドレスが必要かな、それとも靴が欲しいかい?」
「今からでは間に合わないでしょう」
にわかにはりきり出した叔父に、マリーは思わず微苦笑した。その喜びようを見ても、彼がずっとマリーの承諾を待ち望んでいたことが伝わってくる。胸にちくりとした痛みを覚えるマリーをよそに、アンソニーはさっさと立ち上がってあれこれ動き始め、そうしてふと、マントルピースの上の写真に目をとめた。眼鏡の奥、亡父とよく似た空色の目が細まる。
「きっと二人も喜ぶだろうね」
マリーはそれには答えず、再び窓の外へと視線を移した。昼下がりの陽光が、仲睦まじい夫婦と幼い少女の写真を照らし出す。晩秋の風が強く吹き込み、マリーの髪をなびかせた。
じきにレイデンは冬を迎える。