ルシフェルの贈り物 ~新世紀黙示録:序より~
最愛なるあなた方へ、宇宙の果てから水の惑星へ贈り物。最高の憎しみを込めて。堕天使ルシフェルより。
椅子に深く腰かけて、両手を頭の上で組み、背筋を伸ばすと、木製のそれはぎしぎしと音を立てた。
クルマや電車の走っていないニューヨーク。今晩も驚くほど空気の澄んだ夜であった。頭上にきらめく無数の星々がマーティの碧眼に映り込む。今晩、彼の視界のやや左上には、黒地のカンヴァスに白く塗られた満月も映えていた。
午後八時を廻ろうかという時間であった。自家発電装置で動いている小さな冷蔵庫から最後のステーキ肉を取り出してさっと焼いたものと、残り物のサラダにアレンジを加えたものをマーティは用意した。さらに三週間前の寝られない夜に黙々と作り上げたあのお手製ワインラックからも、一瓶抜いてきた。彼はそれらの夕食を自宅の屋上テラスに誂えたテーブルに並べた。
次に彼は部屋に戻ってサイドテーブルの上にあったレコードを手に取り、屋上に設置してあるレコードプレーヤーのターンテーブルに置いて針を落とした。その瞬間、アンプからはベルディの『レクイエム』が三ブロック先まで聞こえんばかりの大音量で流れ始めた。レコードプレーヤーの不調のないことを確認したマーティは耳栓を抜き、その音律を楽しんだ。よかった、奴らの声は聞こえないようだ。
目をつむり、音に酔いしれ、どこかふらふらとした足取りで軋む椅子にどかっと座った。彼は早速、血のようにどす黒いワインをグラスに注いだ。とくとくとく…。
「いい気分だな」 思わずマーティは口に出した。誰に言うわけでもないが――というより、誰もいないのだが――、独り言のようでもない。しかしまるで、自分の隣に最愛のアンナがまだいた頃のような口ぶりで。
ワイングラスは二つ用意していた。そちらにも注いだあと、「さ、遠慮はいらないよ」と言った。
彼は自分のグラスを取り、テーブルに置いてあるそれに軽く当てた。カチャン、と心地よい音が鳴る。
「乾杯!」
その時、テーブルの下に用意しておいた大量のダイナマイトと配線、そして起爆スイッチをもう一度だけちらりと確認しておいた。
だが彼が、この日だけは――この瞬間だけは――純粋に、食事を楽しもうとしていたのは、そう、間違いなかった。しかしこれまでのことをあれやこれやと考えるうちに半ば自暴自棄になりかけているのも、あながち間違いではなかった。
――怒りの日、その日は、世界が灰燼に帰す日です
時折聞こえる奴らの叫び声を無視し、マーティはあくまで曲に耳を傾けようとした。だが確実に存在していた。己の心のうちに巣食う、恐怖の念。形容しがたいその念は、言うまでもなく、奴らを恐れていた。そして彼自身も。 この“食事会”は己の弱いことを紛れもなく示していたといえよう。
彼は決して頭の狂った人ではない。医学博士マーティ・バーニングは、決して馬鹿な行動を起こすとは思えない。これまでの三ヶ月間、まともな人間のいなくなってしまった街で奴らと戦い、たった独りで生き抜いてきたのだ。彼は屋外での行動は昼間だけにとどめ、匂いや音、光までにも気を遣ってきた。
しかしそんな彼が今や満月の夜、美味そうな肉の香ばしい匂いを漂わせるステーキを屋外で食べ、さらにライトアップ、そして極めつけは、アンプが壊れんばかりの音量で現在流れているこの『レクイエム』。
愚行ではなかろうか。目立ちすぎだ。奴らはすぐに気がつくはずであった。
――ダビデとシビラの預言のとおり、世界が灰燼に帰す日です
「愚行なんかではないよ。まあ、僕が愚かだというならば、そう思えばいいさ」
マーティはさらにボトルを傾けた。そしてそれをちびりちびりと呑む。もう片方のワインは――当たり前ではあるが――未だに満たされていた。「そうだろ、アンナ?」
――審判者があらわれて、
その時ちょうどレコードが切れた。彼は、いいところだったのに、と唸りながら立ち上がった。階下からは何やらドアや窓を破壊する音が、静まり返っていて平和そのものが流れるこのテラスに聞こえてきた。奴らの声もマーティの耳を突いた。叫び声のような、唸り声のような、金切り声のような、とどのつまりそれらは名状しがたい声であった。が、確実にマーティに対する、何かしらの意思表示のようなものであることに間違いないはないようであった。
彼は荒い呼吸をしながら再び『レクイエム』のレコードに必死で針を落とした。やっと声は掻き消えた。
――すべてが厳しく裁かれるとき、
マーティは席についた。今度は壁をがりがりと引っ掻いたり、削ったりするような感覚が、木製の椅子の足を伝ってきた。そしていくらほかの空間を音で遮っていても、奴らの禍々しく、形容しがたいほど恐ろしい、あの独特の気配と、吐き気を催す臭いだけは防ぐことができなかった。
「アンナ……」
彼はワイングラスを手にし、小さく呟いた。その赤い水面では、細かい波紋が次々と互いに互いを打ち消しあっていた。彼は震えていた。
――その恐ろしさはどれほどでしょうか。
マーティがテーブルの上の起爆スイッチを手に取ったとき、背後の最後のドアが蹴破られた。同時に前方の壁からも奴らはよじ登ってきた。つまり彼に逃げ道はなく、急速に悪臭たちこめ、白くてぬるりとした肌をした“新人類”と呼ばれる“ケモノ”に囲まれた。
さあ、アンナ。さようなら。最後くらい、数年前に見たきりのデカい花火をあげてやろうじゃないか。奴らの餌食になるのだけはごめんだね。俺の鮮血と、奴らの白い体がぱーんと弾けるさまを観客に見せられないのが残念だがな!
彼は起爆スイッチを押した。しかしダイナマイトは何故か爆発しなかった。瞬間、接触不良か、設計ミスか、ともかく彼の目の前は真っ暗、いや、奴らに食われるのだから、一旦は真っ白になったであろう。
こうして“旧人類”最後の男、マーティ・バーニングの最期はあっけないものとなってしまった。後の『新世紀黙示録』の記述によれば、彼の断末魔はそれは酷いものだったという。
今日、人類はさらに歩みを進めた。これは我々にとって記念すべき日になるであろう。ありがとう。
最愛なる貴方へ、宇宙の果てからニューヨークへ贈り物。最高の憎しみを込めて。堕天使ルシフェルより。