初めての世界
咲眞がボタンをクリックすると、突然俺の足元の床が消失し、身体が宙空に投げ出されたかのような落下感を味わう。だがその速度は現実での自由落下のように勢いあるものではなく、フワリフワリとゆっくりと下に向かっていく。時間にしてはほんの数秒だろうか。先程までの白い空間から暗転した空間を通り過ぎ、着地したのはほんのりと青白い空間だった。
壁という概念がないような無機質で何もない空間。目の前には立体投影されたウインドウとキーボードだけが浮かんでいた。そこには、
『名前を入力してください』
なるほど。ここはいわゆる初期設定空間なのだろう。俺がやっていたRPGでも同じように名前を決めたっけな。俺は特に考えることもなく、《イサヤ》と打ち込んだ。普段からゲームでは苗字を一部省略したこの名前を使っている。
『キャラクターモデリング設定をしてください』
次に容姿を設定するのだろうが、デフォルトで表示された姿を見て俺は軽く衝撃を受けた。
……俺じゃんっ!
そこには、現実世界となんら変わることのない俺の姿が映し出されていた。
そ、そうか。さっきだってよくよく考えてみれば仮想空間なのにきっと俺は俺だったんだよな。
RSDが頭の電気信号の受送信が可能であるならば、俺が現実世界で毎朝顔を洗う際に鏡の中で飽き飽きするほどに見てきた『これが自分だ』っていう姿を再現することは容易なのだろう。もっとも、厳密にはこの姿は俺が事故に遭う前――半年前の姿なのだろうが。
ともあれ、カスタマイズは普通にできるようだ。髪から顔の造形、身体のフォルムが自由に変えられる。全くの別人になることも可能のようだった。
だが、俺はあまり初期の設定から姿形をいじるつもりはない。もしも多くの不特定多数の人がログインするようなオンラインゲームであれば、全くの別人になることだろう。
しかし、おそらくはこの世界にいる人間プレイヤーは俺だけだろう。仮にいたとしても、あのような無茶な契約ができる人間はそう多くないだろう。ここで俺のリアルな姿がバレたとして、何か問題があるとは思わないからだ。
そう考え、部活動の規制で短く刈り込んでいる頭髪だけを、やや自分好みの長さをもったスタイルへと変更する。
ゲームキャラのような髪型を自分に合わせるのはやや気恥ずかしくもあったが、黒髪で黒眼、目鼻立ちはごくごく普通、身体つきは運動をしているために人に見られても恥ずかしくはない程度の筋肉を有する現実の自分とほぼ変わらないキャラクター『イサヤ』の完成だった。
OKボタンをクリックすると、瞬時に世界が反転するような感覚に襲われ、目の前が真っ暗となっていく。
ふたたび身体が下へとゆっくり下がっていくような感覚。
突然眩しい大陽の光に照らされ、思わず瞼をきつく閉じた。
ゆっくりと瞼を上げていくと、目の前に広がるのはもう無機質な空間ではなく、豊かに広がる街並みだった。
周りを見渡すが、先程までの空間は一切見当たらない。あるのは、街と自分の身体だ。それも、ほぼ現実世界の時と変わることのない身体。鏡などはないので顔は見れないが、見慣れた自分の身体を見間違うことはない。
「おわっ、すごいな、本当に来ちゃったよ……」
どこか他人事のように口にした俺は、その場で大きく深呼吸する。
ふと、そこで疑問が浮かんだ。
光が眩しい?
さっきの自分の行動は、視覚だけのものだろうか。光が目に射して痛いというのは痛覚ではないのか。
感覚は視覚と聴覚だけなのでは。
疑問を確かめるために手の甲をツネリ上げる。
「痛っ」
いや、普通に痛いし! なにこれ。
ま、待てよ……
もう一度深呼吸してみる。
柔らかな風にのって、パンを焼く匂い、洗濯の匂い、なにかを燃やしているような匂い――そういった生活臭がハッキリと分かる。
……なんてこった。嗅覚まで存在している。周りの風景はお世辞にも都市といえる街並みではない。建物の高さは軒並み低いし、どこか中世風を思わせる家は明らかに日本とは異なってみえる。
街並みはRPGではありがちかもしれないが、嗅覚は違う。
咲眞も言っていたが、痛覚・圧覚・温覚・冷覚を含む触覚、嗅覚、味覚の再現は非常に難しいのだと、RSD特集雑誌にも書いてあった。なんでも感覚細胞の受容体がなんとか……詳しいことは覚えていないのだが。
周りに人通りがないことを確認し、道端に生えている草を一本引き抜いて匂いを嗅ぐと、青臭いような植物の匂いが鼻腔を刺激し、葉を一枚千切って口に含むと苦味を感じてすぐに吐き出した。
「苦っ」
間違いなく、五感の全てが存在している。
視覚と聴覚も俺が知っているのはここまで精細なものではなく、過去のRPGではドットは荒く、どこか作り物の印象を受けた。それに比べてこの世界から感じられるのは、現実と遜色のないものだ。
というか、ここが現実ではないだろうかと疑ってしまう。
一瞬疑念が頭に生じるが、ステータスを確認しようとすると自動的にウインドウが投影されて、やはりここが現実ではないのだと改めて感じさせてくれた。
「ファンタジーだ……」
しかし……全ての五感があるというのは怖い。もともと医療用に開発されたRSDとはいえ、触覚などは身体が麻痺している人に一定間隔で刺激を与えるなどの使用だったはずで、このように現実に沿ったかたちでの痛みを精密に再現するのは……RPGにおいては不安でしょうがない。
怪我をすればどうなるのか、死んだりすればどれほどの痛みを伴うのか? 脳がその苦痛に耐えられなければ……そら恐ろしいものがある。
「ス、ステータスは……」
主人公は死にませんみたいな設定があれば非常にありがたい。
ウインドウが投影され、メニューが並んだ項目の下に所持金が表示されている。
《1000ダカット》
初期の金額としてこれが妥当なのかどうかもまだ分からない。
メニューにあるのは《アイテム》《ステータス》《装備》《スキル》それ以外にはない。あれ? ステータスをみるよりも、なんていうか《ログアウト》的なものが存在しないんですけど。
ま、まあ落ち着け、俺。とりあえず状況を把握しよう。
《アイテム》なし
まあ、そりゃ何も手に入れてないですからね。
《ステータス》
・イサヤ Lv1 町人
・《腕力》5《耐久力》6《敏捷》6《知力》4《精神》2
ちょっと心が折れそうになった。何か特別な職業を少しばかり期待していたのだが……町人か。何気に精神が低い。ああ、俺ってばメンタル弱い子だったのね。早速折れそうになってるものね。
《装備》
・《右腕》なし《左腕》なし《頭》なし《身体》町人服《足》町人靴
泣くよ? 本当にただの町人Lv1だ。どう、すればいいんだ。
《スキル》
・ディテクト
なんかついてる。えーと……確か《調べる》みたいな意味だったよな。なんていうかヘルプみたいな説明はないのか。
……色々とウインドウをいじるがヘルプ機能が出現することはなかった。
一通り全てを確認したが、まず思ったことは……ここはゲームの世界として構築されているのかもしれないが、いわゆるユーザー向けインターフェースが未完成ではないのだろうか。ログアウトもなければ説明機能もない。
まあ、マザーブレインは構築した後にロックをかけたらしいから、ゲームとして完成させるにはそこで人の手による改良が必要なのかもしれない。
さて詰んだかな。
ログアウトがないのなら、俺はこの世界から出られないということになる。通常ならば誰かがRSDを頭からひっこ抜けばいいのだが、植物状態の俺は常時寝ているのがスタンダードポジションなので不審に思われることはないだろう。あまりに長い間何も反応がなければ咲眞が心配してくれるかもしれないが、すぐには当てに出来ないだろう。
しかしまあ、ここでボーっとするのも時間が勿体ない。幸いここは町の中であるようだし、危険はないと思いたい。思わせてくれ。
ウインドウを閉じ、辺りを見回す。そこかしらにちらほらと人影は見える。顔が分かるほどに近づいた時点で、矢印表示と名前、Lv等が表示された。
エルマ Lv4 町人
年齢は40程度だろうか。おばさんなのだが、普通に俺よりもレベルが高い。戦えば負けるのだろうか? などという馬鹿な考えを頭の奥へと押しやり、一度ウインドウを開いて《ディテクト》を取り外す。おばさんに表示されていた情報が消えてしまった。
やはりさっき見えた情報は《ディテクト》の効果だったのだろう。検証を終えた後に改めてエルマという町人に話しかけた。
「あの、すいません」
「え? あたしかい?」
「突然ですいませんが、この辺りに情報を提供してくれる施設か何かないでしょうか?」
「なんだい、あんた開拓者ギルドの人間かい?」
開拓……者?
お初に聞く単語に少し首を傾けるも、町人が続ける言葉を傾聴させていただく。
「最近はあんまりダンジョンの探索も順調じゃないみたいじゃないか。全く、しっかりとやっておくれよ。このままだと土地が拡がらずに先細りになっちまうよ」
うーむ、勘違いされたうえに何故か怒られているのは、まあしょうがない。しかしダンジョン? 土地が拡がる? 理解が追いつかない。おそらくはこのおばさんに訊くよりも、さっき話題に上がった開拓者ギルドであれこれを訊いたほうが効率がいいだろう。とりあえずは開拓者ギルドとやらの場所だけを教えてもらうようにする。
「ああ、それならここの通りを北に歩いていけば右手に見えてくるだろうさ。このサウスプラナの町は、交差する大きな通路で四つの区画に分けられているからね。こっちは南西地区、開拓者ギルドは北東地区だよ。この通りを北に進みな」
おばさんが指さす方向は、確かに町の十字路となっている場所であるからなのか、人通りがここよりも多いように見える。まずはそのギルドとやらに行ってみることにしよう。
礼を言ってから、俺はふたたび歩きだした。
十字路付近までくると、さすがに人が多い。ディテクトをつけたまま見つめると様々な人の名前と職業が見えるので、少しばかり人混みを眺めるという行動を取ってしまった。名前や職業、レベルを見られるのは不快に思われるかもしれないが、特に誰も嫌な顔はせずにただ通り過ぎていく。ひょっとしなくても、スキルで観察されているとは分からないのだろう。
ガッゾ Lv12 戦士
アルスマン Lv8 僧侶
ベニー Lv9 商人
ブッチョ Lv34 盗賊
お、おおっ……何気にブッチョがレベル高えー。名前がアレなのに。それに比べて俺は。
イサヤ Lv1 町民
ですけど、何か?
気を取り直して十字路をさらに北に、右手にある北東地区の大通り沿いを注意深く進む。
「あれ、だな」
《開拓者ギルド》という看板を発見した。今さらだが言葉や文字に不便ということはあまりないようだ。ところどころに英語が混じっているが、判読困難というものは見受けられない。
俺は少しばかり緊張しながら、ゆっくり扉に手をかけて中へと入った。




