第七章 善信仰者と悪信仰者
人間の命題と言える善悪については、解決という終着点は無いのかもしれない。平行線上なのだから、決して和解という交わりは無いのである――。
暗く、冷たい石造りの部屋に鎖で繋がれた男がいた。項垂れ、一言も発さない。その時、蝋燭を持った小太りで髭を蓄えた男が明かりを纏って姿を現し、鉄の格子の扉を開けた。
「さて、顔を上げてくれはしないか? 幸正よ」
幸正と呼ばれた男はその声を聞くや否や目を見開き、飛び掛かろうともがく。しかし鎖が解けることはなかった。
「幸隆……やはり貴様は左遷するのではなく、あの時に殺しておくべきだった!!」
表情から怒りが込み上げていることが読み取れる。だがそれに動じず、淡々と小太りの男は続ける。
「物騒なことを言うものだな。さてさて、その様子ではまだ話す気にはならんか」
「ふざけるな! 貴様のような害悪に話すことなど何一つ無い!!」
憎悪の眼差しを向ける。害悪と呼ぶに相応しい男だと、信濃大名の真田幸正は判断していた。勿論、その事実は揺るがない。
「害悪、結構ではあるぞ? それに今更“叔父さん”と呼んで貰おうとも思っておらんよ」
「真田という名を……これ以上汚すな! 真田に悪はいない!!」
真田幸隆は嘲った。なんと愚直なまでの善信仰か、と。
「いいやお前の目の前にいる。やれやれ、悲しいことを言うようになってしまったなぁ」
幸正はすぐさま言い返そうと口を開いたが、幸隆はそれを手で制した。いちいち突き掛かられるのも面倒なのだろう。
「それに幸正。私としては“親殺し”のお前にも、真田と名乗って欲しくはないのだがなぁ。この親不孝者め」
「相手が親だろうと、信濃を荒らす悪ならば討って当然だ!! そもそも私利私欲の為に民を苦しませた男を親だとは思わん!」
もはや激情にかられているとも言える程の怒声を幸隆に浴びせ、悪大名であり父であり人生最大の汚点である真田幸道に対する思いを言葉に繋げる。
「この流れる血にあの男のものが混ざっていると考えると、吐き気を覚える……!」
何度、この事実に絶望し打ち拉がれ、死を考えたかわからない。悪の血は本人が死して尚、自分を縛り心を病ませる。
「兄者はお前を甲斐へ預けるべきではなかったな。私達を理解しようとしていない、悪を憎むつまらない人間になってしまったよお前は。私が無理にでも引き取っていれば、と思うと後悔の念に駆られるよ」
「いいや、甲斐には本当に感謝している。それに、そうされなくとも俺は貴様等を理解しないし憎んでいた! 無理矢理母を孕ませ、最終的には捨てるような男が父だったならばな!!」
それを聞いて幸隆は、そういえばそうだったな、と思い出したように呟いた。その無責任さによって幸正の怒りを買うも、その怒りは鎖で搦め捕られて届かなかった。自分が囚われの身で、侮辱されても何もできないということを頭で理解していても心が許さない。もがき、怒りを顕にしなければならなかったのである。
「お前の母は高く売れたがなぁ。まぁ、過去の商売道具のことなぞもうどうでもいいではないか。私は今の話をしに来たのだから、そろそろ本題に入ろうか……兄者から引き継いだ金の在り処、いい加減に吐け」
「ッ! ……断る!!」
母の顔は覚えていないし、そもそも母はきっと強姦されて生まれた自分のことを何とも思っていないだろう。だが彼女もまた被害者の一人で、自分の母である。その彼女を道具と言ってすぐに切り捨てるこの男は、やはり悪だ。度し難い悪なのだ。
「あんな汚い金を、汚い男に渡してなるものか! 貴様に渡すぐらいなら民の為に使う!」
「だったらさっさと使えば良かったものを、どうしてまだ残しているのだ?」
その言葉を待っていたと言わんばかりに、返答は早かった。
「悪が悪事で稼いだ金を、善良な民に使えというのか……被害者である彼等を思うならば、そうするべきなのだろうな。だがしかし、それは裏切りだ!!」
金は所詮、金である。自分が信濃再興の為に使った金も、何処かの、誰かの悪事で生まれた金かもしれない。だからこそ、汚い金と最初からわかっていながら民の為に使用するのを認めることはできない。認めてはいけないのだ。それに最早信濃にはあの金は必要ない。あれ程の金額を駆使すれば信濃は神州でも有数の富有領となるだろうが、そんなことをすれば間違いなく幕府の圧力が強くなる上、他の領にいつ攻め込まれるかわからなくなる。自分の目指す信濃の未来に、あの金は本当に必要ないのだ。
「あの金を使えば信濃はもっと豊かになれる。平均化された中立領として、肩身の狭い思いをせずに済む。裕福に暮らしたい。それが民の願いだというのに、それをしない……いや、させないお前の方こそ裏切りではないのか? 知っているぞ知っているぞ。平均化させていれば、とりあえずは不満も上がらない。そして平均化されていれば、民はある程度の力を持って止まる。そうとも、お前が恐れているのは下剋上だ。父にした行為を、自分にされるのが怖くて堪らないのだろう!」
それは、貴様の願いだろう。
そう思い、一段と強い嫌悪の眼光を向けた。
「違う! 私は別に裕福であることを罪としている訳ではない。望み、努力すれば信濃でも裕福になれる! それに私の方策は平均化と銘打ってはいるが、実際は貧困を完璧に無くす為のもの。しかし、過度な裕福の段階になると何かしら問題が起こる……故の平均化だ!」
幸隆にしてみれば、幸正の考え方は理解できなかった。問題が起こって何が悪い。問題の起きない領の方が異常ではないか、と。
「下剋上、上等だ!! 私より信濃を平和にして、民を第一に考えてくれる善の者が現れるのならば、喜んで大名の座を明け渡そう! だが、その資格の無い者、特に悪に下剋上される程、私は弱くはない!!」
平和の為ならば今の地位は惜しくも無い、という決意を叫ぶ。それは本心であった。
「貴様なら奴が大名であった時の信濃を知っているな……裕福と貧困の格差を! 戦争を起こしては戦闘経験も無い民を向かわせ犬死させる。負けそうになれば甲斐の武田に泣きついて手助けをしてもらう。何だあの体たらく! 内戦に至っては余興の如く楽しみ、鎮圧するどころか更に被害を拡大させるように助長させた! 貴様等兄弟のせいで、あの時の信濃は地獄だったぞ!! 一日に何人死んでいたかすら知らずに、せっせと我欲の為に動いていた貴様等害悪のせいで!! そうだ、中立領にしたのはもう二度と民に血を流させない為! 万が一に備えて自衛の組織があるが、それはあくまでも最終手段だ!」
鎖に繋がれていながらも、できる限り自らの顔を幸隆の顔に近付け、最後の決別の言葉を発する。
「貴様が邪魔だ……!! もう信濃に貴様等のような悪は要らない! 要らないんだ消え失せろ!!」
声が反響し、そして沈黙が訪れた。息の荒い幸正と対照的に黙り込んでいる幸隆。ただただ、見下ろしている。否、見下していると表現した方が良い程の目であった。
善に生きる幸正と、悪に生きる幸隆とでは相容れないのは当然のことだろう。勿論期待はしていなかったが、億分の一でも心変わりしてこちら側になる可能性に賭けてみたものの、大いに無駄であった。だとするならば。
「……仕方ないな、この話はまたにしようか。少しお前を冷ます意味を込めて、次に移る」
「失せろと言ったのだ! 悪の言うことには最早聞く耳持たん!」
しかし本来ならば逆らえる立場でない幸隆はその言葉を無視した。その“本来”というのが今この状況下においては全く機能していないからである。
「“槍”はどこにある?」
幸正は硬直する。財産と大名の座が目的ではなかったのか、という疑問が心中に駆け巡った。
「……何だと思えば、槍だと? そのようなものは知らんし、知っていたとしても教える訳が無い!」
「あの兄者でも、私には“槍”の在り処を教えてはくれなかった。下剋上が果たされる前から次期大名と決められていたお前なら託されている筈だ。正確には、“槍”が隠されている場所を示した地図を!」
反論を許さない、とばかりに攻め立てる。
「あの“槍”を持って私は次の信濃大名となるのだ。兄者の財産はその後でも構わない。さぁ、言え幸正!」
しかし、現大名は答えない。目の前の男に下剋上の宣言されたにも拘わらず、黙っている。
「なるほど……白を切るつもりか? なら、仕方ない。弟に聞いてみるとしようか」
途端に、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。そしてその音が大きく、何よりも優先されるべき音となって自分の耳に伝わる。幸隆が話し続けているようだが、まともに耳に入らずに徐々に支配されていった。
「……何?」
どくん、どくんと脈打っている。
「残念だ。道則はお前と違い、野蛮ではない上に賢い。私のお気に入りだというのにお前に与えた拷問を行って、何としてでも“槍”の在り処を聞かなくてはならんなぁ」
瞬時に血は頭に駆け巡り、事の重大さを理解する。
「ま、待て! 弟には手を出すな!」
「道則はお前と違って鍛錬を十分に積んでいないからなぁ。途中で気絶するならまだしも、死んでしまったらどうしようかなぁ。しかし、仕方ないよなぁ。兄が知らないのだから、弟が尻拭いするのは当然だからなぁ? あぁ許せ道則よ、強情な兄が悪いのだ」
対して幸隆は淡々と、そして芝居がかった口調で幸正をじわじわと追い詰めていく。
「道則は何も知らない! 関係ないだろう!!」
「おいおい、随分と酷いことを言うな幸正。大名であるお前の弟で、前大名である兄者の息子だぞ? 関係ないことは無いだろうに」
それは家系的な側面から見ての“関係”だろう。俺が言いたいのはそういうことではない!
「ふざけているか貴様!! 弟を巻き込むなと言っているんだ!!」
僅かな期待を抱いていたが、幸隆は溜め息で返答に応じた。その目には嘲りが含まれていたことを、幸正は見逃さない。
「それは無理な相談であるし、そもそも遅すぎるな。既に道則を攫ってきて軟禁しているのだ。今更帰すなんてできない。いいや帰させない」
この通り、否である。しかも既に道則は捕らえられているという最悪で絶望的な展開に、幸正の心の隅に、ほんの小さな諦観と落胆が生じた。
「卑劣な……!!」
「あぁ、卑劣だとも。私はこんな所で一生を終えるつもりはないのだ。その足掛かりとしての下剋上、絶対に失敗する訳にはいかないのだよ」
自分の失態である。この男は、自分の父と呼ばれる男よりも我欲に忠実で狡猾で、何よりも悪に染まっていた。どうして見抜けずに、左遷程度の罰で済ませてしまったのか。
「道則には……妻子がいるんだぞ! 掛替えのない大切な者達が!!」
あの家族に何かあれば、そして弟に何かあれば自分のせいだ。そうなってしまってはもう会わす顔が無い。大名以前の問題で、兄として失格である。
「それが何だ。家庭を持っているからといって見逃すとでも思うか? 見逃さんよ。第一知ったことではないわ。だが……そうだな、丁度良いからどちらも売りつけるとしようか。お前の母のようにな……女、子供は高く売れるのだ。特に最近だと、お前の母の二倍はいきそうだなぁ」
怒りが頂点に達する、というのはこういうことを指すのだろうか。幸正は悲鳴にも似た叫び声を上げ、その憤怒を爆発させた。
「貴ぃぃ様ぁぁぁぁぁぁぁ!!! どれだけ人を悲しませれば、苦しませれば気が済むんだぁぁぁ!!」
「五月蝿い五月蝿い。獣の如く叫んでも結果は何も変わらんよ。つまらん徒労に終わるだけだ。そしてそんなくだらない質問には答えん。人を悪呼ばわりするのなら、それぐらいの答えは弾き出せるようになっておけ。もう今日は話すことなど無い」
幸正に背を向け、鉄の扉を潜り抜けて鍵を閉める。後ろからけたたましい声が耳に届くのをお構いなしにその場から離れようとした。
「俺にはある! 待て! 待てと言っている!!」
「大人しくしていろ。お前が望むなら道則に会わせてやっても良い。前向きに検討してやろう……二人共、惨たらしい姿の再開だ。感動するではないか」
幸正の表情がこれ以上があるのか、と言いたくなる程に怒りを見せる。そこまで弟が大事なのか、と幸隆はその兄弟愛に疑念を感じずにはいられなかった。
「止めろ! 止めてくれ! 財産の在り処を言う! だから……」
くだらない。何故そうまでして弟を庇うのか。兄ならば弟を支配しようとし、弟は兄を出し抜こうとするのが普通だろう。現にこうして私は兄者が死んでも大名の座を狙っている。
「そんなものは大名になってからでも探し出せると言わなかったか? もう遅いのだ。下手な足掻きをするよりも、現実を受け入れてしまえば時には楽だぞ。そう、今がその時だ」
そう、私もあの男は嫌いだったよ。私の方が数段も優れているというのに、結局奴が大名になって私はその隣で参謀役程度に留められてしまっていた。お前が下剋上しなければ、私が果たしていたのだ。私が英雄となる筈だったのだ。だから私は、お前も嫌いなのだよ。
「止めろぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「止めろと言われて止める悪が何処にいる? また来るぞ幸正よ」
未だ続く叫びを余所にして、幸正の視界から幸隆は消えた。それでも尚、幸正は続ける。たとえ元凶である男の耳に届かなくても、それでも口にしなければならなかった。
「幸隆ぁぁぁ!! 絶対に、絶対に貴様は許さない!!」
幸隆が自分の失態によって育った悪である以上、自分が始末をつけなければならないだろう。否、つけるのだ。
「貴様に信濃は渡さない!! 思い上がるなよ! 俺達兄弟はこんなことでは負けん!! 信濃は、負けん!!!」
叫び終え、幸正は再び項垂れた。弟とその家族がどうか無事でいて欲しいと願いながら。
● ●
「随分とまぁ、元気だな。あれだけの拷問を受けていながら叫べるというのは、素直に凄いと思う」
階段を上ってきた幸隆に話しかけてきたのは、黒髪の青年だった。歳を聞いたところによると、幸正、いや道則よりも若い年齢でそれが逆に恐ろしさを何倍にも増幅させた。そしてその外見に見合わない目付きは鋭く、まるで烏に睨まれているかのような錯覚に陥る。
「いやはや、お恥ずかしい。野蛮な甥でして……」
幸正とは打って変わって、生まれてから幸隆の半分程度しか生きていない青年に頭を下げているのは、単純に上下関係が機能しているのだろう。だが、その態度に青年は苛立ちを覚えた。
「お前のその甥とやら、現大名は立派だとは思うがな。むしろ恥じるべきなのはお前自身だと思うが」
わざとなのか、一々癪に障る言い方で幸隆を罵る。烏のような視線も、軽蔑を表していた。
「正直、俺は今でもお前のような小物を同士にするのは反対なんだ」
いきなりの吐露に、幸隆も戸惑いを感じずにはいられない。何を言い出すのかこの餓鬼は、と内心苛々どころではなかったが、今は耐えるべきである。ここで刃向ってしまえば全てが水の泡。それだけは避けなくてはならないし、何よりまだ死にたくない。
「お前は、“神州崩し”に必要であるとは到底思えない」
「貴方にもそう思って頂けるよう、尽力致します故……」
「ふん……忘れるな。その気になれば俺の独断でお前を殺しても良いということを。俺にはその権利があるんだからな」
修羅場をそれなりに経験してきた五十年、それだけの年月を生きてきた男が竦む程の威圧を、青年が放っている。自分は今、とんでもなく恐ろしい男と話していると幸隆は理解した。冷や汗が噴き出る。これで手拭き布で額を拭ったのは何度目だろうか。
「それで……資金はどうなった?」
「幸正の奴が中々に強情な奴でして……大名の座を得た直後に何よりも優先して献上しましょう」
その言葉に反応し、青年は眉を上げた。
「お前、大名になれなかった場合を考えての今の発言か?」
「……は?」
幸隆は何故青年が怒気を込めて質問しているのかがわからなかった。幸正も道則も捕えた。大名になるのも時間の問題であり、確定事項であるというのに、他に何か怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。
「いいか、お前は二つ間違いを犯した。一つ、金を今すぐにでも探すと答えなかったこと。そしてもう一つ、何よりも優先すべきは“あの人”に信濃を献上することだ。勿論、中立を解除してからだがな」
「は、はぁ……」
「仏の顏も三度、ということだ。次は無いと思え。まぁ、俺も“あの人”も仏ではないが」
それはすなわち、その諺が通用しないということを意味しており、幸隆がいつ殺されてもおかしくないという状況になってしまったということを暗示していた。
「じゅ、重々承知しております! 必ず私は大名となってみせ、信濃を捧げることで“あのお方”の下に付くことが叶うと感じております」
恐怖によって無理矢理誠意らしきものを引き摺り出され、命乞いを込めた決意と忠誠の旨を伝える。その引き摺り出した本人は幾分か治まったのか、通常の声色に戻った。
「なら、いい。それで、俺が“浦葉忍者”で攫わせた真田道則のことだが」
話が変わって良かった、と安堵する。先程までのように恐怖を肌で感じる、ということは無くなっていた。
「目を覚ましましたか?」
「ああ。とりあえず大名同様に、鎖に繋いで牢に放り込んである」
「わざわざそのようなご足労……感謝致します」
頭を下げる幸隆を見て、青年はこう思った。やはり小物だ、と。立場を考えるならば当たり前の行動、すなわち正解なのであるが、どうも気に食わない。
「あの男は優秀だな。若干怖がりな面があるが、何より頭が良い。今の置かれた状況を冷静に捉えていた。信濃が平和になったのも、この兄弟のお陰だと思えば納得できる」
これは本心からであった。少々持ち上げ過ぎた感は否めなかったが、そうしてしまう程に真田兄弟のことを自分は気に入っていた。蛙の子は蛙という諺はこの場合では間違っている。蛙の子は、蛙を食らう蛇として成長したか。
「ええ、そう言って下さると叔父である私も鼻が高いというものです。昔から非常に聡明でして」
「お前が得意げになるのがわからんな。今のはお前達兄弟と違って比べ物にならないくらい素晴らしいという意味合いだったんだが」
これには堪らず不快の意を表情に出す幸隆であったが、それを察した青年は嘲笑するかのようにこう言い放った。
「不服そうだな。自分だけでも優秀と判断してもらいたかったか? 残念だが俺が聞いた限りでは、お前も人間としての基本的な水準より遥かに下回っているとしか思えん」
幸隆の心中としては、爆発したいと煮え繰り返っている腸を鎮めようと必死であった。何も知らない餓鬼に何故ここまで言われなくてはならないのか。
「ひ、酷いことを仰る……ここら辺りで許してくれはしないでしょうか?」
それはそうだろう、と青年は微かに笑う。しかし、その歳相応の笑みはほんの僅か、一瞬であった。
「俺はお前みたいな小物が大嫌いだから、酷いことを言って罵るんだ。まぁ、予想通り過ぎるくらいお前の反応がつまらなくて面白くないから、言う通りにしてやろう」
正直ここで組み伏して息の根を止めてやろうと思ったが、成功する確率は億分の……否、兆分の一以下であると悟り、死にたくないという恐怖が入り混じった願望によってその欲求を鎮静させた。
「……ありがとうございます。あの、それでは私は道則の元へ向かいますので。部下にも財産を探すように命じておきます」
だが、餓鬼に一生怯えて生きるつもりもない。いつか必ず、“あの方”に気に入られてこの餓鬼と立場が逆転した暁にはどんな手を使ってでも殺してやる。幸隆はそう、いかにもな野望を抱いた。その野心から漏れ出て視線となっているのを、青年は見逃していない。
ありきたりだな、と青年は思った。この男はどうやら自分を殺せる気でいるらしい。それは有り得ないということを教える為に今ここで殺してやろうとも考えたが、目的の金を得ていない以上、まだまだ幸隆は利用しなければならないので、冷静さを欠いた自分を諌めた。
「そうしておけ。俺は少し、“浦葉忍者”を使ってやることがある」
そろそろこの会話を終えることを示すも、引っ掛かることを呟いた。
「やること、とは?」
「前に差し向けた剣士を撃退した奴が気になっていてな。本格的に調べようとしているだけだ」
そういえば道則を尾行させていたあのボサボサの黒髪がいた。彼は何者かに撃退され、顔を大きく腫らしたままこの場所に戻って来たのだった。
「そういえば、彼はどうなされたのですか。戻って来てから見ていませんが……」
その問いの答は非常にあっさりとしたものであった。たったの三文字で答として成り立っていたからである。
「殺した」
「……は?」
しかし幸隆にとっては洒落にならない答であった。自分も相当の悪であると自負しているし殺すことにはさして抵抗は無いが、雇ってすぐの剣士をいきなり殺してしまう辺り、この青年も異常だと認識した。それは自分も失敗すれば死ぬという事実を再確認させられる答であった。
「無様に負けて、ノコノコと帰って来たんだ。当たり前だろう」
無様な敗北をする者は斬り捨てるのみ。“神州崩し”に雑魚は要らないのである。
「そ、そうですか……そうですな、失敗は許されない、ということですから」
「お前も失敗すれば、地獄で会えるだろうよ」
さも失敗してくれ殺してやるから、と言いたげな、青年の本音が見え隠れする言葉を受け、幸隆は慄く。
間違いない。この餓鬼は私を殺したくて堪らないのだろう。
「……肝に銘じておきます」
「ならさっさと行け。そろそろその醜い面を見るのも嫌になってきた」
不快を言葉にし、幸隆はそそくさと去って行った。
あんな小物を相手している時間に一体何ができただろうか。話しかけるべきではなかった。
● ●
「赤髪に、女装した男……変わった趣味を持っているな」
一室に入り、気になっている人物の容貌を口にした。
「“浦葉忍者”の報告によると、真田道則誘拐の際に交戦した奴も赤毛だったか……同一人物か?」
赤髪というのは染めている者はいれど、地毛、というのはほぼいない。染めるのだってそうはいない筈である。赤は血の色、忌避される色。めでたい意味合いを持つこともある二面性を有した色。どちらかといえば前者の印象が強く、それ故に染めている者の人口は圧倒的に少ない。
「死んでいてもおかしくはない程度の出血を負わせたらしいが……それにしても常識外れの筋力に異常性が特徴で赤髪、か」
にわかに信じ難いが、“所有者”であるならば有り得なくもない。聞いた忍者達の話によると、“所有者”だとしても奴は異常だ、とのことだが、ただの忍には所詮その程度の認識しかできない。
「……一回目の遭遇時には他にも三名いたのか。黒髪と茶髪の女に、そして水色に近い青髪の男。それら四人とも顔立ちは整っている」
どれも一応、地毛として有り得る色である。ただ黒と茶は基本的であるのに対し、青は確率的に少ないというだけ。これも染めていると考えるのが妥当か。
「赤と水色は万屋か。随分と奇抜な――待てよ?」
確かいなかったか、そのような髪をした二人組が。
「……まさか。いやしかし、髪色も、先に上げた特徴もどれも奴等に該当していることばかり」
いた筈である。まさか万屋を営んでいるとは知らなかったが、もしかするとあの二人組ではないのか。
青年の心に陰りが生まれた。というのも、この万屋がもし青年の知っている二人組であるならば、かなりの危機的状況に知らず知らずの内に陥っていたということになる。
「……資金探しを最優先するよう、脅しておくか」
最低限度の成果は上げなくてはならない。
「万屋とは別にいた女二人……コイツ等も間違いなく今回の一件に関わっている。しかも幕府の役人とはな……この信濃に何の用だ?」
青年は爪を噛み始める。人前では見せないように自制していた癖をこうして行うということは、少しずつ苛立ちを感じてきたという証左に他ならない。
「幕府風情が……そのまま踏ん反り返っておけばいいものを」
口から指先を離し、目線を天井へと向ける。
「そこにいるんだろう、葉柱。姿を現せ」
その直後、目線の先である板壁が外れ、黒頭巾に黒衣装の男が降りてくる。呼ばれた通りの男、“浦葉忍者”の隊長格、葉柱であった。
「やることはわかっているな。今回はそんなに人員を割かなくても構わないだろう。頼むから……お前達は失望させるなよ」
「……ああ」
そう言って煙の如く葉柱は消え去った。それを見て再び爪噛みを再開する。
「場合によっては信濃よりも優先するべきなのかもしれない……幕府が何を企んでいるかは知らんが、“神州崩し”は止めさせないぞ」
がり、と嫌な音が一室に響いた。血が流れても、爪を歯で削ぐことを止めない。青年の身に包むは狂気。幸隆に見せていた怒りや情報を整理していた冷静さとはまた別種の性格が表れていた。まだしばらくこの自傷音は、止みそうにない。
● ●
「とりあえず私が言いたいことは、今日一日は貴方は絶対に安静にしておきなさい、よ」
真昼時、宿の前に四人は集まり、蓮理は薙刃に待機を命じた。
「おいおい。俺だって物事の優先順位ってのぐらいはわかってるぜ。まず、朝のアレは不問にしよう。ちょっとお互い色々と壊れてた……で、次。誰だっけ、あの弟が攫われた以上は探さなきゃならない。人員は多い方が良いに決まってる。そうだろ?」
早朝の会話は、自分としても余り思い出したくないのでありがたい。そして驚くことに正論を言っている。怪我をした方が薙刃はまともになるのだろうか。
「ええ、そうね。でも残念なのだけれど、私は怪我人を使うなんてことは好まないの。緊急事態には違いないけれど、少なくとも今日は、駄目」
その返答に不服な表情を見せる薙刃。あからさまに不機嫌な声色でこう言った。
「怪我人? そんな奴ァ何処にいるよ?」
「私の目の前に包帯をぐるぐるに巻いた人がいるのだけれど」
「巻いたのは誰だよ。とにかく、俺はもう治ってる。走るぐらいなら大丈夫だって言ってるだろうが」
あの怪我でよく治っていると豪語できるものだと、呆れを通り越して感心すらしてしまう。普通なら、というよりまともな人体の構造をしているのならば九割九分九厘死に至り、今頃合せが逆の白装束を纏っていたに違いない。それ程の怪我をしているのにも拘わらず、自分の治療が行えたのは(どういう理屈かは知らないが)薙刃の主張通り、治るのが速いお陰であろう。そう考えると薙刃の豪語はあながち間違っていないのかもしれない。しかし、それでも看過することはできないのである。
「大人しく、寝てなさい。二度も言わせないで頂戴」
睨み合う二人。互いに一歩も引かず、頑として相手の要求を受け入れなかった。譲歩の欠片もない。それに見兼ねた思斗が間に入り、二人の激突する視線を千切った。
「いやはや蓮理さんは優しいですね。でも薙刃に遠慮は要りませんよ。率直に役立たずとか、足手まといと仰って下さって結構です」
仲裁というより、ただ単に薙刃を貶しただけである。
「あーちょっとちょっと、なぎなぎってば。そんなに動いちゃ駄目だって。私でも吃驚しちゃったぐらいの傷なんだからさ」
薙刃が思斗の頭蓋骨を叩き割らんと腕を振り上げたが、早苗によって窘められる。
「いやぶっちゃけ早苗さんの『唾つけときゃ治りそうだけどねぇ』の発言の方が僕には吃驚しましたよ――おっと危ない」
早苗の隙をつき、思斗に殴りかかるもすんでの所で躱されてしまう。
「避けんじゃねぇよクソ!!」
これでは埒が明かない。そう判断し、蓮理が収束を図る為に口を開いた。
「止めなさい。思斗もからかわない。とにかく今日は私達3人だけで行動するから。薙刃は宿で待機していて」
「だから、それが嫌なんだよ!」
余りにも駄々を捏ねる薙刃を見て、思斗は薙刃の隣に回り込む。目が語っている。何か良からぬことを企んでいる、と。
「おかしいですね。いつもの薙刃なら喜んでお留守番もとい昼寝する筈なんですが……はっ! まさか薙刃!」
「な、何だよ」
急に思斗が小声で薙刃の耳に囁いた。
「聞き込みって言ったって走りませんよ。ぶるんぶるんと揺れるのを期待するのは結構ですが、今回は歩きですから。どうか大人しくしていて下さい……上下共に」
「お、俺がずっとアイツをそんな卑猥な目で見ると思ってんのかコラ!!」
「え、ちょっとそこで何で吃るんですか。その反応は予想外ですよ」
せっかく小声だったのに、台無しですよ。あ、蓮理さんからいかにもな怒気が感じられますね。
そう思い、思斗はそろそろと薙刃から離れた。
「私、そう思うから切実にお願いするわ。大人しく、目を閉じて、寝ていて、待っていて頂戴」
ゆっくりと、しかし語気を徐々に強めて“お願い”をしていく。打ち抜く視線が冷たく痛いのも、勿論気のせいではない。
「だから、何で俺だけ……あぁもうわかったよ。とっとと行きやがれバーカ!!」
拗ねたかのように言い放ち、振り向いて宿の中に入ろうとするその姿を見て、早苗は呟いた。
「思ったんだけどさ。なぎなぎって怒り方が“わんぱたーん”って感じだよね。それに何だか子供が怒ったような幼稚さが」
「誰が幼稚だ誰が!!」
そのまま聞き取らずに入っていけば良かったものを、やはり性格が災いしてか、ついつい反応してしまう。
「早苗、ワンパターン。発音教えたでしょう」
それに対してではなく蓮理は早苗の発音が気になったらしい。昨日の夜、床に就く前に外国語のいくつかの発音と意味を教えたのだが、この発音は酷い。意味は正解していても発音がここまで壊滅的では自分の教え方が不味かったのかと不安になってしまう。
「いらんもん教えてんじゃねぇよ!!」
外国語は既に神州に浸透し始めている。神州にとってこれからの言語だというのに、それをいらんもんとは何事か。単語ばかり教えているが、将来的には対話は難しくても単語の意味と発音くらいは理解していないと厳しくなる、という自分の予測からである。
「いやいや。薙刃だってそのいらんもんの発音覚えようとしてるじゃないですか。レズとか」
蓮理にはその単語は聞いたことが無いものであった。知的好奇心が燻られる。
「ばっ! おい止めろ俺が変態みたいじゃねぇか!!」
「“れず”? あと十二分に変態でしょ」
事実を薙刃に突き付け、思斗にその未知の単語の意味について尋ねた。外国語の本を読んで何冊かの外国の本の訳も行ったが、それでも知らない単語があったのは本当に気になってしまう。
「おっと蓮理さんはご存じないですか。その様子だと早苗さんも。ふっふ、それでは教えましょう。薙刃が、とってもわかりやすく」
蓮理は薙刃に視線を向ける。先程まではさっさと宿に戻って布団で眠って貰いたかったが、今この時ばかりは居残って是非とも渇望している自らの知識を潤沢に近付けて欲しい。
「いや何で俺なんだよ! 今の流れは完全にお前だろうが!」
そんな純粋な知識欲を抱いている蓮理を余所にして、薙刃と思斗は責任の押し付け合いを展開する。
「言い出しっぺの法則ですよ」
「その理屈だとテメェだ!!」
両手を頭の高さまで上げ、やれやれといった風に首を横に振った。
「まったく……仕方ないですね。じゃあ僕の言うことをそのまま口に出して下さい。いいですか? 言いますよ?」
再び思斗は薙刃に近寄り、前より更に小声で真似させる言葉を伝えた。
「まず蓮理さんと早苗さんが服を脱ぎます」
その言葉に思わず薙刃が噴き出す。先程の会話では脱げ、などと言っていたがあの時は本当に理性が崩壊していた。だが今は違う。そんな大胆に言うことができる程薙刃は大馬鹿者ではないし、何より言った後が色々な意味を込めて面倒なことになりそうである。
ただ、その光景は健全な男子であるなら見たいと思うだろう。事実、薙刃も自身の頬が赤みを帯びるのを感じた。
「初っ端からおかしいだろ馬鹿かテメェ! ってか馬鹿!!」
瞬く間に逃さぬよう、思斗の着物の合せを掴み、思い切り揺さぶる。
「あぁ、薙刃の場合は敬称略でしたね。あと名前呼びもしませんでしたか。それで、その後に」
脳を揺らしていると言っても過言ではない程に動かしているというのに、何故こうもはっきりと喋ることができるのだろうか。その飄々とした態度に薙刃は更に苛立ちを募らせる。
「続けようとしてんじゃねぇよ!!」
と、ここでぞくりと背筋に走る悪寒に気付き、押し突くようにして思斗を手から離す。悪寒の正体は蓮理であった。俯き、ゆっくりと薙刃の元へと向かっている。見れば早苗はいかにも下手糞な演技で見て見ぬフリを披露していた。
「薙刃、貴方って本当……」
繋がる次の言葉は予想したくないが予想できてしまう。しかし薙刃もただ単純に言われるだけの愚者ではなかった。
「な、何だよ……断っとくが、俺は何も言ってないからな!」
そう、予防線である。事実であるのも相まって、かなり強力なものであると見込めた……筈だった。
「ド変態!!!」
たった三文字。だがそれだけで予防線とやらの紙の防壁を崩すのに苦労はしなかった。強力だのと思っていたが、それは単なる自分の過信による産物か。
「先に断ったのに何で言われなきゃならねぇんだ畜生!!」
どちらにせよ、これは理不尽である。それを物理的に痛みで教えてくれる、平手打ちが顔に直撃しても最早何とも反論する気にはなれなかった。
断言してやる。いくら顔とか乳とか頭とか乳とか髪とか乳とか良くても、絶対コイツ結婚できねぇ。
それでも何とか絞り出したささやかな反抗を心中で吐露する。本心からなのかは、薙刃ですらわからない。
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勿論、蓮理とて誰がどう見てもおかしいと感じる理不尽さには気付いていたのか、平手打ちを食らわせた後に思斗にも説教に似た注意を促していた。もしかすると、平手打ちで済んだ薙刃の方が精神的には楽だったかもしれない。
そしてようやく蓮理の怒りが治まったとのことで、そろそろ聞き込みを開始しよう、と出発する寸前のことであった。
「あー……おい、ちょっと待て」
不意に薙刃が蓮理を呼び止める。
「え……何かしら?」
まさか普通に話しかけられると思っていなかったのだろう。不快感より驚きを顔に出していた。
「お前のその、役職って何だっけ。何か聞いたような気はするんだけどよ、忘れちまった」
果たしてそれは、今知っておかなければならないことなのだろうか。どう考えても今までとは何の脈絡も無く、本当に単発の疑問を投げられた。余り自分の役職、地位を言うのは好きではないので、こういうことはこれで最後にして欲しいと思う。
「……進物取次番頭、よ。それがどうかした?」
その役職名を聞いた瞬間、薙刃は目を細めた。美形が無表情で黙ったままであったが、蓮理が言い終えて少し間を置き、返した。
「あぁ、それだったか……いや、特にない。ちょっと気になっただけだ」
様子が変である。先程の平手打ちで傷が開いたのだろうか、と少し不安が思考を襲った。怪我しているから弱めのつもりだったのだが、ここまで大人しくされていると申し訳なくなってしまう。ただ薙刃がいやらしいことを思ったのは事実であり、それを踏まえると謝るのも簡単ではない。
「そう、それじゃ、夜までには帰るから。くれぐれも大人しく、大人しくお願いね」
仕方なく、言及せずに夜の再会を約束して背を向け、先に歩いて待っている早苗の元へと歩を進めた。
「そこまで念押さなくてもいいって。俺は聞き分けってものを覚えたんだ」
それは信用ならない。声は遠かったが、はっきりと聞こえた。それは残念ながら信用できない。できそうにない。
「さて、では僕も行ってきますね」
二人の背中が小さくなるまで見届け、軽い伸びをしてから薙刃の肩にぽん、と手を置いた。
「なぁ、思斗」
思斗は蓮理達とは逆方向で聞き込みを行う予定であった。故に肩から手を離してそのまま通り過ぎるだけであったのだが、どういう訳か呼び止められてしまった。労いの言葉でも掛けてくれるのだろうか。
「はい?」
綺麗で透き通る声、しかし無機質にこう言った。
「進物取次番頭が、どうして大名に会わなくちゃならない極秘任務を受けてるんだ? そういう仕事だったかよ?」
「それは……」
唐突の問い掛けで頭の処理がようやく追い付く。あぁ、そういえば、言われてみればそうである、と。以前受けた役職の仕事内容の説明には一致しない。
「そもそも、何でアイツがその極秘任務とやらを任されてるんだろうな。有能だからってそんな極秘と名の付く大役は、重いと思うんだが」
そう言って、薙刃は宿の入口へと向かっていく。
「待って下さい。それでは彼女達は……」
考えてみれば、確かにその通り。有能だからといって女二人だけで極秘扱いの任務なんて、彼女達が一騎当百といったような強さを持っている程の有能さを誇るなら、おかしくはないだろう。しかし実際見て判断してみると、確かに強いことは強い。しかし一騎当百にまでは届きそうにない、という程度である。本当によくよく考えてみればおかしい。
そして思斗は感心していた。薙刃というこの男は、痛いと思える程鋭い勘を持っている。意識してその勘を発揮しているのか無意識での発揮なのかは知らないが。
「……いや、思斗。今のは忘れろ。じゃあな。寝る」
急に黙った思斗に気付いたのか、強制的に話を打ち切った。そのまま宿の中へと進んでいく。呼び止めることもできたが、この話題は薙刃が終わらせた以上、もう続きそうにない。また蓮理と早苗がいない時にでも見計らって話してみよう、と前向きに切り替えて元の進行方向へと戻り、宿から離れた。
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この時、薙刃は確かに疲弊していた。呼吸も荒く、敷かれた布団に身を任せた。動けはするものの、傷自体は言う程塞がってはいない。その証拠に白い包帯が徐々に赤く染め上げられ始めていた。鈍痛がゆっくりと、連続的に走る。時折やって来る激痛に歯軋りで何とか保つ。ここ最近は痛みから離れていたので久しぶりの大怪我は、やはり痛い。そのせいだろうか、超感覚を有する薙刃が、今の宿屋前の一連の流れを見ていた人物の存在を見抜くことができなかったのは。






