第六章 暴虐尽くす血戦華
最初に殺したのは勿論、人だった――。
闇夜、小さく、しかし頻りに吠える子犬がそこにいた。野良であるその犬はただ単純に、馬鹿のように吠えている訳ではない。何かを察知し、その余りの恐怖から人間に伝えようとしているのである。来るぞ来るぞ、と。怖い何かがやって来る、と。そして、ソレは来た。
屋根を伝い、影の集団を追い掛ける。気を抜けばあっと言う間に引き離されてしまいそうになる程、速い。流石忍者を名乗るだけはある、と内心薙刃は感心した。服装から判断するに、やはり先日の“浦葉忍者”だと確信を得て、一笑。嗚呼、なんて面白いのか、今度こそ本当に、絶滅させてやる。そう心に決め、自身の速度を更に増す。忍者達に気付かれない程度の距離を保っていたが、もう我慢の限界であるのあろう。血に飢えた獣に禁欲など、土台無理な話であったのだ。薙刃は自らの欲望に従う。まだ一日程度しか経っていないのにも拘わらず、蓮理との“殺さない”という約束は記憶から消滅していた。
そして溢れ出る殺気に、一人が気付いた。それを皮切りに波のように集団全員へと伝わっていく。隊長格の男が呟いた。
「やはり来たか……!」
道則を抱えている一人を除き、残りで迎撃に移る。ただし、速度は緩めるな。という無言の合図を送った。依頼主によって取り決められた制限時間というものがある以上、止まって迎撃は行えない。
あの化物と呼んで何ら遜色の無い男でも、走りながらの空中戦では戦闘力はいくらか損なうだろう。地上という正攻法では敵わなくとも、忍者の独壇場でもあるこの戦闘においては勝機がある。しかし……万が一、あの赤髪が制空権を取るようなことがあれば、間違いなく我々全員は無惨に虐殺され、この松代町に血の雨が降ることになるだろう。
その万が一を実現させない為にも、“浦葉忍者”は薙刃の初手を回避、可能であればその後に反撃を行い、こちらの勢いに呑ませる必要がある。そして気をつけるべきはあの常識外れの筋力から生まれる攻撃力だと、全員が理解していた。前回の被害者は気絶程度で済んだが、今回は放っている殺気の濃度が半端ではない。当たれば、即死。ただの物理攻撃だけでも一撃必殺になり得る以上、回避が絶対的に必須となってくる。攻撃速度も相当なモノなのであるし、残念なことにその事実に嘆いて防御に徹しても、余り得策とは言えないだろう。確かに身を固めれば死を免れることはできるかもしれないが、最低でも戦闘不能、行動不能になり支障が生じる。回避を常に念頭に置き、六人は迎撃の体制を取った。丁度その時、人を肉塊に変える存在が、追いついてきた。
「上等だァァァァ!!!」
夜に猛獣が吠えたと思わせる程の叫び声を撒き散らし、腕の筋肉を唸らせた。迎え撃つその姿を見て、余程気に召したのだろう。屋根を飛び跳ねたばかりの、最も近い忍者に襲い掛かった。
「――ッ!!」
事前の念頭が効いたのか、何とか身体を捻って回避に成功する。反撃する気すら失せさせる程の恐怖を纏った一撃。しかし勇気を振り絞り、目と鼻の先にある白く細い腕を斬り裂かんと苦無を肌に走らせた。
反撃は成功。飛び出る血の量からして軽傷とは言い難いだろう。だが、その男は見た。薙刃が、愉悦するかのように笑ったのを。
そして視界は、突然閉められた。
「青葉ァ!」
一人が地に落とされた男の名を叫ぶ。腕を素早く折り曲げ、肘で頭を当てたのである。初撃と比べて威力は落ちているが、墜落した衝撃も相まって戦闘再開はほぼ間違いなくできないだろう。だが、薙刃は不満であった。先の一撃であの男の脳を破壊するつもりでいたのだから、これ程の消化不良は無い。不満を抱えながらも、落ちたものは仕方がないと判断し、次の獲物へと向かった。傷口からの血を嘗め取り、尚も流れ出ることを止まない血と、生々しく斬り開かれた傷口を見つめながら。
「来るぞ!!」
残り六人、戦闘を行えるのは五人となった集団から隊長格の男、葉柱の声が飛ぶ。無論無傷で返り討ちにすることなど不可能だと、到底わかりきっていたことであったが、どうしても全体の士気は下がってしまう。それを払拭させる為の呼び掛けであった。
こちらが呑まれて、どうするッ……!
今にも涎を垂らして飛び掛かって来そうな薙刃を見て、背に差した刀に葉柱は手を掛けた。
「次は絶対にィ!! ブッ殺してやらァァァァ!!!」
血を寄越せと叫び狂う獣を見ているようだった。口を大きく開き、鋭い八重歯を見せつけて、眼光で射殺さんと睨みつけている。元が相当な女顔であるので美形を保ちつつも、思わず目を背けてしまう程に恐ろしく変貌していた。人の皮を被った獣そのものなのかもしれない。
葉柱に狙いを定め、空を駆けた。瞬時に詰め寄る薙刃を確認し、葉柱は笑った。口当てをしていても口角が吊り上っているとわかる程に。薙刃からしてみれば引きつった、苦し紛れの笑みと思ったが……勿論、真意は違う。知能もある獣でも、罠には掛かるのである。
「今だ!」
背後に回った部下の二人、葉賀と葉山が鎖鎌を投げる。二つの鎌の刃は右足の太もも、そして左肩に見事命中し、肉が切り裂かれ鉄が内部に侵入する音が聞こえた。徐々に、しかし次第に速度を増して色無地のその部分が赤へと染まる。次いで鎖を体に巻きつかせることに成功し、薙刃は家屋と家屋との間へと落下していった。
「仕留めたか!?」
葉賀が叫ぶ。
「あんな攻撃で仕留めれる訳ないだろう。そもそもそれが目的じゃない」
葉山の言うことは尤もである。そうして葉柱は指示を出す。
「よくやった。葉賀と葉山はそのまま後方で移動。桜葉、志葉は左右にそれぞれ分かれろ。五葉、目標は眠らせたか?」
道則を担いでいる、五葉と呼ばれた男が肯定する。
「襲撃された際に騒がれては困るので、発ってすぐに眠らせておいた。居場所も知られると面倒だからな」
「よし、では俺はそのまま先導する。五葉は俺の後ろだ。目標を奪い返されては堪らん。いいな、各自警戒を怠るな。さっさと終了して青葉を迎えに行くぞ」
了解、という全員一致の声を聞き、自分も指示通りに動いた。
それにしても、妙にあっけなかったものだ。被害は一人、青葉だけである。それも、何とかして落下地点から離れて追撃されないように対処した筈であるから、恐らく死んではいない。このことはまぁ良しとしよう。だが、あれ程凶悪な殺気を放っていた男が、落下死したとは到底考え難い。だが、追い掛けてくる気配は今の所感じ取れない。戦闘技術は天下一品でも、追跡にまでは手を伸ばすことはできなかったか……。
しかし、葉柱は何故か安堵できなかった。薙刃の行動が引っ掛かるのである。より深く言うならば、薙刃の心理。
あの赤髪の男――青葉の一撃も、鎖鎌の不意打ちも躱そうと思えば躱せた筈だ。それを容易に行えるだけの反射神経と動体視力、運動力を持ち合わせていると判断したのだが、何故か。
自身の表情が曇るのがわかった。何か、勘違いをしていないか。あの男は、鎖鎌の攻撃を受けた時、罠に掛かったとこちらが笑った時、何をした? どんな表情だった?
全てが結び付き、同時に急に感じた気配を察知し、振り向き叫ぶ。
「葉賀ァ! 葉山ァ! 奴はまだ――」
来ているぞ、と注意したかったが言葉が出てこなかった。振り向いた瞬間、二人の片足に、先程薙刃に命中させた鎖鎌の刃がそれぞれ突き刺さっており、落下している光景を目にしたからである。
――そうだ。奴は、笑っていた!! 嬉しいと! 楽しいと! 狂喜していたのだ!!
冷たい土に打ち叩かれた鈍い音が重なって響く。鎖の元を辿り、柄を持っているのは言わずもがな、薙刃である。打って変わって無表情、瞳にも輝きはない。急激な変化であるが、内面は全く変わっていない。むしろ、まだ叫び散らしていてくれた方が良かったかもしれない。葉柱もそう理解した。静かなる獣程、怖いものはない。
「コレ、返すわ」
そう言って薙刃は地に伏した二人に柄を放り投げ、そしてピクリとも動かない葉山を横目にして、葉賀の方へとゆっくり歩いて行く。死の足音に感付いた葉賀であったが、足に深く突き刺さっている刃には返しが付いており抜け難い形状で時間を要する。しかしそんな悠長に待ってくれる程、死は優しくなく、刺さったまま移動しようにも激痛で立ち上がることすらままならない。無理矢理引き抜いても、その結果は変わらない。他の仲間が戻ってきて何かしら叫んでいるが、もはや葉賀には何も聞こえなかった。ただ一つ、赤髪という死が土を踏む音しか聞こえない。忍者として生きてきた自分はここで死ぬのか。そう、絶望した。
「さて……と」
薙刃は指を頻りに動かす。手順はこうだ。顔を掴む。頭蓋骨を砕く。脳を破壊する。頭部をそのまま潰し、心臓を抉り抜く。そして潰す。
切り裂かれた腕の痛みが依然として身体中を駆け巡り、その後を追うようにして先の二つの激痛も走る。これだ、これなのだ。この痛み、壊れてしまいそうだ。そんなことを頭の中で反芻させながら、葉賀の元に辿り着いた。ようやくこの手で殺せる、と歓喜した。この薙刃は、確かに正気ではなかったが、狂ってもいなかった。蓮理達の知らない薙刃という面が、表に出ているというだけのこと。二重人格とは、まるで違う。薙刃という個は唯一無二であるし、第一にコレは二重人格という言葉で済ませられないものである。
――これは“殺戮衝動”。薙刃の持つ、歪み。
「させるかァァッ!!」
部下である同胞を死なせる訳にはいかない葉柱は忍者に相応しい速度で上空から斬り掛かった。
葉柱は、ある一つの仮定を立てた。今回の攻撃は葉賀を救う為でもあるが、その仮定を確信へと変える為のものでもあった。そして、薙刃は予想通りの行動を取った。
生身であるというのに、まだ綺麗な腕を横にして防御。落下の勢いで鋭さを増した刃はそのまま貫通し、肉と血で止められるまでに刀身の七割程を飲み込んでいた。そのままで終わる葉柱ではなく、横薙ぎにして魚を捌くように腕を斬り開いてやろうと力を込めたが、勿論薙刃もそのままでは終わらなかった。突き刺さっているのにも拘わらず、腕を横に振り、刀ごと葉柱の体躯を吹っ飛ばす。その際に刃は抜けた。壁に叩きつけられるも勢いは止まらず結局壊れてしまい、破られた無人の家屋の中で倒れることとなる。それでも軋む体を何とか起こしながら、葉柱は確信を得た。
あの男は、わざと血を流している。見たところ自傷趣味ではないようだが、どういう訳か回避を行わない。そう、戦闘においてほぼ必要不可欠の回避という行動が欠如しているのだ。防御もしていることは違いないが、生身である為意味が無い。圧倒的攻撃力を誇るその代償は、自己防衛能力の低さ。さしずめ、諸刃の刃、といったところか。
葉柱のこの考察は、驚く程に的中していた。そう、今の殺戮衝動に駆られた薙刃には自己防衛能力が皆無と言っていい程に著しく低下しているのである。
考察が終わるまでに数秒が経ち、葉柱は徐々に悲鳴を上げる身体を奮い立たせ、外へと飛び出した。葉柱が費やした数秒で、死ぬ寸前にまで葉賀は追い詰められていた。他の仲間も阻止せんと攻撃を仕掛けている。
突破口は見えたというのに……死なせて堪るか!
だが、間に合わない。葉賀の顔が掴まれ、持ち上げられる。葉賀はもがくも、薙刃の筋力の前では無力である。指に力が込められるのを感じた。
● ●
異変を、感じた。何かが抑止力となってこの“殺戮衝動”を抑え込もうとしているのか。何だこれは何なのだ。今まで感じたことの無いものだ。殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくるのが自分なのに、殺したくない、と思っている。
今まで殺すことに苦労はしなかった。なのに今、どうしてこんなにも苦労しているのか。あとほんの少し、力を込めるだけでいいのに、それが実行できない。
『お願いだから……絶対に、誰も、殺さないで欲しいのよ』
誰かの声が聞こえた。そういえば約束した気もするが、知らん。こんな言葉、反故にしてしまえ。こんなもので殺せない訳が無い。さぁ、潰すぞ。血潮をブチ撒けろ。殺すことでしか、俺は潤いを感じられない。渇いていく自分を、癒せない。血を浴びて、ようやく自分の存在を確認できるのだ。血を嵐の如く撒き散らし戦い、血を吸い上げて咲き誇る、殺しの華なのだ。だから……何故殺せない?
● ●
「――ッ!!」
滑り落ちるように地に再度挨拶を交わした葉賀。頭を上げたその視界の先には仲間によって無数に斬りつけられた薙刃がいた。口からは一筋、血が流れている。そして、膝を地に着けた。そのまま前のめりに倒れ込みそうになったのを両手で支える。息遣いが荒く、その表情は激痛によって歪まされていた。
「あぁ……そうだよ、殺すな……殺すなよ俺……!」
自らを抑え込むように、肩を震わせながら言葉を吐き出した。忍者からしてみれば、先程と全く矛盾している言葉であった。
「ここで殺したら、前に進めない……!!」
徐々に薙刃は息を整えていく。しかしそんな無防備で、しかもどういう訳か殺すのを中断した今が好機と捉え、葉柱は自身の技量と腕力、身体の捻りを最大限に活用して苦無を投擲した。
狙うは心臓……! 奴は回避しない。ここで死ね!!
だが、狙いは外れた。薙刃が恐るべき速度で反応し、回避したのである。その速度を利用して、瞬時葉柱の眼前にまで詰め寄った。そして薙刃は自身の血に汚れた腕を振り上げた。
何故、回避を……!?
葉柱は不覚にも思考を止めてしまった。防御の体勢を取ろうとするも間に合わず
「おォォ!!」
腹部に一撃が入った。だが、軽い。普通に殴られた、という感じである。あの凶悪な拳打ではない。薙刃自身目を見開き、信じられないといった表情をしている。
「ぐ……五葉! そして桜葉と志葉は葉山と葉賀を拾って先に行け! 早く!!」
奴に何があったかは知らんがこの隙に……!
何としてでも今回は達成しなければ“浦葉忍者”の名を汚すことになる。制限時間が迫って来ており、時間の関係で殺すのは最早ほぼ不可能。ならば任務を優先するのが当然であろう。そう考えて指示を出し、葉柱自身は時間稼ぎを行う為、放心している薙刃に刀で斬り掛かった。
「くっ……そ!!」
どうすればいいのか、薙刃にはわからなかった。今までこんな迷いが生じることは無かった。殺してはいけないのに、今の自分では殺してしまいそうだ。自分はどうやって殺さずに倒してきた? 確か、何も考えておらず、塵掃除の感覚だったと記憶している。
その感覚を思い起こしながら反撃として殴ろうとすると、やっぱり殺してしまいそうになり、つい力を緩めてしまった。
「あぁ!?」
結果、その攻撃は効かず、逆に反撃を食らってしまった。否、正確には不意打ちと言うべきだろうか。葉柱の攻撃は躱した。問題はその後。前代未聞の困惑で苦しむ薙刃は、その存在には気付いても対処できなかった。
「青葉ァ!!」
葉柱が叫ぶのと同時に察知して振り向き、撃墜させた筈の青葉からの一撃を受ける。上半身を斜めに斬り裂かれ、血が噴水の如く溢れ出た。
「――がはッ!!」
口から血が溢れ出た。
「隊長! 今です!」
その隙を突いて、背後の葉柱の斬撃。前後から斬られ、獣は地に伏した。血溜まりが土に染み込み、浸食していくのを見ながら、意識が途切れた。
倒れた獣を見て、青葉は葉柱に近寄る。
「生きていたか……」
「落ちた先が丁度ゴミ置き場でして、衝撃を吸収してくれたのは良いんですが……臭いますか?」
口当てを外した青葉は苦笑する。見れば鼻は折れ曲がっており、その後逆方向に曲げて直したとわかる形状になっていて、加えて前歯も何本か欠けており、若い顔が台無しになっていた。これは居た堪れない。
「その程度で済んで良かったな。とにかく時間も少ない。治療もしなければならないし、今は急ぐぞ。コレは……捨て置け。この血の量ではいずれ死んでもおかしくはない。止めを刺す時間も惜しいからな。まずは合流しなければならない」
青葉は頷き、そして二つの影は姿を消した。
● ●
そうだった。信濃に来てからは無意識に殺さなかった。殺す価値が有るとか無いとかそういう問題ではなく、殺したくなかったから殺さなかったんだ。もう終わりたくて殺さなかったんだ。しかし、自分の抑制は大して効果を発揮しない。今日で限界だったのだろう。“殺戮衝動”が爆発してしまった。“殺戮衝動”が本心か、というのはわからない。殺したくて堪らない時は勿論あるが、それは衝動に駆られているからであって果たして本心なのだろうか、と考えたこともあった。では自分の本心は何なのか。やはり根元から殺したいと思っているのではないか、とも。非常に、非常に揺れ動いていた。
だから、誰かに縛ってもらいたかった。言葉でこの衝動を縛って欲しかった。思斗は絶対にしてくれないとわかっていたから、願わなかった。アイツは賢くて、先を見据えているから絶対に何が何でも俺を縛らない。そもそも、言ってもさっきの俺のように簡単に言葉を引き千切って殺してしまうとわかっていたからかもしれない。
だから、あの女はある意味で救いだった。予想を遥かに超えた言葉で、声で、俺を縛ってくれた。いつまで持つかはわからないが、このまま上手くいけば俺は人を殺めずに終わりを迎えることができる。殺す為のこの戦闘力は先程のように幾分か低下するだろう。
だが、一つ、真理を得た。偶然の産物とでも言おうか。勿論戦闘力の低下は免れないだろうが、少なくとも戦闘の際に苦しまなくて済む。今までは殺す攻撃で殺していた。そして阿呆みたいに考えて意識したのが不味かったのだろう。殺さない攻撃で殺さないようにしていた。自分は本当に馬鹿者か。それでは攻撃力など生まれない。余計なことを考えずに、ただ行えばいい。殺す攻撃で殺さなければいいのだ。あぁ、いつもに増して意味が理解不能だが、大丈夫だ。自分さえ、この薙刃さえ理解できていればそれで良い。
「人はもう、殺さない……」
匍匐で身体を引き摺り、路地裏に身を落ち着かせる。
「殺す攻撃で、絶対に人は殺さない。俺が最後に殺すのは、俺だからな」
忌み嫌う自分自身に向けての言葉。自分に誓った以上、あの女の言葉と共に縛ることにした。今度ばかりは抑制の効果を期待する。
「――そういや、どうしてアイツなんだろうな……」
血を眺めながら、疑問を吐いた。疑問の着眼点は、どうして蓮理の言葉を薙刃が引き千切らずに、“殺戮衝動”が治まったのか、ということである。殺すなと縛ったのは蓮理が初めてであったので比較はできないものの、どうして蓮理がそうだったのか。縛ってくれるなら誰でも良かったが、どうせ簡単に引き千切ってしまうと九割方諦めていた予想、これを裏切った、いわば“当たり”なのである。何か、都合が良すぎやしないだろうか。
「まぁ……いいか。それより思斗に連絡しねぇと」
考えても無駄だと一蹴し、懐から“貉”を取り出す。血に塗れているが、起動はできた。この場の隠蔽を頼まなくてはならない。あとは肩を貸してもらわなくてはならない。如何せん、血を出し過ぎたせいで一人で歩くのは困難と判断できる。加えて刃に毒か何か仕込まれていたのか、徐々に身体が痺れてきた。完全に動けなくなる前に来てもらわなければ。
「結局、意気込んだ割にゃ全然駄目だったな。アイツも連れてかれたし……俺はしばらく使えねぇし」
愚痴るものの、薙刃はどことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。本心かどうかも曖昧な“殺戮衝動”に、もう駆られなくて済むと期待しているからだろうか。
● ●
日付はもうとっくに変わってしまい、後一、二時間で早朝になろうという時刻。部屋の明かりは点いていた。思斗は窓辺に凭れ掛かり、本を読みながら時々“貉”を確認していた。
結局、今日の内には写真は添付されてこなかった。明日の昼にでも催促してみようか。
「ふぁ……それにしても、薙刃何してるんでしょうか。蓮理さん達に言い訳するの、大変だったんで貸しにしておきますね」
読み終わったぞ、という意味を込めての欠伸をし、そのまま敷いた布団へと寝転がる。
この一件が片付くまで、別々の宿で泊まっていると何かしら不便ということで思斗達は蓮理と早苗の宿の別室に泊まるということになった。今日の夜にそれが決定し、移動したのだがその時に薙刃は同席していない。つまり、薙刃は宿が変わったと知らないのだ。一応薙刃の“貉”に場所を記した地図の画像とその旨を伝える文面を送っておいたが、薙刃自身、余り“貉”を確認しない。一日に一回ぐらいである。しかも殆ど朝方に行い、今日も通例通り確認していたので、もう確認することはないだろう。変な騒ぎにならない内に捜してこようかとも思ったが、この本の続きが気になったので止めた。薙刃はたまに深夜徘徊して朝帰りしてくるので、読書の時間を潰してまで捜す必要性が無い。何より薙刃に心配するなどと、愚の骨頂に等しい。血塗れになって帰ってくるのは、殺した時。その血は返り血だ。もしそうなって帰ってきても、あんなこと言っといてやっぱり殺したな、と責めはしない。仕方ないのだ。あの“殺戮衝動”は、絶対に終わらない。
そして困ったのは、二人が捜しに行くと言って聞かないのを説得して食い止めるという作業であった。夜に女性を歩かせる訳にはいかず、本も読了したい自分としては、久々に熱を込めた説得であったと思う。しかし、特に蓮理は最後まで強情で、薙刃だから大丈夫だと言っても納得いかない様子であった。恐らく、用事を頼んだという言い訳も信用していないだろう。夜抜け出して捜しに外に出ないかと窓も見ていたが、早苗が何とかして宥めたのか、結局出てこなかった。
そもそも、もう銭湯に行って帰って来た時の初っ端の台詞が『捜してくる』ってどうなんですか。
「僕としては、寝なくてもある程度は大丈夫なんですけどね。お風呂には入りたいですよ流石に。ええと、あそこ何時から開いてましたっけ……逆算して、あと二時間ぐらいですか」
自分の記憶通りの時間であることを信じて、“貉”の表示時計を確認し、逆算する。
「蓮理さん達に会う前には済ませたいんですよね。女性の視界に風呂で体を洗っていない汚い男を入れたくないので。まったく……薙刃は少しは僕のことも考えて欲しいですね」
相棒の不在を良いことに、愚痴り始める思斗。いくら言っても暴力によって止められないのは、素晴らしい。
「薙刃が銭湯嫌いなのって僕、知ってるんですよ。あんな顔だから、男湯の方に入ろうとしても入口の時点で番台さんに止められて女湯の方に無理矢理入れられそうになってたの、バッチリ見てましたから。まぁ……他人と一緒の湯に浸かるっていうのが一番の原因でしょうが、だからと言って一番風呂じゃないと入らないってのはどうかと思いますよ。不潔に思われても仕方ないです……ん?」
その時、“貉”が震えた。
● ●
早苗が隣で寝息を立てて寝ている。今日も鼾の調子は良いようだ。蓮理は起き上がり、枕元に置いてあった“貉”を展開して時刻を見た。
まだ早朝とは言い難いわね……。
何故か妙に目が冴えて、二度寝しようにも寝れそうにない。睡眠時間がいつもより少ないが、もう起きてしまおう。そう思いつつ立ち上がり、窓の方へと向かった。
「今日は昼からでも松代町を回りたいわね。まだ行っていないのは……」
その時、窓の外から声が聞こえた。微かだが、確かに人の話し声が聞こえる。
「……隣かしら? 思斗?」
窓から顔を出し、耳を澄ます。右隣の窓から明かりが漏れて、そこから声が聞こえてきていた。薙刃が帰ってきたのだろうか。
何を話しているのかしら……?
気にはなったが、生憎と盗み聞きする趣味は持ち合わせていない。顔を引っ込ませ、そのまま窓辺に座り込んで夜空を眺めた。星がまだ輝いていて、宝石が鏤められているように感じた。星座を探しながら、一人で呟き始めた。
「それよりも……薙刃は一体何をしていたのかが気になるわね。用事だなんて、多分嘘でしょうし。別に行動を制限する訳じゃないけれど、せめて事前に言っておいて欲しいわ」
思斗は時々朝帰りすると言っていた。そのことを思い出し、紅潮して、顔に熱が昇ってくるのを感じた。
「朝帰りってまさか……い、いいえ薙刃はまだ知り合って間もないけれど、そんな卑猥なことをするような人じゃな――違うわね。全然いやらしいことしてもおかしくない人だったわ」
薙刃が自分に浴びせた猥言の数々も思い出し、落胆が蓮理を襲う。
いえ、落ち着きなさい蓮理。冷静に考えてみましょう。薙刃はもう帰ってきているのよ。だから朝帰りじゃないわ。朝に帰ってくることを朝帰りと言うのだから。朝までその……あれ? でもちょっと待って。
思斗は薙刃不在での夕食の席で、こんなことを言っていなかっただろうか。
『そういえば、念の為先に謝っておきます。少し、友人に頼み事をしているんですよ。ですから、もしかしたら今日の深夜ぐらいに“貉”で通話することがあるかもしれません。なるべく小声で話しますが、声が漏れて起こしてしまったら申し訳ありません。何分、相手のその友人というのが声の大きい方でして』
「まだ帰ってきていない可能性が浮上しちゃったじゃない……」
冷静になって考えた結果、余計な言葉まで思い出してしまった。冷めた熱が更に上昇してくる。
「ま、まさか本当に……? でも、うん、女顔だけれど、美形であることには変わりはないわ。その上、俺様気質とも取れる態度よ。純粋無垢な女性なら毒牙に掛かっても……そうだわ、だから私達に言わなかったのね。私事って……お、お、女と閨探し……!」
蓮理は静かに怒りを覚えた。わなわなと肩が震えている。夜でなく、隣の部屋で思斗が話しておらず、早苗が寝ていなければ叫んでいる所である。
「べ、別にそういうことは構わない、と思うわよ……? 薙刃とはそんな特別な関係でもないし、私がどうこう言う筋合いは無いわよ、ええ。どんな女性と、その、寝ても私には全然関係無いわ。でも、せめてこの一件が解決するまでは我慢しようとか、思わないのかしら? しかも、私達女性と協力し合っているというのに、ちょっと、け、軽率なんじゃないかしら」
暑い。まだ春で、夏は先だというのに体の内から熱を発しているようだった。寝間着の白い浴衣の生地は薄く、窓から流れている風も涼しいというのに、暑い。思わず手で団扇のように扇ぎ始める。
「ま、まだ……し、し、しているのかしら? 時間的に遅いけれど、別に、おかしくないわよね……?」
何を、とは言えない。そんな言葉、頭に思い浮かべるだけでもとんでもない羞恥の念に駆られるというのに、口に出すなどしたら発狂してしまいそうだ。自分もいずれは経験するかもしれない、と思うと最早死にそうになる。
「――あ、話……終わったのかしら」
微かに窓から聞こえていた思斗の声が、途切れた。そして窓の戸が閉まる音が聞こえる。話は終わったのだろうか。寝られる前に、思斗に問い詰めなければならないだろう。時間帯はもう考えないことにし、部屋の扉へとゆっくり歩を進める。こんなことで早苗を起こさせる訳にはいかない。
● ●
急に扉をとんとんと打つ音が聞こえた。こんな時間に一体誰で、何のようだろうか。これから自分は出かけなければならないというのに。
「私、蓮理よ。こんな時間で申し訳ないのだけれど、良い?」
予想外の人物だ。てっきり怪しい人かと思って腰に差した刀の鞘を握っていたのだが、相手が蓮理とわかればその必要はない。
嗚呼、風呂に入っておきたかった。お許し下さい蓮理さん。
「れ、蓮理さんでしたか。ええ、どうぞ」
ぞ、と言い終わった瞬間に扉が開き、寝間着浴衣の姿をした蓮理が部屋に入ってきた。そして未だ乱れていない布団を見て、呟いた。
「やっぱり、まだ帰って来てないのね。それと、用事ってのは嘘ね」
バレてますよねぇ。そろそろ真剣に言い訳の練習でも始めましょうか。
「え? あぁ、はい。蓮理さん達に嘘ついたのは余計な心配をかけさせたくなかったからですよ。繰り返すようで申し訳ないですが、薙刃が朝帰りするなんてことはそう珍しくありませんから」
薙刃の強さはこの人もよくわかって頂いたと思うんですけどねぇ……。
「そ、そう……珍しくないんだ。ううん、いえ、まぁ別の心配をしているわね、ええ」
はて? 少し言葉に怒気が含まれているのは気のせいでしょうか。気のせいじゃないですね。この人、きっと朝帰りを正しい意味で解釈しちゃってますよ。思いっ切り吹き出したいんですけど、今やったら失礼極まりないですよね。
「それで、薙刃はどこに行ったのか、本当にわからないのね?」
「はい。相棒ですが、そこまで把握はしていませんよ。行き先を言わないならそれなりの事情があると思うので、聞こうとはしません」
蓮理は訝しむ。思斗は本当に知らないようだ。だが、朝帰りなどと言っているのだから、場所は知らずとも何をしているかは知っているということだろう。
「そう……そういえば、出掛けるの?」
腰に差さった刀を見てそう判断したのだろう。事実、その読みは当たっていた。
「ええ。薙刃から連絡があったんですよ。道に迷ってしまったようで、それに少し動けない状態らしいので、迎えに行ってきますね」
迷った……? それに動けない……?
そう、つまりこういうことね。女性の家まで行ったはいいけれど、場所がわからない。それに動けない、というのはつまり、その、し過ぎて腰が……。
「それでは、すぐ連れて帰ってきますので。何かあれば、さっき教えた言葉を入力して僕の“貉”まで連絡をお願いします」
そう言って思斗は蓮理の横を通り過ぎる。蓮理が震えていることには気付かなかったようだ。
とにかく、引っ叩くわ。もうこの怒りは暴力でしかぶつけることができそうにないもの……!
蓮理は決意した。
●
“貉”に送られてきた写真の画像を元に場所を予測したが、すぐに見つけることができた。近付きながら、運が良い、と伝える。
「とりあえず、吃驚しましたよ。まさかソレもアレも全部貴方の血ですか?」
座り込んでいる薙刃は微笑して言った。
「だったら悪ぃかよ」
いいえ、と答え、思斗は辺りを見渡す。夥しい量の血で構成された池が出来上がっており、そこから薙刃のいる路地裏へと体を引き摺った血の跡が伸びていた。他にも家屋が損傷。無人で良かったと思う。
「――正直、本当に驚いているんですよ。さて……今から隠蔽作業に入りますから、少し待ってて下さい。出血死はしないで下さいね」
思斗が作業に取り掛かるのを見て、薙刃は口を開く。
「俺、殺さなかったからな」
思斗の手が、止まる。行動全てが止まったと言っても良かった。ゆっくりと、薙刃の方へと振り返る。
「……感想は、どうですか?」
自分でもおかしくなったのかと思う程に、落ち着いていた。まさかまさか、本当にあの薙刃が人を殺さなかったなんて。
「面倒臭いな。殺した方が早いし、楽だ。でも……何て言うんだろうな。殺さないって、大変だなぁって思ったよ」
手にこびり付いた乾いた血を見て、ポツリと呟いた。
「そうですか。それで、続けれそうですか。抗えそうですか、その“殺戮衝動”に」
その問いに、薙刃は是とも否とも答えなかった。俯いた顔を上げ、思斗を見上げる。
「さぁてな。正直、よくわからん。ただ今回で確信を得たんだが――」
「だが?」
「――人を殺したくないとは、思えるようになったんだ」
一息入れて、薙刃は続ける。
「やっぱりそろそろ終わらせたい。狂って壊れて死にたいんだよ。これだけはマジで本心で言ってると思うんだよ。名付けるならそうだな……“自滅衝動”ってとこか?」
頭を唸らせて言葉を選んだ薙刃を見て、思斗は優しく微笑んで返した。
「“剋殺”――“自滅衝動”で“殺戮衝動”を負かすという訳ですか?」
「あぁ、そうそれ、そういうことだよ。とにかく、もう人を殺さないように頑張るからそういうつもりでよろしく頼むわ」
薙刃が前回の宣言と今回の戦闘で、本当にそう決めたのなら僕は何も言いませんよ。貴方にとってはそれが一番幸福なんでしょうから。
「万屋の依頼、歯応えも収入も減ることを覚悟して下さいね?」
「元々安定していない俺等が何を言ってんだか。ほら話は終わりだ。さっさと隠蔽しといてくれ。もう起きだす奴もいる筈だ」
“貉”の時計を見て、薙刃は思斗を急かす。まったくその通りだと、いそいそと作業に戻る。だが、何か思い出したかのようにまた振り返った。
「ああ、そうだ。薙刃……一つ、良いこと教えてあげます。今の薙刃のように殺さない信念や立場のことを、“不殺主義”と言います。覚えておいて損は無いですよ。特に薙刃は――本当に人が塵と思える程の数を、殺しているんですから」
思斗の最後の一文が薙刃の心を抉る。辛いという意味ではない。悲しいという意味でもない。あぁ確かにそれぐらい殺したな、と事実を確認させられただけに過ぎない。
「わかった……覚えとく」
あの日々を、まだ懐かしく、恋しいと思っているのは“殺戮衝動”が起因しているからなのか、わからない。わからないが……あの血に塗れ、血に染まり、血を撒き散らす日々、殺すことは生きていく上でごく普通の、当たり前の基礎代謝のようなものだった日々は、そう悪いものでもなかったと記憶している。
だから俺は、外に出たんだよ……。
ほんの少しだけ、と薙刃は目を瞑る。思斗が終わって声を掛けてくるまで、眠ることにしたのだ。短い時間だが、疲弊している心身を休ませるには(薙刃にとっては)十分だろう。毒は少しずつだが抜けてきて、身体の痺れも無くなってきた気がする。そうして薙刃は、眠りについた。
● ●
隣から物音がし、とうとう帰って来たかと覚悟を決め、手首の調子を万全にする。
大丈夫。今なら平手で薙刃程度の大きさの人間なら吹き飛ばせそう。というか吹き飛ばすわ。
そして扉の前に立ち、前触れ無しに勢い良く開けた。その先には、二人いる。思斗は確かに薙刃を連れて帰ってきた。腰を痛めた姿ではなく、あられもない姿の薙刃を。
「お、何だよ起きてたのか」
部屋の中央に立ち、血に染まった色無地は脱ぎ捨てていた薙刃が言った。白く細いその体躯には背と前に大きな斬り傷、他にも無数の傷が付いていた。髪は昨日の朝見た時のような束ねた型ではなく、解かれようとしていたところだった。
「え……と……」
頭が真っ白になり、その白を埋めるように疑問が満ちていった。どういうことだ? 薙刃は女と肌を重ね合わせていたのではなかったのか? 自分の知っている性交と違うのではないか?
「ああ、蓮理さん。ちゃんと薙刃、帰ってきましたよ。ちょっと傷物になってますが、まぁ大したことはありません」
横にいた思斗はそう言って笑っているが、蓮理の目が狂っていなければ全然大したことである。死んでもおかしくないと判断できる程の傷が何ヶ所もあるではないか。
「だから、何でこんな血だらけ傷だらけになっているのよ?」
「そこはまぁ、薙刃に聞いた方が確実ですよ。薙刃も蓮理さんと話したいことがあるようですし」
蓮理は薙刃を見る。窓の外、白んできた空を見ていた。話したいこととは一体何なのだろうか。
「という訳で、少し薙刃を頼みます。傷は全部洗いました。太ももに刺し傷がありますが、そこは流石に蓮理さんにお願いする訳にもいかないので自分ですると思います。それで僕、運んでくる間に臭いが移っちゃいまして、パパッと銭湯に行ってきますね。薄情だと思われても仕方ありませんが、これ以上女性の前で風呂に入っていない汚い男でありたくないんです。許してください。それじゃあ薙刃。濡れた手拭を渡しておきますので、体拭いておいて下さいね。血の量が量ですから、その服は捨ててきましょうか。同じのあるから構いませんよね? ではっ!」
思斗は蓮理に早口で要件だけ伝え、素早い動きで部屋から出て行った。予想以上の展開の速さに若干ついていけなかった蓮理はすぐさま我に返り、呼び止めようとするが、薙刃の声に阻まれた。
「気になるんだと。行かせてやってくれ」
思斗を擁護するように蓮理に言い、受け取った手拭でまずは顔を拭き始めた。
「え。ちょ、ちょっと待ちなさい! 私がするからっ!!」
蓮理は急いで“貉”を展開し、治療箱を取り出した。
「あ、そうだったっけか……思斗に今度から入れておくよう言っとくか」
「是非言っておいて! それと、もう私が介抱するから動かないで頂戴! 酷い傷じゃない……!」
● ●
何とか治療は完了した。今は薙刃が着替える為に蓮理は外の廊下にいる。流石に怪我人を廊下で着替えさせる訳にはいかないだろう。
「着替えた。もういいぞ」
中から許しの声が聞こえたので、入ることにした。
「包帯ってのは動きにくいな」
蓮理とよく似た白い寝間着――浴衣に着替える。本来なら見えている筈の肌は清潔な包帯によって覆われていた。
「治るまで我慢して、もう傷は塞がり掛けていたけれど、本当なら入院沙汰よ」
途中、本当に医者を呼びそうになった程である。
「俺は治るの早いんだよ。にしても、上手いな」
包帯の巻き方といい、治療の丁寧さといい、経験者でもああは上手くいかないだろう。
「ありがとう。知識として知っていただけだから、あんな大怪我は実践では初めてだったけれど、そう言って貰えたならこちらも、嬉しいわ……それで、どうしてこうなったのかということだけれど」
一段落済んだところで、蓮理は話を切り出した。
「あぁ、それなんだけどよ。真田道則だっけか? 連れてかれちまった」
背筋が凍る。だが、予想外のことではなかった。最悪の状況として、一応は想定していたことだったので、すぐに動揺は消え去った。
「あの前に戦り合った黒い忍者集団にな。で、俺が奪い返そうと思ったんだけどよ」
恐らく、というか十中八九“浦葉忍者”だろう。
「それで、負けたと。まさか貴方がここまでされるなんて……」
「いや、負けてねぇよ。ただちょっと――」
そこで言葉が詰まった。気になった蓮理は聞き返す。
「ちょっと?」
「――殺しそうになってな。ヤッベ! って思ったら隙突かれてそのままボッコボコ。でも負けてない。アイツ等逃げたから俺の勝ちだ」
あんなに傷だらけだったというのによくそう言えるのものだと、呆れを通り越して感心すらしてしまいそうになる。ただ、やはり呆れざるを得ない。
「どんな人間だろうと死んで欲しくないと思っているのは、事実。こんな時代に何を言っているんだと嘲って罵ってくれてもいいわ。でも私の本心なんだから仕方がないじゃない」
いつまでも立ってばかりなのもどうかと思い、薙刃に隣に座るよう促した。二人並んで座り、双方の目を見つめる。
「でも、でもよ。確かに殺さないで、とはお願いしたけれど、だからといって死ねとは言ってないわ。汚い女だと思うだろうけれど、天秤にかければ仲間である貴方の命と敵である忍者の命、どちらが重いかは明白。どちらかと言えば、仲間は死んで欲しくない。この一件だけの付き合いだけれど……その間だけでも、ううん、終わって別れた後でも自分を大切にして頂戴」
真摯な眼差し。綺麗過ぎて、薙刃は目を背けた。しかしそれを蓮理は許さない。頭を掴みこちらに引き寄せ更に要求する。
「逃げないで、私の目を見なさい」
吐息を感じる。それ程までに互いの顔は接近していた。下手に動けば接吻してしまってもおかしくはない距離である。
コ、コイツ……素面でやってやがる!
「わ、わかった……自分、大切、する。だから、離せ……!」
少々片言で怪しまれたと思ったが、満足したのか掴んでいた頭を離した。
「わかってくれればいいのよ。道則先生の事に関しては四人揃ってからにしましょう。急ぐけれど、焦る訳にはいかないわ」
頷きながら、今後の予定を話していく。だがそんなことよりも俺はコイツに言いたいことがあった。
「あのさ、お前さ、もう、素でこういうことするなよ」
俺だったから良かったものの、普通の野郎なら接吻かまして押し倒してる。絶対。そんでもって乳揉みしだく。絶対。
「え? どうして?」
この女、いらん所で天然入るよな。天然ってか、生真面目さ故にって感じか。
「いや……もう何でもない。忘れてくれ」
だが、このはぐらかしに蓮理はお気に召さないようである。しつこく聞いてくるので、話題を変えることにした。
「そういえばお前さ、どうしてあんなに血相変えて来たんだ?」
直後、蓮理が停止した。続くようにして、頬が熱を帯びたかのように赤くなっていく。
「え、あ、その……な、何でもないわ! そう、窓から貴方達が見えたからつい……」
……はっはーん。なんとなくわかった気がする。肩を貸して貰って帰っている最中に思斗が話してくれたお陰で、話題も変えれておまけにコイツに仕返しができる。よくやったぜ相棒。
「大方、思斗の朝帰りって表現に反応して俺が女の家にいるとでも妄想したんだろ」
図星なのか、更に紅潮化した。このままイジり続ければ蒸気でも出そうだ。
「しっ! してないわよ!」
声も裏返っている。あぁ、本当に面白い。
「あぁ、したんだなマジで……」
蓮理は吃りながらもまだ否定を続ける。
「~ッ! だから、してないって言っているでしょう! 大体何よ! その根拠は!?」
証拠を出せと言う。こういう典型的な台詞を言ってしまうと、大抵墓穴を掘る形になってしまうのだ。
「思斗から聞いた。『朝帰りって言葉の解釈、そのままにしてますよ蓮理さん。ぷくく』とかすっげぇ良い顔してたぞ」
「なっ!! ま、まさか顔に出てたなんて……! あっ、ち、違っ!」
ほらこんな風に。
「――ってか、そんな妄想できるなんて逆に凄くねぇか?」
「だ、だって、朝帰りなんて聞いてちょっと考えたら思い付くでしょう!? それに、し、思斗も悪いけれど、貴方も悪いわ! こういうことするならちゃんと言っておいてくれれば、私だって変な勘繰りはしなかった! そう、そうよ!」
ごもっともで。でも言ったら言ったで五月蝿いと思ったから、なんて言える訳がないし。
「大体、俺が女と寝る訳ねぇだろ」
しかし蓮理はすぐさま首を横に振る。納得がいかないようだ。
「いいえ、わからないわ。だって知り合って日が浅いもの。私に散々あんな猥言を浴びせる変態なら、万年発情期でもおかしくないと思わない? 思うでしょう!?」
お前さ、俺を何だと思って見てるんだ。
「いや、だから顔近づけんなよ、今度は怖ぇよ! っていうか変態言うな!」
仕方ない。これを言えば黙るだろう。俺が女を抱けない絶対的な事実を突き付けてやる。
「あのな、俺は――」
「俺は、何!?」
「――勃たない」
沈黙が流れた。予想はできたが、それでも非常に苦しい沈黙である。蓮理はゆっくりと顔を離し、首を傾げた。
「……え?」
「だから、勃たねぇんだよ!! 何遍も言わせんなこれでも恥ずかしいんだよっ!」
蓮理はどうしていいかわからなくなってしまった。突然の暴露に思考が追いつかない。確かに思斗は以前、不能だの不感症だのと言っていた気もするが、事実だったのか。
「……え、と」
そうだ。まずは
「その、ごめんなさい」
ご愁傷様です、と心を込めて謝らなければ。
「謝るなよ虚しくなるだろうがっ!」
ようやく思考が追いつき、頭が回転に速度が戻った。そうか、これは嘘に違いない。思斗もグルなのだろう。
実際、ここ辺りから蓮理も薙刃も壊れ始め、本当は全然思考が追いついてなどいない。
「……い、いえ! 待ちなさい! それは嘘ね!? 証拠が無いから真実とは言い切れないわ!」
「……だったら、脱げ」
「はい?」
「もしくは夜這いでも掛けて来いよ! 見てろよいくらお前が爆乳だろうが名器だろうが良い声で喘ごうが絶対勃たねぇから! 実際お前の体を見て、犯したいって興奮しても勃たないんだよ!! 性欲ありまくってるけど発散できないんだよ! お前でも無理なんだから他の女じゃ尚更ってわかるだろ!!」
もうヤケクソだと言わんばかりに怒涛の暴露を行う。薙刃は自分が壊れたと理解できていないようだ。
「これでもまだ納得いかないってんなら教えてやるよ! 俺ァ童貞なんだよバーカ!!」
とうとう蓮理の方も我慢ならなくなったのか――様々な過程を無視して壊れた。
「私だって処女よっ!!!」
蓮理の過去最高の平手打ちが唸りを上げて炸裂し、非常に気味良い音が早朝から響いた。
*朝帰り
読んで字の如く、朝に家に帰ること。
多くは遊郭や女の元から帰ることを指し、連理もこっちも意味合いだと勘違いした。