第五章 黒麗の話術者
話すだけなら馬鹿でもできる。重要なのは、伝えることだ―――。
「せんせー、先生に会いたいって人がいるよー?」
兄の側近に自身が狙われていた可能性があったことを伝えてから二日後の朝、いつものように寺子屋へと迎え入れていた生徒達の内の一人が来客を知らせてくれた。稀にこの時間帯でも城の関係者が来る時があったので、兄のことで進展があったのかと思い、すぐに入口へと向かった。まだ授業が始まるには早いし、そもそも何人かはまだ寺子屋に来ていないので、話を聞く程度なら、と思っていた。
「朝から申し訳ありません。信濃領松代町勘定役、真田道則さんですね?」
玄関先で待っていたのは二人組。男衆が多い城の役人達と違い、両方とも女性であった。それも、見たことがある顔。二日前にぶつかってしまった少女達だった。
「あ、貴女達は……」
「慶宸幕府直轄留守居預進物取次番頭、九條蓮理に私の部下で護衛役も務めております……」
「進物取次番の原田早苗ですっ」
と、元気良く挨拶を行う。しかし、それを良しとしなかった蓮理によって背中を思い切り叩かれてしまった。手首の力を使った平手は中々の威力を誇る。
「あいたっ! ……で御座います」
何ということか……彼女達は幕府直轄の役人……! 間違いない。蓮理と名乗った少女は自らの役職を言いながら、幕府の役人であることを証明する書状を前に差し出した。右方下の隅に慶宸幕府の印が捺されている。別に妬む訳ではないが、自分よりも明らかに年下の彼女達が役人で、しかも自分と違って幕府直轄であるというのは、驚きを隠せない。領での役人と幕府直轄とでも地位的に結構な差があるというのに自分のような町勤務の役人だと、雲泥の差と言える程だ。余計な心配となってしまうかもしれないが、彼女達は色々と大丈夫なのだろうか。
「……え、っと……」
言葉が上手く出てこない。喉も渇いてきた。今ここに水があれば一気に飲み干しているところだ。
まず、幕府直轄の高官が自分に何の用なのか。訪ねる相手を間違えてはいないだろうか。大名である兄なら今現在城に居ない訳ではあるが、それでもこの家兼寺子屋ではなく城に訪ねるべきだろう。そもそも、いくら武蔵の近くに位置するとはいえ信濃に幕府直轄役人が来ること自体、そうそうあるものではないというのに。
「突然の訪問で驚かれたかもしれません。重ねて、お詫び申し上げます。もし宜しいのであれば、お時間を頂けないでしょうか。信濃大名、そして貴方様の兄でもある真田幸正公についてです」
蓮理は前回出会った時よりも引き締まった顔で自身を見つめてくる。若々しい容姿に違わず綺麗な顔をしており、直視していると頬に赤みが出てしまいかねない。妻子持ちといえども、そう真っ直ぐ見つめられては困ってしまうのだ。
しかし、その熱は彼女の一言でいとも容易く冷めてしまった。寒さすら感じたかもしれない。
「……あ、あの人のことですか! ……ま、まさか解任ですか!? お待ち下さい、兄は……!」
幕府直轄の高官が出張る、そして話の内容が兄の失踪についてであるならば、兄が失踪してしまったことが幕府に漏れ、解任を要求しに来たという結論に簡単に行き付く。 それだけは避けなければならない。あの人はあの“悪”を滅ぼした英雄。少なくともあの人が伴侶を見つけて子を生し、次代の大名へと育て上げるまでは今の信濃にとって必要不可欠の存在だ!
「……は? え、解任? いえ、そういう話ではなくてですね。少しお話をお聞きしたいだけですので」
「え? あの人の失踪について幕府側から大名解任を命じに来たのでは……?」
蓮理は怪訝そうな表情で道則を見る。何を不思議なことを言っているのだろうか。しかしすぐにその表情は消え去り、先程よりも厳格な印象を持たせる表情へと変わった。
「やはり、真田公は失踪しているのですね。解任、ということに関しては私達は存じ上げていませんが、ご安心ください。私達は貴方の、信濃の力になれると思います」
様々な疑問が胸中を巡るが、一度落ち着く為に深呼吸を行う。そもそも、解任ということは自分の推測に過ぎない。気が動転してしまうと言動を考えないのは愚かな行為だと自分を戒めた。兄の失踪について、幕府直轄の役人が訪ねて来た。解任云々は否定している。だとすると、幕府側がこの事態に協力してくれるということだろうか。そう考えれば、蓮理という少女が言うことも納得できる。そう、捜索が始まってからの城からの報告に吉報が含まれていない以上、この一件を解決するには幕府の力が必要である。
「あの人を……捜し出す協力をして下さるのですか?」
その問いに、蓮理はゆっくりと頷いた。道則にとってその肯定が、輝かしい救いの光のように見えたに違いない。この人なら、必ず兄を見つけだしてくれる筈だと。
「あ、ありがとうございます……! では、早速城の方に……」
「いえ、城へはもう行かせて頂きました。事情は大体把握しております。その上で、私達は貴方様個人にお聞きしたいことが御座いますので。それでは、また夕方にでも訪ねさせて頂きます」
蓮理と早苗は振り向き、外へと出ようとする。しかし、上の者を待たせる下の者など、道則は聞いたことが無かった。故に呼び止めるのは至極当然のことで、下の者としての責務を果たさなければならないだろう。
「え? いや大丈夫です! 信濃に関わる大事な話なのですから、生徒達は自習ということにしておきます。あの子達も、わかってくれるでしょう」
しかし、道則が予想した上の者の反応ではなかった。蓮理は少し眉を顰め、不服そうにこう言った。
「それはお言葉ですが、私達が承諾しかねます。貴方様は通常通り寺子屋の先生として授業を行って下さい。学ぶ、というのも重要なことです。小さい頃は、特に」
道則は唖然とするしかなかった。確かに蓮理の言ったことは正論である。その正しさは寺子屋の先生と呼ばれ、自身もそれを誇りに思っている道則がよく理解していた。しかし、今回は事を急ぐ。
一刻も早く兄を捜し出し、信濃の大名として存在してもらわねばまた、“あの時代”が到来するかもしれない。それにこのことが隣国に漏れてしまったらいくら信濃が中立を掲げていても、大名がいない以上はいつ攻め込まれてもおかしくない状況に陥ってしまう。大名の代役を立てるにしても、その代役が今の信濃を壊して支配してしまう可能性も捨てることができない。少なくとも今現在の信濃の大名の座に就いて良いのは真田幸正だけなのだ。この時間すら惜しく、自身も教師としての矜持を圧し折って提案したのである。
「しかし……いいえ、やはりお待たせする訳には……」
頑として情けを受け取らない道則を見、蓮理は唸るように目を閉じ首を傾げ、手を組んで一考する。そして閃いたかのように一連の動作を解いた。
「それでは、私達も一緒に授業を受けさせて頂きませんでしょうか」
その有り得ない提案に、道則よりも否定に走った者がいた。
「ええっ! 嘘でしょ蓮理ちゃん!? ……じゃなかった蓮理様。もう勉強なんてこりごりだよぉっ! ですぅ!!」
早苗である。最早狙っているようにしか聞こえない。敬語の使えなさに蓮理は呆れたように溜め息を吐き、その束縛を取り払う。幕府内部で公の場にいる時はきちんとした敬語を使うことができていたというのに、これはどういうことなのだろうか。単純で天然故か、場に影響されやすいとでも思えばいいのだろうか。精神年齢的にこの寺子屋に通う子供達とそう変わらないだろうし。……勿論今の言葉が真実でないことを願いたい。
「もう、いいわ。いつもの口調に戻して頂戴。それで……どうでしょうか。私達としては名案だと思っているのですが」
そちらとしてはそうだろうとも! と声を張り上げたい気持ちで一杯であった。道則としてはそんな恐れ多いこと、できる筈がない。そこまで強靭な胃は持っていないのだ。
「そ、そんな……! 私より身分が高いお二方を生徒として扱い、教鞭を振るう等……できる筈がありませんっ!!」
必死の拒否を意に介さず、蓮理はニコリと笑顔で返してくる。少し幼さも見せる屈託の無いこの笑顔を見せられたら迷わず即答してしまうだろう……普通ならば。しかしこの状況下ではそんな呆けたことを行える筈がない。そんな軽はずみに是の返事を返してしまってあちらに授業中にでも不快な思いをさせてしまったら……と思うと背筋がゾッとする。
「お言葉ですが、私達は貴方様より年下です。生徒扱いされても一向に構いませんし、寺子屋の授業、特に真田道則様の授業に興味があります」
こ、この少女は自らの地位をわかって言っているのか……!!
ここは一つ、自らの地位の高さを理解させてあげなければいけないかもしれない。それぞれの役職によって差異はあるが、基本的に幕府直轄の役人なら地方の役人程度、その気になれば一声で首を跳ね飛ばすことができるのである。すなわち蓮理は、悪く言えば道則に自身の首を跳ね飛ばす、自害させるキッカケを作ろうとしているのである。勿論蓮理にそのような考えを持って言っている訳ではないのだが、結果的に見ればそうなってしまうのだ。
「興味があるのは蓮理ちゃんだけだって! 私は大丈夫だから外で待ってるね!」
反対の意思を示していた、そして道則から見れば味方のように思えた早苗はとうとう自分だけは助かる道を見つけ出し、そこに今からでも全力疾走で逃げ出そうとしていた。
「貴女も興味があるのよ早苗。それに私は大丈夫ではないわ。護衛役というのを忘れないで」
しかし残念なことにその走り出そうとした足は掴まれ、道は閉ざされてしまった。一頻り言葉にならない葛藤の声を発した後、観念したかのようにガクリと項垂れた。
「お、おぉふ……よ、よ、よろしく、お願いします……」
道則が手に持っていた教科書を見て吐きそうになったのか、口元を手で押さえて目を逸らす。ここまで勉強嫌いな人間はそういないだろう、と蓮理は思う。早苗はやればできる子なのだが、そのやる、という行動に行き着くまでが大変であり、そしてその行き付く為の状況がかなり限定されてくる。元々努力家な性格ではあるので必要なことは頭に入っていると見受けられるから、無理強いさせるのは蓮理としても好ましくはない。しかし流石に最近は幕府から離れているだけあって気が緩みっぱなしのように感じることが多々あり、引き締める為にも、ここは共に授業を受けてもらうとしよう。早苗は努力家ではあるがそれ以上に怠け者でもあるのだ。護衛役ということで蓮理の身を護る為に必要な知識、武芸に関しては勤勉で今でも武芸に関しては鍛錬を怠っていないが、それ以上のことはやろうとしない。
以前それについて尋ねてみたら、『蓮理ちゃんを護れれば、それでいいからさ』とあっさりと返されてしまった。自分が護られるという立場からすれば、それ以上は何も言えない。一応、向上心は持つように、とは忠告しておいたが……早苗を信頼しておこう。
「し、しかし、信濃の危機と呼べる事態なのです。そんな悠長に」
ああ、この人は優秀だな、と蓮理は素直に思った。だからといって早苗に見習ってほしいとは思わないが。要するに自分と同じ、頭が固く、余り良い意味での優秀ではない。道則の立場なら蓮理とて、早急に事を済ませて平和な信濃に戻したいと考えるだろう。
「しても大丈夫かと……半日程度でどうこうなるとも思えませんし、何よりそのような状態では精神的に余り良くありません。いつも通りの行動をして頂いた方が、そちらも話しやすいと思われます。まぁ、私達がいる時点でいつも通りとは言えないでしょうが……その、何が何でもお嫌と仰るのであれば、無理を言うつもりは御座いません。こちらとしてはそれが最善でありますから、こちらの都合で申し上げた次第で御座います。……駄目でしょうか?」
道則は迷った。彼女達の機嫌を損ねると信濃は幕府から悪い印象を持たれてしまう、という信濃の役人の立場としてではなく、教える者の立場として迷っていた。既に蓮理は英才教育を施され幕府の高官に就いており、その部下の早苗も、少々疎い面も見えるが学業は修了させているだろう。つまり、道則の予想が正しければ(実際正しいのだが)彼女達にとってこの寺子屋の授業などは受ける意味はまるでない。だが、何をどう好き好んでか、授業を受けたいと言っている。学びたいと、そう言っているのだ。そういう意図は無く、ただ単に自分の授業風景を見て心中嘲りたいという魂胆があるのではないか、とも疑った。しかし彼女の真摯な眼差しを見て、彼女達はそんな卑劣なことを考えていない、信頼できる、と判断し、受け入れの言葉を用意することにした。
学びたいと言っている者を拒む教師でありたくはない。
「……それならば……どうかご無礼を、お許しください……」
その瞬間、蓮理の目が輝いた。嬉しそうに、そして今まで落ち着き払っていた姿勢が嘘のように年相応の無邪気さを見せた。
「ありがとうございます。さぁ行きましょう早苗。私達は今から一日、寺子屋の生徒よ。ご高説を賜りましょう。そして生徒らしく振舞いましょう」
やっぱり私、と言い掛ける早苗の手首を掴み、もう遅いと言わんばかりに彼女を繋ぎ止める。
「……蓮理ちゃん意外とノリノリじゃない? 本来の目的忘れて……る訳ないですね、はい。すみませんでした」
早苗は学びたくないという姿勢を見せていたが、彼女も口ではそう言って蓮理に着いて行く辺り、それなりの意欲はあるということだろう……ある筈だと、思いたい。
さて、どう生徒達に説明したものか。
● ●
「ええと、皆おはよう」
おはようございます! といういつもの返事を聞く。しかし、ざわめきは未だに絶えていない。それもそうだろう、と道則は内心溜め息を吐きたかった。何せ自分達の後ろに急遽用意された長机があり、そこに座っているのは自分達生徒より年上の女性二人。……片方は早速寝る体制を準備しているが。
「今日はね。先生の知り合いの娘さん達がわざわざ遊びに来てくれました。遊びに、と言っても今日一日皆と一緒に勉強をしますよ。それでは、簡単な自己紹介を」
という設定である。急ごしらえにしては雑である。在り来り過ぎてむしろ笑ってしまいそうだ。何故か二人からは絶賛してもらえたのだが。何はともあれ、まずは蓮理に手を差し向け、皆の注目を集めさせる。
「はい。皆さんはじめまして。蓮理、といいます。私は寺子屋の先生になりたいと思っているのですが、実を言うと寺子屋には通うことができなかったので将来に不安を感じていました。そこで道則先生のお噂をお聞きし、今回皆さんと一緒に勉強させて頂くことになりました。一日だけの短い間となりますが、よろしくお願いします」
なんという即興的な台詞回しだろうか。当たり前だがそこまでの設定は道則すら知らない。
少々強張った表情を見せていた蓮理であったが、生徒達の拍手に顔を綻ばせた。
「じゃ、次私だね。はじめまして! ん? 声が小さいなぁ。私一人の声に負ける気かい生徒諸君? はい、はじめまして!!」
声の大きさは十分過ぎる。もはや叫んでるという表現の方が正しい。蓮理に睨まれ、遠回しな時間稼ぎを行っていた早苗は委縮しながら自己紹介を続けた。
「あはは……皆元気でよろしいです。えと、私は早苗っていいます。蓮理ちゃんの付き添いできたんですけれど、まぁ一応私も先生の噂は聞いていたので、一緒に来てみました。皆頑張ってね!」
直後に貴方も頑張るのよ、というツッコミが横から飛んできたのは言うまでもない。
拍手の後、道則は頃合いと見て授業に取り掛かった。
「それでは、皆さん。今日は算術からやっていきましょう。蓮理さんと早苗さんはお貸しした教科書を使って下さい。さて、どこまでやりましたかね……」
蓮理は言われたとおりに貸し出された教科書を開きつつ、開いた手で早苗の頭に手刀を放った。
「いたっ」
「寝ようとしない。私達は注目を浴びているの。貴方の行動で生徒達に悪影響が出たらどうするのかしら」
頭を擦りながらも蓮理の言うことは正しいと理解している為、流石の早苗も今回ばかりは真面目にならざるを得ないようである。
● ●
「れんりちゃんとさなえちゃん、またべんきょーしようねー! せんせーもまた明日―!」
夕暮れ、日が沈む前に生徒達は各々帰路へとついた。事情を大まかに話した妻と今年で二歳になる長男は家の方へと待機させ、話は寺子屋の場で行うこととなった。
「とても有意義な時間を過ごすことができました。本当に、ありがとうございました」
蓮理は深々とお辞儀をする。そんな丁寧にお礼をされる程の授業だっただろうか、と思うが純粋にこれは嬉しい。
「それでは、お話に入らせて頂きます。まずいくつか道則様にお聞きしたいことが御座いますので……宜しいでしょうか」
それにしても応対した当初から思っていたことなのだが、いくら年下といえども上官に敬語は非常に調子が狂う。先程の授業では生徒のように、それにしていかにも勉強をしに来た女性という風な口調で馴染みやすかった。この敬語も半分は素なのだろうが早苗と話している口調はもっとくだけている。あの口調の方が授業を行ったこちらとしては安心するのだが。
「失礼ですが、蓮理様。その、敬語は余り……苦手で御座いますので」
その言葉に蓮理は目を丸くする。
「ち、地位のことに関しては、今この状況においては関係ないと、私は思っています。目上の者に対して、敬語を使用するのは当たり前のことでは御座いませんか。それに道則様も、様付けはお止め下さい」
地位は関係ない訳ないだろう。少なくとも幕府直轄の役人にはそんな理屈は通用しない。この女性、本当に幕府の役人だろうかと疑いたくなる程、模範的な態度を見せない。下の者に気を使い過ぎである。
「しかしですね蓮理様! 実際は……」
「ですから、様付けはお止め下さいと!」
二人の呆れた口論に見兼ねた早苗が間に割って入る。やはり蓮理は自覚していても深層的には頑固である。
「はい蓮理ちゃん。一旦深呼吸しようよ」
不服そうな表情を浮かべるが、とりあえずは従う蓮理。道則は彼女が護衛役に抜擢された理由が少し、わかった気がした。
「ん、よくできました。でさ、私は二人の問題を一気に解決する素晴らしい方法を思いついちゃったのですよ!」
また訳のわからない方法だろうか、と蓮理は半信半疑で話を聞くことにする。無論、余り期待はしていない。思考は柔軟だが、ふにゃふにゃ過ぎて稀にとんでもないことを口走る時があるので、油断はできない。
「さっきの先生と生徒の関係を継続すればいいんじゃないかな」
それは道則が先程考えていたことだが、この提案では授業も終わったというのに自分はまだ上官を生徒扱いしなければならなくなる。しかし、蓮理には電撃が走ったようであった。
● ●
「少し脱線してしまいましたが……戻りましょうか道則先生」
「え、ええそうですね。蓮理さん。それで……お聞きしたいこと、とは?」
蓮理はとても早苗の提案が気に入った。そうだとも。先程の授業のような関係で話に臨めば道則を目上扱いとして見做しているし、敬語も多少、自分が素で使っているようなくだけた感じで構わない。素晴らしい提案である。 後で早苗にご褒美をあげなければ。
とはいえ、いつまでも浮ついていられない。ここからが勝負である。
「はい。ではまず、ここ数日の貴方の状況を教えて下さい。何か、異変はありませんでしたか?」
おかしなことを聞くものだ。が、念の為なのかもしれない。城に行って事情を知っているようなことは言っていたが、流石に自分の身辺に関しては城で聞くより本人に聞いた方が良いだろう。幕府側も、自分が次に狙われると予想しているのだろうか。
「わかりました。これは少し前のことなのですが、最初に大名の側近から連絡がありまして……」
あの日、自分達が出会った日のことも、話さなければならないだろう。何も不都合なことはしていない。覚えていることは全て話さなければ。
● ●
真田公の弟、真田道則の元へと向かおうとする蓮理達に薙刃は呼び止める。何か伝えたいことがあるようであった。
「どうかしたの? 服装は何も問題は無いと判断できるけれど?」
「意外と根に持つんだな……とにかく、俺は真田道則を尾行してたんだ。今後お前等がアイツを調査するんだったら、その情報を教えるのが筋だろう。ああ、ついでに言うとやっぱりその乳凶器だわ。服が問題じゃなくてお前の体が……いって! 臑蹴るんじゃねぇよ! 痛いだろ!」
「ついでは余計よ。卑猥な表現は慎みなさい。それで、何を教えてくれるの?」
臑を抱え飛び跳ねている薙刃を冷ややかに見て、薙刃の返答を待つ。さっさと言って欲しいものなのだが。早くしなければ寺子屋が始まってしまう。朝に行って約束を取り付けなければいけないのだ。
「うお……何だよその一部の変態が喜びそうな目付き。俺は正直攻めが良いんだが……まぁ置いといて。お前等と女装した俺が初めて会った日、覚えてっか? あの日に丁度アイツの尾行してたのは言った気がするんだが」
思斗がそのようなことを言っていた。だから自分達が調査することになったのだが。
「思斗が教えてくれたわ」
「そうかい。で、アイツと話を取り付けたんならその日のことを聞いてみるのが良いだろうな。アイツは俺以外の奴にも尾行されていたから。言いたかったのは、そんだけ。以上終了」
「え。何ソレ。そりゃ私だって容疑者から外すよ。シロだよシロ。だってさ、それって狙われてんでしょ?」
早苗に対し蓮理はある程度落ち着いていた。予想していた、というより薙刃以外の尾行がいた、という点を考慮しても、まだ真田公失踪の件から外すのは早計だと考えているからである。
「余りこうまでして疑いたくはないのだけれど、わざとそうさせて薙刃のように自分を尾行する者の目を欺く、とも考えられるわ。性格は非常に温厚。役人としても仕事は優秀で部下からも慕われている人格者であると貴方達が貰ったこの巻物には記してあるけれど、まだ決定打に欠ける。本当にこの人格者かどうかは私と早苗で見極めるとして……薙刃。その尾行していた人物、結局はどうしたの? 真田道則に接触していた?」
お前のその考えは正しいとは思うがね。まぁ実際に見りゃお前もわかんだろ。ありゃあ自分の兄貴をどうこうする程の度胸は無いわ。まぁ俺だって実際に話した訳じゃねぇから何も言えんが。……さて、殴りましたなんて言ったら何て言われっかな。
「目を泳がせている辺り、貴方ちょっかい出して殴って気絶させて捕まえるの面倒臭くて捨てて来たんでしょう。仕方のない人」
おい何この女。乳デカいだけじゃなく人の心も読めたり過去見えたりできんの? うっわ怖っ!
「失礼ね。慎みなさいと言ったでしょう」
「だから何でわかんだよ!」
「貴方の性格を考えたらわかるのよ! というか、本当に思ってたの? 最低ねこの変態!」
「俺がそう思ってるって考えたお前も結構な変態だと俺は思うぜ! 流石、頭良けりゃアッチの知識も豊富って訳ですか……いってぇっ! だから臑蹴るんじゃねぇよ!」
「痛がるから蹴るに決まっているでしょうっ! 聞き分けの悪い子にはちゃんと何が悪いのか伝えて、それでも駄目なら最終手段として体罰も必要よ!」
最終手段の割にゃあ俺もう二回食らってるし、お前それ最初の行動と矛盾してるからな。てかもう最初の台詞とかマジで一部の変態が喜ぶから使用は控えろって。そんで俺には使うな。俺は攻めるのが好きなんだって。
「あ、もうそろそろ時間だよ蓮理ちゃん。なぎなぎの馬鹿は放っといて行かなきゃ」
馬鹿に馬鹿扱いされ、しかし言い返す言葉が薙刃には出てこない。熱を上げていた蓮理は冷静さを取り戻し、踵を返して目的地へと向かおうとする。が、足を止めて
「そういえば、貴方は何をするの? 思斗もさっきから姿が見えないし……」
「思斗はどっかで“貉”の通信機能使って誰かと話すって言ってたな。勿論、場所は知らん。で、当然の如く俺は言わない」
返答に訝しみ、説明の要求を求める視線を投げ掛けるも、それを軽く受け流すように薙刃は二人に背を向けた。
「そんな目をしても言わねぇよ。私事まで逐一伝え合う仲でもないだろ。ほらさっさと行って来いっての。ボロ出さねぇようにな」
そう言ってさっさと去って行った薙刃を見て、早苗が蓮理に言った。
「あー、うん。蓮理ちゃんが冷静さを失っちゃうまで言い争う理由がやっとわかったよ。なぎなぎってさ、たまに人を苛々させる言い方するんだね。蓮理ちゃん相手だとそれがほぼ常に発動する、と」
早苗の見解に同意するように頷き、そして深く溜め息を吐く。
「発動されるこっちの身になって欲しいわね……最後に一発、蹴っておけば良かったわ。ああ、駄目ね私。段々暴力的になってきているわ……こんなんじゃ駄目」
いつも通りだと思うけどねぇ、という早苗の心中の呟きは見事見透かされる。頭を軽く叩く平手の音が響いた。
● ●
松代町のどこかの裏路地、思斗は柵の壁に凭れ掛かり、“貉”の標準的に備わっている通信機能を用いて通話を行っていた。四方に広がった欠片から放出され形成されている光の板の上に、色彩付いていて相手先の顔が表示されている別の板が展開されていた。相手の所有している“貉”に各々設定した言葉を入力すれば、その相手に拒否されていない限りこうして遠く離れていても話すことができる。それに任意で顔も表示可能で、複数人通話も顔見せも可能。製作者様には頭が下がりそうである、と思斗は使用する度に思っていた。
「ええ……そう言わずにお願いしますよ。現状、貴女しか頼めそうにありません」
『あら、随分と懐が潤沢になっているのね。私にしか頼めないだなんて、相当お金を持ってると受け取って良いの?』
通信相手は女性のようである。やや尊大とも取れる口調で、映し出された顔には余裕の表情を見せている。
「いえ、そういう訳ではないんですが……あ、ちょ、切らないで下さい。そのお金を持ってないとわかるや否や通信を切る癖、直してもらえませんかねぇ?」
『無理ね。だって私お金大好きだもの。で? 私に伊豆まで何をしろって言うの?』
高圧的な態度ながら、お金大好き、と素で言ってしまう辺りまだ可愛らしさはあるか、と思斗は僅かに笑った。
その僅かに気付いたのか、またもや通信を切ろうとするのを見て思斗は慌てて止める。
「ですから、あの、切らないで下さい。伊豆まで言って少し調べてきて欲しいことがあるんですよ」
『調べ物? まぁそれくらいなら伊豆までの移動費二倍くらいで手を打ってあげてもいいわよ。その調べる対象によるけどね』
「いやいや、貴女は移動費なんてもの要らないでしょう。ええと、今何処にいるんですか?」
『常陸よ。そうね……遅く見積もっても三時間程度で着くんじゃない?』
「いや本当に素晴らしいですね。徒歩の僕達も欲しいくらいです」
『冗談。アンタ達なんか絶対無理よ。アレは私にしか使えないし、そもそも欲しがって手に入るものじゃないでしょ。自分の運命を呪いなさいな』
何とも辛辣な言葉を投げ掛けてくるものだ。事実なのが余計にグサリと突き刺さる。
『で、その調べ物って何? 同業者の好よ。特別にその依頼、受けてあげる。勿論お金は貰うから』
「ありがとうございます。やはり貴女に頼んで正解でした。それでは先程添付した伊豆の港町に行って、それから死体安置所に向かって下さい」
『ちょっと待ってアンタ何言ってんの頭狂っちゃった? いや、前から狂ってたか。そうじゃなくて』
「そして恐らく身元不明の三人の死体、まぁ二人は始末屋なんですが……彼等の顔の写真を撮ってきて下さい。二週間前に死んだのでまだ安置所に置かれている筈ですし、それに身元不明ですから他の死体と離されている筈です。加えて日付も記してありますので、僕が言う日付を見て頂ければ……おや? どうしました? ちょっと爆発しそうな顔で怖いですよ」
『アンタ、ブッ殺すわよ!! 何で私が死体の気持ち悪い顔面撮影しなきゃならないのよぉ!! やっぱり止める! そんでもってもうアンタ達とも縁を切るわ! アンタムカつくけど薙刃と違ってまだ人間っぽく見えたからそれなりに信用してたけどもう無理! 頭腐ってんじゃないの女の子にそんなことさせようとする普通!? 死んで! お願いだから死んで! お金払うから!!』
「だから、能力的に貴女しかいないんですよ。僕だって心苦しいんです。見て下さいこの苦痛に歪んだ表情……」
『心底笑ってる様にしか見えないんだけど!? 超ニヤニヤしてんですけど!? もう本気で殺すわよ!? ってか殺すっ!!』
「淑女が殺すなんて、止めて下さいよ」
『ふざけた依頼してくる外道が淑女だの何だのと吐かすなぁっ!!』
『全然ふざけていないんですけどね。あっ、そうだ。それじゃ薙刃貸しますよ。彼、暇してると思うので伊豆へ直進するんじゃなく、信濃に回って来て頂いて彼を拾って下さい。写真撮り係兼下僕として扱ってもらって構いませんよ? 確か、下僕を欲しがっていましたよね?』
『あんな化物と一時的とはいえ一緒に旅するなんて絶対嫌! 無理! 死んで! それにその言い方、私がまるで性悪みたいに聞こえるじゃない! 私下僕欲しいなんて言ってないわよ。都合が良くて何でも私の言うこと聞いて従順で忠心を持ってる人を相棒にしたいって言ったのよ! アンタみたいに化物を相棒になんてできるもんですか!』
「それを下僕と言うんですよ? それにそんなに薙刃を褒めてあげないで下さい」
『褒めてないわよ貶してんのよ! とにかくもうこの話、終わり!! じゃあねっ!』
相手は今すぐにも通話を切ろうとしている。それはよろしくないので、隠しておきたかったのだが、奥の手を使うしかないようである。彼女には、言葉からわかるようにお金で釣るのが一番なのだ。
「実は、僕達の今回の依頼、信濃大名が絡んでるんですよねぇ。大名ですよ大名。協力してもらえれば、交渉して貴女にもお金が入るようにできるんですけど……残念です。それでは」
『ま、待ちなさい。く、く、詳しく話を聞こうじゃない。そうね、前金と報酬次第で我慢してあげても良いわよ?』
ちょろいな。あの使いが紙に記していた報酬額を提示すれば、この女性は必ず食いついてくると確信していた。なんせ額が額なのだから。前金自体は何とかやり繰りするとして、問題はその報酬が本当に貰えるかどうか、である。最大の障害は九條蓮理、か。彼女にかかれば交渉は行えないかもしれない。それ以前にそもそも……いや、これ以上は止しておこう。憶測に過ぎない。彼女の働きでこの憶測が固まり確信へと成るかもしれない。この妄想、当たれば自分は凄い。
● ●
道則の数日の身辺について話を聞き終わり、蓮理はまとめに入った。
「つまり、先生は二人に狙われていた、ということですね」
「はい、その通りです。二回程赤髪の人物が視界に入り、最後にお二人と出会った際に城の方から一人、黒髪でした。どちらも異様な視線で私を見ているようで……まぁ、私の被害妄想に過ぎないかもしれないですが」
苦笑しながら答える道則に対し、ここ辺りで明かすべきかと蓮理は判断する。これ以上は騙せない。実際に話し、授業も受けて、彼は間違いなく良心の塊で形成されたような人格者であるとわかった。薙刃の判断は正しかったと言える。
「道則先生。窓も扉も鍵を閉めてもらえませんか? なるべく声は漏れないようにしたいのです。申し訳ないのですが、先生のご家族にも。早苗、貴女は常に迎撃できるように注意をお願い」
「はーい。そんな迎撃だなんて大袈裟だなぁ蓮理ちゃんは」
早苗は立ち上がり、壁に凭れ掛かる。それだけか? と思いたくなるが、早苗にとっては立っているだけ迎撃準備ができたということになる。これでいいのだ。
今までと打って変わった蓮理の雰囲気に、こちらもつい従って鍵を閉めに回る。恐らく念には念を入れてのことだろう。
「全部、閉め終わりました。この部屋は一応防音対策も施していますので、これで大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。それではまず、単刀直入に申し上げます。私達は幕府の役人で、それは間違いないのですが、しかし今回の真田公失踪の件、幕府は認知していません。勿論私達は城へ訪れてなどいません」
それでは、彼女はどうしてこの件を知っている? と、一気に疑念が湧いて出てきた。彼女達はまさか……。
「誤解なさらないで下さい。私達も信濃に来た時は真田公が失踪していたとは全く知りませんでした。……今回、私達が真田公に謁見を願ったのは幕府からの極秘任務を受けているからです」
「極秘任務……ですか。つ、つまり蓮理さんと早苗さんはその為にあの人、いえ大名に会うという訳ですね。その任務の内容というのは……」
蓮理は首を横に振り、少し悲しそうに告げた。
「申し訳ないのですが、極秘ですので。ただ、私達としても余り時間がありません。先程ああは言いましたが、早急に解決したいのが本心です。まずは真田公を見つける。私の推測で物を言わせてもらうならば、奪還という表現が良いでしょうか」
やはり、彼女も兄は攫われたと思っているのか。あの責任感が強い兄が自分から大名という座から離れたりはしない。武の達人である兄が攫われるというのは考え難いが、消去法でそれしか有り得ない。殺されるなど、論外である。
「推測にまで至ったのは、先生、貴方のお陰でもあります。実は先生の言っていた赤髪の人物というのは私の部下なのです。何分目立つ髪色と目付きの悪さが特徴的でして……余計な心配を掛けさせてしまい、本当に申し訳ありません。彼にもキツく、言っておきましたので」
部下、というのと目付きの悪さは嘘であるが、この際そういうことにしておこう。道則の驚愕の表情に少し呆気に取られたが、気を取り直して続けることにする。
……彼、一体どんな尾行をしたのかしら。
「もう一人の黒髪……でしたか、その人物も先生を尾行していたようでして、ご安心下さい。赤髪が気付いてなぐ……失礼、排除しておいたようですので。彼と先生の証言で、その黒髪の人物の存在が確かなものとなりました。先生は決して被害妄想などされていません。しかし、尾行しつつわざわざ城で待ち伏せするというのは、ただの人攫いにしては用意周到過ぎます。恐らく、その人物の後ろに黒幕らしき人物がいると思います。加えて昨日の夜、私達も忍者からの襲撃を受けた際に一人が、真田公がまだ存命しているが危険な状態で捕えられている、と取れる言葉を発しました。これでほぼ間違いなく、真田公は攫われたことが確定します。そして先生を狙う理由なのですが……真田公の失踪が先に起こっている。このことから、先生は幕府の役人としてではなく、また寺子屋の先生としてでもなく、真田幸正大名の弟として狙われたのではないでしょうか……何か、心当たりはありませんか?」
忍者の襲撃……! 自分の知らない所ではそこまで事態は発展しているのか。しかし、心当たりと言われても困る。少し考えてみるも、やはり金目当てでしか思い付かない。
金……まさか、いや……伝える意味は十分にあるだろう。このことは信濃領の大抵の人間が知っていることだ。
「もしかすると、あの男……真田幸道の隠した財産が目当てかもしれません」
やはり知らなかったようで、蓮理は聞き返してきた。
「財産……というと?」
「はい。あの人、いえ兄は結果的に父の後継者ですので、その全てを相続した筈です……筈なんですが兄は汚い金だと言い、信濃復興には一切手を付けずにどこかへ保管したと聞いています。それしか心当たりは……」
蓮理は数度頷き、それに賛同する姿勢を見せた。成程、その在り処を真田公は言わず、弟に託したと思い、狙う……在り来りではあるが、故に可能性は高い。金目当てとは少し考えにくいが……一旦それについての思考は止めておこう。真田公の居場所。それさえわかれば後の諸問題は一気に解決だろう。
「わかりました。では今後、私達は真田公の居場所を探り当てることにします。城の方達が領外にも捜索し始めたなら、私達は領内、特に松代町を捜索します」
「な、何故松代町を?」
蓮理は少し微笑んで、立ち上がった。
「簡単ですよ。貴方がいる以上、そう遠くに潜伏しないでしょう。松代町だけであればそう時間はかからない……今日はこの辺で。外の護衛の人が少し怪しがっていますが、先程生徒達に説明したようにお願いします。城の方達にも私達のことは同じように……さて、もう暗くなってきたのでお暇させて頂きます」
「あっ……はい!」
帰宅の意思を見せ、道則も慌てて立ち上がる。
「それと、この件が解決するまで注意なさって下さい。自分の身もそうですが、特に家族を。一番付け込まれやすいと思いますので……また何か進展があれば、訪ねさせて頂きます。今日は本当にありがとうございました」
早苗もお礼を言い終えた後に、先行して玄関から出ていく。道則も見送りの為外に出ようとするが、蓮理にそこまでしてもらうのは申し訳ないとのことで断られてしまった。そして、お気をつけて、と残し二人は玄関から出て行った。
終始、特に終盤辺りは呑まれ、圧倒されていた。それだけの雰囲気を彼女は持っていた。彼女達(とその赤髪の部下)ならばもしかしたら、いやきっと兄を見つけ出してくれるに違いない。
希望の光が見えた。妻子も護衛達も心配しているかもしれない。とりあえず夕飯を食べてから、護衛に彼女達は教師志望の知り合いの娘と付き添いだと説明しよう。
● ●
その日の夜、道則は妻と子が隣で寝ている布団から抜け出し、縁側で夜風に当たっていた。なにやら眠れない。兄を攫った存在が徐々に明確となり、解決に近付いているからだろうか。
そして兄のことを思い出す。最後にきちんと会って話したのはいつ頃だったろうか。昔はよく自分に優しく接してくれた……過去形を使うのはおかしいか。失踪する前でも、何かと気を掛けていてくれた気がする。どうして、疎遠になってしまっていたのだろう。その理由さえ、忘れてしまった。兄は無事だろうか……。
「駄目だな……考えも取留めなくなってしまう。余計な心配は無用とはよく言ったものだな……さて、寝るとしようか」
返事も無い、自分に対しての言葉を発し、道則は立ち上がり、部屋の方へと振り向いた。その隙に、ソレは出現した。
「夜分に御免。真田道則殿とお見受けする……手荒で申し訳ないが、来てもらおう。大人しくしてもらえるなら、死体を二つ、出さなくて済む」
首筋に苦無の刃が当たる。叫び声を上げようにもその男の言葉の真意を読み取ってしまい、足が震えて声が出ない。何とか見えたのは黒装束。もしや、蓮理が言っていた忍者か。
「賢い選択だ。我々“浦葉忍者”、余り殺生は好まん……両手は縛らせてもらう」
縄で縛られ、為す術なく担ぎ上げられてしまう。その際に庭を見ると、塀の上や木の上等に更に数名、仲間と思われる忍者達がいた。自分は一体どうなってしまうのか……頭が混乱して、覚束ない。せめて家族だけでも……そう道則は祈った。
● ●
影が家から飛び出していく。数は七程度だろうか。その内の一人が何かを担いでいる。間違いなく、真田道則だろう。まさかこんなに早く来るとは思っていなかった。忍者の雇っている奴(あるいは奴等)、雰囲気を出して言えば黒幕は余程焦っているのだろうか。まぁそんなことはどうでもいい。そのまま巣に帰ってくれれば構わない。だが、ソイツは渡さないし巣も突き止めてやる。無事で帰してやると思うな。塵掃除はきっちりかっちり行わないと気が済まない。
薙刃は舌を出し、唇を嘗める。不敵に笑みを浮かべるその様は、妖艶とも取れた。下半身の筋肉が凝縮され、今にも爆発しそうである。そして、屋根を力強く蹴った。
*進物取次番頭/進物取次番
※慶宸幕府直轄の役職は、実在の江戸幕府をモデルにさせて頂いておりますが、仕事内容には差異がある場合もあります。ご了承下さい。
留守居支配の役職で、諸大名等からの献上進物を受け取り、廻送、また贈物を引き受けたり、部下である進物取次番を使って配達を行う。
*“貉”の機能
この世界における電話の役割を果たす。“貉”自体、前回の説明ではしませんでしたが、現実でのパソコンのような役割も持っています。開発当初は衣服といった物体の収納機能だけしかありませんでしたが、後に、本来の“貉”のような多機能が充実した形になりました。基本では話しができる通話機能、現実でのインターネットに相当する検索機能と電脳展開機能、言葉や写真を送ることができる添付機能、等がある。ちなみに値段は結構安く、良心的。
*常陸
現実でいう、茨木の一部に相当する。