第四章 先弟者と血戦華
しかし運命はこう叫ぶ。お前は負ける、と―――。
真田道則は兄である真田幸正と違い、武芸に秀でてはいなかった。また、大名として必要である、他を心酔させる資質も持ち合わせていなかった。唯一の兄に勝ると言える特技は幼少から嗜んできた学問と将棋ぐらいしかない。そのような自分にでも一応、兄の計らいである程度の地位に就かせてもらっている。信濃領松代町勘定役、あくまで松代町の収税や金銭の出納を取り扱う仕事で、信濃領全体を範囲とする勘定奉行とは違う。兄はその勘定奉行に自分を就かせたかったようであるが、自分には不相応ということで断らせてもらった。本音としては登城したくないのである。月に一度、こんな自分の下で働いてくれている部下達を使って松代町の民家を訪ねさせ、職業や収入、収税を調査してもらい、その結果をまとめて城で待つ勘定奉行へ送る。これは他の町村の方法で、自分は松代町勤務であるから手渡しで行う。この際には流石に登城しなければならないが、月一であるのでさして気にはしていない。
このまとめるという作業、道則はゆっくり取り掛かって一週間前後で終了させる。これにも部下を使えば更に早く終わるのであろうが、何だか気が引けしまうということと、道則自身がその作業に取り掛かることができるのは夜間のみであるということ、これらの理由から一人で行っている。ここで夜間のみ、という限定があるのは道則が兼業をしているからである。幕府の役人でも、大名の許可さえ下りれば兼業は可能であり、道則が選んだ兼業は、寺子屋の先生であった。
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「せんせー! おはようございまーす!」
「はい、おはよう。隆太君、今日は遅刻しませんでしたね」
「うん! 今日はお母さんが起こしてくれたんだ!」
隆太、と呼ばれた六、七歳程度の少年は満面の笑みを浮かべ、松代町の少々離れに位置する、道則自らの家を増築して建てた寺子屋の中へと入っていった。生徒数十五名、一週間の内六日間の朝昼を利用して学問的なことを筆頭に様々な知識を教えている。そもそも先生という職業を選んだのは、生来の子供好きな性格と、少しでも生徒達の夢を叶える手伝いをしたいと常々思っていたからである。その考えと性格を持つ者ならば、武芸に秀でなかったのも頷けるであろう。
幸いなことに生徒や保護者からの評判は良く、生徒数をもっと増やしてどうか、という保護者の提案を前向きに検討し更なる増築も考えていた頃に、凶報が来た。
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「道則様、どうか落ち着いてお聞きください。幸正様が……」
休みの日に突然の来訪で驚いたものの居間に通し、幸正の側近、自分もよく見知った初老の男が重々しく口を開いた。自分の兄が、名大名と謳われた彼が姿を消したということ。領民には知らせず、謁見の願いが出ても一時的な不在として隠し通す方針に決定したということ。
「……一時的に、というのであれば領民に一々報告するのは手間が掛かるので、暗黙の了解ということである程度の免除は許されますね。領民を結果として騙してしまうとはいえ、余計な騒ぎを起こすのは得策ではないでしょう。考えたくはありませんが、これを機に内乱を起こそうとする輩が現れる可能性も捨て切れないでしょうから」
冷静を取り繕う為、正論を並べる。男も深く頷いた。
「その通りで御座います。秘密裏に捜索を続けておりますが、状況は厳しく……明日からは松代町外も予定しておりますが、中々人数を思うように割けず……」
男は無念そうに項垂れ、最後の言葉を飲み込んだ。秘密裏というのが絶対条件である以上、少人数であるは仕方ない。
「私の方も、なるべく町へ出て捜してみましょう。大丈夫ですよ。あの人は私と違って生粋の武人です。死ぬ、なんてことはないでしょう」
これは決して男を安心させようと意図した言葉ではなく、本心からであった。兄が死んでいなくなる、というのがどうしても想像できない。男も理解してくれたのか、こう答えた。
「ありがとうございます。しかし、道則様もお気を付け下さい。貴方様は幸正様の弟、もし幸正様が攫われたのであれば、次は道則様かもしれません。申し訳ありませんが、しばらく周辺に護衛を配置させていただきます故……」
道則はこの展開を予想していた。むしろ護衛は本当にありがたい。自分だけならともかく、家族がいるのだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。護衛の方にもよろしく伝えておいて下さい」
男を見送ってから、道則はさっそく家族に断りを入れてから、駄目元で町へと出かけた。賢い選択と言えないことは道則自身もよくわかっていた。
まずは大通りに出て、一つ一つ店内を冷やかしと思われない程度に覗いていく。その次は民家が立ち並ぶ方面へと足を延ばす。松代町は大名が姿を消しても活気に満ちていた……その事実を知らないだけであるが、それでも、兄の功績を表現する人々の笑顔が自分には意識すると余計に眩しかった。“あの男”が暴君として荒らしていた町では、ない。そう考えると、疎遠であった兄を捜さなければ、という使命感が僅かながらも湧いて出てきた。今日は帰りが遅くなると、妻に伝えておくべきだったか。
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それから数日後、進展は無かった。側近からの報告は良いものとは言えず、自分の方の捜索も上手くいっていない。
妻にはこのことを話し、しばらく寺子屋を休んではどうかと心配してくれた。本音を言えば、そんなことはしたくなかった。寺子屋の先生として生徒と触れ合っていることで、兄の失踪という危機的状況にいる自分を癒してくれるからである。勿論、妻と子の存在も大きい。それに、生徒達からの情報も欲しいからでもある。子供というのはどういう訳か、時として重要な情報を握っていることが多い。故に昨日から、松代町の気付いたこと、いつもと変わっていること、と題した集団学習を行っている。そればっかりに時間を割いてはいられないので、一日に一時間程度を目安にしている。集団学習の実施や生徒の探究心や観察眼を育てる為に、と自分に言い聞かせ実施したのだが、兄の失踪以前から予定していたこととはいえ、やはり心が痛む。勿論昨日、今日とでは兄に関することの成果は上げられなかった。
「明日は休みだ。一日、町に出て捜してみるよ。本当は僕も出歩かない方が護衛の人達も助かるんだろうけれど、弟として心配しない訳にはいかないからね。大丈夫、明日捜してみても駄目だったら、後は城の人達に任せるから。あの人はきっと大丈夫。僕とは違う」
心配してくれる妻を何とか先に寝かせ、道則もその隣へと横たわった。明日も大通りを中心に回ろう。いつもより念入りに。恐らく兄は見つからないだろうが、だからといって動かない理由にはならない。疎遠ではあるが、血の繋がりは断ち切れていないと信じたい。
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何かを、感じる。武の修練を碌に積んでもいない自分でも肌に伝わってくる。この雑踏の中、確実に自分を注視している視線は……いくら撒こうと動き回ってもべっとりと張り付いて剥がれない。護衛の者によるものか? いや今まではこんなことは無かったし、彼等はこんな視線を発したりはしないだろう。いかにも殺してやるぞ、と言いたげなこの視線を。生きてきて二十七年余り、初めての感覚。しかし本能が告げている。これは危ない、と。
いきなり走る訳にはいかない。向こうに自分が視線に気づいたと知らせてしまうことになる。そうすれば視線の主は次の段階へと移る可能性が高くなる。その次の段階が、恐ろし過ぎて口にすら出せない。もし家族に飛び火でもしたらと思うと……ゾッとする。走って変に事を荒立てず、この視線に堪えて、本来の目的を思い出して果たそう。それに護衛もいる筈だ。彼等も気付いて対処してくれるかもしれない。
心を落ち着かせて、息を整える。いつまでも立ち止まっていては怪しまれる。焦らず、ゆっくりと歩き出そう。
十数分程進んだ時、道則は店先に立て掛けられた鏡に写り込んだ。陽の光の反射が目にチラつき、その鏡に気が付いたのである。その店は呉服屋であったので、恐らく客が試着の際に使用する鏡である結論に至るには左程時間を要しなかった。どうして店先に立て掛けられているのか、と疑問に思って手に取った。この一件と視線で心労が重なっているのか、少々やつれた頬をした顔が写っている。兄が見つかれば、少しは豊かさが増すだろう。
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どうして、疑問に思ったのか。どうして、鏡を手に取ったのか。どうして、すぐに手を離さなかったのか。見えた。見えてしまった。手を伸ばして鏡を見つめていると、ソレが見えた。自身の後ろに写る雑踏の中、赤。血溜まりのように赤く、不吉な色。間違いなく、こちらを見ている。心臓の鼓動が鮮明に、大通りの喧騒が気にならなくなる程に大きく聞こえてきた。心が混乱してぐちゃぐちゃになる。見てしまった見てしまった見てしまった。自分は、あの赤によって死ぬのか。殺されてしまうのか。そこまで考え込んでしまう程に、あの赤は凶を放っている様に思えた。
「あー……お客さん、すまんがね。そりゃ売りもんじゃないんだよ。そもそもウチは呉服屋だし、置き場が無かったから外に出していただけで」
呉服屋の店主らしき人物が言わんとしてることは理解できた。道則とてもうこの鏡を持っている意味はない。謝りを入れて、鏡を手渡した。店主が店の中に入っていくのを確認して、方向転換という名目で後ろを振り向き、あの赤を視認しようとした。怖くて怖くて堪らないが、これが俗に言う“恐いもの見たさ”というやつか。好奇心を刺激された訳ではないので、違うかもしれない。兎にも角にも、鏡を介してではなく自らの目で存在する者として赤を認識した方が、ほんの少しは気が楽になろう。ゆっくりと、振り向いた。
「な……ど、して……」
雑踏の中、見渡してもあれだけ目立つ赤が存在していない。店主に声を掛けられるまで、鏡に写っていたというのに。諦めたのか? それとも護衛達があの赤の存在に気付き、対処に向かったのか? 護衛達に何か無ければ良いのだが……。
しかし、先程の域ではないがやはり視線を感じる。あの赤は身を隠して自分を狙っているのだろうか。どちらにせよ、これが最後の機会かもしれない。まずは大通りを通って……そうだ、城へと向かおう。当初の目的を忘れている訳ではないが、このような視線を感じていては兄の捜索どころか、自分自身の身も危ない。もし自分に何かあれば城の人達に更なる負担をかけることになるし、何より家族だ。視線が感じるようになったのは町に出てから。自分の家がバレていないという証拠にはならないが、少なくとも、この視線が途切れるまで家には帰れない。
「あーっ! 先生だぁ!」
不意に、考えに没頭していた道則を現実へと引き戻す聞き覚えのある声が飛んできた。
「ああ……佳代ちゃん。それに、お母さんも」
寺子屋の女子生徒である佳代とその母親は足早に道則へと近付いてきた。
「先生、いつもありがとうございます。いつかきっと、きちんと授業料は……」
払わせてもらう、というのは言わせたくなかったし聞きたくなかったので、道則は両手を少し上げ、言葉を発するのを制止した。
「その件については、もう終わった筈ですよ。ご主人も職場に復帰できたのでしょう? その為の治療費なら、私の所の授業料等に気にする必要はありません。他の先生方のように本職としてやっているとなると話は変わってくるかもしれませんが、私の場合は兼業ですので。お支払できないのであれば、それは一向に構いませんよ。佳代ちゃんが学びたいという気持ちを持って寺子屋に来て下さるのであれば、お金なんてものはどうということはありませんから。正直、貰い過ぎな気もするんですよね。来月から新しく数人程通い始める子供さんもいらっしゃいますので、人数が増えればその分個別に教えられる時間は限られてきます。なので来月以降は今より授業料は安く設定するつもりですので、ご無理なさらずに」
できるだけ笑顔を作り上げ、応対する。少し傲慢な言い方になってしまっただろうか。いや、最後の下りだと、遠回りに払えと言っているものではないか? す、すぐに訂正しなければ!
「ち、違いました! あ、いえ、今のは払えと言っている訳ではありませんよ!?」
慌てて弁明する道則を見て、佳代と母親はクスクスと笑い始めた。
「先生いきなり慌てちゃって変なのー」
「本当にありがとうございます、先生。先生がそう仰って下さるのなら……しかし、やはり私の家だけそこまで優遇してもらうのは……」
「いえ、元々無料でやっていたのですから……実は他にも授業料は構わないと申し上げた家があるんですよ。これ、内緒にしておいて下さい」
母親はまた小さく笑い、道則に深く頭を下げた。勿論、そんな家は無い。ここは信濃領松代町。神州で最も平均化された領にあり、その信濃の中でも更に平均化された町。この家族は稼ぎ頭の父親が木こりであり、その作業中に怪我をしてしまって治療費を何とか捻出した結果、平均より貧しくなってしまった。今は父親も完治し、復帰したと聞いているが、それでも元々他の寺子屋より格安だった授業料すら払えず生活するだけで精一杯であるという。そのような事態に陥ってしまった家族は本当にごく少数であるし、その少数もすぐに持ち直して再起する。富民はそうそう生まれないが、貧民も同じ様に生まれないのである。この家族が早めに回復することを祈ろう。それにしても気になるのは、その父親がどうして怪我をしたのか、丸っきり覚えていないということなのであるが……。
「……? 先生、どうかされましたか?」
顔を上げた母親が道則の強張った表情を見て、首を傾げた。
「あ……いえ、少し急用を思い出したので、それでは。佳代ちゃん、また明日ね」
また明日ねー、という佳代の声を背に、速足で大通りへと向かう。いたのだ。母親が頭を下げた時に少しばかり視界が開け、その先にアレがいた。あの、赤が……近付いて来てはいないだろうか!
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薙刃は難儀していた。自身はまどろっこしいことを嫌う。故にそのようなことは全て思斗に任せてきた。そう、薙刃に尾行なんてできる筈がない。
「怪しまれないように女装ぉ……? 絶対アイツ楽しんでるだろふざけんなよいつか同じ目遭わせてやらぁ」
余りにも女装が型に嵌っており、その美貌から声を掛けて軟派を行う者もいない。その美女……もとい女装した美青年はこの事実にしかめっ面である。行き交う人々の話し声を聞いていれば、自ずとそういう事実であると固まってくる。
「声掛けられたら掛けられたで気持ち悪いけどよぉ。何なんだこの複雑な心境。あぁ? 『美女過ぎて俺なんかには手ぇ出せねー』じゃねぇよっ! 顔しか見てねぇのか胸見ろよ乳ぃ!」
まだまだ言いたいことは山程あるが、流石に人の目が訝しむものになってきたのでグッと堪えて飲み込むことにする。思斗をどうやって思い知らせてやろうかと考えながら、尾行対象である真田道則を見据えることにした。
薙刃は視力が優れている。というより五感が異常な程発達していると言った方が良いだろうか。ここから相当離れているが、真田道則をはっきりと視認できている。思斗が薙刃に尾行を任せたのはこの理由もあるのだが、最大の理由は厄介払いである。思斗は別行動にて大通り経由で城へと向かっており、夕刻には城に着くようにすると言っていた。その間、人通りの多い大通りを歩きながら聞き耳を立てて、情報収集に勤しむらしい。その際に薙刃は不要で邪魔となるし一緒に行動しては効率が悪い。経験だということで薙刃はまんまと尾行を押し付けられ、ついでに女装までさせられたのである。
「あーくそ。尾行ってこんなにつまらねぇのかよ。地味で面倒臭いことやるのは思斗の方が似合ってんだろ。アイツだって正直……って言うか、女装失敗だわコレ。逆に目立ってらぁ……ヤバい脱ぎたい。上半身だけでも」
服装は我慢できても、化粧は絶対に嫌だということで拒否したのだが……ある意味で逆効果であったかもしれない。人々の羨望の目がウザったい。そんなに羨ましいと、見惚れてしまうと思える容姿ではないだろう。本当に理解し難い。そうやってしばらく自らの女装と思斗について愚痴を呟きながら道則を尾行、監視し続けた。
……アレ、えー名前何だっけ? 忘れちまったよ畜生が。とにかく、あの男、本当に真田公の失踪に関わってんのか? あんな気ィ弱そうな野郎がか? あの殺されちまった使いの奴、疑う対象ズレてねぇ?
愚痴から思考が移行して道則に対する疑いについて考えていると、道則は移動を始めた。少し立ち止まっていたのは薙刃の視線に気付いたからなのであるが尾行素人の薙刃がそんなことを感付く筈もなく、合わせて移動を開始する。距離を保ち、目立たないよう地味な存在へと自らを変化させ、相手に悟られないようにする。思斗から教わった尾行の基本である。それは間違っていないのであるが、くどい程述べている女装した薙刃は目立ってしまっている。すなわち、基本を教えた思斗の提案が目立つ要因となっているのだ。これは勿論思斗自身が薙刃を弄って楽しむ為に目立つと知っててわざとさせたのだが、如何なものだろうか。
「もうシロでいいんじゃねぇの? 腹減ったなぁ……って、あぁ!」
腹部を擦ってほんの少しばかり自分の右方向に位置している蕎麦屋へと目を逸らした隙に、道則は姿を消していた。否、いるにはいるのであろうが、雑踏という名の壁に覆われてしまっていてまともに視認できやしない。いかに薙刃が視力に優れていたとしてもこのままでは見失ってしまう可能性が大いにある。尾行素人である薙刃でも、その危険性を理解することはできた。
もはや考えている暇は無い。見えにくいのであれば、見えやすくなるまで距離を詰めるまでである。幸い、道則の進路方向には呉服屋がある。非常に遺憾であるが、今の自分は女性にしか見えないだろう。近付き過ぎても、呉服屋に訪れようとしている一般人女性として振る舞えば怪しまれはしない。勿論そう確信に至った自信の根拠は、無い。
「ん……?」
何か急に、鼻に付く気配を感じた。行き交う人々からの視線ではなく、何と表現すればいいのだろうか、気持ち悪い何か……。
僅かに薙刃は行動を止めたが、気のせいだと判断し対象への接近を続けた。最難関である雑踏の壁。この向こうに道則はいる。何かを見つめているようだが……?
「鏡ィ? おいおい真田公の弟ってもしかして自己愛陶酔者の類か何かか? そんなに自分見て楽しいもんかねぇ」
自己愛陶酔者。つまり外来語で言うナルシストと薙刃は言いたいらしい。薙刃は稀に、こうした造語を作る。その犠牲となる言葉に、神州語も外来語も区別は無い。思斗はコレを“薙刃語”として本人には内緒で楽しんでいるのだが、それは今現在において関係の無い話である。
顔を見て楽しいのか、と訝しむのにも理由がある。薙刃は鏡を見ることを嫌うのだ。心底、という訳ではないが消極的なのは確かである。むしろ心底嫌っているのは、自分。容姿、声、全てが気に入らない。自分は本当に“薙刃”なのかと疑うのも、両手両足で数え切れない程であった。これからも疑い続けることは明白なので、いつしか薙刃はその回数を数えるのを止めてしまったのだ。
「さて、どうするか……お、誰と話してんだ?」
人のごった返しである壁の内部まで進んだところで、薙刃にとって予測できない事態が起こる。と言うより察知することはできたのであろうが、道則と店主のやり取りに意識を持って行かれてしまっていて察知、予測できなかったという結論が正しいか。
「ちょっとそこの別嬪さん! 立ち止まってないで歩いた歩いた!」
誰かはわからないが、声が飛んできた。いやそんな事より。
おいどいつだ俺を別嬪って女扱いしやがったのは。直接言われっと無性に腹立つんだよコラさっさと出て来いよ殴り飛ばしてついでに頭から地面に埋めてやる。
「って、うわっ!」
どんどん、どんどんと流れていく人に押し出されてしまい、また壁の外へと戻されてしまった。道則の姿も途切れ途切れにしか見ることができない。
別嬪って言った奴と押した奴今度会ったらブッ飛ばしてやる……! 仕方ねぇ、ここから見るか……案外、身を隠すにゃうってつけかもしれねぇな。ってこっち見た! い、いや大丈夫だ。この人でできた壁ってのは結構分厚い。俺の相当目立つ赤髪もちょっと身を屈めれば隠れられる! ……そもそも、こんなことするならカツラぐらい被ってくるんだったわ。割と後悔してる。ケチるんじゃなかった。
どこからその自信が湧いて出てくるのか。勿論、根拠等無い。しかしその行動が吉と出たのか、実際に道則は赤と称していた薙刃を見失っていた。
「また誰か来たな……子供連れの女か。そういや寺子屋の先生もやってるって巻物にあったような気がする。ってことはあのガキが生徒か。で、思斗ならこれを“浮気現場”ってするだろうな」
薙刃の言う通り、ここでもし思斗が尾行を行っていてこの現場を発見したら、七割冗談三割本気で“浮気現場”と見做して一人ケタケタと笑うに違いない。しかし薙刃にとって人の色恋沙汰だの三角関係だのという情報は至極どうでもいいと思っている。そこまで考えてやる程自分の脳は安くないし、他人の愛の現場なんて興奮もしない、見たくもない。愛なんてものはくだらない。あんなもの何が楽しいというのか。その果てにあるのは、性交。薙刃が最も嫌悪する、性的欲求を満たし合う行為。気持ち悪くて吐きそうだ。心中、本音を吐露して“浮気現場”でないことを祈った。どこの誰に祈ったかは、薙刃もわからない。
弁明の為に述べさせてもらうと、そんなことをする真田道則は勿論いない。彼は家族を何よりも優先する、父親である。
「あっ、そうだ」
まだ自分はバレていないのだから、先回りして近くから見てみることにしよう。さっきまでの進行方向の延長線には……駄菓子屋がある。駄菓子を見ている女性(女装した男性)等、そうそういるものではないがこの場合は致し方ない。そうとわかればさっそく行動あるのみ。少し勇気を持って雑踏の中に飛び込んで進めばすぐに着くだろう。
「……またか?」
これは一体何なのだろうか。何やら見られている気がする。明らかに異質な視線だ。歩きながら辺りを見渡す。こちらを見ている怪しい輩はいないし、いるような気配もない。しかしこれは何だ? 数秒程の違和感であったが、二回目とあっては流石に疑問に思うし警戒態勢も取ってしまう。先程判断を下したように、気のせいであるなら面倒臭くなくて良いのだが……。
「あ? ん? うっわ通り過ごしちまった」
気が付くと目的地の駄菓子屋は後方にあった。急いで雑踏の壁から抜き出て駄菓子屋へと向かう。幸運なことに、まだ道則は話を続けていた。そのことに安堵しゆっくり歩き始める。と、ここで薙刃が閃いた。
「少々予定が狂っちまったが、そうだよ別に反対方向から来てるって設定でも良いんだよ。やっべぇ何この機転の良さ」
冗談を交えた自画自賛をしていると、当初の目的地であった駄菓子屋へと到達した。到達したはしたが、もうここに用は無い。とっとと通り過ごしてしまおう。
「ってあれ? おいおい逆方向とか聞いてねぇぞそこもう通った所だろ」
予想外の行動につい立ち止まってしまった。道則はあの子供連れの女と別れてから、急に速足で来た道を戻り始めたのである。何だ忘れものか? それとも同じ所を何度も行ったり来たりか? それってどうなんだよ。と心中ツッコミながら、こちらも速足で距離を保とうと足を踏み出したその時、萎れた声が飛んできた。
「お若いの」
たまたま店の外にでていた店主と思われるお婆さんがにっこりと微笑みながら突っ立っていた薙刃の右手首を掴む。
「何の菓子を買ってくんだい?」
これは厄介なモノに捕まった、と薙刃は瞬時に理解できた。ここで華麗に振り解けなければ最悪、見失ってしまうだろう。そんな失態を犯せば思斗の野郎に何て言われるか堪ったもんじゃない。
「え? いや俺……いや私は買いに来たんじゃ」
円満に、かつ円滑に終了するには強引が一番である。そもそも、嘘は吐いていない。
「嘘吐いちゃあいけないね。大丈夫、あんた細いから菓子ぐらい食べても平気だよぉ。それにあんたの場合食べなきゃ、胸も大きくならないよぉ? で、飴かい? “かすていら”かい? 最近の外来品だと“ちょこれいと”って菓子が人気だよ」
だから嘘吐いてねぇって。ってかこのバァさん、結構直接的に俺を女扱いしてやがるよなふざけてんじゃねぇぞ。巨乳になりたい男がいるかよ。そもそも菓子食ったところで巨乳になったら世の中の、特に女のガキ共は将来全員“吉原”に就職希望するわ。
なぁバァさん、いい加減にして放せよ、尾行してんだ放っといてくれ。と叫び倒したかったがそんなことをすれば面倒臭いことになるのは明白になる上、店主のお婆さんによる勢いも相乗して、結局飴を数個程お買い上げの後に道則を追う形となった。
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速足で城前へと向かっていた道則が、一人の女性と衝突してしまったのを目撃し、念には念を入れて物陰に身を隠しての盗聴と洒落込むことにした。その女性というのはいずれ知り合うこととなる、原田早苗である。
「何をやっているの。申し訳ありません。連れがご迷惑をお掛けしました。ほら……貴女も早く立って」
その女性の後ろから駆け付けるように姿を現したのは、後に九條蓮理と名乗り行動を共にする、黒髪の女性であった。
綺麗だ、と薙刃は素直に感じた。全面的に好意を寄せられる春本の主人公みたいな顔をした思斗は自分と少し離れて行動しているとよく、というか結構な頻度で女性に言い寄られている。自分と一緒に行動している時は遠巻きから見ているだけで、何もしてこない。この事実に気付いた時は非常にムカついて仕方が無く、その怒りは、俺は同性愛者じゃねぇ、と叫び散らしてやりたかった程である。話がズレそうではあるが、こうした相棒と共に旅をしてきた自分は、大抵の輩より女というものを見ている自信がある。思斗に声を掛けて言い寄るのだから、それなりに可愛いか美人の女だ。しかしその中でも、あの黒髪の女は飛び抜けていた。端整な小顔に、猫のような印象を持たせる大きくてつぶらな紫色をした瞳、しかも若干ツリ目。大人びた雰囲気を醸し出している美人であるが、何処か可愛らしい一面も持っている様に感じられた。平均化された信濃に、こんな美貌の持ち主はいないだろう。あの明るい茶髪と髪と同じ色の瞳をした女性も、中々の水準の顔である。身長が自分と同じか……いや、自分の方が少し高いぐらいか。何にせよ女性にしてはかなりの高身長の部類に入るだろう。こちらは美人というより天然が入っているようで整ってはいるものの、あどけない可愛さという風に感じた。自分達と同じ旅をしている者達か、近隣の領からの旅行者か。
知り合い、という雰囲気ではなさそうだ。あの黒髪の女の言葉からもそれが窺える。
「ご、ごめんなさい……目の前が蕎麦しか見えてなかったよ~」
おい茶髪、どんな視界で世界を見てんだ。
「い、いえ、大丈夫です」
道則が苦笑して答える。しかしその苦笑すらすぐに掻き消えてしまった。追っている最中に考えていたある疑念。道則は速足で来た道を戻った。自分のいる方向、元々の進行方向を変更して、だ。そして苦笑から焦りが垣間見える表情、せわしない仕草……薙刃の疑念が確信へと変わった。
あ、間違いなく尾行バレてんじゃねぇか失敗だよバーカ!
「あの……もしかしてぶつかった際に落し物でも?」
おい黒髪美人。お前もちょっと天然入ってんのか。落し物だったら左右上見る必要ねぇだろうよ。いやそれよりもどうする俺。今はあの二人が意図せずしてアイツを足止めしてくれているが、問題は別れた後。なんせアイツが今いる地区は城前。城ん中に駆け込まれたら尾行も……いや終わって良いんだよ。よし、城行け城に。やっとこんなつまらねぇことから解放される!
「い、いえ。何でもないんです。あの……こっちもぼうっとしてたんで、えっと、すみませんでした……そ、それでは!」
「え、あ、ちょっと」
よしよし、そのままその二人を通り過ぎて……ってあれ? おーいそっちじゃねぇよそっちは来た道だ、そんな牽制要らねぇからさっさと城に……あ、駄目だ見失った。人邪魔臭ぇよクソッタレ!
「……何だったのかしら」
「んー……? 何だろうね?」
いやマジで何だったんだよ。まぁ尾行は終わったっぽいから結果的に良しとしようか。後はあの二人からちょっと話聞いて……、橋渡り終えたぐらいに声掛けようか。軟派野郎と思われなかったら良いんだが。
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赤はあれ以来、見ていない。だが何処かで自分を監視しているに違いない。道則にはそう確信する根拠があった。目の前の少女達の先、城の近くにまさか仲間がいるとは思ってもみなかった。しかしよくよく考えてみれば単独で自分を狙っていると決め付けたのは早計であったか。遠くからであったが、間違いない。あの男は絶対に自分を、真田道則を狙っている。衝突したのは道則が全面的に悪いというのに随分と素っ気ない態度を取ってしまったのは遺憾で、本当に申し訳ないのだがあれ以上話して関わるとあの少女達を巻き込む可能性が浮上してくる。自分のせいでこんな若い芽を摘ませる訳にはいかない。待ち伏せされている以上城には、行けない。戻るしか選択肢は無いという結論が出た。
何とかして大通りに戻り、生きて家に帰らなければ……!
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「ちょいと、そこの嬢さん二人組」
二人が橋を渡り切ったのを見計らって、近付いていく。今思えばこんな女装野郎が軟派する訳ないか。少し気が楽になった。
「あ……」
二人の目から発せられる、例に漏れない羨望の視線が注がれた。慣れたくはなかったが、もう慣れてしまった。さて、口調に気を付けていこう。いやしかし。
あー、初めて見た時から思ってたことだけど、もう言わせてもらうわ。や、口には出さずに心の中で言うから大丈夫、問題無い。正直口に出したいんだけどな。こればっかりは仕方ない。初対面でいきなり言える程俺は大物、もとい大馬鹿者ではない。さて……何だよこの巨乳ってか爆乳。ここまで近いと迫力あり過ぎて吃驚したわ。アレだ、エロい。この“エロい”って外来語と神州語がくっ付いた、艶かしいとか卑猥だとか堅い表現を簡潔に、加えて語呂も良いという凄い言葉だ。この情報の入手元は勿論思斗から。これは多用していこう。で、まず全体的にエロい。谷間エロい。白い着物を基調として下には足元までの藍色のスカートと和洋混合の服装。思斗も自分もこれを動きやすいので愛用している。信濃では若干浮くが。いやこれはどうでもいい。その服装を身に付けているのだが、寸法が小さいのではないかと思うくらいに輪郭線が丸分かりになっていてエロい。特に乳。西瓜かと思うぐらい丸くてデカくてエロい。俺が思うに女はまぁ、乳があれば良いと思う。一番女性だと認識できる部位だから。でもこれはちょっと規格外なんじゃねぇか。これさ、もういつ欲情した野郎に強姦されてもおかしくねぇよ。あーエロいエロい。おっとあんまり見てたら感付かれて厄介なことになっちまう。見納めとしてチラ見しておこう。
「何、少し聞きたくてね。嬢さん方……あー、そちらの茶髪さんかな? ぶつかった男、知り合い? もし知り合いであれば、聞きたいことがちょっとばかしあるのだけれど」
「え? いや別に? ってか、私達今日ここに来たばっかでさ。だから知り合いなんて一人もいやしないよ……ああ、彼女は勿論別だよ?」
成程、やはりこの二人は余所者であった、と想像通りの結果に薙刃は気付かれない程度で、口角を吊り上げ満足に浸る。自分達も余所者だが、と心中付け加えておいた。
「ふぅん……ま、見失ったしもういいか。これ以上は無駄骨だろうし、嘘は吐いてなさそうだし、何よりも面倒臭くて仕方ねぇや」
ああ、ようやく終わった。もう一日中追い掛け回した気もするが、まだ一日は終わっていない。腹も減ったが眠いのでさっさと宿に戻って寝ることにする。夜には思斗と落ち合う予定であるのでそれまでには起きればいいか。さて、もうこの二人から聞き出すことはない。少々名残惜しいが(特に乳)お別れとしよう。
しかし、何やら視線を感じた。三度目の嫌悪感を感じる視線である。ああ、せっかく気持ち良く、しかも良いものを見た直後にこれは無いだろう。目の保養が台無しだ。視線の主は、二人組が歩いてきた先、橋の上に立っていた。冷徹で、情の欠片も無いように感じられる瞳をしている。この二人の綺麗な瞳を見た後だと見劣りするように感じる。ここでもしかすると、道則もあの男に見られていたのか? という疑問が生まれ、一考してみることにした。だとしたらあの男のいる位置から城へ向かわなかった理由がわかる。問題は、どうしてそう判断できたのか、ということである。
俺のように“他に異常に敏感”という訳でもないだろう。
が、残念ながらそれに関してはとりあえず保留にしておかなければならないようだ。あの男が徐々に近付いて来ている。元々この二人から俺のようにアイツのことを聞き出すつもりだったのだろうが俺に先回りされてしまい、今度は俺に接触するつもりだろうか。面白い。
そして二人の視線に気付く。しまった、今の口調、素が出てなかったか? ええと、こういう場合は袖を口元に当てて咳払いすると上品に見えるって思斗が言ってたな。よし実行しよう。
「ええっと。ありがとう。ここに来たばっかりだって? うん、ゆっくり観光することを勧めるよ。食べ物も美味しい、良い所だよ。空気も澄んでる。気候もどうやら、しばらくは穏やかで雨の心配もなさそうだ。それに……や、ええと、まぁ自分も先日来たばかりだからこれ以上は詳しくは言えないけれど……それじゃ」
うん、全然思ってもないことをズラズラ並べられるようになった辺り、大分俺も思斗に毒されてきたな。後で殴っておこう。
ゆっくりと後ろを振り向く際、もうすぐ橋を渡り切ろうとしている男に目で訴えかけておく。『来い』、と。それに呼応して男も、是の視線を投げ掛けてきた。一瞬の内のやり取りであったが薙刃にとっては特に大したことはしていない。彼女達にこのことを気取られることのないよう場所を変える為、人気の無い、細い路地へと入っていった。この格好で男を誘い込むのは胸糞悪かったが、仕方ないと無理矢理割り切った。
● ●
「はぁっ……はぁっ……」
大通りの中間地点で、道則は来た道を振り向いた。速足で小さい息切れを起こすとはやはり自分は兄とは違うと痛感したが、それよりも……もう、感じない。あの場から離れて以来、急に視線を感じることは無くなった。撒くことができたのか?
「道則様」
「う、うわっ!」
背後から不意打ちのように掛けられた声に驚き、声を上げてしまった。敵意が感じられないことと、自分を様付けすること、加えて一度顔合わせした際の面々が揃っていることから護衛の者達だと判断する。
「き、君達か……驚かさないでくれ」
「それはこちらの台詞です。まさか道則様がここまで積極的に行動される方だとは聞いておりませんでした。……余程安堵したという表情をしておられますが、どうかなされましたか」
訝しむ護衛達を見て、あの男や赤の存在によって自身が脅かされていたことを彼等は知らないと理解した。それならそれで良かったと思う。彼らの腕を信頼していない訳ではないが、アレ等にもし気付いて対処に向かった場合のことを考えると、彼等が無事で本当に良かった。
「いや、何でもないよ。迷惑を掛けたようで、申し訳ない」
「み、道則様!? 私達のような者共にそう易々と頭を下げられては……!」
「と、とにかく今日はもうお帰りになられた方がよろしいかと。あれだけ精力的にお動きになられたのです、お疲れでしょう。ご自宅の方も我々の仲間が待機しておりますのでご安心を」
そうか、家の方にも護衛を回してくれていたのか……良かった。結局兄は見つからなかったが、進展はあった。兄の側近にこのことを伝えるべきだろう。
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「よぉ塵。俺にガン飛ばしてまで言い寄りたいんだったら直接来りゃあいいものを、コソコソと見やがってアレか? 性癖が視姦で見てると勃ちますってか? 笑わせてんじゃねぇぞホモ野郎。生憎とテメェに突っ込ませる穴はねぇよボケが」
ホモ、というのも思斗から教わった。男性の同性愛者の事を外国ではそう言うとか何とか。思斗の言っていたことだからまぁ、間違いではないだろう、多分。ちなみに女性の場合は“れず”と言うらしい。発音はまた今度教わることにしよう。
「貴様……男か」
「見てわかんねぇのか。眼球大丈夫かよ腐ってねぇか?」
「女であるなら忠告だけで済ませてやろうかと思っていたが、男とわかればそういう訳にもいかん。嗅ぎ回る鼠めが……ここで死ね」
狭く入り組んだ路地の奥、薙刃は壁を背に男が腰に差していた刀を抜くのを見た。成程、どうやらこの男は真田公に一枚噛んでいるらしい。ボサボサに伸びた黒髪、その前髪の隙間から対象を確実に見据える鋭い目。そこから発せられる眼光は、“本物”を示していた。以前の始末屋のような雑魚とは違う。素性は知れないが、腕が立つことは理解できた。しかし、所詮はこの薙刃に屠られるだけの存在。己の無力さに絶望して打ち拉がれろ。
「……ハァッ!」
初撃、横薙ぎの攻撃を宙に飛んで軽々と躱す。その隙を狙い、宙にいる薙刃を突き殺そうと腹部に目掛けて点となった刃の切っ先が襲いかかった。
「おっと」
しかしその思惑は外れる。腹部に刃が届く寸前に迫り来る刀身の峰を右手で掴み、それを支点として身体を持ち上げその勢いと重力、更に脚力によって男の頭に踵落としを炸裂させた。男はふらつきながらも距離を取る為、後方に飛び退く。ここでいつもなら薙刃は追撃として腕力に任せた殴打を繰り出すのだが、今回は敢えてそれを行わない。いつも瞬殺を行う薙刃を見た思斗の教え、『情報を引き出してから、気絶させるなり殺すなりしてください』を実行してみようと思ったからである。
「発情期迎えた猿じゃないんでね。大人しく強姦されて喘ぐ変態だと思ったかよ屑野郎。こっちゃお前と違って動きにくいっつーのにそんな簡単に返り討ちに遭っていいのかぁ? 良くねぇわなぁ!」
そう、薙刃は女装している。戦闘どころか激しい動きすらできそうにない着物に鼻緒を履いているのである。これは確かに動きにくく、確かにいつもより数倍は遅い。決してこの男が弱いという訳ではない。相当の剣士であろう。だが単純に、相手が悪かったのである。正攻法では薙刃殺すなんてことは叶わない。同じように規格外の力を持って挑まなければ、潰される。
「くっ……うおぉォォッ!!」
男の踏込みは自己最高と誇れるものであった。脳を揺らされた状態でよく出せたと、素直に感嘆させられる。しかし、それまで。
牛の突進と比喩しても何ら遜色の無い突きの一撃。暖簾に腕押しの如く、薙刃の反射神経と回避能力によって絶望が刻み込まれる。
『当たらなかったら、意味が無い』
静かに、左拳に力が込められる。鉄すら砕けると自負するこの一撃を、躱して見せろよ塵野郎。男の汚い断末魔の叫びを無視して、意趣返しのように放った。
人体に砲弾がぶち込まれたと錯覚する程に、男の体躯は吹っ飛んだ。狭い路地の壁にぶつかることなく一直線に飛んで地に二、三回跳ね、そして沈黙した。顔に拳を入れた際に男の手から放れた刀が宙を舞い、薙刃の傍へと地に突き刺さった。事を終えて、勝者の一言。
「あっ、いっけね……まいったな、思いっ切りぶん殴っちまったよ。コレしばらくは目ぇ覚まさねぇよなぁ」
結局、情報は得ることが叶わなかった。しかし薙刃は特に落ち込んだ素振りも見せずにこの男をどうするか考えていた。
「持ってくの面倒だし、捨てて置くか。こんな所ならまぁ、誰も来ねぇだろ。まぁ来たとしたら介抱でも通報でもしてもらえや。じゃあなド変態視姦野郎」
宿へ戻ってさっさとこんな着物脱いでしまおう。夜に会う時には、思斗が有力な情報を得ていることに期待する。
欠伸をしながら薙刃はこの場から離れた。
*○○領××奉行/○○領△△△××役
※本作品に出てくる幕府の役職は歴史上の江戸幕府の役職を元ネタにさせてもらっていますが、使い方やその役職の意味、仕事内容等は異なっている場合がありますのでお気を付け下さい。加えて、存在しない役職も登場する場合があります。ご注意ください。
細かく考えるより、『あー、こういう仕事してる人物か』と思えてもらえたら幸いです。
勘定奉行と勘定役については本文で紹介している通りであるので、全体の補足だけ。
○○は領名、△△△はその領のどの市町村名か、××は役職名となっており、領全体を範囲とするのは奉行、その市町村だけを範囲とし、奉行に結果を送るのが役という区別があります。
*カタカナと“ひらがな”について
神州語には横文字の単語がありませんでしたが、外来語の進出によって少しずつ浸透化しています。ここで敢えてカタカナと“ひらがな”とで分けている理由を説明します。大袈裟なことではないのですが、その人の発音が上手くいっていればカタカナ。覚えたてで拙い場合は“ひらがな”となっております。ブラジャーやスカートはもう殆どの神州人がカタカナで言うことができますが、“せくはら”や“れず”といった常用外の外来語はキチンと発音できている人が少ないので、大抵の人は“ひらがな”です。上記の二つ、思斗と薙刃はもう言えるようになったようです。