第三章 出演者の交錯
もういい、破滅へ続く道をずっと―――。
「さて、ご馳走様もしたところですし、それでは本題に入りましょう」
思斗が両手を合わせ、叩く。にこやかな笑顔ではあるものの、先程までの酒に酔ったかのようなふざけた調子は微塵にも感じられない。
「しかし、ここでは人目が付く。段々と騒がしくなってきていますし、聞かれても困ります。特に何も知らない領民に、ね」
思斗の言う通り、4人がこの定食屋に入ってから随分と時間が経っているが、客の人数が減るどころか逆に増えている。
こちらに何を尋ねる気なのだろうか、と蓮理はふと思ったが、後回しにすることにした。自分達はそんなに聞かれても困る内容ではないと判断しているが。
「場所を変えましょう。僕達の宿が良いですかね。最低金額の所で狭いですが、四人くらいなら大丈夫でしょう。あくまで、提案です。まぁ、早苗さんも連理さんもまだ僕達を警戒しているようですが、どうか着いて来て下さいませんか?」
早苗と蓮理が思考する前に、阿呆か、と薙刃が一蹴する。
「そりゃお前、警戒は当然だろ。男二人が食事誘ってその上このまま家行こうって誘ってるようなもんだぜ? お持ち帰りにしちゃ大胆過ぎるわな。酒飲まさないくらいじゃ信用されねぇよ」
「顔で鑑みれば、男は一人ですけどね。おっと、やだなぁ冗談ですよ。軽く流す技術を身に付けて下さい」
薙刃と思斗のやり取りを眺めながら、蓮理はその通りだと考えた。名前を知っているとはいえ、そんな簡単に着いて行って良いものだろうか。
否である。逆を言えば名前しか知らない相手を信用できる筈がない。一番危険そうに見える薙刃が常識的な発言をしており、人畜無害そうな思斗が怪しく見えてしまう。
「んー、悪いけどさ、流石にそれは無理じゃない? まぁこれは私個人の意見だし、蓮理ちゃんが行くってんなら行くよ。でも行かないってんなら行かない」
早苗が常識的な返答をする。そう、早苗も単純な馬鹿ではない。常識がある馬鹿である、と蓮理は知っているのだ。
「せめて、その本題とやらの主旨を知りたいわ。小声ならこの喧騒の中でも平気でしょう?」
蓮理の提案に、思斗は小首を傾げながら唸る。相当悩んでいる様子を見るに、余程の内容なのだろうか。
「考え込んでるフリしてんじゃねぇよ、阿呆」
フリなのね。思斗って相当な演技派だと思うわ。
薙刃は斜めに傾いた思斗の頭を元に戻し、蓮理に対して耳を貸せ、と言わんばかりに手で招く。
それに従い、蓮理が片耳を薙刃の口元へと近付けると、予想していなかった人物の名が語られた。
「真田公の失踪についてだ」
更に小声で囁き続ける。
「アンタ等、真田公がどうたらこうたら言ってたらしいじゃねぇか。俺達も捜してんだよ。それで訊きたいことがあるだけだ。お持ち帰りするつもりなんざ毛頭ねぇし、お前等を宿まで送り届ける間、歩きながら話出来ればそれでいい。そんなに長話にゃならねぇ筈だ」
「……宿を特定する見方も考えられるわ」
「松代町に宿は十数軒しかねぇよ。虱潰しすりゃあ直ぐ特定できる。夜が嫌なら明日の朝でも昼でも良い。けどその場合でもあんた等を宿に辿り着くまで護衛まがいのことはさせてもらう。こっちにも、飯誘った責任があるんでね。だが、どっちかの宿に入って話させてもらうことになるぜ。流石に朝昼は大抵の場所に人がいるからな。信濃領の人間にゃ聞かれたくないんだよ」
それに、と付け加え薙刃は蓮理の耳から口を遠ざける。
「最初からアンタ等を狙う気なら、油断させる為に飯を一緒に食うなんて面倒なことはしねぇ。暗殺とか無理な性質なんだよ。正面突破しか考えない。まどろっこしいからな。だからもし、俺があんた等を殺すつもりで画策してるとしたら、橋で出会った時に人の目を気にせず殺してる。山賊達よりも惨くはしねぇがな」
鋭い眼光を蓮理に向けながら、薙刃は口を閉じる。
この薙刃という男は本当にやってのけるだろう。そう断言できる程、彼は危険な男である。
しかし少なくとも、悪ではないだろう。彼の言動から悪と断定できる要素は少ない。少々常識外れの発言くらいか。
その眼光で、蓮理は揺れた。この二人……否、薙刃という男だけでもある程度の信頼は出来るのではないか、と。
「やれやれ、結局薙刃が全部説明しちゃいましたか。でしゃばりさんですね。ああ、勿論嘘ですよ? まぁ、そういう事です。こんな夜中に女性二人だけで宿まで帰らせる、なんてふざけた真似は出来ないんですよ。付き合わせたのが僕等であるのだから、尚更です。是非とも護衛させて下さい。あ、お金は結構ですよ?」
思案する為に、瞼を閉じる。
雨宮思斗は相変わらずの屈託の無い笑顔である。薙刃とは逆に、この男から危険性は感じられない。単に薙刃の暴虐とも取れる山賊達への仕打ちを見てしまっているからかもしれないが、そうでなくとも薙刃は危険と判断し、思斗は逆と判断したであろう。
しかし、この雨宮思斗という男は怪しい。特別、何かしら怪しい動きを見せた訳ではない。むしろ定食屋へ案内する時も常に蓮理と早苗を気遣う振る舞いをこれでもかと言わんばかりに見せつけてくれた。が、それでも信用できるかどうかは別の話となる。
本能的に思斗は怪しい、信用できない、と思ってしまっている。彼は優しい人間だと思いたいが、今までの優しい言葉は甘言であるかもしれないという不安がどうしても拭えない。
薙刃と思斗。危険と怪しさ。相反する二人。あるいは同種の二人かもしれない。信頼して良いのか、悪いのか。どちらであろうとも、断れば彼等は気分を少なからず悪くするだろう。
ならば、と蓮理は決断した。
「私は」
瞼をゆっくりと開き、蓮理は答を吐き出す。どれだけの時間が経ったかはわからないが、蓮理には考え込んでいた分、この三人より体感時間は長かったに違いない。
「残念だけど、出会って直ぐの人達を信頼は出来ない。現に貴方達を危険で、怪しいと思っているわ」
まずは本心を伝えよう。この二人はどうか知らないが、私は言葉を繕わずに答えよう。申し訳ないが気分を悪くしてもらおう。自分は自分の真実しか言わない。
信頼出来るか否か、判断しかねる時は自分の本音を言う。それが連理の出した、答である。
それならば、結果が悪いものとなっても、自分の責任である。早苗には片足を泥沼に突っ込んで歩く道を、付き添って貰うことにする。なぜなら蓮理と早苗は幼馴染で親友であるから、それ以外の理由は要らない。
「けれども、話はしましょう。信頼せずとも話は出来るわ。私達が彼、真田公について答えられるかどうかは自信が無いけれど、彼に会わなくてはならないのが私達の現状。そう、貴方達の持っているであろう彼に関する情報が欲しいのよ、私達も。だから最初から考えることは無意味であり、私達は貴方達と話をして情報を得なければならない」
どうだ、と蓮理は心中呟く。早苗を含む三人は呆気にとられているようであった。
しばしの沈黙の後、思斗が少しばかりの笑みを漏らした。
「信頼しないまま話、ですか。いや、面白い人ですね。そんなこと言っちゃったら僕達は大事な情報をほとんど貴方達に伝えず、どうでもいい情報ばかりお教えしてしまいますよ? 心外ながら僕、性格が悪いとよく評されている人間ですし、薙刃は言わずもがなです」
あぁ、自分で性格が悪いと自覚しているはしているのか。それよりも薙刃が何かしら言い出す前にさっさと会話を繋げよう。ここで流されてはいけない。主導権は、ずっと私のものよ。
「いいえ、言ったでしょう? 私達は情報が欲しいって。欲しいものは自分で引き出すに限るのよ。必ず会話で貴方達が喋らざるを得ない状況を作り出すことも出来れば、会話で誘導して貴方達から情報を引き出すことも出来る。私、こう見えても論破とか問答とか得意なの」
「……成程、確かに僕でも勝てそうにないですね。正直、僕達あまり学はありませんから。論破も薙刃を虐めるくらいです。そんな目で見ないで下さい薙刃。……まぁ、うっかり誘導されて喋ってしまうかもしれません。しかし、良いんですか? 僕達、しがない浪人と言いましたが実は真田公を狙っている殺し屋かもしれませんよ?」
狙い通りの返答が来た。そう、蓮理は敢えてこの可能性を提示しなかった。なぜなら、既に自滅の言葉を発していたのだから。
「貴方達は殺し屋なんかじゃない。そこの彼、薙刃は言ったわ。『暗殺とか無理な性質なんだよ。正面突破しか考えない』と。普段城に籠城してるとも言える大名を殺すのならば暗殺は必須技術でしょう。しかし彼は無理だと言った。それに、彼なら城門から本当に正面突破しかねない。けれども、そのような事件は起こっていないわ。そうね、後こんなことも言っていたわ。『最初からあんた等を狙う気なら、油断させる為に飯を一緒に食うなんて面倒なことはしねぇ』って。つまり、自分達は情報集めなんて回りくどい、面倒なことはしないと言っているようなものよ」
「一言一句正確に覚えているのは、大した記憶力ですね。素直に感服します。あれ? でも僕達のこと、信頼していないのでは?」
「ええ、していないわ。でも、彼のその言葉にはある程度の確証が持てる。私は薙刃のその言葉は信頼しているのよ。要するに屁理屈よ」
蓮理が言い終えた途端、薙刃が声を上げ、笑い出す。それに釣られて思斗も手で口元を押さえて堪えているが笑っていた。
……自分は何か笑われるような可笑しなことを言ったのだろうか。むしろ悪態の一つでも覚悟していたのだが。
「俺等を信頼しないで俺の言葉は信頼するってか。あぁ、確かに屁理屈だ。道理に合わなぇし普通の奴ならそんなことできる度胸が無ぇわ。それを今ここで、やりやがったよこの女! ……ま、嫌いじゃない。ってか好きだね、そういうのは」
薙刃は蓮理と早苗を満足気に見て、立ち上がる。
「なら、行こうじゃねぇの。おい思斗。いつまでも笑ってんじゃねぇよ。今日はお前持ちだろ。勘定しろ」
薙刃に蹴られる思斗を視界から外し、蓮理は早苗に小声で伝える。
「もし、彼等が私達に害を及ぼすような素振りを見せたら、存分に暴れて叩きのめしなさい。遠慮はいらないわ」
了解、と早苗は力強く頷いたのを確認して、ようやく立ち上がった思斗に目をやる。
「あ、すみません。財布忘れてきました」
その後、二人が揉め合ったのは言うまでもなく、止めるのも面倒であった為、蓮理は放置することにした。
結局、薙刃の支払いで定食屋を出る頃には閉店間際。亥一つ時であった。
● ●
夜の道。頼りとなる明かりの光源は民家から漏れ出た白熱電灯だけである。月光は雲に阻まれ、道は静寂に包まれている。人の気配はこの四人を除いて全く無い。四人は今も居酒屋等で賑わっている松代町の大通りから外れて、民家か集中する地帯へと歩を進めていた。
「再三言わせて頂きますが、僕達はしがない浪人です。浪人ですが、僕達は所謂万屋稼業を営んでいます。ですから、とりあえず一応はきちんと職に就いていますので、決して非労働者等ではありませんよ。汗水垂らして働いています!」
「万屋? えっと……なんだっけ? 幕府と仲悪いってのは知ってるけど」
早苗が首を傾げる。蓮理はその疑問の解消と、思斗の誤りを訂正する為に口を開いた。
「正確に言えば、職に就いている、というのは誤りよ。職というのは幕府で公認された仕事や役割、地位を指すの。その認められた仕事をこなしているのを職に就いている、と言うのよ。万屋は非公認職種に分類されているから、誤り。早苗の仲が悪いっていう発言は、ここから起因しているとも言えるわね。で、万屋っていうのは、ええと、そうね。分かり易く言うなら何でも屋かしら? 各町村に有志で設置されている万請合所や万板で様々な依頼を受けて生計を立てている、まぁ……半分非労働者みたいなものだと思っていれば概ね正解。汗水垂らす、というのは間違いではないでしょうけれど」
自分達には知る由もない知識を叩きつけられ、薙刃と思斗は思い当たる節があったかのように目を見開いた。それもほぼ同時で。
「だーかーら幕府の連中の対応があんなに腹立つのか! うわ、絶対あいつ等俺を見下してやがったよ。これだから生物は嫌いなんだっつーの!!」
「薙刃。嫌いになる対象が幕府の人間通り越して生物全体になってます。範囲広すぎてどうしようもないです。って言うかそこまで嫌いになれる薙刃に吃驚ですよ。それにソレ、素で言っているんでしょうけどつまらないので今後は封印しておいて下さい。お願いします。しかし……まさかそんな裏事情があったとは知りませんでした。薙刃じゃありませんが、確かに僕達が万屋だと判明した途端に対応が一変して、その変わり様に苛々して刺し殺してやろうかと思ったことが何度かありましたが……ええ、知りませんでした」
「言っておくけど貴方達、これは寺子屋でも習う、ごく一般的な知識よ。裏事情でも何でもないわ。後、洒落にならないから今後はそう思わないように努めなさい」
よくこれで万屋をやってこれたなと蓮理は呆れる。後々お尋ね者になる前に、いつか釘を刺しておかなければならないかもしれない。
「あ? いや、でも待てよ。じゃあ何で真田公の使いは万板に依頼してたんだ? アレも幕府の人間だろ?」
「そういえば……そうですね。わざわざ万屋に頼むなんて、あちらからしてみれば屈辱でしょうし」
自分の注意を無視されるも真田公の使い、という単語に蓮理は反応した。思斗の言う通り、大名が万屋に依頼する、というのは確かに屈辱であるとその知識を得た後では思うのも無理はない。
しかし、実際公表されていないが大名は万屋に依頼するのは少なくない。むしろ普通のことであろう。公に晒されていない理由は依頼内容が私事であり、晒せる内容でないというのが大半である。実行人は非公認の人間。後始末も付けやすい。
問題はその依頼方法である。薙刃が言ったように万板に依頼するということ。これはまず大名は用いない。ほぼ間違いなく受諾されず、果てには破棄されてしまうからである。
しかし、この二人の話の内容からすると真田公はこの方法で何かを依頼した。
「どういうこと? 真田公が万屋に使いを出していたの?」
蓮理の問いに、思斗は首を縦に振って答える。
「はい。二週間程前の話です。僕達が伊豆領にいた時にたまたまその依頼の旨を書かれた紙が貼り付けられているのを見つけまして。指定された場所に行くと真田公の使いがいた、という訳です」
「その依頼内容は?」
「紙には口頭で説明する、と書いてました。彼は確か……」
「『真田公に危険が迫っている。今、頼れるのは万屋しかない』だったか」
思斗の言葉を薙刃が引き継いだ。
「つまり、真田公は自分の家来が当てにできないからわざわざ他領の万屋に助けを求めたってこと? しかも幕府側の依頼なんか受けてもらえる確証無いってのに?」
早苗の問いに思斗は頷く。
「そう僕達は解釈しています。どうして伊豆の万板だったのかはわかりませんが」
「それはきっと、伊豆領が海に面しているからね。貴方達がいたのは港町じゃないかしら? おそらく、人が集まる場所なら……と思ったんでしょう」
「え? でもちょっと待ってよ蓮理ちゃん。信濃に近くて海に面してるってんなら越中や越後があるよ! それなのに伊豆まで行くなんておかしくない?」
「いや……越中、越後、佐渡、能登は今のところ、海に面してる地域を封鎖してんだよ。随分前から無許可の、しかも国籍不明の外国船が出没してるからな。近付いたら大砲撃ち込まれて逆に撃沈させられるって話だ。確か、数十人は死んでたな。今じゃ漁船すら危ないらしいとか何とかで、最近漁業も停止食らったんだと」
そのような状態である領に行っても人が少ないのは明白である。尚更依頼受諾は見込めない。
「まぁ、他にも相模や駿河、遠江、三河も海に面しているけれど……一番安全なのは伊豆ね。駿河は内乱が起こっているし、遠江と三河は交戦状態。伊豆は今現在においてかなり治安が保たれていると聞くわ。使いの身の安全を考えての判断でしょう」
「しかしまぁ、残念なことにその人、殺されてしまったんですけどね」
蓮理と早苗は予想外の事実に足を止めてしまった。使いの死亡という情報が本当に真か、疑ってしまったからである。
その使いと共に信濃まで来て、今は別行動で使いは城に戻り、この二人は真田公に関する情報を集めている最中だと蓮理は思っていたのだ。
「殺されたって……どういうこと? 思斗、説明して頂戴」
「ええ、勿論です。それを話さないことには始まりそうにありませんし……それに」
言葉の途中で口を閉じた。思斗と薙刃、二人が立ち止まる。その原因に感づいたのか、後の二人も足を止めた。
「わぁ、まさかまさかの囲まれてるってやつかい? これは」
早苗が余裕たっぷりの表情で辺りを見渡した。ずらりと並んだ民家によって挟まれている道にいる為、逃げ場は基本的に無い。
「数はどうです? 薙刃」
刀の柄に手を置いた思斗は隣にいる相棒に囁く。
「十二。まぁ、大方昨日の忍の仲間だろうな。敵討ちにでも来たのかね」
昨日? 彼等は既に交戦しているのか。そのことについて尋ねようと蓮理は口を開いたが、言葉を発するまでには至らなかった。
雲によって遮断されていた月光が、彼等の姿を顕にしたからである。数は薙刃の言う通り、確かに十二人視認できた。黒ずくめを身に纏った者達が民家の屋根の上から四人を包囲するようにして立っており、それを見て、薙刃が呟く。小さく唸る、という表現の方が正しかったかもしれない。それ程までに彼は―――。
「上から見下してんじゃねぇよ」
蓮理は察知した。今この瞬間に、薙刃は人外と化した、と。
● ●
十二の刃が闇夜を舞う。標的は赤、薙刃に他ならない。貫き殺すと叫ぶように、白銀の一閃が襲い掛かった。
「単調過ぎて、引くわ。つまんねー典型だなこりゃ」
しかし、渾身の初撃は失敗に終わる。胴体に首、顔、足、手……八つ裂きにする為に放った突きはあっけなく、そして紙一重で躱されていた。
「まず何よりも先に言いたいんだけどよ、お前等の仲間斬り捨てたのって、俺じゃねぇし。そこの水色だ間違えてんじゃねぇ」
「え。いや、えっと、その人嘘言ってますよ。ほら見て下さい。僕みたいな、いかにもな貧弱もやしが貴方達のお仲間を斬り捨てるなんて、とんでもない。ぶっちゃけ有り得ないでしょう。薙刃、この人達の仲間を貶すようなことは止めて下さい。最低ですよ!」
「いけしゃあしゃあと人に罪を擦り付けるお前の方が最低だろうが!!」
この状況下でよく漫才が出来るものだ、と蓮理は内心呆れざるを得なかった。
どうやら忍者達は蓮理と早苗よりも薙刃と思斗を優先しているようで、女二人には未だ刃を向けてすらいない。しかし囲まれている以上、油断は出来ないだろう。蓮理は早苗と背中合わせに構え、いつ攻撃を受けても対処し反撃出来るように構える。とは言ってもこちらは丸腰。蓮理も早苗も武術の心得はあるももの、この人数に先程の彼等の速度、刃物を持たれたとあっては厳しい。
「蓮理さん、そして早苗さん。手出しは無用ですよ。これは僕達が招いた問題ですし、彼等だって僕達を無視して女性を狙うなんて屑がやること、しないでしょう。忍者にも誇りというものがあります」
「コソコソ隠れて暗殺するのが誇りだったら、どっちにしろ総じて屑だろ」
挑発しようと無駄だ、と言いたいかのように、彼等は無言を通した。その辺りは流石忍者と言うべきであろう。心を殺し、確実に任務を遂行する。そこに忠誠など無く、あるのは金で変動する冷め切った関係のみ。それが忍者という存在である。
「問おう」
一人が黒頭巾の口当てをもぞもぞと動かし、声を発した。
「貴様等、信濃大名真田の使いから依頼を受けた万屋で相違は無いな?」
蓮理は万屋二人を見やる。双方、無言で返した。思斗は腰に差してある刀から手を離さず構えており、一方薙刃は余裕たっぷりと欠伸をして眠気を抑えようとしていた。
「肯と取らせて頂く。ならばこれより、我等は貴様等をこ」
殺す、と言いたかったのであろう。結果、それは叶わなかった。
ほんの一瞬であった。筋力に任せて発言していた忍者の顔を殴り飛ばす。忍者に相応しいであろう逞しい体躯は十間程宙を滑り、重力によって地へと叩きつけられた。
誰がやったか。事後である為、理解するのに時間は不要であった。そもそも、こんな出鱈目を行う存在なんて、今この場において一人しかいない。
「まず、俺が何を言いてぇのかっつーとさ」
薙刃は髪を掻き分けながら残る十一人に語りかける。
「誰が、いつ、お前等が質問することを許したんだよ。そもそもどうして、何処で、どうやって質問できる立場になったと思い上がってんだよ。で、何を言いたかったんだよ。それが一つ目」
無茶苦茶を体現している薙刃だからこそ言える言葉である。すなわち、常人にはこのような言葉は思いつきもしないということに他ならない。
「二つ目。長い。簡潔に纏めろ。いちいちお前等みたいな虫からの宣告なんざいらねぇんだよ何の得にもなりゃしねぇし、くだらねぇ。さっさと殺しに来りゃ楽にしてやんだから。ほら来いよ腰抜け塵屑野郎共。俺にブッ潰されんのを光栄に思えや」
静寂。刃の嵐の前触れであるということに蓮理は気付く。その予測通りの、否、予測以上の激しさを見せた。
「貴様ァ!!」
一人が地を駆け、飛んだ。薙刃の頭上にて刀を振り下ろす。それに呼応したのか、左右から二名、横に薙ぐようにして斬りかかった。この二つの攻撃の間に時間のズレはほとんど生じていない。初撃と同じ、同時多角攻撃であった。
しかし、薙刃は動じない。それどころかとんでもない芸当をやってのけたである。
振り下ろされた刃。これを歯で噛んで受け止めることから薙刃の反撃が始まった。
左右に迫る刃は両の親指と人差し指で刀身部分を掴み、少し力を入れる素振りを見せ、そして
「何ィッ!?」
刀身に亀裂が走り、砕けた。それはもう、清々しい程木端微塵に。驚嘆の声が上がるのも無理はない。しかしここでも流石は忍者と言うべきか、即座に使い物にならなくなった得物から手を離し、二名は後ろに飛び跳ねる。歯で刀を止められた者も取り返せないと判断したのか、次いで後退した。
薙刃は未だに刀身を加えたまま、顔を自分に向かってきた忍三名の方へと定める。そして、不意に嫌な音が夜に響いた。パキリ、パキリと徐々に音が大きくなり、痛々しくなる。
思斗は知っていた。この音が何なのか、どうしてこのようにもったいぶった音が鳴るのかを。それは親が生まれて間もない赤子をあやす感情に似ているかもしれない。“破格に弱過ぎてつい虐めたくなった”から、この音は鳴っている。
思斗は知っていた。このような音を出さずとも、先程のようにいとも容易く壊すことができることを。そうしないのは、ここ二、三年で身に付けた所謂“遊び心”に間違いないであろう。
そしてようやく、砕けた。
「歯が生まれつき頑丈でな。顎も健康で外れたことなんざ一度も無い。だからと言って鉄を食う化け物じゃねぇから安心して死んでくれ」
薙刃の手から噛み砕かれた刀が地に打ち捨てられる。彼の言う通り、歯の一本も欠けておらず、しかも歯並びは綺麗に揃っており、白く良好であった。
ここで一人、薙刃に首を掴まれ冷たい地面に叩きつけられる。あまりの衝撃に地面が耐え切れず、小さな隆起ができた。薙刃を襲った三人の中で最も近い位置にいたとはいえ、彼等忍者すら視認できない速度で動き、攻撃を行ったということになる。自身の持つ直感に従って残りの二人は更に距離を離す為に後ろに跳ぼうとしたその瞬間に、彼が動いた。
「はい。ご苦労様です」
一瞬にして二人は呻きながら地に伏した。黒装束は横薙ぎに切り裂かれ、出血している。致命傷ではなさそうだが、治療を施さなければ死も有り得るだろう。
「……流石は万屋で生きているだけのことはある。貴様等のような人間はそうそういないだろう。まして……今の僅かな時間で瞬く間に三人を行動不能にしたか」
隊長格の忍者が熱り立つ七人を片手で静止し、呟いた。
「お前等に褒められても嬉しかねぇよ」
薙刃が不機嫌そうに返す。
「いや、喜んでおきましょう。忍者に褒められるなんて、人生においてそうある経験じゃないですよ」
小馬鹿にした口調で思斗も返す。
「成程、このままでは全滅、傷一つ負わせれたら僥倖だろう。それでは依頼の報酬に釣り合わん。何かの間違いで貴様等を殺すことが叶ったとしても、既に四人もの同士がやられている。仲間と報酬、比べれば一目瞭然、大赤字だ。撤退させてもらうとしよう。おい、撤退だ。運ぶぞ」
そう、これが忍者。自分達の損害と任務の報酬を秤に掛けて、戦況を判断する。その秤の結果に応じて、仲間をどうするか決定する。そこには何の反論も生まれない。その揺るがない結束力と信頼関係は評価出来ると、蓮理が常々思っていたことだった。
「どうしてそういちいち教えてくれるかね。っていうか、逃げれると思ってんのかお前等。俺はな、これでも綺麗好きなんだよ。塵掃除はきっちりかっちりやらねぇと気が済まねぇ」
「そうか、しかしそれが我等“浦葉忍者”だ。勿論逃げれると、思っているとも。聞こえぬか? 人々がこの騒ぎに気付き始めた。大方、ここの民家の者が感づいて通報したのだろう。さてこの状況、真っ先に怪しまれるのは我等だが、それは一向に構わん。それも忍というものであろう。しかし貴様等はどうかな? 数日は拘束されてもおかしくないぞ。その間に真田公が殺されたりしたら、大変ではないか?」
場が凍り付く。確かにその忍者の言う通り、遠くからではあるが人の声が聞こえてきた。蓮理は早苗、思斗、薙刃と順に見た。すべきことは決定した。薙刃は納得のいかない顔であったが。
「……仕方ない! 行きましょう! 同心相手に時間を取られるのは面倒です!! 薙刃!」
忍者達に背を向け、蓮理達は走る。お互い、戦略的撤退の道を選んだのだ。敗走ではない。
「遅い。腕、掴んどけ」
「ちょっ、貴方! 何を」
「うわっ」
蓮理と早苗の速度では置いて行ってしまいそうなのか、薙刃は左腕に蓮理、右腕に早苗の腰を抱え込んで持ち上げ、飛ぶ。民家の屋根伝いで逃げるのであろう。思斗もあの場の様子見で蓮理達より後方に走っていたが、その心配は要らなくなったとわかるや否や同様に飛び、あっと言う間に薙刃達に追いついた。
「どうやらもう同心達があの場所に到着したみたいです。何人か、追ってきていますが……この速度なら問題無いでしょう。しかしまだ僕達を見失う程の距離はありませんし、方角でバレる可能性があります。僕が西に向かって引き付けますので東回りに迂回して宿に向かって下さい。くれぐれも、彼女達を落とさないように」
落とすか阿呆、それでは、と軽い応答で思斗は減速し、逆に薙刃は加速する。
腰を抱えられてこの速度、酔っても何ら不思議は無い。事実、早苗は口元を手で押さえ目も閉じていた。しかし蓮理は違い、頭の回転に拍車を掛けることに専念していた。次々と自分の視界から外れていく景色は気にならない。気になるのはあの言葉。
『真田公が殺されたりしたら、大変ではないか?』
まずは当初の目的地である宿へ。そこであの忍者が言った言葉の真意を考えなくてはならない。
● ●
遡ること十四日、すなわち二週間前の伊豆領でそれは発見された。
見るからに殴り書き。万板への貼り付け方も乱雑極まりなく、紙自体の質も決して良とは言えなかった。しかし、それには訳がある。書き方には何とも言えないが、貼り付け方と質が悪ければ悪い程、その依頼は多くの人が興味を持つも結局は受けることの無かったことを表している。多くの人が手に取ることによって紙は自然と劣化し、その内容を見て大抵の万屋は怒りに任せて貼り直す。それを何度も繰り返し、とうとう依頼の期限直前日となってしまった。
そのような依頼の紙を、彼は万板から引き剥がした。
「へぇ」
薙刃は軽い驚嘆の念を感じずにはいられなかった。特筆すべきは報酬額であろう。二、三年は豪遊しても困らない額だ。普通の生活を送るのなら、十数年といったところか。何にせよ、こんな美味い依頼を受けなければ男が廃るというものである。
もっとも、それが薙刃の目を留めた理由ではないのだが。
「おい思斗、ちょっと来いよ。この依頼、中々良いじゃねぇか。こいつにしようぜ。面白そうだ」
薙刃が横を向き、少し離れた所で雑踏を眺めていた眉目秀麗の青年にして相棒、雨宮思斗に目を呉れた。水色の髪が日光に反射してより美しさを引き出していた。薙刃の声に反応し、思斗はゆったりとした足取りで近付いてきた。
「どうやら、割の良い依頼でも見つけましたか。薙刃」
「まぁ見てみろって。ようやくマシな宿に泊まれる」
どれどれ、と思斗は薙刃から依頼の紙を受け取る。一瞬目を瞠り、口を少しばかり開けたが直ぐ様顔を引き締まらせた。
「確かにこの額は異常ですね。規格外です。だから絶対裏があります」
思斗が怪しむのはごく一般的な立場から見て、であろう。
『口頭にて説明する。下に指定された期間、場所、時間帯で待つ』
これだけである。下部には確かに記載されていたが、本当にこれだけである。そして最後の行に小さく『幕府直轄依頼』という書き込み。
この時二人は知らない。この書き込みが万屋連盟にとって嫌悪すべきものであると。
「裏があるから何だってんだよ。俺等は元々裏だろうが。つまり表ってこと」
一方、薙刃は裏を表と見ている、すなわち一般的でない人種であるらしい。それは思斗も違いなかった。思斗は敢えて、そう口にしたのである。万屋という職業だから自分達を裏としているのではない。根っからそういう存在であると自負しているからこそ、彼等はこの会話が成立する。
薙刃の返答に、思斗は口角を吊り上げて笑みを零す。
「……期限、明日までですね。聞くまでもありませんが今日にでも行きますか?」
答えはわかっている。是しか有り得ない。そもそもこんなヤバい依頼を求めてたんだ、と思斗も薙刃も内心、歓喜した。報酬額は正直大して問題ではない。薄汚れた紙から溢れ出る危険臭が告げている。これは当たりだと。
● ●
指定された場所は河原だった。成程、確かに男一人、いかにも幕府の役人らしい、生真面目な印象を持たせる立ち振る舞い。あれに違いないだろう。薙刃と思斗は歩く速度を変えず、その男に近付いていく。
「依頼を受けてくれるのは、お前達か」
低い声で男は尋ねた。果たして此処へやって来た人物に片っ端に言っているのだろうか、と薙刃は疑問に思った。やや杜撰ではないか、とも。
「ええ。万板にこれを貼り付けたのは貴方で間違いありませんか?」
思斗は懐から薄汚れている依頼の紙を取り出し、前に突き出した。それを一瞥するように男は目を向け、直ぐに思斗と薙刃を交互に見る。殺気は籠っていない眼光であったが、二人は何かむず痒い感覚を覚えた。より詳しく、薙刃の立場で言うならば嘗め回されて吐き気を覚えて死んでしまいそうだ死ぬ訳ないが、というのが妥当であろう。すなわちは見定められているのである。
「どこをどう見てもやけに小奇麗で、とても万屋とは思えない二人組だな。しかも片方は女子かと見間違えた程に中性的……いいや、女顔と言った方が適切か。何にせよ、外見だと不合格だな」
つい手が出てしまいそうになったが、思斗の制止無しで何とか踏み止まることができた。と言うのも、この男が薙刃を男だと見抜いたからであり、決して依頼が受けられなくなることへの危惧を感じたわけではなかった。ましてや良心の呵責なぞ、絶対に有り得ない。
「実は数日前にもう一組、先に来ていてな……そちらは合格だよ」
薙刃の堪忍袋は言うまでもなく、異常に爆発しやすい。これ以上、今にも突進しようとしている薙刃の服の背中部分を男から見えないように力一杯掴むのに思斗は勘弁ならなかったのか、話を切り出す。
「では、僕達は貴方のご希望に添えられなかったということで却下ですか。先客がいるんでしたら万板に貼る意味なんて無いのに、何故? この町には万板は一つしかありません。あちこちの板に貼っていて回収し忘れた、なんて言い訳は通用しませんが」
責め立てる思斗から解放された、鎮静化した野獣……もとい薙刃は思斗を横目で確認する。ほんの僅かであるが、薄ら笑いを浮かべている。いつもの雨宮思斗だと、まだ信頼できる信用できる思斗であると、直感で感じたのは言うまでもない。思わず薙刃自身も笑い出しそうになる。
「ああ、お前達の言い分はまともだな。正直、こちら側としても一組ぐらいでないと都合が悪いのでな。おい、出てきてくれ」
その呼び掛けに応じて、二人の男が繁みから姿を現した。簡潔に容姿を形容する例えは、爪楊枝と大木が適当であろうか。一方の男は線が異様に細く、栄養失調に陥ったとしてもここまでにはならないだろう。逆にもう一方はと言うと、身体つきもしっかりしており、横にも縦にもとにかく太い、としか言えない程の大男。身長も七尺近くあるように感じられた。
「旦那ァ、兄貴ィ、こいつら潰しゃあいいんですかい」
大男が言った。低過ぎて、注意していないと何を言っているのかわからないだろう。実際、薙刃と思斗が聞き取れたのは旦那、という単語のみであった。
「いちいちそんなことを聞かなくても、雰囲気で感じ取れよ。俺等がまだ依頼の全部を教えてもらってないのは、実力を見せていないからだ。つまり、この旦那は俺達を信用してねぇのさ。だから、こんなお人形さんみたいな奴等を誘い込んで、どれだけ速く、綺麗に、その上で正確に切り刻めるのかを試してんのさ、この俺を。その後にお前がどれだけ細かく磨り潰せるのかも、な」
……沈黙が流れた。何だこいつらは。率直な感想である。虚偽偽りは無い。隠れていたつもりであるのだろうが、河原に着いた頃から全然気配を遮断出来ておらず(子供でも勘が良ければ認識できる程に酷い)薙刃や思斗に言わせてみれば丸見え丸裸だった、かませ犬にすらなれそうにない、二人組は一体全体何なのだ。
最初は、至極非常にどうでもいいと判断し、いない者として無視していた。端的に言うと、つまらないからである。しかしどういう気の狂いようか、その敢えて無視していた矮小な存在二名が今、自分達の前で調子に乗った発言を連発しているではないか。そのいう認識しか薙刃には出来ず、思斗もまったくの同意見であった。怒りはある。が、それを通り越してしまうくらいの呆れと脱力感で、その気すら損なわれてしまう。
例えるならこの二人組は象が走っている進路に飛び出した、蟻風情だろう。
旦那と呼ばれた男も、呆れているのか、最初からどうでもいいのかわからないが、冷ややかな目でその二人組を見ていた。
無論、自分達に酔い痴れている彼等がそのことに気付く筈もなかった。
「って訳だ。殺すにゃもったいねぇくらいの上玉だが、金を優先させてもらうぜぇ。金さえありゃ赤髪のお前さん並の女をとっかえひっかえに好き放題できるんだ。やるしかあるめぇよぉ!」
あ、この人もう駄目だな。真っ先に思斗はそう思った。彼等が旦那と呼んだ男の言うことをまるきり聞いていなかったのだろうか。再三だが、薙刃は男である。
「せめて顔は切り刻むことの無いように、まず首を狩ってやるよ! 俺の殺人剣、が」
が、その続きは何だろうか。まぁ、正直この男のようにどうでもよく、つまらないのであろう。思斗は彼に向かって軽く呟いた。
「お好きにどうぞ。正直、止めるのも面倒臭いです」
薙刃に頭を掴まれて砂利で覆われた地面に叩きつけられ埋まっている爪楊枝のような男は、先の一撃で気絶している様だった。再度、頭を掴まれ今度は川の方へと投げ飛ばされる。まるで石切りの様に水面に幾度となく弾かれ、最終的に沈んでしまった。
「あ、ああぁぁぁぁ……!!」
ようやく何が起きたのか理解したのか、大男はざぶざぶと川の中に入っていった。薙刃達と川を交互に見、やや躊躇っていたがどうやら相棒を助けることにしたらしい。
それを見て、薙刃が言った。
「向かってきてたら同じようにしてやるつもりだったんだけどな」
つまり、あの大男が相棒を助けずに戦うなんてことをしたら徹底的に、それこそ磨り潰していたということである。
「どうでしょう。合格しちゃった人達は不合格である僕達、しかもその一人にこてんぱんにされてしまった訳ですが」
男は無言を貫き、じっと二人を見つめていた。が、ようやく口元を緩めこう言った。
「実力、合格。お前達に依頼をこなしてもらうとしよう」
「わざわざ試すようなことをすんじゃねぇよ。あいつ等、お前の依頼を受けようと来た奴等じゃねぇし、第一万屋でもねぇだろ」
大方始末屋のはぐれだろ、と薙刃は付け足した。続けて引き取る形で思斗が口を開いた。
「あの人達の言っていた依頼というのは、依頼を受けに来た万屋を殺す、というものではありませんか? それは手始め、といった風に依頼内容に含みを持たせてまだ殺す対象がいる様に思わせた。そして、全てを話さず、話して報酬が欲しいのであれば手始めである者、あるいは者達を殺せ。だから彼はあのようなことを口に出した。……少々回りくどい言い方になってしまいましたが、そうですよね?」
お前の言う通りだ、と言わんばかりに男は頷く。ようやく目当ての人材を得ることが出来て、やや嬉しそうに破顔して言った。
「頭も回るな、見事。さて、改めさせてもらおうか……いかにも。私がその紙を貼り付けた、依頼人だ。相違ない。彼等は始末屋。騙した形になってしまったが、協力してもらったのだ。実力があって、知性も備わっている万屋が必要でね。お前達は該当どころか適任だな。何より、『幕府直轄依頼』であっても受けに来る、命知らずの猛者が欲しかったのだ」
「愉快そうな所悪いんだが、そんなウザってぇことされて俺ァ本気で不愉快だよ」
宥めにかかる思斗を無視しながら、薙刃は続けた。
「そもそも、まだ受けるとは一言も言ってねぇだろ」
男は訝しむ様に薙刃を見た。
「此処に来ている時点で、私はそう判断したのだが……報酬額に不満でもあるか?」
直ぐ様反論する。
「金の問題じゃねぇんだよ。いいか……」
思斗に口を塞がれ、ずるずると後ろに引き下げられてしまう薙刃。そうして会話の相手は思斗へと移り変わった。
「口頭で説明する……でしたよね? お願いしてもよろしいですか?」
先程までの様子とは打って変わり、顔を引き締め、眼光も最初であった時の様に鋭くなった。
「私は信濃大名、真田幸正公の使いである。その真田公の身に危険が迫っているのだ。万屋よ、どうか力を貸してくれないか」
頭を深々と下げるのを見て二人はすっかり面喰ってしまった。幕府の人間が万屋に頭を垂れるなぞ、見たことが無かったからである。
「お前達がまだ決めあぐねるというのなら、ここに情報が入っている。今の所、関係の無い人間に見られても大丈夫な情報だ。これを見て、受けるかどうか決めて欲しい。明朝、この場所で待つ。もし受けてくれるのなら、詳しい状況も話そう」
そう言って男……信濃から遥々来た真田公の使いとやらは懐から巻物を取り出し、思斗の手に半ば強引に預け、急ぎ足で去って行った。
その後、宿で思斗と薙刃はこの不可解な依頼をどう処理するか話し合い、一応受けることにする、詳しく聞いて自分達にそぐわなければとんずら……という結論で合意となった。
その結論を持って、河原へ向かっていることであった。河原へ通じる細道に人集りが出来ている。
身元不明の男三名が何者かによって惨殺されたと知ったのは、人集りから飛び交う声によってである。使いと、始末屋の二人組だと理解するのに、左程時間は有しなかった。
● ●
質素という言葉がよく似合う一室だった。おそらくは飯も付かない最低額の部屋を選んだのだろう。だからといって蓮理達は気を悪くしたりしていない。自分達も宿は違えど同じ程度の部屋だからである。そもそも蓮理は余程悪質でなければ寝る環境には拘らない主義であった。
出された湯呑に口を付け、啜る。粗茶と言って出してきた薙刃だが、そんなことは無いと素直に思う。茶の独特の苦みがほのかに感じ取れ、喉にスッと入っていく。味は無いに等しいが、喉を潤すには味は左程気にならなかった。
湯呑を口から離し、ゆっくりと畳の上に無造作に置かれた盆に置いた。
「そんな事があったなんて……」
驚嘆の念を感じざるを得ない。使いが殺されてしまった、というのはこういうことだったのか。
「まぁそんなことがあったとなれば、いくら僕達でも流石に真相を究明したい探究心というものがあります。ああ、薙刃聞こえましたよ。お前だけだろ、なーんて思わず悲しくなっちゃうこと言わないで下さいよ」
つい先程、同心と岡っ引きによる追っ手を振り切ってきたにも関わらず息切れすらしていない思斗は相も変わらず軽口を叩く。部屋の扉を早苗が開けると、にこやかな笑顔を浮かべながら戻ってきた彼は、さも何事も無かったかのような立ち振る舞いで蓮理と早苗の2人に信濃へ来ることになった経緯を主観ながらも簡潔に話してくれた。
「それで、この殺されちゃった人達はどうなったの?」
同じく話を聞いていた早苗が疑問を投げ掛ける。そのことは蓮理も気にしていた疑問の一つであった。すると、思斗は頭を掻きながら苦笑して言った。
「それが知らないんですよ」
「え?」
「三人の遺体は遠巻きからしか視認できませんでした。その後厄介なことに巻き込まれる前にすぐ町を出まして」
思斗の言葉を引き取る様に、薙刃が口を開く。部屋の隅で壁にもたれかかり、何故かはわからないがやや仏頂面であった。
「殺しが起こった以上、真っ先に事情聴取されんのは余所者だ。多分、俺達が一番最後に町に入っていたからな。足止めされんのは嫌いなんだよ」
ぶっきらぼうな物言いに少しでも和らげようと思ったのだろう。思斗は付け加えた。
「そんな棘の入った言い方をしなくても。面倒だったと言っておけば良いんですよ」
思斗の言う通りである。何をそんなに苛々しているのだろうか。蓮理は正直、早苗が言った疑問よりも薙刃の雰囲気の変化の方が気に掛かっている。
「薙刃。どうして貴方はそんなに機嫌が悪そうにしているかしら? 私や早苗が何かしたのなら謝らせて頂戴」
疑問を振られて、本当に小さく、誰にも聞こえないように舌打ちを鳴らした。蓮理は小首を傾げて薙刃を見つめている。
それが余計に腹立たしくなったのか、僅かに声を荒げた。
「なぁ九條。俺が、いつ、名前で呼べって言ったよ」
うわ今更ですか、と思斗は呟いたが薙刃に睨まれ口元を手で押さえた。しかし、目は笑っている。
早苗もそんなことで怒っているのかと言いたそうな目で薙刃を見る。そんな小さなことで声を荒げるのはどうかと、本気で思ってしまう。
「さっきからずっと気になってた、って言うか我慢してたんだよ。むしろよく耐えたと思うぜ、俺」
「じゃあ、私は貴方の事を何と呼べばいいのよ」
訝しむ蓮理が余計に苛立ちを増長させるようだ。が、早苗や思斗の目を見て、流石に自分がこれ以上場の雰囲気を悪くするのはよろしくない、と思ったのだろう。一度大きく深呼吸を行い気分を落ち着かせた。
次いで、赤長髪に結ばれた黒紐を解いて指を櫛のようにして髪を触る。昔から自分の髪を触ると落ち着ける、一種の暗示になっていた。
「何とって……そもそも呼ぶ必要が無いだろう」
自分でも驚く程に、静かな声になっていた。それだけこの暗示は自分にとって効果があるのだと再確認できる。
「私にはあるのだけれど」
しかし蓮理は譲らない。蓮理が見るに、薙刃も思斗もほぼ同年代。年が近いならば、可能である限り下の名前で呼びたい。否、呼ぶべきだ。それが蓮理の数ある規則の一つであった。名前で呼ぶのと名字で呼ぶのとでは遥かに差が生まれる。天と地の差が相応しい表現だと蓮理は思う。私は出会った一人一人と自分の最大限の努力を尽くして距離を縮めたい。恋愛対象とかそのような浮付いた考えではなく、協力関係、信頼関係を築きたい。つまりは仲良くなりたがりなのである。それは散々人外と評した薙刃も例外ではない。
「……最初に言ったろ。薙ぎ払うに刃って」
その言葉の真意を、蓮理は今すぐに理解することができなかった。できなかった、というより無意識にしたくなかったのかもしれない。薙刃という超深奥の存在の片鱗に触れるのが怖かったのだ、と後になって蓮理は気付くこととなる。
「……これ、一旦保留な。とりあえず、この一件が片付くまでは我慢してやらぁ……ほら、話続けろよ。俺は寝る。思斗、二人送る時に起こせよ」
そう言って思斗の返事を待ち、承諾を受けると薙刃は立ち上がり奥の部屋へと襖を開けて消えてしまった。
薙ぎ払うに刃、薙刃の名前である。それが名前を呼ばれたくない理由に繋がるのだろうか。蓮理は首を傾げるしかなかった。
薙刃が退室して、少し間が置かれたところで思斗が手を叩き、話の脱線を修正する。
「えー、はい! それでは、戻しましょう。この写真を見て下さい。手渡された巻物と一緒に包まれていました。一人は最初、蓮理さん達に見せましたね」
思斗は二人の前の畳の上に二枚の写真を置いた。確かに一人は見たことのある写真、小太りで髭を蓄えた男性が写っている。
最初見た時は気付かなかったが、なるほど包まれていたというだけあって、曲がってしまっている。
さて、もう一つの写真に写っている男は誰であろうか。何処かで見たことがあるような……。
「あれ? この人って確か、私がぶつかっちゃった人じゃない?」
ああ、そうだ。早苗の言う通りである。薙刃と知り合うキッカケの一つになった人物である。
「早苗、よく覚えていたわね」
えへへ、と早苗は嬉しそうに破顔する。
「ええ、そう薙刃から聞いています。まず、順に説明しますね。貴女達に見せた、この小太りの男は前信濃大名、真田幸道の弟、幸隆です。つまりは幸正の叔父に当たるわけです。実は彼も、行方知れずとなっているようで。……あぁ、敬称は説明するのに邪魔なだけなので省略させてもらいますね。彼は幸道が大名の時に側近、参謀役として暗躍していました。幸正による所謂下剋上が果たされた後は小さな村に左遷されたようですが、約一か月前に姿を消した、と巻物に書いてありました」
つまり、思斗の口ぶりから察するにこの二人は真田公蒸発に直接的にせよ間接的にせよ関わっている疑いがあるもの、容疑者ということなのだろう。
蓮理も早苗も無言を貫いていたので、思斗は続けた。
「次の人は真田公の弟、真田道則ですね。弟と言いましても、腹違いの弟です。彼については巻物の情報でも詳しく記されていません。ただ松代町にいらっしゃるので薙刃に尾行をお願いしていました。結果はシロ。どうやら今回の件に関しては、彼は関係無いと判断しました」
「何故、そう判断できるの?」
「さぁ? 僕は薙刃ではないので」
予想外の返答に、蓮理は目を丸くせずにはいられなかった。更に、声も上ずってしまう。この男、真面目に考えているのか。
「ちょっと、どういうつもりなのかしら」
上ずりながらも怒気を含めた声に、後退りすらせずに苦笑して受け返す思斗。その笑みも同情を持っているようであった。
「僕が判断を下したんではないんですよ。薙刃です。彼がそう言ったんだから、僕は従います」
またもや予想していなかった返答。蓮理は絶句した。薙刃がシロと言えばこの道則とやらをシロとして容疑者兼関係者から外すのか。そんな馬鹿なことは無いだろう。
「ああ、蓮理さん、そう睨まないでください。そう、貴女が思っている通りです。僕達は間違えていますよ。ですが、これ以上道則を疑い続けるのが正解と言えるのでしょうか。蓮理さん、疑うというのは意外や意外、難しいんですねぇ」
この男、他人事のように話すのが癖なのだろうか。先程自分が探究心だの何だのとほざいておきながら、その考えはどうかしているに違いない。
これなら早苗の『戴きますとご馳走様は大声で』という癖の方が幾分楽である。
「私は、疑うという行為自体好きではないわ。しかし必要悪だと考えている。思斗の言う通りに疑うというのは難しい。だからといって早々に打ち切るのはよろしくないわね」
ふむ、と一考するように顎を自分の右手で支えるようにして、目を閉じる。確かに一理ある、と言いたげな雰囲気であった。
「成程、蓮理さんの言い分はもっともです。僕と……いえ薙刃の考えが浅はかだったようです。後できつく言っておきましょう」
ちゃっかり薙刃に責任を押し付ける様を見て、ようやく蓮理は雨宮思斗という人間が一般人でないことに確信を得たらしい。
そもそも、薙刃の相棒であるという段階でもはや一般人等という妄言は許されないだろう。
「では、道則の方は貴女方が調べ上げてくれませんか?」
これは流石に予想できた返答であった。かなり紳士的に対応してきたが、要約して若干の誇張を付け加えるならば『そこまで言うなら自分達で調べてみろ』と言っているのだ。よろしい、この事件に関わっているのは自分達も同じだ。私達は何としてでも真田公に会わなければならない理由がある。むしろこのようにしてくれた方がやりやすいものだ。
「なら二手に分かれるということで良いわね。貴方達はその幸隆を徹底的に調べて頂戴」
「ええ、もちろんです。さて、今後はこの方針で行動するとして、他に聞きたいことはあります?」
「あるわ。その道則は松代町にいると言っていたけれど、この町から離れるという可能性は?」
ありません、と思斗は即答してきた。
「彼は真田公の弟ですが大した重役として名を連ねている訳ではありません。暮らしぶりはまぁ、信濃領民よりちょっと優雅といったところでしょう。それに彼は家庭を持っていますし、もし彼が首謀者や関係者であるなら尚更この地を離れないでしょう。まだ真田公は死んでないんですから」
成程、その考え方はやや運の要素が強いが間違いらしい間違いは見られない。あの気弱そうな印象は、家族を置いて逃げる人物ではないと告げている。家族ごと逃げたのだとしたら、確定である。兄がいなくなっているこの状況下で松代町から離れるというのは、自分の首を絞める行為に他ならない。思斗や薙刃なら必ず見つけだすことができるに違いない。
「そう、そこなのよ」
幸隆と道則の二人に関しては一先ず話が纏まったので、置いておくことにする。次の問題はあの忍者が発した言葉である。
「『真田公が殺されたりしたら、大変ではないか?』、か……つまり、何者かが真田公を殺そうとしている。そして真田公は死んでおらずまだ生きており、何処かに監禁されている可能性が非常に高い。この二つのことがわかるわね」
その通りです、と思斗は言い、更に補足するように付け加える。
「忍者の依頼人と、首謀者は別人であり、かつ結託している、複数である可能性も高いですね。あんな他人事のように言いはしないでしょう」
貴方がそれを言うの?とツッコミを入れたかった蓮理だが、ここは堪えることにした。
「問題は、目的の方よ。真田公を殺させる訳にはいかないわ。絶対に阻止しないと……」
蓮理の深刻な面持ちを、思斗は何度か見ていた。そういえば彼女達のことを何も聞いていない。これは良い機会だ。思斗は内心、歓喜に満ちていた。ようやく、この正体不明の存在に触れることができる。
「そろそろ……教えて下さい。蓮理さん達は何故真田公にそこまで会いたがるんですか?」
そして、蓮理は予想していた。いつか近い内にでも私達が何者か、尋ねてくるのは思斗であると。
彼等も自身のことを(少しかもしれないが)話してくれた。ならばこちらも応えるというのが道理であろう。
「……そうね。隠しても仕方のないことだし、話してしまいましょうか。その前に早苗、起きてもらえないかしら?」
「ふがっ!? え、寝てた?」
さっきから人に寄り掛かって鼻提灯を作りながら鼾をかいていた者の言葉とは思えない。よろよろと起き上がる早苗を支え、蓮理は言った。
「私達は……幕府の人間よ。だからといって、万屋である貴方達を見下したりなんかしないから、安心してくれるとこちらも嬉しい」
「あれ、言っていいの? なるべく言わないようにしてたんじゃ……」
寝起きで頭が回っていないのであろう。やや言葉が拙かった。蓮理のしっかりしなさい、という言葉も聞こえる。しかし、そんなことは、今非常にどうでもよかった。彼女は、何と言った?
自分の見立てでは蓮理は貴族の娘、早苗はその付き人であろうと予想していた。が、まさか幕府の人間だと? まいった。非常にまいった。もし彼女の言うことが真実なら(十中八九、真実だろうが)本気で不味いことになる。これでは満足に“殺せない”。
● ●
殺す、というのは違法である。しかしこの時代、町村外での殺しは黙認される。今の幕府にそこまで気を回す余裕が無いからだ。故に一歩外を出れば山賊海賊といった盗賊団に殺されてもおかしくない。女であればすぐには殺されたりはしないだろうが、いっそ殺してくれと嘆願する未来が待ち受けているに違いない。
そして逆に言えば、殺したい放題なのである。町村外であれば、殺しまくれる。殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しても、この常識が蔓延としているご時世である限り、罪に問われない。現行犯として幕府側の人間に見られたら、その者(あるいは者達)を殺してしまえばどうということはない。要はバレなければ何しようが構わないのだ。
では町村内だと殺せないのか。答は素晴らしくも(一般人からするならば悲しくも)否である。殺せるに決まっている。違法だろうが何だろうが、前述したようにバレなければ良いのだ。余計なおまけとしてもれなく同心等による幕府側の捜査がくっ付いてくるが、それは殺害者の器量と運が絡んでくる。もっとも雨宮思斗という人間にとっては、薙刃の理論を借りるならば、それこそ自分が象で向こうが蟻だ。隠蔽工作には異常なまでに長けていると自負できる。薙刃が派手に殺した際に生じた証拠の数々を、一体誰が、何回消し去り、幕府を欺いてきたと思っている。そう、雨宮思斗の隠蔽工作は完璧なのである。
故に今回も、真田公の命を狙っている存在を薙刃に完膚なきまでに虐殺させ、自分は隠蔽に徹するという計画で事を進める算段でいた。
貴族のお嬢様、九條蓮理とその付き人である原田早苗、すなわちやや武術に心得のある一般人二名には調査を手伝ってもらい、その上で彼女達の目的(どうして真田公に会いたいか、という疑問は置いといて)を達成してもらう。彼女達を誘拐して身代金を要求するなんてことは盗賊とかいう屑のやることだ。僕達はこれまで通り、旅を続けて殺しまくる。彼女達は真田公に会うという目的が達成され、お家に帰る。ああ、なんて平和的な解決だろうか! おしまいおしまい。ちゃんちゃん。
となる筈だったのに! どうしてこうなった。思斗はどこで間違えたか、自身の行動を振り返る。
ああ、そうか。美しいからって声を掛けなければ良かったのだ。美し過ぎるは罪、というのはこういうことだったのか。
「……どうかした? 思斗?」
「あ、いえ、何でもありませんよ。少々驚いてしまって、何を言えば良いか言葉が詰まっていただけです」
いや、これは矛盾していないか。何でもないなら言葉が詰まるなんて有り得ないだろうに。不味い。地味に動揺してしまっている。久々の動揺だから、やや落ち着かない。そもそも、自分はこんなことで動揺を覚える人間だったろうか?
「黙っていたことは謝るわ。言い訳が許されるなら、言わせて頂戴。この件は外部はもちろん、幕府内部でも秘密のことなのよ」
「ええっと。それ程の機密、僕に教えてもよろしいんですか? もう信頼して下さった訳ではないでしょう?」
まさか、と言いたげに蓮理は首を横に振った。
「口が悪くなるけれど、万屋風情にこれ位漏れたからといってどうにかなる訳ではないもの。幕府側……簡単に言えば身内に知られてしまったらどうにかなってしまう訳だけど」
では僕達がその身内とやらにバラしちゃったら、と言おうと口を開いたが、思い直してそのまま発することなく閉じた。そんなことをすれば僕達は狂言者として、また謀反行為の疑いで確実に牢屋行きだろう。まぁ、幕府に薙刃という個を超える個がいればの話だが。
それでも幕府に目を付けられるのは非常に面倒臭い。依頼がやりにくくなるし、幕府に追われるというのは神州全体に追われると同義である。そんなことになれば、僕達は“様々な意味”で万屋を辞めざるを得ない。国外へ逃亡しようにも、言語が理解不可能であるし(理解が可能で気に入れば多用しますが)正直、僕は異国人は苦手なのである。つまりそんな選択は有り得なく、故に口を閉じた。
「あ、わかった!」
不意に早苗が声を上げた。何事かといった目で蓮理と思斗は自信に満ちた顔をした早苗を見る。
「思斗さぁ、私が幕府の人間ってことが信じられなくて絶句しちゃってんでしょ! わかるよその気持ち。私だって未だに信じらんない!!」
それはそれで問題なのではないか。
「いい加減信じなさいよ……何年それ言っているのか、私にも曖昧になってきたわ」
「あ、私も。なんかもう、これ言っときゃ良いかなーって」
ああ、もういいです。お腹一杯。
「と、とにかく、貴女達の素性がわかりましたから……改めてよろしくお願いしますね」
そう言って思斗は手を差し出した。握手の意である。
早めに彼女達を返してしまおう。これ以上夜遅くになってしまうと彼女達(とその美貌)に悪い。協力し合う仲となってしまったからには相手の体調も考慮してやらねばならない。
そしてもう一つ。薙刃と話し合わなければならない。幕府と協力するというのは、“自分達にとっては”前例が無い。
「ええ、よろしくお願いするわ」
「そうだね。よろしくよろしくー」
蓮理、早苗の順で握手を交わす。
結論から言って思斗は驚いた。幕府の人間と知った上での握手は、彼女達に対する見方を劇的とも言える程に変えてしまった。
ああ、なんて小さいんだろう。なんて綺麗で、脆いんだろう。この人達はこんなに華奢であるにも関わらず、幕府というとんでもなく重い二文字を背負っているのか。それが許されるこの世の中は絶対に狂っている。殺しに関しては大賛成だが、女性に重みを背負わせることには大反対である。
ふざけるな。そんな世なんか認めない。僕は絶対に、絶対に許せない。
何より、女性の手……詳しくは肌に触れると、“彼女”を思い出してしまう。一瞬にしてあの時の光景が、悲劇が、頭の中で繰り返される。
しかし今度はそれを動揺へと変えず、そのまま心の奥底に押し込んだ。
忘れはしない。と同時に思い出したくはない。自分が壊れてしまうから。また壊れてしまえば、薙刃に多大な迷惑を掛けてしまうことになる。それだけは避けたいから、押し込めることが出来た。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
さぁ、とっとと帰らせよう。奥に居る薙刃を起こそうと立ち上がると、急に蓮理が思い出したように、そして引き止めるように口を開いた。
「待って頂戴。お願いがあるの」
どうしてここで強引にでも打ち切って彼女達を送らなかったのか、思斗はすぐに後悔することとなる。そして運命は、宿命は無理矢理に捻じ曲げられた。
「貴方達は万屋。依頼によっては仕方ないこともあるかもしれない。でもだからこそ、私達と協力している間だけでも守って欲しいの。お願いだから……絶対に、誰も、殺さないで欲しいのよ」
終わった。薙刃がそんなことを守る筈がない。山賊連中を再起不能、忍者数名殴り飛ばし。薙刃にしてはとっても、とっても大人しい。あの時に蓮理達が居たからか。いや、薙刃はそんなことを気にする存在ではない。山賊の時では萎えただのと言っていたが、自分の意に構わず異常な力で殺すのが普通の薙刃である。思い返せば、今日の薙刃は正常だ。
いやそれよりも、この要求をどうすればいいのだろう。思斗自身は一向に構わない。特に殺したい訳でもない。殺して隠蔽するのが一番楽と感じるから、その手段を取っているに過ぎない。だが、薙刃は違うのだ。
ここで要求を呑んでも、薙刃は我知らずで虐殺の限りを尽くすだろう。徒でさえ幕府の人間に見張られている(あちらにとっては協力しているつもりだろうが)のだから、端的に言ってヤバ過ぎる。
今日は腑に落ちないことばかりの日だ。どうすればいい。どうすれば……。
「相分かった」
不意に、この場では有り得ない声が飛んだ。まさかそんな。
「何だよ思斗。そんな無理なお願いじゃないだろう。美女のお願いは何でも聞くのが紳士じゃなかったか」
そんなのは紳士ではなく単なる阿呆でしょう、と思斗は反論するが、薙刃は取り合わなかった。
「薙刃……寝てたんじゃなかったの?」
さっき話した内容を忘れた訳ではないのだろうが、また蓮理は薙刃を名前で呼ぶ。ほんの僅かに薙刃の眉が動いたが、これに関しても取り合わなかった。
「どっかの誰かさんが大声で叫ばなかったら安眠出来ただろうよ。まぁその前から眠りが浅かったから、話は大体聞こえてたが」
それなら私のせいじゃないね、と何故か胸を張る早苗。というより、大声という自覚はあったのか。蓮理は内心、呆れるしかなかった。
「じゃあ、彼女達が……」
「幕府側の人間だろう。ってか、言われる前からそうだろうなって気はしてた」
三人、驚きを顔に出す。蓮理と早苗は隠し通せていたと思い切っていたのに。
「薙刃、貴方はそんなに意地を張る人でしたっけ?」
「そんなつまらないことしねぇよ阿呆。単純な勘だ。幕府のことに関してやけに自分達のことのように話してた気がしただけだ……何だよ、別に推理劇とか始まらねぇよそんな目で見てんじゃねぇ」
「そう……なら話は早いわ。じゃあ戻すけれど、貴方は誓ってくれるのね。誰も殺さないって」
蓮理は立ち上がり、薙刃の目の前に移動する。真摯な眼差しだと、薙刃は思った。清楚に見えるくせして、そういうところは力強い。今まで見た女性の中で、一番そそる。そして同時に、“めちゃくちゃにして壊したい”。
「悪いが神とやらの偶像は大嫌いでね。ついでに言うと俺は俺にしか誓わない。だから、俺は九條蓮理、並びに原田早苗と協力関係にある間、絶対に殺しは行わないと俺に誓う」
これこそ、絶句である。あの薙刃が、嘘でもこんなことは決して言わない筈なのに。
「俺がしないってんなら、思斗は尚更絶対にしない。そうだろ?」
ええ、まぁ、そうですね、と曖昧な返事をしてしまったが、それでも最善は尽くした。こんな異常事態で冷静に返事できる程、僕は鉄壁の心を持っていない。
「ほらな。決まりだ。ってことで、続きは明日だ。いや、もう一日過ぎて深夜だな……思斗、送るぞ」
一体どうしたのだ、相棒。壊れてしまったのか。正直、内面が綺麗な薙刃なんて気持ち悪いです。
「おい、お前今絶対余計なこと思ったろ」
「いーいえ。滅相もない」
この会話の瞬間では普段の薙刃だ。少しばかり安心出来たが、それでもまだ不安で仕方がない。
いや、とりあえず後で薙刃の心変わりの旨を問い詰めるとして、女性二人を無事安全に送り届けるのが最優先。頭の中を整理して切り替えよう。
ええと、外国では“えすこーと”と言うんでしたっけ。外国の言葉は難しくて理解に苦しみます。響きが良いのは好きなんですけどね。それでも、神州語が世界共通とならないでしょうか。
「それでは行きましょうか。本当にありがとうございました。こんなに遅くまで申し訳ないです」
「いいえ。私達は大丈夫。こちらの方こそわざわざ送ってもらうなんて、申し訳ないわ……でも、甘えさせて頂こうかしら」
またあんな人達に囲まれたら面倒だしねー、と早苗が呟きながら戸から廊下に出ていく蓮理の後に着いていった。
● ●
「ああ、そういや聞きたいことあったんだった。ずっと気になってたんだよ」
夜風が冷たい宿の外に出た途端、薙刃は蓮理の方へと向かって聞いた。
「え? 何かしら?」
薙刃は指差す。しかも、触れてしまうのではないかと冷や冷やしてしまいそうになる位、近かった。
「何食ったらそんなに乳デカくなるんだ? 最初西瓜でも詰めてんじゃねぇかと思ってたんだけどよ……ずっと見てたら、ほら、何だ、腕とかで良い具合に変形してたから天然だよな? ってかこれも気になってたんだけど、服小さいだろ……あ? 何赤くなってんだ? いや、そりゃまだ寒いけどよ、その体型でそんな服着てたら風邪引いたって文句は言えねぇぞ。ついでに輪郭線丸わかりで大抵の男は欲情するだろうから、精々気を付けるこった」
あれ、案外普段の薙刃ではないか? 思斗は心配し過ぎたのかもしれない。
女性に関して疎いと言うか、気配りが出来ないのは変化していない様子である。女性みたいな顔をしているくせに、だ。
しかしそれはぶっちゃけると変化していてくれた方が、湯気が出るんじゃないかって程の赤面で薙刃を叱りつける蓮理を早苗(その早苗も、大爆笑していて協力を仰ぐのに少し時間を要した)と共に宥める必要は無かったろうに。
薙刃、直球過ぎるんですよ。淑女に乳デカいとか、男として認識されたいならその軽はずみな言動は控えた方がよろしいかと。少なくとも、この一件が片付くまでは。
こういうの、えーと、あれ、こういう頭が悪いのはなんて言うんでしたっけ。駄目ですね。最近物覚えが悪いです。
……ああ思い出した。“せくしゃる・はらすめんと”略して“せくはら”でした。
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結果的に言えば、道中蓮理は終始薙刃に冷たい視線を浴びせながら一言も喋らなかった。正直早苗も思斗も、宥めるのに体力を使ったということもあり、口数は普段と比べて遥かに少なくなってしまった。元凶とも言える薙刃はどうして蓮理を怒らせてしまったのか首を傾げながら、かつ二人の制止を振り切って放たれた蓮理の強烈な平手打ちによって手形に赤く染まった右頬を摩りながら、先導していた。これには同情の価値は無いだろう。
そうして薙刃と思斗は女性二名を送り届けるという仕事をこなし、再び宿へと帰ってきた。
「風呂……は付いてなかったか、この宿。松代に銭湯あったっけか? なんとかあの状況でも何とか昼に城門前で合流って約束取り付けたから、朝に行っときてぇな」
この宿から南に行けばあった気がしますよ、という返事を聞き、そうかい、と答えつつ欠伸をしながら薙刃は奥の部屋へ行こうと襖の取っ手に手を掛けた。
確かにこの時間帯だ。寝たいという気持ちはわからなくはないので、普通なら引き止めるなんてことはしないだろう。事実、自分もやや睡魔に襲われつつある。しかし、思斗にはそれを引き止める程にはっきりしておきたいことがあった。
「どうして、蓮理さんの要求を呑んだんですか?」
思斗は薙刃がどういう存在か、知っている。知っている上で相棒として各地を旅してきた。その間、このような事例は一切無かった。殺すか殺さないかは、殆ど薙刃が決める。故に無かったのである。しかし今回は一体どうしたというのであろうか。思斗から見れば、薙刃が“薙刃としての役割”を放棄しているとしか認識できなかった。
「別に。気まぐれだよ」
違う。それは断じて違う。如何に薙刃の意思といえど、気まぐれ等というもので薙刃から殺しを引き離すことなんか不可能である。
「気まぐれなんかで殺さないようにできるなら、貴方はこんな所に居やしない」
今まで思斗に背を向けていた薙刃が、その言葉で振り向いた。思斗の言葉に対して怒りを覚えている訳ではなく、これといった特徴は見られない無表情だった。
構わず、思斗は続ける。ここまで来たのならもはや退けない。
「正直に言います。気に食わなかったら殴って蹴って頂いても構いません。骨の五、六本は差し出しても足りないかもしれないことを言います……今の貴方は、自分の存在理由を否定しています。止めて下さい。今はまだなんとか大丈夫なのかもしれませんが、後々に絶対響きます。もし貴方が狂ってしまえば、万屋としての旅は間違いなく打ち切ることになってしまいます。今更反故にすることなんてできませんが……」
思斗、と薙刃自分の身を案ずる相棒の名を呼ぶ。何の感情も含まれておらず、淡々とした口調で薙刃は続けた。
「最初に言ったこと、覚えてるか?」
口には出さなかった。無言の肯定、というものである。忘れる訳が無いだろう。あの時から、僕達の環境も、立場も、人生も変わった日に薙刃が言った言葉。そして、僕が薙刃に着いて行こうと決めた言葉。
「俺はさ、ようやくその言葉に準じる。いや、準じる決心ができた、だな」
今更だけどな、と付け加え、座っている思斗と目線を合わせる為に彼自身もその場に座る。
「よく思えば、お前よく俺を嘘吐き呼ばわりしなかったな。今考えたら、悪いことしちまったよ」
違う。薙刃がそう思う必要は無い。自分はきっと、諦めていたのだ。“やはり薙刃は薙刃なのだ”と。そして何より、あの牢獄のような場所から逃げ出したかった、という理由もある。
「貴方を知っている僕が、貴方を嘘吐き呼ばわりなんて……できると思いますか。僕だって貴方の誘いを利用して逃げ出したようなものです」
違いないな、それは。そう苦笑しながら薙刃は肯定した。
「だからお前に声を掛けた。お前を選んだ。それにな、何でいきなり決めたかってのにはちゃんとした、明確な理由がある」
それは何か、と尋ねる前に薙刃は先んじて言った。自嘲するように、極めて冷静に言った。
「下心があるんだよ」
● ●
「蓮理ちゃん。せめてお風呂に入りたいです!」
早苗の言うことはもっともだ。正直、蓮理も汗をかいたので臭いが気になる。その汗を流させた原因は怒ったことであり、根本的な原因と突き詰めて言えばあの赤髪……薙刃のせいである。
「朝までの我慢よ。とりあえず着替えて、朝にでも銭湯へ行きましょう。昼時に見かけたから」
「おお、いいねぇ! そう考えると早く朝になんないかなって思っちゃうよ。上がった後の牛乳がものすっごく美味しいんだよね。なんでだろ?」
知らん、と一蹴してやりたい。そもそもそれは人それぞれの味覚によるものであって疑問として投げ掛けるのは間違っている。
しかしそんなことを口に出して早苗を悲しませるようなことは蓮理はしない。というより、別に本心でなく一般的な考えを述べて何になる、と考えているからである。
「早苗。そこの無尽蔵収納機を取って頂戴」
そう言って蓮理は早苗の寝転んでいる布団の横にある小さな、かつ正方形の箱の形をした物体を指差す。
「ああ、貉ね。そんな正式名称で言わないでよ。私、蓮理ちゃんが急におかしくなっちゃったのかと一瞬慌てちゃったよ。はい」
手を伸ばした早苗から、貉と呼ばれた物体を受け取る。これは所謂、絡繰という物である。
「しっかし、二代目平賀源内って人はとんでもないもの作ったね。こんな小さな物で服とかの雑貨品がめっちゃくちゃ入っちゃうなんてねぇ」
そうね、と蓮理は同意を示す。
「正確には、十鱒得磁尊との合作よ。私は二人共出会ったことないけれど、相当個性的らしいわ」
要約すれば、相当変人ということである。貉、と早苗に呼ばれた物体に目を落とす。横に付いている開閉器を押し、電気回路を開く。すると正方形の箱は十字型に四分割され、宙に展開された。次いで分割された欠片同士で結びあうように緑色の光の線が放出され、長方形の光の板、縁に欠片で光を放出し続ける、といった状態になった。
原理がどうなっているのか、殆ど多くの人は知らずに使用しているだろう。蓮理でさえ知識としては知っているが、どうしてこうなるのか、よくわからなかった。そもそも、外来の技術と神州の技術の融合に関しては何か超常的なものが絡んでいると今でも訝しんでいる。それ位わかりにくいのだ。
「そうね……輪郭線丸わかりだなんて言われないような服にしないと私、今度は平手打ちじゃ済みそうにないわ」
光の板を見て、映し出されている蓮理の私服を眺めながら、やや語気を強めて呟いた。
光の板に指を当てて上下左右に動かし、服を表示する。
「蓮理ちゃんの体は女性の矜持を悉くぶっ壊しちゃうくらいすごいもんね」
「ああ早苗言わないで。私だって本当、困っているのよ。幕府に身を置いているからって豪華な食事なんて余りしないし、私自身、そういうのより素朴な食事の方が好みだし。早苗と同じような食生活で、どうしてなのかしら」
この蓮理の言葉は大抵の女性の逆鱗に触れそうなものであるのに対し、早苗は全くもって気にしていない様子で笑い掛ける。そもそも早苗に女性の矜持とやらは特に持っていないようである。
「若干語弊があるよ。蓮理ちゃんの方がまだ美味しい食べ物食べてるって。ほら、私、親が、ね」
言い終わって早苗は慌てて取り消す。何か気の利いたことを言おうとしたのだろうが、このままでは暗い話に突入してしまうのは避けたい。蓮理が口を開いたのを見て、早苗は反射的に動いた。
「あ、や! 違うよ蓮理ちゃん! 不幸自慢とかそんなんじゃなくってさ。つい口滑っちゃっただけだから! こう、トゥルッと? こんな感じ! ほら蓮理ちゃん、私の手の動き見て! ええっと、うん全然私の話なんか関係ない! 関係ないったらないね、うん! はいこの話お終い! さぁさぁさぁ思いっ切り忘れて! そんでもって笑って笑ってー!」
身振り手振りに加え早口で蓮理の口挟みを阻害し、一方的に話を打ち切らせる。呆気に取られていた蓮理であったが、余りの早口に笑いが込み上げてきたようで、破顔一笑した。
「そんなに慌てなくたって、大丈夫。私だって愚痴紛いのことを恥ずかしげもなくブツブツと呟いていたんだから。ただ……」
「ただ?」
「声が大きいわね。もうこんな夜遅くなのだし、気を付けて。そこだけが、私の唯一貴女に言及するところかしら」
微笑み掛ける蓮理を見て早苗は感極まったのか、獣の如く飛び掛かって抱き付いた。
きゃああ! という叫び声が一室に響き渡る。
「あ~蓮理ちゃんは優しいなぁ。私感激しちゃった。こんな良い娘そうそう居ないよぉ~」
早苗が上になって蓮理に頬擦りしている光景、まるで大型犬に圧し掛かられて戯れる飼い主の図を彷彿とさせる。蓮理からすればそんな平和的な見方はできそうにないが。
「ちょ、ちょっと早苗、そんな感激するような身のある話、した覚えはないってば。だから……お、重い」
しかし、蓮理からすればそんな平和的な見方はできそうにないが。
何とか引っぺがそうと早苗の肩を掴んで押し返すが、力はやはり早苗の方が強い。早苗は蓮理の抵抗に構わず、更に抱き締める力を強める。ついでに頬擦りの速度も増している。
暫く、この状態が続いたのは言うまでもない。そして
「早苗、わかったから……そろそろ離して頂戴……早苗?」
急に早苗が行動を止め、動かなくなってしまった。今まで自分を締め付けていた力も緩んで、簡単に抜け出すことができそうだ。
「っしょ、と。早苗、どうかしたの?」
返事が無い。ここまで来るとやけに不安になってくる。具合でも悪くなったのだろうか。
抜け出し終えてから、早苗を仰向けにして顔を確認する。瞼は閉じているが、息はしている。息、というか寝息と表現した方が正しいか。
「はぁ……急に寝始めるのにはまだ慣れないわね」
苦笑しながら、寝言を何やら呟いている早苗を敷いた布団の元へと運び、自身も着替えて始めた。
着替えさせていないけれど、朝行く前にでも言っておけば良いでしょう。それ位の時間はある筈。
「おやすみ、早苗」
自分を支えてくれる幼馴染に、労いを籠めて言った。それは感謝の念からに他ならない。が、自分の安眠も支えてはくれないだろうか。
何とかして早苗に鼾を矯正させないと、私不眠症になってしまいそうだわ。
● ●
「下心……ですか?」
薙刃、頭大丈夫ですか? と本当に尋ねてしまった。うるせぇよと一蹴されてしまったが、目は真剣そのものだ。
「ぶっちゃけるとだな、ちょっと期待している」
言っている内容と目が一致していない。ややニヤついた口元も加えるべきだろうか。
「薙刃、何の話ですか。そんなふざけるようなことじゃないでしょう」
呆れたように手を額に付ける思斗を見て、薙刃は首を横に振る。
「誰がふざけるか。いいから最後まで聞けって」
手で思斗の追撃を制し、言葉を続ける。一体何を考えてのことなのだろうか。
「俺がこのまま誰も殺さなかったら、狂ってしまう。ああ、そうさ……おいおい、そんな目で見るなよ。前から言っていたろうが」
言っていましたよ。薙刃、貴方は殺し続けなければならない存在なんです。
そう言おうとしたのに、思斗は声にして伝えることができなかった。薙刃が殺し続けなければならない存在という事実を、単純に否定したいから、というのが理由として適切だろう。
今までは本心を奥底に閉じ込めて、言いたくないことを薙刃に諭してきた。前述した、薙刃に言おうとした言葉を言いたくないのに言ってきた。今までの薙刃は否定してしまえば簡単に壊れてしまい、そして周囲も簡単に壊してしまう存在だったからだ。
しかし、その薙刃が殺さないと言った。すなわちは簡単には壊れなくなった引き換えに周囲を簡単に壊すことができなくなった存在へと変化したのである。ならば、相棒である自分も変化しない訳にはいかないだろう。
故に薙刃が殺すまで、僕は薙刃が薙刃であることを否定します。
どうして殺さないのか、その理由を今から教えてくれるのだろう。きっと絶望する。僕はもう見当がついている。間違いなく絶望する。それでも彼に着いて行く。この上の無い絶望でも、そう誓ったのだから後悔はしないに決まっている。
そんな痩せ我慢、薙刃、貴方は気付いてくれているんでしょうね。貴方はとても繊細で、“他人という存在に異常に敏感”だから。
「そろそろ、死にたいんだよ。救いの光とやらの幻想を抱くのはもう飽きた。世界が俺を殺さないなら、俺が俺を殺すしかないだろう」
*亥
古時刻において午後九時~午後十一時を表す。巳一つは午後九時~午後九時三十分頃を指す。
*白熱電灯
稀代の凶才、二代目平賀源内と亜米利加が生んだ天才、十鱒得磁尊が共同に開発した、雷を用いて主に夜を明るく照らす絡繰。家屋の地下に電力を供給する電線を設置している。戸籍が認められている家屋には幕府から無料設置である。
*万屋/万屋連盟
本文で蓮理がほとんど言ってしまいましたので、万屋連盟について補足。
元々、過去に幕府が不甲斐ない、信用の無い状態であった為、有志により発足した連盟。
間違えてはならないのは、幕府が公的で処理できない案件、私用の為に敢えて発足させた組織ではない。今でこそ万屋に依頼したりしているが、元々はそういう役職が存在した。
万屋となるには後述する万屋請合所にて申請しなければならなく、申請が通った時点で自動的に連盟に名を連ねることになる。
正直、幕府の役人でない限り許可が簡単に下りる。
*万請合所/万板
万版は主に村に設置され、無人。万請合所は有人で、村以上の規模に設置される。が、あくまで一般的な基準であり、村でも請合所は存在したりする。
*伊豆
現実で言う、静岡県の一部。
*越中
現実で言う、富山県。
*越後
現実で言う、新潟県。
*佐渡
新潟県西部に位置する佐渡島。
*能登
現実で言う、石川県の一部。
*相模
現実で言う、神奈川県。
*駿河
現実で言う、静岡県の一部。
*遠江
現実で言う、静岡県の一部。
*三河
現実で言う、愛知県の一部。
*間
かん、とは読まない。けん、と読む。別にかん、と呼んだって大丈夫な気がする。でも呼ばない。
尺貫法での長さの単位。一間は1.8182mに相当する。
*裏葉忍者
信濃の北に在るとされる隠れ里で依頼を請け負う忍者集団。主君を必要とせず、完全に独立している。
黒頭巾に黒い口当てから始まる黒ずくめで、大体パッと出た忍者の恰好をしている思って頂けたら良い。
本文でも指摘されているが、殺害対象に殺害する旨を伝えてから殺しに掛かる。これが誇りであり掟であるらしく、宣告の邪魔は原則許さない。
*尺
一尺は約30cm程。
*始末屋
万屋と同じ非公認職種。正しくは万屋の派生職種。何でも請け負える万屋と違い、始末をつける専門の職業。殺害屋(読んで字の如く、殺害専門の職業。詳しくは本文中で出てきた時に)とよく間違えられるのは人の命の始末もつける為である。揉め事等を終わらせたりすることもある。
*神州語
現実でいう日本語。
*無尽蔵収納機/貉
本文で粗方説明されているのでどうして貉、と呼ばれているのかを説明。
むじんぞう、からむじ。収納の納はな、と呼ぶ。合わせてむじな、となる。
余程大きいもの(光の板に透過できない大きさ)でなければ、大抵の物は収納して自由に取り出せる。神州全土に普及していると言っても過言ではない程に、浸透している。
収納数は個体によって差異がある。