第十章 舞台裏の転機者達
――忘れるな我が天命。失うな我等が矜持。
大通りから外れた為か、人が徐々に少なくなっていく。先程のような注目の視線は感じなくなってきた。
相手はただ、逃げている。追われながらも蓮理に放ったように攻撃を行う筈であると警戒していたが、それすらせずに逃げに徹している。
逃さない、という感情に忠実に、早苗は男の背中を睨み付けた。まさか自分もここまで手こずるとは思っていなかったのである。
しかし、これ以上の苦戦は許されない。というよりも、自分が自分を許さないというのが正しいか。主である蓮理は、護衛である自分と離れている状況。“貉”で互いの様子はわかるものの、全てを頼りにはできない。
何よりも早苗の直感がこう告げているのだ。蓮理の傍にいなければならない、と。その、本能とも言える直感に身を任せる為には今与えられた役割を即座に終わらせなければならなかった。
故に、これでは埒が明かないと判断したのだろう。如何に優秀で底無しと評されてもおかしくはない体力も、やはり無限に続く訳ではない。短期決着。これを実現する為に、早苗は頭を使うことにした。同速度の人間を捕まえる方法を、頭を使って考えることにしたのである。
「逃がすかぁぁ!」
しかし残念ながら、悲しいことに早苗には走り回りながらあれこれと考えられる程の資質は無い。頭を使うことにしたは良いが、結局は使えなかった。早苗の取った行動とは。
「だからぁ、何度も同じことを、言わせるなぁぁぁ!」
高速の世界を体感していた早苗の視界に入った棒状の物体――正しくは、竹馬――を二本掴み取り、力の限りにぶん投げた。
二本の竹馬は綺麗、とは言い難く、むしろ鋭いと表現した方が良い程に地面に水平に軌道を描いていき、そして見事に命中を成し遂げた。まさか素晴らしく直撃するとは投げた本人である早苗も思っていなかったのか、驚きの表情を見せる。
背中にほぼ同時に突かれ、流石の男もその衝撃と痛みには耐えられなかったのだろう、抵抗も虚しく消え去り地に伏した。
そしてその絶好と言える好機を逃す程、早苗はいつまでも驚いている愚鈍ではない。更に通りかかった飲食店の暖簾に手を掛け、棒を引き摺り出して倒れた男の元へと向かった。
「捕まえたぁっ!」
「ぐぁっ!」
歩いている人数が少ない、というのは大通りの人数と比較して、である。それでもまるで人の目を気にしないとばかりに起き上がろうとする男の上に圧し掛かり、頭のすぐ横に先の棒を地に突き立てた。
「白昼堂々、よくもまぁ蓮理ちゃんあんなことできたもんだ、このっ!」
逃げ出そうともがく男を黙らせる為、棒を持ち上げ頻りに動く頭部に目掛けて振り下ろした。
こめかみ部分を力の限り平らになっている棒の先端で押していく。
「っ! うぐぐ……!」
痛みの苦しみに吐き出すかのように声を上げる。その顔は歪んでいた。
まさか捕まるとは思ってもいなかった。いつもの通りに派手に逃げることができなかったが、それでもこのような護衛の小娘に捕まる、という未来は予想してなかった。
それが男の本音である。幕府の護衛役とは聞いていたが、逃走の専門職と言っても過言ではない忍者に追い付く(実際には追い付いていないが)どころか捕える護衛役など見たことも聞いたことも無い。
「蓮理ちゃん……はちょっと今お話中かな? 仕方ない、邪魔はしたくないし、待とうか。その間に引き出せるだけ引き出しとこうかなっと」
いつまでも圧し掛かっている訳にはいかないので、早苗は立ち上がり、男の襟を掴んで乱暴に引き上げた。
そして人気の無い裏路地へと連れ込んでいく。これ以上は流石に目立つ行為はよろしくないと判断できたのだろう。そのまま抵抗する男を無視して壁に貼り付けた。
「さぁて、真田公はどこにいるのかな? 私は蓮理ちゃんみたいに優しくないからね、答えてくれなかったらある程度の殴る蹴る折る、は普通にやるよ?」
脅しそのものである言葉に、しかし男は尚も反発の意志を見せた。
「ふん……その程度で俺が口を割るとでも思っているのか? 舐めるなよ小娘」
最後まで言わせたのは早苗の優しさか、それとも少しでも情報を漏らしてはくれないかと期待したのか、どちらにせよ早苗は自分の拳が男の腹部にめり込む程に殴り入れた。
「がはぁっ!」
「定番な台詞はお腹いっぱいだよ。さっさとペラペラ話してくれたら蓮理ちゃんだって喜ぶし、私も喜ぶ。私がこんなことしてると蓮理ちゃんは良い気分じゃないんだよ。だからどちらかと言うとしたくない。でも仕方ないよね。話してくれないんだったら、せめてあんたが蓮理ちゃんに攻撃したっていう怒りをこうやって発散するしかないんだよね。そうそう、こうやって正当化しなきゃ、ねっ!」
要するにこれは情報を引き出す為の拷問ではなく、単純にムカつくから拷問しているのである。故に更にもう一撃、拳を鳩尾に叩き込んだ。
「うぐっ!」
「言っておくけど、私はあんまり良い性格じゃないから。どうせ許して貰えて助かる、なーんて甘い考え、止めてね。蓮理ちゃんの為と判断できるなら蓮理ちゃんを裏切ってもやるよ、私は。それが例え殺しでもさ」
そうして横に立て掛けていた暖簾の棒を喉元に突き立てた。
「うん、喉は潰さないよ。喋れなくなったら困るからね。だから……」
くるりと一回転させ、早苗の腕を掴んで抵抗を続けていた右腕に狙いを定め、勢い付けて鈍い音を響かせた。二つの何かが圧し折れた音である。一つは暖簾の棒。見事に叩き折れた。
「……っぐぁぁあ!!」
力が込められていた右腕がだらりと垂れ下がる。一緒に力の限りを振るっていた左腕も下され、右腕の明らかに嫌な色が広がりつつある部分に手を伸ばす。しかし早苗はそれを良しとはしなかった。再度男を壁に叩きつけ、妨害したのである。
早苗は無惨に折れた棒を眺めるも、興味を失ったかのように投げ捨てた。
「ほら、折れちゃったよ。あの店に悪いことしたなぁ」
男の右腕の骨を折ったことには申し訳なさの欠片も無い口ぶりである。早苗にとっては蓮理を殺そうとした者には人権すら与えたくない、というのが本音か。
蓮理絶対至上主義であり、蓮理を心底に尊敬しているが故に、普段の早苗からは考えられない数々の言動が生まれたといえよう。
「後で弁償しといてよ……あー、そうなると私はあんたに生きていて貰わないといけないなぁ。殺す気はまぁ、元から無いんだけどさ。喋れることと、お金を払える程度の元気は残しておかなきゃ」
言い終えた後に、何か思いついたような素振りを見せ、先の言葉の訂正を行う。
「いや……別にあんたからお金を貰えば良い話だね、うん。あ、これは蓮理ちゃんには内緒だよ。何せ蓮理ちゃん、こんなこと知ったら自腹で払おうとするからね。で、経費も落としたくないとあっちゃ、これはあんたのお金を出すしかないでしょう。幸いなことに蓮理ちゃんは話に夢中になっているようだし、さっさと財布出してよ財布。まだ左手動かせるでしょ」
満面の笑みであるが、状況が状況なだけに男は恐怖を感じる笑みに思わされた。従わなければ無理矢理にでも奪い取られるだろう。
しかし、ここで大人しく財布を渡してしまえば、それは敗北を意味することとなる。このような劣勢であっても、従う訳にはいかない。
我々はあの化物と渡り合って勝っているのだ……こんな小娘に勝てずとも、心まで屈するものか!
そう心中で奮起し、あくまでも拒絶の意味を示す為、唾液と血が混ざり込んだ唾を地に吐きかけた。
満面の笑みが引き攣ったのを視認して、後ろの“貉”の画面に目が動いた。端整な顔をした黒髪の女性、先程自分が殺そうとした女性の顏が映り込み、早苗を無表情に見つめていた。
早苗も画面越しとはいえ静かな怒気に感付いたらしい。一度体をビクつかせ、しかし襟を掴んだ手の力を緩めずにゆっくりと後ろを振り向いた。
「……あ、あはは。蓮理ちゃんだ……ほら! つ、捕まえたよ?」
早苗は作り笑いを浮かべながら壁に貼り付けたように押し付けている男を見せるも、対して蓮理は無表情を崩さずに、静かに言った。
『早苗、貴女は一体何をしているのかしら? とても捕まえた後には思えないけれど?』
冷たい問い詰めに、つい早苗は目を泳がせてしまう。
「え、えーとね。いや違うんだよ蓮理ちゃん。私はさ、その……」
『言い訳を考える暇があるなら、思斗に連絡して知らせなさい。彼なら情報を引き出す術も心得ているでしょう。貴女じゃ不安だし、そういうことはさせたくない。私の護衛の役割から逸しているわ』
くどくどと弁解を聞きたくはない、と言わんばかりにぴしゃりと言葉を遮った。
『そう考えるとなると、先の言動はよろしくはないわね。カツアゲまがい、というかカツアゲするような女性を護衛役にした覚えはないけれど?』
追い打ちをかけるような言葉は、確かにしっかりと早苗に突き刺さる。
「はぁうっ! ち、違うんだってば蓮理ちゃん!」
男としてはこのまま漫才でもかまして自分を締め上げている手の力を緩めてくれれば、脱出して形勢逆転、たちまち優勢となって早苗の首を叩き折ることもできたのだが、早苗は見た目に反してちゃっかりとしているのか、先程と同じように全く緩めようとしない。一定の、男の自分でも抵抗できない力を保ち続けている。それは本当に女かと疑いたくなる程の力である。
『いいえ、違わないわ。説教は後回しにして、とりあえず思斗に連絡してからその人を彼に引き渡すこと。その後に私の所、牢屋に来て頂戴。場所はわかるわよね?』
説教という言葉に明らかに狼狽え始める早苗であったが、質問にはきちんと答える。説教云々に関してはもう関わりたくないのか、反応を示さない。
「う、うん。場所は大丈夫。多分」
「なら、なるべく早くお願い。あと、薙刃に」
不意に、画面が、蓮理の顏が消えた。それは余りに突然な出来事で、早苗もすぐには頭が回転しなかった。
「……あれ? 蓮理ちゃん?」
“貉”を展開し、蓮理へと通信を試みる。しかし中断されてしまった。何かの不具合かと思ったのか、再度同様の行動を試みる。当然、結果は同じであった。
「……“貉”、壊れちゃったのかな? あれ?」
次は“貉”の故障と判断し、一旦電源を落として大きく上下にぶんぶんと振ってみる。別段、故障という訳ではないようである。
「くっく」
嘲笑う男の漏れた笑い声によって呆然としていた早苗は正気へと戻った。
「何笑ってんの……?」
やや怒気が込められた質問に、男は実に愉快そうに答えた。
「小娘、おかしいとは思わなかったか? どうして俺は逃げる際にお前に攻撃を加えず、逃げに徹したのかを」
それは確かに感じたことである。しかも男の言い方から察するに、あえてそうしなかった、とも取れた。
それが気に入らなかったのだろう、早苗は襟を掴む手の力を強め、壁にこれ以上無いくらいに、かつ乱暴に押し付けた。
「何が言いたいのさ……」
「お前達を意図的に二手に別行動させた、と言いたい」
「……はぁ? そんな訳が……」
「あるとも。現にお前の片割れ、あの黒髪と“貉”で通信はしているものの、離れ離れになっているではないか。いや、今はもう通信はしていた、と言った方が正しいか」
最後に鈍いな、と付け加え、その言葉で早苗はようやく察したのか、悔しそうに歯軋りし始める。
「蓮理ちゃんに、何をしたぁっ!!」
そしてその怒りは爆発し、叫びとなって男に襲い掛かった。しかしそれに対して、男は怯みもしない。
男は確信したからである。最早自分は劣勢に立たされているのではなく、完全に優勢の立場である、と。
「この俺を馬鹿正直に追い掛け回したのが失敗だったな。あの女の護衛役というのなら、不即不離でいるべきであった!」
「黙れっ! 質問に答えろ!」
力任せに男の頬を殴り抜く。しかし男は笑みを崩さない。それどころか更に助長となってしまった。
「ぐっ……ふははは! こんな下らぬ問答を仕掛けている暇があるというのなら、さっさと主君の元へ向かった方が良いのではないか? 仲間にこの俺を引き渡すにも時間が掛かるだろうがなぁっ!」
勝った。そもそも我々“浦葉忍者”がこんな小娘共に負ける筈がない。何も戦闘だけが勝利を示すものではないということを、この小娘に刻み付けてくれよう。
「くっそっ……!」
早苗は肩を震わせている。それが男を更なる愉悦へと向かわせた。
「急に饒舌になったじゃんか……何? 思い通りになって嬉しいの? 逆だよ逆。今の内に怖がっといた方が良いよ?」
しかしその震えは徐々に安定していく。恐らく早苗が無理矢理抑えているのであろう。その早苗の目は鋭く男を射抜いてる。
「あんた達の思い通りになんてならないよ。私がさせない。蓮理ちゃんは私が護るんだ」
憤怒が決意の原動力と変わっていく。
昂る気持ちを抑えながらも“貉”を展開させ思斗を呼び出そうとしたその時、不意に背後から声が聞こえた。
「ああ、やはり早苗さんでしたか。大きい声が聞こえたものでしたから何事かと……その方は?」
蓮理が指名した男の引き継ぎ人、雨宮思斗が早苗の目の前にいた。
これは自分の望む幻か、と疑ってしまう程に早苗は現実を信じられなかった。
「し、思斗!」
その現実を確かなものとして認識する為に、声を上げて名を呼ぶ。
「へ? はい。思斗ですよ。何やら凄い状況ですが、どうかしたんですか?」
嬉しさが込み上がってくるも、それを表情に出す訳にはいかない非常事態であると早苗も理解できていた。
「ちょ、ちょ、こいつお願いできる? あのね、ええと、こいつ敵!」
一刻の猶予も無い、しかし状況を説明しなければ思斗も何が何だかわからないままである。故に簡潔に要点だけを述べて引き渡さなければならない。しかし早苗にはやや難しい技術であり、苦戦を強いられた。
「はぁ……敵、ですか」
拙い説明ながらも、思斗は理解しようと努める。
「そうそう! それで私行かなきゃならないから、拷問でも何でもいいからシメて情報引き出して!」
かなり乱暴な言い方になってしまったが、一切間違ったことは言っていない。蓮理が無事であると確認できるならば自分がやっておきたいのだが、そんな有り得ない妄想に浸っている訳にもいかない。今の現実に目を向けなければ。
「それは、まぁ一向に構いませんが……蓮理さんは? 一緒じゃないんですか?」
「その蓮理ちゃんが、危ないんだよぉぉっ!!」
そう叫んで、思斗の横を通り過ぎ、“浦葉忍者”の男を追った時以上の速度で消え去っていった。
● ●
早苗から男の処置を引き継いだ思斗は、二人しかいない裏路地を一回り眺めて口を開いた。
「……成程、大体ですが状況は飲み込めました。ああ、ちょっと。逃げようなんて思わないで下さいね」
男の動かせる腕、左腕を掴んで逃走を図った男に警告を入れる。
「それにしても拷問ですか。いやぁ早苗さんも良い性格をしていらっしゃる。そして同時に目利きだ。僕の得意分野でもあるんですよ、拷問は」
ぞくり、と悪寒が背中を這った。先程まで自分に纏わりついて離れようとしなかった勝利の愉悦が、この美青年の登場によって霧散していくのを感じた。
この美青年のことは自分も知っている。あの化物の相棒という情報で、現に自分も一緒にいるのを見た。
故に即座に理解できる。この美青年もまた、化物の類である、と。
「安心して下さい、早苗さん、蓮理さん。僕は女性の真摯な頼みとあらば無下に断りません。必ずご期待に、いいえそれ以上に添えてみせましょう」
思斗は愉快極まりない、と言いたげである程、それは実に愉快そうに、強張った表情の男を見た。
形勢再逆転。拷問の耐性は身に付けているが、果たしてこの化物に通用するかどうかは、わからない。その理解不能さが更に男を恐怖に陥れていく。
「さぁて、まずは空き家を探しましょうか。確か何処かに空き家があった筈です。ほら歩きましょう。それまでに覚悟を決めといて下さいね。殺しはしませんが、そうですね、薙刃の言葉を借り受けるならば、『九割九分九厘ブチ殺す』ですっ」
● ●
遡ること数十分前、蓮理は地上を離れ、地下へと訪れていた。
「ここまでで良いわ」
地下に通じる階段で、牢屋の地点だと指し示す照明が見えた時に蓮理は唐突に切り出した。
「え?」
予想していなかった言葉に、共に着いて来た警護奉行の男が思わず聞き返す。
「ここから先は私一人だけにして頂戴」
振り向き、再度告げた。
牢屋に放り込まれている者達と話す内容は真田幸正の関係者にはとても言える内容ではない。この男個人に聞かれるならまだしも、広く伝播されてしまえば信濃は大名不在という事実に突然突き付けられ、最悪の場合は大混乱に陥ってしまうだろう。
それを避ける為に、蓮理にはこの男を穏便に退き返させる必要があった。
「そ、そういう訳にもいきません! 山賊達の捕縛が貴女とお連れの方の二人のお陰ですから、普通なら入れないここに入るのを許可しているのです」
しかし、この男にも立場というものがあり、決められた規則を守る義務がある。捕えた本人に等しい蓮理だからこそ、特例で地下にある牢屋を案内しているのだ。
「別に彼等を逃がしたりなんかしないわ」
「そ、それはそうでしょうとも。いえ、私とて疑っている訳ではないのです」
「ええ、仮に私が逃がしたとしても、この牢屋の上は奉行所。しかも奉行所は奉行所でも警護奉行です。怪我をしたままの彼等ではまた痛い目に遭ってまた牢屋に戻されるだけですから」
そんな馬鹿げたことをするつもりは毛頭無い。無実の罪で投獄されたならともかく、彼等の悪行をこの目で見ている自分からしてみれば、したくもない行為である。
「え、ええ。その通りです」
「ならば私一人が彼等に会うことに何の問題がありますか?」
「そ、そうですね……ってそれとこれとは話が違いませんか!?」
「そうでしょうか?」
「とぼけたって無駄です。そもそも彼等と何を話すかも言って下さらないのですから、諦めて下さい」
まぁ当然であると予想していたが、やはり正攻法でこの男を地上に返すのは困難であるようだ。
蓮理は深く溜め息を吐く。時間が無いというのに、これでは埒が明かない。
しかしだからといって切り札をさっさと使う訳にはいかない。最終手段を使う前に、もう一度だけ試してみることにした。
「……残念です。余りこれは言いたくはなかったのですが、話の内容を言えば、私一人でも構わないのですね?」
しかしこの男には蓮理の企みを見破った。男からしてみれば見破った、というより単に危惧しただけかもしれない。
「私も貴女にこういうことは言いたくないんですが、無理です。失礼を承知で言わせて頂きますが、本当にその話の内容をするとは限りません」
まさにその通りであり、適当に話の内容をでっち上げる作戦だった。
心中、失敗した気持ちで満たされてしまう。普段ならこのような嘘で人を騙さずに済んだ、という気持ちも湧き上がってくるのだが、今回ばかりはそうはいかない。何せより虚しい、罪悪感に苛まれる手段を取らなければならないのだから。
「成程、もっともです。ですが、こればかりは聞かれたくないこと……何せ極秘扱いにもなっている幕府からの案件ですので」
内緒事のように囁き、懐から何度目かの登場になるかわからない自分の役職を示す書状を手渡した。
男が一文を読む度に、顔面が蒼白となっていくのを蓮理は見た。申し訳なさが、罪悪感が胸に広がる。
「……ま、まさか、幕府直轄の役人様だとは……ごっ、ご無礼をお許し下さい」
元からの敬語が更に強調され、男は今にも土下座を決め込みそうな雰囲気で口を動かしている。
明らかに、怯えていた。幕府直轄の役人相手に間違った対応をしたと思っているのだろう。地方の役人にとって幕府の役人というのは、媚を売る対象か、恐怖の対象かのどちらかなのだろう。
そう、そのような風潮が広がってしまっているのが現実であり、故に今の幕府は間違っている。
そして追い打ちを掛けるように、神州は病んでいると言っても過言ではない状態なのだ。であるならば支える組織である幕府を立て直さなければならない。それは現征夷大将軍の仕事であるのだが……。
「それは良いですから、どうか一人で彼等と話をさせて下さい。今も言いました通り、話は極秘の内容となってきます。その際、貴方を巻き込まない意味も込めて、ご退場願います」
「……わ、わかりました。では私は上の方で待機しております」
若干震えた声色で、ゆっくりと頷いた。
「ご理解して下さり、感謝します。盗み聞きなんてことをして貰えなければ、決して貴方方に不利益が被ることは無いでしょう。ですからどうかくれぐれも……」
「はっ、はい! 心得ておきます! それではっ」
そうして男は逃げ出すように元の道、階段を駆け上っていった。
そこまで露骨にしなくても、と蓮理は思ったが、仕方ないのかもしれない、とも不本意ながら納得する。
何せ変な疑いをかけられてしまえば即刻クビにされるのである。否、まだそれだけで済めば良い方なのかもしれない。殺されてしまう危険性だってあるのだ。
彼等地方役人は、幕府役人にそういった印象を持っているものね……確かに、酷いことする愚か者がいることは事実、なのだけれど。
「……自らの地位を見せつけて脅しに使うなんて、まさに職権濫用ね。でも本当に聞かれたら警護奉行だけでなく信濃全体に不利益、余計な心配を掛けることになる以上……仕方ないと割り切りましょう」
口ではそう言いつつも、反するかのような溜め息が漏れた。
しかし悩んでいても先に進めないのは事実。無理にでも切り替えていかなければいけない。牢屋にいる者達との話は非常に重要なものとなるに違いない。こればかりは絶対に失敗してはいけないのだ。
その使命感で足を動かす。目的地である、牢屋に辿り着いた。狭い階段の通路とは打って変わって広い空間となっており、天井に備え付けられた照明によって全体を鮮明に見渡すことができた。
中央にある部屋、鉄の柵によって出入りを遮られている部屋へと目を向ける。中に押し込められていた男達の一人が蓮理の存在に気が付いた。
「あいつ……」
驚きの反応に返事をする為、社交辞令のように軽く一礼する。
「お久しぶりです皆さん、腕の調子はいかがですか?」
「あっ、あの女だ! お頭ぁ!」
次第にざわつき始めた牢屋の中、中央に足を組んで座っている大柄の男の存在が明らかになった。その男も驚いた声の調子で張り上げた。
「お前、蕎麦屋の……!」
酔っていた状態での犯行、とは聞いていたけれど、よくそのような状態で私の顔なんて覚えていたものね。
蓮理は内心、呆れざるをえなかった。感心などは間違ってもしたりはしない。
「……一応、元気そうで何よりね。本当なら世間話でもする方が良いのかもしれないけれど、そこまで時間に余裕が無いの。なるべく簡潔に、手早く質問に答えて頂戴」
もはや社交辞令は不要と考えたのか、蓮理はいつもの口調に戻す。少しばかり、一言ずつに威圧を込めて。
それに対する山賊――代表して頭領の反応はやはり冷たく、荒々しいものであった。
「話、だとぉ? けっ! 俺達の腕をこんなにしやがったくせに、よくもまぁ俺達の前に現れやがったな!」
頭領の啖呵を皮切りに、そうだそうだ、と手下達が騒ぎ始めた。
正直、耳障りになって話が進みそうにない。
「そのことについては、薙刃……張本人にももう一度きつく言っておくわ。ただ、貴方達も山さえ下りて来なければ、そしてあの蕎麦屋を占拠だなんて馬鹿な真似さえしなければ良かったのでは? こんな辛い思いもせず、五体満足だったでしょうに」
「何も知らねぇ女が……偉そうな口を!」
頭領は周りよりも一段と声を張り上げ、蓮理を貶し始める。しかし、蓮理にはまるで効果が無いようである。
「偉そう、結構よ。その何も知らない女は知りたいから、ここに来たの」
その蓮理の気にしていない様子が気に食わなかったのか、頭領の怒りは更に熱を帯びていき、ついには立ち上がって牢屋の鉄格子を片手で揺らし始めた。
「うるせぇっ! 山さえ下りて来なければ、だと? 俺達だって好き好んで下りて来た訳じゃねぇんだよ!」
威嚇であろう行動、しかし蓮理には添え木をしていながらもぶらりと垂れ下がり、動く気配が全く感じ取れない右腕に注目した。
こうして酔いが覚めた山賊達と話していて、改めて思う。薙刃はやはりやり過ぎた、と。
「そ、そうだ! 俺達は山賊だ! 山を下りるなんてことは普通はしねぇ!」
手下達も頭領の発言に当然の如く同意する。より一層、敵意の視線が強くなった。
「しかし、実際に貴方達は下りて来た。好き好んで下りて来たのではないのなら、それ相応の理由がある筈。教えてはくれないかしら?」
しかし十数人に睨まれても尚、蓮理は勢いに呑まれない。例えますます勢いに火が付いたとしてもである。
「俺達をここにぶち込んだ女に話すことなんざ一つもありゃしねぇ!」
手下の一人が叫んだ。そうだそうだ、と見事な団結力を見せつけている。
しかし、蓮理とて負けてはいない。同じように叫ぶなどということはしないものの、このような、いくら相手が牢屋に入っていようとも、一対多数の圧倒的不利な状況で互角を演じている。
互角じゃ駄目……ここで仕掛けなければ、堂々巡りになるわね。
一度目を閉じ、深呼吸を行って山賊達、その中央の頭領を見据えた。
「……奉行所にも、頑なにその理由を話すことを拒んでいると聞いていたから、まぁ予想はできていたけれど。中々大した根性ね」
「そうさ! 俺達ゃ、口は堅い!」
先程とは別の手下が叫ぶ。またもや同意の嵐が巻き起ころうとした、その矢先に蓮理が手を前に突きだし、制止させた。
「そのようで。そこでですが、一つ提案を」
嵐は起こらず、沈黙が数秒続いた。やがて頭領が口を開く。
「あぁ? 提案? 脱いでくれんのか?」
下品な想像に、下品な笑いが飛び交う。溜め息を吐き、下品な流れを断ち切るよう、やや語気を強めて言った。
「そんな馬鹿みたいなことじゃなくて、理由を話すことができない理由、私が当ててみせましょう。細かく具体的には無理でしょうけれど、大体なら私にもなんとなく推理ができる」
それでも未だに笑いが絶えなかったが、頭領が制止を掛けた。地下は静まり返り、元のじめじめとした空間へと戻った。
「……何だって?」
「だって教えてくれないのだから、私が考えるしかないでしょう? 残念なことに、私は人の心を読むなんて超常的なことはできないもの。貴方達は私の推理劇の観客ということで……いえ、推理というのは大袈裟過ぎるかしら?」
不敵な笑みを、挑発の笑みを見せる。それは、見事当てられたなら洗いざらい全てを話せという意味が込められていた。
その意図を、頭領は気付いた。
「……面白ぇ、やってみろよ!」
故に頭領はその提案に応えた。もし外れたらあの女に何をさせるか、といった下種な考えは捨てる。何故なら蓮理は自分自身の力で山賊達の真意を見抜こうとしているのであるから。
それにこちらの要求は全て通らないという現実を、頭領は山賊達の中で誰よりも知っていた。
「お、お頭!?」
しかし、手下達は納得のいかない声を上げる。
「俺が決めたことだ! 文句は言わせねぇぞ!」
それを頭領は一喝して黙らせた。手下達が言いたいことはわかっている。内心、恐れているのだ。正確にはあの蕎麦屋の一件から、常に恐れていた。蓮理という女性の存在を。故に手下達は先程からそれを悟られないよう、無意識に必死で叫び散らしている。
どういう訳かはわからない。ただこの女は何かを持っている。常人には持ちえない、決定的に違う何かが。圧倒的な美貌で足が竦む? 違う。絢爛たる立ち振る舞いに、震えが止まらない? 違う。とにかく、この女は本当に自分達の話さない理由を当ててみせるかもしれない。
そんな恐怖のことなぞ、頭領とて理解しているつもりである。しかしただ怯えているだけでは駄目である、とも理解していた。
「好き好んで山を下りた訳ではない、という発言から、貴方達が望んで町へ来た訳ではないということがわかるわね」
蓮理は腕を組む。豊かな胸が腕の上に乗るその光景は男からしてみれば非常に眼福である筈だが、山賊全員は特に興奮もせず、特に話題にも取り上げなかった。
最早そんな冗談が言える空気ではなくなっていたのである。その空気を作り出した張本人は、間違いなく蓮理。完全に、蓮理が優勢に立った。これより反撃が始まることを頭領はいち早く察知する。
「そりゃそうだ。何を今更」
手下の一人が答えた。蓮理の独り言である以上、答える必要性は無いのだが、これも無意識故の発言であろう。
「しかし貴方達は山から下りてきて、今ここにいる」
「誰のせいだと思っていやがる!」
その言葉にカチンと頭に来たのか、最初に蓮理の来訪に気付いた手下が叫んだ。
「落ち着いて頂戴。整理しているだけよ」
再度、手を前に突き出して制止を図る。敢えてわざわざ口に出しているのは嫌味ではなく、口に出していった方が蓮理としては整理しやすいからである。
「つまり、貴方達は本意ではないまま山を下り、町へ来た。何らかの理由で山で生活することが困難になった、ということ」
山賊達は急に押し黙った。恐らく、同意の沈黙であろう。蓮理としても山賊の返答を求めてはいなかったので、構わず言葉を進めた。
「ここに来るまでに、いえ勿論、町からだけれど、貴方達の縄張りとされている山を見てきたわ。しかし左程おかしい所は見られなかった。山で山賊業が苦しくなった、という訳ではないでしょう。そんな季節ではないし、もしそうだとしたらそもそも山賊なんてやっていない。となると原因は山ではない、と考えるけれど、どうかしら?」
今度は問い掛ける。反応を見てみたかったのだ。結果は無言。十数人の男達が黙っている。自分が優位に立ちたい時、相手の失敗を口に出すのが人間の心理。蓮理は山賊達がそれを抑制できる程理性的であるとは思えなかった。よって、無言は肯定の意思表示であると受け取った。
「まぁ、山を下りた理由は貴方達になんとかして話して貰うとして、保留にしておきましょう。さて、話さない理由だけれど……これは貴方達の性格から判断してみるわ」
今は理由を話さない理由を突き止めるのを優先しなければならない。
「話せない、ということは、話せば自分達に不利益が生じると思っている、と考えるのが妥当でしょう。しかし貴方達はこんな狭くて暗い所に押し込まれている。相当の不利益を被っている貴女達が、その不利益を恐れるのは何故かしらね?」
明らかに、山賊達の顔色が悪くなっている。少しばかり動揺の声も聞こえてきており、よくよく見れば何人か、冷や汗を拭い始めている者もいる。頭領は流石と言うべきか、荒くれ共をまとめ上げているだけあって強面を崩してはいないが、蓮理はこの荒々しい山賊達が追い詰められている小動物のように見えてきた。
「こう言うのも何だけれど、今の貴方達にはもう何も無い。失うものが無いというのに、失うことを恐れている」
すると、頭領の強面がぴくり、と動いた。そして何か小さく呟く。
「……る」
それは本当に小さく、蓮理も聞き取ることが叶わなかった。
ただ、頭領の顏が先程よりも険しく、厳しさを感じさせるものであったことには違いない。
「え?」
その表情に、蓮理は少しだけたじろぐ。頭領も含めた山賊達は気付いていないようであったが、確かに、今まで一度も圧倒されてなかった蓮理が自分の発言を疑ったのである。
「まだ、ある……! 絶対に無くしちゃいけねぇモンが! てめぇみてぇな女、いや小娘なんざには到底理解できねぇモンがな!!」
頭領は振り絞るように声を上げた。肩はわなわなと震え、必死に怒りの奔流に押し流されまいと、堪えている様子であった。もし鉄格子という空間を隔てる物が無ければ、如何に蓮理が女性であろうと、手下達の制止を振り切って殴りかかっていたであろう。そう確信できる程の怒りと、その裏に隠され、ちらちらと見え隠れしている悲しみを蓮理は感じ取った。
蓮理には、頭領が怒りに震えるであろう、という予測はできていた。ただその怒りが想定外のものであったということが、唯一の誤りであろう。
「……そうね、私には理解できそうにないわ。山賊の矜持……そもそも私は山賊ではないのだから」
今までの威圧的な語気とは打って変わり、優しく諭すように、山賊の絶対に無くしてはいけないものの正体を告げた。
「ただ、山賊としての誇りを失いたくはない、その気持ちは理解できるわ。余程の理由があって、山に下りて来たのでしょう」
山賊の矜持。つまりは誇りである。話さない理由とは、恐らくこれで間違いないだろう。所々に山賊達が放っていた自尊心の高さが窺える発言が多く見られた。賊だとしても、山賊という生業に誇りを持って生きてきたのだろう。
その誇りを失うよう、今自分は促している。相手は悪と呼ばれる存在であっても、少なからず心が痛んだ。
しかし、時として人間は非情にならなければならない。
「私は山について、正確にはどうして山から下りて来たのか、その理由を貴方達に尋ねる為にここへ来たの……時間が無いわ、どうか、教えて頂戴」
真摯な、敬意を払った願いであった。頭領を始めとする山賊達は黙り込んでいる。
「……俺達の縄張りだった山へ、霧由良山へ行くつもりか?」
頭領が口を開き、沈黙を破った。
「場合によっては、向かわなければならないかもしれないわ」
蓮理の返答に、頭領の瞳が濁ったような気がした。だがその気も一瞬、頭領は元の仏頂面で素早く言い放った。
「だったら止めておきな。いくら女でも、容赦なく殺されるだろうよ」
「殺される……? それは一体……?」
思わず目を見開き、その言葉の真意を尋ねる為に聞き返した。しかし、蓮理以上に驚いていたのは、その手下達である。
「お、お頭ぁ! 何で!?」
「話しちゃ駄目です!」
全員が嘆きの声を頭領に浴びせる。決してその声の内容が批判的なものではなく、頭領を気遣う、心配するといったような内容ばかりであった。
しかしその手下達の優しさを、頭領は大声で突っぱねた。
「お前等は黙ってろっ! どういう訳かは知らねぇが、死にに行くと言ったも同然の女を放っておく程、落ちぶれちゃいねぇんだよ!」
「……残念だけれど、蕎麦屋の一件を見ている私にはその言葉の説得力は皆無ね」
皆無、というのは嘘である。山賊としての矜持がまだ彼等の中で残っているならば、その長としての彼らしい発言であると感じた程である。
だが、蕎麦屋の事件は完全なる悪事である。一度行ってしまったことを拭うのは、非常に難しいこともあるのだ。そのことを理貸して貰いたいが故に、あえて辛辣に返事を行ったのだ。
「別に信じろとは言ってねぇさ……ただ忠告してやっているだけだ」
頭領は足を組み直し、語る体勢を作り始めた。
「特別に教えてやるよ。あの山は、霧由良山は、住処は……奪い取られたんだよ」
奪い取られた。その事実は蓮理にとって余りに予測不可能であった。現実味としては薄いだろう。
しかしこれまでの過程から、この男が嘘を、出鱈目を並べるようなことはしない人間と蓮理は判断し、蓮理からも聞く姿勢を見せた。
「奪い、取られた……?」
頭領は頷き、そして声色をやや低くして、語りを続けた。
「そうだ……聞くが女、山賊業がこんな人数で成り立つと思うか? 広い山を牛耳る賊が、こんな十数人だと思うか?」
語りの再開は質問から始まった。何とも奇妙で、まるで既に答は決まっていて、その答に誘導するかのような口ぶりだった。
「……まさかっ!」
そして蓮理は見事に誘導され、答に行き着いた。蓮理の想像した答は、何とも残酷なもの。口に出したい訳が無く、手を口元に押さえる。その様子を見て、次の言葉は頭領が引き継いだ。
「俺だってまさかとは思いたいがね、仲間の半分以上は殺された。よくわからん、一人の男にな」
「……っ!」
余りに、数が多いではないか。蓮理は絶句するしかなかった。少なくとも、十数人以上は無惨に殺されたと言う訳である。
賊である以上、いつ殺されても仕方ないのかもしれない。蓮理自身は全くそうは思っていないが、今の神州がそう示している。だからこそ、あんまりではないか。仲間を失った彼等に対し、自分は何て非人道的な言葉を投げ掛けたのだろう。『もう何も無い』等と、軽率な発言をしてしまったのだろう。
「ごめんなさい……そうとは知らずに、私は……」
あれ程までに怒りを見せたのは、誇りだけではなかった。仲間も含まれていたのだ。そう考えると、より一層に罪悪感が蓮理の体に蝕んだ。
「……そうは思っていても、話せというんだろう」
頭領の鋭い眼光に、蓮理は目を逸らす。決してその鋭さに耐え切れなかった訳ではない。頭領に圧倒された訳ではなく、単純に後ろめたい気持ちが蓮理の心中に生まれたからである。
「そ、それは……」
頭領は確信した。この女はきっと、心を殺せないのだと。すなわち、非情になれないのだと。
『百人乗っている船と百一人乗っている船、どちらかの船だけが沈没を阻止できる。どちらかを選べ』といった内容の問題を聞いたことがある。この女は間違いなく、両方の船を救うと言って聞かないだろう。そうした綺麗事しか、絵空事しか認めたくないのだ。
それが悪いことなのか、それとも善いことなのかは、頭領には判断できない。故に、頭領は蓮理を許した。
「いや、もういい。それは過去の話の段階だ。とにかく、今の霧由良山は危険だ。俺達の住処は特に、な」
過去の、と言っても先程のことであるが、忘れろと言わんばかりに話を再開させた。
「……わかったわ」
苦虫を潰したような表情を抑え込み、話の再開に合わせるように聞く姿勢を作る。
「まぁ、それで俺達は山を追いやられたって訳だ。山を下りた理由、とても奉行所の奴等には言えん、情けない話だ」
確かに、この話は言い換えれば彼等の敗北譚であり、屈辱の記憶そのものなのである。それを敵とも取れる奉行所に言える筈がない。
「よくわからない男、と言ったわね。何者なのかしら?」
それに奉行所は恐らく信じないだろう。平和を生きる彼等には現実味が薄い話であるからだ。
「知らん。ただ恐ろしく強かった。強さだけなら、あの赤髪の別嬪……化物並だ」
頭領の表情が一気に曇った。余程の恐怖だったのか、他の手下達も思い出して地を見つめている。
「薙刃……並ですって?」
頭領の体感的には、正確に且つ丁寧に山賊達の右腕を崩壊させた薙刃とその男は同格ということなのか。
「とにかく狙いもわからん。だが……奴は……」
「奴は?」
「真田幸正を殺した、と言っていた」
それはすなわち、真田公が死んだということである。自分でも不思議なことに、驚きと嘆きは少なかった。それよりも霧由良山と真田公失踪、真田道則誘拐の件とを繋ぐ線が一層太くなったということ、その確信を感じていた。そしてもう一つ、新たな疑問が生まれた。
「真田公が……? どうして貴方達に?」
何故一介の山賊に過ぎない彼等に、わざわざそのようなことを言う必要があったのか。山賊達にそのことを伝えて山から追い出し、町で暴れると予想し、「真田公が死んだ」と口走らせ、混乱を起こすつもりであったのだろうか。
蓮理は現時点で無意味な推測は置いておくことにして、頭領の返事を待った。
「……それを話す前に、念の為言っておくが……俺達は木を伐りに来る木こりに手を出したことなんか、一度もねぇからな。俺達は松代の奴らに手を出さないと決めている。だから今、霧由良山に出かけている木こりについては何も知らん」
言い終えて、ハッとしたように言葉を付け加える。
「蕎麦屋のアレは、まぁ後で説明する」
咳払いをある程度行った後、話を続ける。
「で、そう決めたのが、というか俺達に決めさせたのが真田幸正なんだよ」
初耳であった。蓮理自身、真田幸正とは一度しか会ったことがなく、大して彼のことを知っている訳ではない。しかし、山賊とも交流があるとは、誰が予想できたであろうか。
「それは……どういうこと? 貴方達、真田公と繋がりが?」
「真田幸正が前大名に下剋上するまで、甲斐にいたってことを知っているか?」
それは知っている。会ったのは下剋上を果たして数日後のことであるのだから、真田公自身そのことを話していて、よく記憶に残っている。
「え、ええ」
「その甲斐から信濃へ戻ってくる道中で、この霧由良山を通った。当時は、まぁ信濃自体が狂っていたってことも相まって、当然俺達も無法者だった。真田幸正に出会ったのは、その時だ」
まるで頭領は自分を、自分達を嘲笑するかの如くに言った。
「相手の力量を見極めず、真田幸正って武芸者に挑み、全滅しかけた。あれは傑作だったな」
今となっては良い思い出、と言いたげな笑みに、手下達も表情をやや綻ばせる。
「全然笑えねぇっすよお頭ぁ……」
それでも尚笑う頭領。一分程の笑いを終えて、蓮理の待つ次の話へと進めた。
「で、その時にな。下剋上を手伝えって言われちまったんだよ。まぁ、負けたんだから従うしかあるめぇよ」
「貴方達も、あの下剋上に参加していたの?」
「ああ。まぁ裏方だったから、殆ど知られてねぇけどな」
洗ってないと思われる髪をぼりぼりと掻き毟る。頭垢が飛び散るも、頭領も手下達も左程気にしていないようであった。山暮らしの彼等に清潔というのは遠い言葉なのだろう。
「そうしたらあの野郎、本当に下剋上果たしやがってよ、こう言ったんだ。『霧由良山はこれから信濃再興に必要となる。だからこれまで通りに霧由良山に住み、松代町を外敵から守ってくれないか』ってな」
事実そうであった。信濃は農林産業を主軸にして、暗黒時代と呼ばれる過去を脱し、今の平均化に至ったのである。木こり達が安全に霧由良山で木を伐ることができたのは、影で山賊達がいたからなのだ。
「裏方だった俺達に、そんな大役を任せてきたんだぜ? いや押し付けたの方が正しいか?」
その表現が皮肉であり、そして本気で言った訳ではないということは、蓮理には理解できた。
「それ以来、松代の奴等には一切手を出してねぇ。昔は相当悪さしてたから、今でも印象は悪いが……その約束した奴が死んじまったとありゃあ、自棄にもなるわな」
更にもう一つ、理解できたことがある。皮肉を冗談で言える程に、山賊達と真田幸正の間には、確かに友情という繋がりがあったということを。
「それで、蕎麦屋の……」
「仲間も殺されちまったってこともあったし、つい酒の力を借りちまった。いや、俺達は根っからの山賊で嫌われ者で悪事を働いてきた上、実際にやっちまったんだからこんな話信じろ、って言う方が無理か」
申し訳ない、そう言いたげな表情。しかし実際は言わなかった。そのことについては蓮理は深く追求しなかった。
山賊達にとって、真田幸正はいわば更生の機会を与えてくれた恩人である。その死を、勿論定かではないが突き付けられ、加えて仲間も失ったとあっては、いくら蕎麦屋であのような悪を仕出かしたとしても、その事実を知ってしまった蓮理には最早山賊達を責めることはできなかった。
「そういう訳で、何度でも言おう。霧由良山に行くのは止めろ。あの男の他にも何人かはわからんが、仲間がいたんだ。奴等が俺達の住処を拠点にした可能性が高い。山を越えて甲斐へ行きたいってんなら、別の道がある」
蓮理は考えた。
きっと彼等は、根は優しい。ここまで私を山へと近付けさせたくないのは、死なせたくないから。私は貴方達を牢屋に入れさせた本人だっていうのに、よく山賊なんて名乗れたものね。荒々しい素行も、その裏返しだとしたら……いえ、そこまでは考え過ぎかしら。
いつしか蓮理は、見るからに汚らしい山賊達を単なる悪として認識できなくなっていた。
「……信じるわ」
短時間ではあるが、山賊達と話した結果である。山賊達は、蓮理にとって信じうるに足る存在となっていた。
「何?」
しかし山賊、頭領はその答を予測していなかったのか、やや焦った素振りで蓮理に聞き返す。
「信じるって言ったの。これは推理とか関係ないし、もっと単純な話」
さっきのような小声ではなく、ゆっくりと、はっきりと口を動かした。一息入れて、続ける。
「信じる根拠があったからよ。少なくとも貴方は本音を私に言ってくれた。そう感じたわ」
山賊達は目を見合わせ、代表して頭領が蓮理に尋ねた。
「それが、根拠ってか?」
「ええ、そうよ?」
そう言っているじゃない、と付け加えておいたが、山賊達はまだ信じられないようである。
「……外道だのと罵ってた女が、急にどうしたんだ?」
不信感は表れていない。むしろ驚きの感情が上回っているように見える。確かに急な心変わりだと蓮理自身も思う。しかし裏を返せば、それだけの影響を山賊達は蓮理に与えたのだ。
「別にどうもしていないわよ。ただその本音に応えたいだけ、と格好つけておくわ」
わざとそっけない返答に、頭領は蓮理なりの優しさを感じ取ったのだろう。頭領は笑みを零した。
「はっ! なら、山へ行くのは諦めるんだな?」
「いいえ。残念だけれど、そういう訳にはいかないのよ」
だが、蓮理は当初の目的を捻じ曲げてはいなかった。山賊達の望みに反するとわかっていても、蓮理には成し遂げなければならない理由があるのだ。
「私は真田公とその弟、真田道則を救い出さなければならないの」
真田道則、という名前を聞いた途端、頭領の目は見開かれた。その名に、覚えがあるようであった。その変化に気付いても、蓮理は中断することをしなかった。
「真田公が死んだ? なら私がこの目で確かめる。私の知っている真田公は勇猛果敢で決して不合理に屈しない人よ。そんな人が、姿を消して死ぬなんて考えられない」
そう、やはり自分には真田公の死を想像することができない。幼い頃に一度見ただけであるが、確信している。真田公は、こんな中途半端で死ぬ筈がない。
「約束もしたわ。必ず、二人を救うと。だから退く訳にはいかない」
何度でも思おう。何度でも決意しよう。ここで立ち止まっている訳にはいかない。私には“神州救済”をしなくてはならないのだ。その為に、大小かかわらず、悪の芽は摘み取っておかなければならない。
「それに、そんな危ない連中を放っておくなんてできない」
その時、蓮理は背後に展開していた“貉”の画面に目を向ける。というのも、音声機能を切っていた為、あちらの状況を確認したかったからである。
しかし、何ということであろうか。早苗は何やらとんでもないことを仕出かしている。その様をしばらく、自分でもわかる程に凍てついた視線を送っていると、画面越しですら感付いたのか、早苗はゆっくりと振り向き、その顔を顕にした。予想通り、引き攣っている。
『……あ、あはは。蓮理ちゃんだ……ほら! つ、捕まえたよ?』
その捕まえた人物に、今何をしようとしていたのか……非常に気になる所ではある。
「早苗、貴女は一体何をしているのかしら? とても捕まえた後には思えないけれど?」
『え、えーとね。いや違うんだよ蓮理ちゃん。私はさ、その……』
凄いと驚いてしまいそうな程の、白々しさと目の泳ぎ方である。勿論間違っても褒めたりなんてことはしない。
「言い訳を考える暇があるなら、思斗に連絡して知らせなさい。彼なら情報を引き出す術も心得ているでしょう。貴女じゃ不安だし、そういうことはさせたくない。私の護衛の役割から逸しているわ』
早苗らしくもない、だらしなく長々とした弁解を聞きたくはない、というのが本音である。
「そう考えるとなると、先の言動はよろしくはないわね。カツアゲまがい、というかカツアゲするような女性を護衛役にした覚えはないけれど?」
『はぁうっ! ち、違うんだってば蓮理ちゃん!』
もう、これは後にしよう。
そう思い、蓮理は額に手を当てて深くため息を吐いた。
「いいえ、違わないわ。説教は後回しにして、とりあえず思斗に連絡してからその人を彼に引き渡すこと。その後に私の所、牢屋に来て頂戴。場所はわかるわよね?」
『う、うん。場所は大丈夫。多分』
「なら、なるべく早くお願い。あと、薙刃に……あら?」
急に“貉”の調子が悪くなったのだろうか、早苗が映し出されていた画面は打ち切られ、声も通じなくなっていた。それどころか電源すら落ちてしまって地面に墜落してしまったようである。
「故障かしら……?」
首を傾げながら地に落ちた“貉”を拾い上げた蓮理を見て、頭領は質問の許可を求めるように左手を挙げ、気になって仕方がなかったのであろう疑問を口にした。蓮理の話した内容によるならば、内心、余り良い展開ではないのだろうと感付いていたが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「お、おい! ちょっと、待て! 道則の野郎がどうしたんだ?」
山賊達を置いてけぼりにしてしまっていたことに気付き、そして質問の内容も内容だった為、蓮理はほんの少し目線を下に落として口を開いた。
「あ、彼は……」
その時に、まるで陽炎のように揺れ動く存在を蓮理は察知した。しかし突然のことで対処は追い付けない。
陽炎は人の形を成し、蓮理の首筋にピタリ、と刃を当てた。
「我々が連れ去った」
陽炎だった者は、静かに呟いた。
● ●
「どうか動かないで貰いたい」
蓮理には敬意を払っているのか、敬語調で話しかけ始める。
「妙な真似をすれば、牢屋の猿どもを殺してしまうかもしれないのでな。それと、“貉”の電源は切った。護衛の女に助けを求める、というのは諦めろ」
確かに男の言う通り、早苗に助けを求める手段は無くなったと言ってもいい。先程から“貉”の電源を入れようとしても、入らないのだ。
「お、女ぁ!!」
山賊達が次々と声を上げる。頭領も一際大きく叫んでいた。
「騒ぐな。そもそも、騒いだところで何か変わる訳でもあるまい」
耳障りに感じたのか、舌打ちも交えて言葉を吐き捨てた。
「貴方は……“浦葉忍者”ね?」
男は蓮理の背後に立っており、首筋に刃を当てられている為、身動きはできない。結果として全身を確認することはできないのだが、横目で視認できた腕から、黒い装束を身に纏っていると判断できた。すなわち、“浦葉忍者”に他ならない。
「いかにも。名乗る名は無いが」
「そうね……でも貴方は私の名前くらいは知っているんでしょうから、不公平じゃないかしら」
「それが忍者の性というものなのだ。理解願いたい、九條蓮理殿」
蓮理達には名を知られていない忍者、葉柱は普段の静かな口調で答えた。
「あら、躾けはなっているのね。感心するわ」
葉柱は蓮理の意図を読んだ。わざわざ挑発的な態度を取ってでも、時間を稼いでこの牢屋に葉柱を繋ぎ止めたいのだろう。
あの護衛役がここに来るのを信じているのか……余程遊ばなければ、この優勢を逆転されるということは有り得ない。有り得ないが……可能性は決して消えていない。
「……茶番は終いだ。ご同行願おう」
葉柱の下した判断は、迅速に九條蓮理を連行する、ということである。不安要素の芽は摘まなければならない。蓮理の返答を待たずに、細い肩に手を置いた。
「お、おい! 女!」
山賊達が立ち上がり、格子に手を掴み始める。
「騒ぐな、と言った筈だ……殺すぞ」
余程嫌っているのか、必要以上に殺意を放つ葉柱。所詮山賊、忍者に屠られる塵芥、といった認識しかない以上、嫌いになるのも当然のことなのだろうか。
「……わかったわ。わかったから、彼等には手を出さないで」
このままでは山賊達の命に係わる、そう判断したのだろう。蓮理は咄嗟に忍者の要求を呑み、山賊達を庇った。
「なっ! お前!?」
とうとう頭領までも立ち上がる。しかし蓮理は彼等に対して微笑み返した。
「お前、でも女、でもないわ。蓮理、よ」
それはすなわち、今後は名前で呼べということである。山賊達にはそう取れた。
それはすなわち、今後がある、とでもこの小娘は思っているのかと、忍者は静かに怒れた。
「意外と聞き分けが良いな……だが」
「っあ!」
「お、女ぁっ!!」
「その冷静さが気に食わない。小娘風情が思い上がるなよ」
「くそ! おい、おい! 女ぁぁ!!」
葉柱は素早く蓮理の首の後ろを手刀で打ち殴り、意識そのものを途絶えさせた。
必死に蓮理を呼ぶ山賊達の声が、地下に響き渡り反響を繰り返す。徐々に意識が途切れていく蓮理は、その声が遠くなるのを感じながら、闇へと落ちていった。