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第1話 知らない仲間

目を開けると、知らない男がリンゴをむいていた。


大きな手に、小さな果物用のナイフ。赤い皮は途中で何度もちぎれ、そのたびに男の眉間のしわが深くなる。


 窓の外で、金槌を打つ音がした。


一定の間隔で、三度。少し休んで、また三度。


薄い布越しの光が床へ落ちている。天井の梁は淡い色をしていたが、寝台の横の柱だけは古く、手の届くところが黒ずんでいた。


 見覚えがない。


それなのに、どこなら見覚えがあるのかと考えると、何も浮かばなかった。自分の部屋。帰る家。昨日、最後に見たもの。


 目を閉じてみる。


何かを忘れているときには、思い出せそうな輪郭くらいはあるはずだった。その輪郭さえない。頭の中を探しているうち、目を開くのが怖くなった。


皿に何かが落ちる、小さな音がした。


男の指から、リンゴの皮がまた切れていた。


「……ここは」


 男の手が止まった。


こちらを見て、何かを確かめるように一度まばたきをする。それからナイフを皿に置いた。


「村の療養所だ。気分はどうだ」


答えようとして、喉がひどく乾いていることに気づいた。


男はすぐに水差しへ手を伸ばす。寝台の背に枕を立て、差し出した杯を俺が受け取るまで持っていた。その動作には、迷いがなかった。


「ゆっくり飲め」


水を飲む俺の手の甲に、白い傷があった。指の付け根から手首まで、細く枝分かれしている。


どうしてついた傷だろう。


考えた途端、別の問いが浮かんだ。


 俺は、誰だ。


「あの」


「どうした」


「あなたは、誰ですか」


 男の視線が、俺の手元に落ちた。


杯を取り上げられるのかと思った。けれど、大きな手は膝の上で握られただけだった。


「ガレスだ」


 男は言った。


「お前はルカ。俺たちは、昔からの友達だ」


 ルカ。


口の中でその名前を繰り返す。響きは分かる。けれど、それが自分だという感じはしなかった。


「思い出せなくていい。今は」



 俺が何を言うか、知っていたみたいに。


男はリンゴを二つに割り、片方を皿に置いた。


「食べるか」


 俺は首を振った。


「そうか」


それ以上は勧めなかった。自分でも食べずに、皿を窓辺へ移す。


聞かなければならない。


どうしてここにいるのか。家族はいるのか。この男は本当に友達なのか。


 けれど、口から出たのは別の問いだった。


「鏡は、ありますか」


 ガレスは少しだけ眉を動かしたあと、洗面台の引き出しを開けた。木の枠にはまった、小さな鏡を持ってくる。


「割れてるところがある。気をつけろ」


 鏡の端に、斜めのひびが走っていた。


映ったのは、若い男の顔だった。頬が少しこけている。乱れた髪を押さえると、鏡の中の手も同じように動いた。


 眉の横に薄い傷があった。指で触れても痛くない。


「これが、俺」


 声に出しても、顔と名前は結びつかなかった。


鏡を返そうとした手が滑り、木枠が寝台の縁にぶつかった。ガレスが受け止める。


「悪い」



この人の言うことを信じなければ、自分の名前すら分からない。


 それが怖かった。


________________________


 ガレスが呼んできたのは、二人の女性だった。


一人は肩から薬草の匂いをさせていた。袖をまくり、俺の顔を見ると、まず寝台の横の椅子を引いた。


「フィーネです。少しだけ、手を見せてもらってもいい?」


 差し出すと、彼女は傷を避けて手首に触れた。


 指先が冷たかった。


もう一人は扉の近くに立ったまま、こちらを見ていた。肩に弓を掛けている。銀色の髪から、先の尖った耳がのぞいていた。


 俺の視線に気づいたのか、彼女は髪を耳へ寄せかけた。


「あなたも、俺の友達ですか」


 その手が止まる。


「……仲間よ。リゼル」


「三人もいるのか」


「不満?」


「いや。俺、結構うまくやってたんだなと思って」


 リゼルが小さく吹き出した。


 フィーネも笑った。けれどすぐに俺の手首へ目を戻してしまったので、その顔をよく見ることはできなかった。


 説明はガレスがした。


俺は以前の戦いで身体を傷め、長く眠っていたこと。

ようやく目覚めたが、今度は、眠ると人や出来事の記憶を失うようになったこと。

ここ数日、それが繰り返されていること。


「今、話していることも?」


 ガレスがうなずく。


「明日、忘れる?」


「……そうなる可能性が高い」


 窓の外で、また金槌が鳴った。


 急に、その音だけがひどく遠くなった。


 ガレス。フィーネ。リゼル。


たった今覚えた三つの名前を、頭の中で並べ直した。どれも、まだ言える。自分の名前も分かる。それが、寝るだけでなくなる。


「じゃあ、寝なければ」


「身体がもたないわ」


 フィーネの答えは静かだった。


「治せないのか」


「まだ、方法が分からない。でも、診てもらいたい人がいるの。私の師匠」


 彼女は脈を取っていた手を離した。


「ずっと消息を探していて、ようやく手掛かりが届いたの。北の町にいたらしいから、まず、そこへ」


「俺も行く?」


「あなたを診てもらうのよ」


「そうか。そうだな」


 うまく考えられない。聞くべきことが沢山ある気がするのに、何から聞けばいいのか分からなかった。


「今日は、歩けそうか」


 ガレスに聞かれて、俺は布団の下で足を動かした。


「たぶん」


「無理なら延ばす。急いで倒れたら意味がない」


 扉のそばから、リゼルが付け足した。


「出発する前に、外を歩いてみればいい。嫌なら、戻ってきてもいいから」


 俺が決めてもいいらしい。


 それが分かると、少しだけ息がしやすくなった。


「外に出る前に、聞いてもいいか」


 三人の顔を見た。


「俺は、どれくらい眠ってた?」


「一年ほど」


 ガレスが答えた。


 俺は、自分の膝へ目を落とした。


一年という長さは分かる。季節が巡る時間だ。けれど、その一年より前に何をしていたか分からないから、失った長さを測る場所がなかった。


「……その間も、ここに?」


「移してからは、ずっと」


「誰が面倒を」


 フィーネが、枕元の水差しを持ち直した。


「村の人にも、たくさん手伝ってもらったの」


 それで、彼女もそうだったのだと分かった。


「一年も、俺のために?」


「それだけをしていたわけじゃないよ」


 彼女は俺を見ず、杯へ水を足した。


 何と返せばいいのか分からなかった。礼を言って済む長さではない気がするし、謝ればガレスにまた止められるだろう。


 リゼルが窓を少し開けた。風が入ってきて、部屋にこもっていた薬の匂いが薄まった。


「今、全部に返事しなくてもいいでしょう」


 こちらを振り返らずに言う。


「顔を洗って。朝ご飯も食べて。そのあと考えればいい」


 俺は杯を両手で包み、うなずいた。


 まず水を飲む。顔を洗う。外を歩く。


 それくらいなら、決められそうだった。


     *


 村には、新しい木の匂いがした。


白い壁。まだ色の明るい屋根。軒先に積まれた板材。その間に、ときどき、煤けた石垣や黒く焼けた柱が残っている。


 新しい家の壁にもたせかけられた古い車輪には、花が植えてあった。


「大きな火事でもあったのか」


「……前にな」


 ガレスが答えた。


 その横で、リゼルが何か言いかける。けれど荷車を引く男が近づいてきて、声を掛けた。


「ルカ! 歩けるようになったのか」


 俺が立ち止まると、男は荷車を置いた。


「よかったなあ。お前が寝てる間に、こっちの——」


「おはようございます」


 誰か分からないまま、頭を下げた。


 男は口を閉じた。


 俺を見て、それからガレスを見る。


「……そうか。まだ、あれか」


 ガレスが小さくうなずいた。


「すみません」


 何に謝っているのか、自分でも分からなかった。


「いや。いいんだ。歩けるなら、よかった」


 男は俺の肩に手を置きかけ、途中で引っ込めた。代わりに、道の脇の石を蹴ってどけた。


「気をつけてな」


 歩き出してから振り返ると、男はまだこちらを見ていた。


 この村には、俺を知っている人がいる。


 俺だけが、その人を知らない。


広場では、二人の子供が縄を跳んでいた。


石畳に描かれた白い線を踏まないように跳び、一人が失敗すると、もう一人が大げさに両手を上げる。


少し離れたところでは、大工が扉の蝶番を合わせていた。朝、部屋で聞こえたのと同じ金槌の音がする。


俺はその横を通り過ぎ、小さな横道の前で足を止めた。


 半分だけ残った石の階段があった。


先には何もない。踏み固められた土と、まだ浅い草だけだ。


「何かあったのか」


 ガレスの問いに首を振る。


「いや。道があるのに、建物がないなと思って」


「……これから建てる場所もある」


 彼の視線は階段を通り越し、奥の土地へ向いていた。


 俺には空き地にしか見えない。


リゼルが路地の入り口で待っている。ガレスが歩き出したので、俺もあとを追った。


 広場へ戻ると、縄が足に絡まった子供が泣きそうになっていた。俺が落ちた木の実を拾って渡すと、子供は掌で受け取り、すぐに走っていった。


「ルカ」


 ガレスが呼んだ。


「疲れてないか」


「少し。でも歩ける」


「戻るぞ」


 俺は遠くの道標を見た。


「ここに残ることもできるんだよな」


 ガレスが振り返った。


「できる。師匠を見つけたら、来てもらえるか頼むこともできる」


「その方が楽じゃないか」


「お前の状態を見ないと、何とも言えないかもしれない。往復する時間もかかる」


 リゼルが言った。


「でも、あなたが行きたくないなら、その方法を考える」


 二人は俺の返事を待った。


 村の人なら、明日も世話をしてくれるのだろう。朝になれば誰かが名前を教え、水を渡してくれる。それからまた、何も知らないまま一日が始まる。


 俺は階段のあった横道を振り返った。


 何か思い出せそうだとは、思わなかった。


「行く」


 言ってから、二人の顔を見た。


「治せるかもしれない人がいるなら、会いたい」


 ガレスは短くうなずいた。


「分かった」


 リゼルは先に立って、療養所へ続く道を歩き始めた。


療養所へ戻ると、フィーネが荷物をまとめていた。俺が歩けたと聞いてもすぐには喜ばず、椅子へ座らせて息と顔色を確かめた。


「途中で苦しくなったら、必ず言ってね」


「言うよ」


「平気なふりはしないで」


「よくするのか、俺」


 彼女の指が、薬箱の留め具で止まった。


「……する」


 ガレスが横から答えた。


「かなりな」


 俺は両手を上げた。


「分かった。今日は正直に言う」


「今日だけかよ」


 その返しが妙に自然で、俺も笑ってしまった。


 フィーネは留め具を閉じた。


出発の支度は、驚くほど早く終わった。


俺の荷物も、ほとんど出来上がっていた。着替えと水袋、火口の入った小箱。ガレスは一つずつ見せ、どの袋に入れるか教えた。


「小箱は右。濡れたものと一緒にするな」


「右」


「水袋は、自分で持て」


「他の荷物も持てるけど」


「歩けなくなったら、お前ごと運ぶことになる。初日はこれでいい」


 反論しかけて、さっき広場で息が上がったことを思い出した。


 少なくとも、数十分前のことは覚えている。


 その当たり前のことを、確かめずにはいられなかった。


 部屋を出る前、窓辺の皿が目に入った。


 切ったリンゴが残っていた。表面が少し茶色くなっている。


「これ、食べてもいいか」


「お前にむいたんだ」


 ガレスが言った。


 ひとかけら取ってかじる。歪んだ切り口の端に、皮が細く残っていた。


「うまい」


「リンゴだからな」


「むいてくれた方を褒めようと思ったんだけど」


「無理するな」


 彼は皿の残りを布で包み、自分の荷物へ入れた。


     *


 門を出たところで、ガレスが一振りの剣を差し出した。


 飾りのない、使い込まれた剣だった。


「持てるか」


「俺、使えるのか?」


「使える。けど、今日は俺の後ろにいろ」


 柄を握ると、指が勝手に位置を決めた。


 持ち上げてから、怖くなった。考えていないのに、腰のどこへ下げれば歩きやすいか分かる。


「変だな」


「何が」


「剣の持ち方は分かる。ガレスの顔は分からないのに」


 ガレスは自分の盾の革紐を引いた。


「……そいつには、負けたくなかったな」


 冗談だと分かるまでに、少しかかった。


 街道は、村を離れると林の中へ入った。


リゼルは先へ行っては戻り、ときどき土の上にしゃがみ込んだ。フィーネは俺の歩幅に合わせている。ガレスは何も言わずに、一番大きな荷物を背負っていた。


しばらく歩いてから、俺はリゼルに尋ねた。


「何を見てるんだ」


「足跡。車輪の跡。折れた枝」


 彼女は腰を落としたまま、道端を指した。


「ここ。昨日の雨のあとに、荷車が通ってる」


 土に深い筋が二本ついている。俺には泥の溝にしか見えなかった。


「分かるのか、そんなことまで」



 彼女は立ち上がり、肩からずれた弓を直した。


「あなたも、分からなかったら聞いて。知ってるふりをしないで」


「聞くことばかりになりそうだ」


「歩きながらなら、時間はあるわ」


 俺は少し迷って、彼女の耳を見た。


「それも、聞いていい?」


 リゼルは笑わなくなった。


「耳?」


「ああ。悪い。嫌ならいい」


「ハーフエルフだから」


 短く答えて、こちらを見る。


俺はその言葉を頭の中で確かめた。エルフが何かは分かる。けれど、実際に会ったことがあるかどうかは分からない。


「音がよく聞こえたりするのか」


「人にもよる」


「リゼルは?」


「……あなたよりは」


「じゃあ、俺の腹が鳴ってるのも聞こえてる?」


 彼女は俺の腹を見た。それから、後ろを歩くガレスへ顔を向けた。


「休憩。ルカがもう食べたいって」


「そこまで言ってない」


「違うの?」


「違わないけど」


 ガレスは道の先を見て、少し歩いた先の木陰を指した。


 俺は腰の剣が邪魔にならないように座った。リゼルが渡してくれた干し肉は、噛み切るのに苦労した。


 彼女はその様子を見て、少し笑っていた。


 昼前、道の向こうから、馬の悲鳴が聞こえた。


 リゼルが駆け戻ってきた。


「荷車が襲われてる。牙犬が二頭。右の茂み」


 ガレスが盾を下ろす。


「フィーネ、ルカと——」


 その先は聞こえなかった。


道が曲がった先で、馬が暴れていた。横倒しになった荷車のそばに、少女がうずくまっている。車輪に挟まれた布を引いていた。


 茂みから、灰色の獣が飛び出した。


 走り出してから、俺は自分が剣を抜いていることに気づいた。


「ルカ!」


 低い衝撃音。


 ガレスの盾が、獣を横からはじいた。


 彼の足が半歩ずれる。


 そこが空くと、俺は知っていた。


盾の縁をすり抜け、剣を振る。刃が獣の肩を裂いた。跳び退いた獣の足元に矢が突き立ち、もう一頭が林へ逃げる。傷ついた方も、唸りながらあとを追った。


「追わないで!」


 リゼルの声で、足が止まった。


 握っていた柄が、汗で滑った。


俺は剣を下ろし、少女のそばへ膝をついた。布は上着だった。車輪を少し浮かせると抜けた。


「怪我は」


 少女は首を振った。手が震えている。


 大丈夫、と言いかけて、自分の手も震えていることに気づいた。


 フィーネが来て、少女を抱き起こした。


 ガレスは俺の前に立った。


「後ろにいろって言っただろ」


「あの子が」


「分かってる」


 思っていたより強い声だった。


「分かってるから、せめて声を掛けろ。お前がどっちへ動くか、見失ったら——」


 そこで言葉が切れた。


 俺は剣を鞘へ戻した。


「ごめん」


 ガレスは一度、目を閉じた。


「……怪我は」


「してない」


「ならいい」


 彼は荷車へ向かった。俺も手伝おうとしたが、横からリゼルに腕をつかまれた。


「少し座って」


「俺も持てる」


「さっき、今日は正直に言うって約束したでしょう」


 反論しようとして、膝に力が入らないことに気づいた。


「……怖かった」


「うん」


「動けたのも、怖かった」


 リゼルは俺を道端の石に座らせた。


「次は、呼んで。私たちもいるから」


俺はうなずき、両手を膝へ押しつけた。


 指の震えが止まるまで、リゼルは隣にいた。


少し離れたところで、フィーネが少女の手のひらを洗っている。父親らしい男は何度も頭を下げていた。ガレスは荷車の軸を調べ、折れていないことを確かめると、荷を戻し始めた。


「俺たちって、こういうことをしてたのか」


「こういうこと?」


「道で困ってる人を助けたり」


 リゼルは荷車を見た。


「そういうことも、あった」


「俺は、怖がらなかった?」


「怖いかどうか、いつも話してくれたわけじゃないから」


 そう答えてから、俺の顔を見た。


「でも、走っていく前に相談してくれないところは、変わってない」


「それは、直した方がよさそうだな」


「ぜひ」


 荷車が起き上がった。


俺も立ち、落ちた麻袋を運んだ。大きなものはガレスに取られたが、小さい袋は渡してもらえた。


 少女がフィーネのそばから離れ、こちらへ来た。


「ありがとう」


 俺は袋を荷車へ載せて、振り返った。


「怪我、なかった?」


「ちょっとだけ」


 包帯を巻いた手を見せる。


「あのお姉ちゃんが、治してくれた」


「よかった」


「お兄ちゃんは?」


 俺は自分の手を見た。白い傷に、土が入り込んでいる。


「俺は平気」


 少女はその手を両手で包んだ。


「ありがとう」


 同じ言葉をもう一度、今度は少し大きな声で言う。


困ってしまって、フィーネを見た。彼女は少女の父親と話していたが、こちらを見て、わずかにうなずいた。


「……どういたしまして」


 それでよかったらしい。少女は笑って、荷車へ戻っていった。


 その手の温かさが、しばらく残った。


 


 その夜は、街道沿いの小さな宿に泊まった。


荷車の親子も同じ宿に着いたが、父親が宿代を払おうとするのを、ガレスは断った。


「荷を落としてたろ。そっちに使え」


 代わりに、井戸の場所と、明日の道の様子を聞いていた。


 俺は食堂の隅に座り、そのやり取りを眺めた。


 宿の壁には、色の褪せた地図が掛かっている。俺たちが歩いた道を探そうとしたが、出発した村の名前を知らないことに気づいた。


「ここから?」


 ガレスが戻ってきたので地図を指すと、彼は隣の小さな印へ指を置いた。


「こっちだ。今日は、この道を来た」


 地図の上では、指の幅ほどしかない。


 半日かけて歩き、息を切らし、剣を振った道が、細い線一本になっている。


「思ったより進んでないな」


「最初から飛ばす必要はない」


「師匠のいる町は」


 彼の指が、ずっと北へ動いた。


 まだ何日もあるのだと分かった。


 その何日もを、俺は毎朝、知らない場所から始める。


「道は任せろ」


 ガレスが言った。


俺が地図を見て何を考えていたのか、彼には分かったのかもしれない。


 席に戻ると、フィーネが小さな瓶を差し出した。


「手、洗った?」


「水で」


「傷のところ、土が残ってる。少しだけ見せて」


 俺は手を出した。


彼女は濡らした布で、白い傷の周りを拭いた。触れられても痛くなかった。けれど彼女の方が痛そうな顔をするので、俺は手元を見るのをやめた。


「今日、助かったよ」


「何が?」


「あの子に、ちゃんと礼を言ってもらえた。お前がうなずいてくれなかったら、どう返せばいいか分からなかった」


「そんなことで」


「俺には、そんなことでも難しいみたいだ」


 フィーネは布を畳み直した。


「ちゃんと、できてたよ」


 手当てが終わっても、彼女は少しだけ俺の手を持っていた。


 俺が顔を見たときには、もう離していた。


 夕食の豆の煮込みを、ガレスが黙々と食べている。リゼルは皿の端に同じ野菜を集め、フィーネに見つかっていた。


「残すなら、最初に少なくしてもらえばよかったのに」


「煮込まれたら分からないでしょう」


「分けられるくらいには、分かってるじゃない」


 俺が笑うと、リゼルが皿を少し寄せた。


「好きなら、どうぞ」


「笑っただけで好きとは言ってない」


 ガレスまで笑った。


 食事が終わる頃には、三人の名前を思い出そうとする必要はなくなっていた。


 部屋へ上がる前、フィーネが階段の途中で振り返った。


「疲れたでしょう。今日はちゃんと休んで」


 俺は返事をしなかった。


 彼女は、一段下りてきた。


「ルカ?」


「寝たら、今日のこともなくなるんだよな」


 食堂から、食器を重ねる音が聞こえた。


「……覚えていられないかもしれない」


「助けた子のことも。さっき、四人で食べたことも」


 フィーネは手すりを握った。


「私たちは覚えてる」


 その答えで、少し楽になった。


 それでも、自分も覚えていたかった。


「毎朝、初めから説明するんだろ。大変じゃないか」


「大丈夫」


 今度は、すぐに答えた。


「でも、俺なら途中で嫌になるかも」


「ならないよ」


 思いのほか強い声に、顔を上げた。


 彼女自身も驚いたようだった。


「……ごめん。大きな声、出して」


「いや」


 俺は少し考えた。


「ありがとう。明日も、世話になると思う」


 フィーネは笑おうとした。


 口元だけが動いて、うまくいかなかった。


「おやすみ、ルカ」


________________________


 部屋には寝台が二つあった。


 ガレスは窓辺で盾の手入れをしていた。昼間、獣にぶつけられたところを、布で拭いている。


「俺と同じ部屋でいいのか」


「嫌なら、廊下で寝る」


「そういう意味じゃない。……いてくれた方がいい」


 ガレスの手が止まった。


「そうか」


「朝、知らない場所で一人だったら、怖いから」


「いるよ」


 彼は盾を壁に立て掛けた。


 俺は寝台へ横になった。掌には、まだ剣の柄の感触が残っている。


「ガレス」


「何だ」


「今日みたいに、俺が勝手に動いても、お前はいつも助けてくれてたのか」


「お互い様だ」


「俺も、お前を?」


「ああ」


 それを聞けたのが、嬉しかった。


 一方的に世話をされるだけの人間ではなかったらしい。


「じゃあ、明日、怖がってたら教えてくれ」


「何を」


「お前が盾で助けてくれたこと。俺も昔は、お前を助けたことがあるって」


 ガレスはしばらく黙っていた。


「分かった」


「約束な」


「ああ」


 灯りが消えた。


 俺は暗がりの中で、三人の名前を順番に思い浮かべた。


 ガレス。フィーネ。リゼル。


 大きな盾。冷たい指。皿の端に寄せられた野菜。


 もう一度、最初から。


 ガレス。フィーネ——。


 _____________________  


 目を開けると、知らない男が椅子に座っていた。


 窓から入る朝日が、壁に立て掛けられた盾を照らしている。


 身を起こした俺を見て、男が口を開いた。


「ルカ」


 俺は布団を手繰り寄せた。


「……どなたですか」


 男は、開きかけた口を閉じた。


 それから椅子を少し後ろへ引いた。俺を怖がらせない距離まで。


「ガレスだ」


 男は、自分の名前を教えた。


「昨日、道で獣に襲われてな。お前は、子供を助けた」


 俺は黙って聞いていた。


「俺は盾を持ってる。昨日も、お前の前に出た」


 男は一度、壁の盾を見た。


「昔は、お前に助けてもらったこともある」


「……なぜ、そんな話を?」


 男の指が、膝の上で握られた。


「約束したんだ」


 覚えのない約束だった。


 けれど男は、覚えていた。

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