令和二年
将来の夢はなにかと聞かれたら、世界平和と答える。
そうするといつも質問の意味が分かっていないと笑われバカにされた。将来の夢とは普通『将来なりたいもの』を聞いているものなのだと。
ならば最初から夢ではなくてなりたいものは何かと聞け。
普通ってなんだ。なりたいものなら綿飴だ。甘くてふわふわして生まれたすぐ後に溶けてなくなる。幸福だけの存在。
そう言ったらますますバカにされた。
自分はもう普通ではないのかもしれない。
突如発生した疫病により世界は混沌時代へと突入した。
そして令和二年。世界各国総鎖国時代だ。
疫病は世界や人々のあり方を変えた。緊急事態下にあってこそ人間の本性が露わになるってのは本当なんだな。
暗闇の中でひとりスマートフォンを開く。液晶画面の明かりがぼんやりと部屋を照らす中で、今夜も画面の向こうをのぞく。
ああ今日も世界はおぞましい。
画面を暗転させてベッドに潜り込み目を瞑るが、すぐに無音が恐ろしくなって、枕元の非常用ランタン付き災害用ラジオの電源を入れた。
非常様なのに常に枕元にあるラジオ。
深夜まで勉強してた受験生の時にすら聞かなかったラジオを、今更聞くようになった自分の小者さに笑える。
ベッド下の災害用リュック。足元にはスリッパ。万が一の時の軍手。乾電池モバイルバッテリー、安っぽく大量生産されたこんぺいとう非常食ようかんチョコ缶詰のかんぱん缶詰のクッキーアルミパウチの筑前煮。
筑前煮なんて普段食べないのに非常用では買うとかなんとしてでも生き残りたい自分の小ささ。
毎晩寝る時の日課である避難イメージ。それらがあっても残る二割の不安。
走る走る走るとにかく走る。津波てんでんこ。走る走る愛する人の手を引いて走るそれでも駄目なら離せ。この人はお前と心中することを願ったかいや願ってないにげろにげろ兎にも角にも逃げてくれ喉から血が出るまで肺が張り裂けるまで走れ生きろ。生きてくれ。
時折聞こえるラジオのノイズは津波の音に聞こえた。
九年前の騒音が鼓膜に張り付いて剥がれない。
真夜中のラジオからは『私たちは同じ地球に生きる家族、いつか必ずわかりあえる』というような内容の英語の歌が流れていた。四十年ほど前の流行歌らしい。
鼓膜に張り付いたままでいた海鳴りの音が、昔の流行歌をかき消して虚しさと共に再び鼓膜を揺らす。
いつかとはいつくるのだろう。
寝るときにも消さない蛍光灯が明滅を繰り返している。最後に蛍光灯の丸い天使の輪みたいなやつを取り替えたのは、いつだったか。
そこいら辺に積み重なってた単行本を積んで一番上に1Q84を置き、それを踏み台にして蛍光灯を取り替えたのだが、新しい蛍光灯をはめた直後に足元がぐらぐらして、古い天使の輪っかを握りしめながら背中から倒れてベッドの上に倒れ込んだ。
新しい蛍光灯が青白く光りじんじんと鳴っている。
夜も二時を過ぎ、令和二年も半ばを過ぎた。
もう数週間続きを読んでいない1984年の文庫本を横目に寝る。
鳩尾にどろどろとした澱のようなものが溜まってきて、思わずヒヨコ型枕を強く抱きしめると、虚無感に死にたくなった。
鎮守の森の樫を見上げる。雲は奥にある青を隠す。死に損ないの夏のような生ぬるい秋風。カラスが枝を落とす。足下の彼岸花。招かれざる僕。
将来の夢はと聞かれたら世界平和と答える。
だがそれは争いのない世界を意味するわけじゃない。生命が地球上に存在する限り、居場所をめぐって平和な世界にも争いは起こる。
「素敵ね。私の夢も世界平和よ」
赤い鳥居をくぐり抜けて君は言った。
「最終的には地球上でひとつの国になれば、戦争なんて起こらない。そうしたらみんな幸せになるの。世界中みんな地球の家族よ」
「ひとつになるならそれは世界平和じゃなくて世界征服だ。結局強い国が統一するんだろう」
「信じれば叶うんだよ。みんなわかりあえる」
僕の言葉を無視し、脳味噌に青い花を咲かせて君は笑った。僕も笑った。有史以前から争いを続けている人間は、あと何千年経てばわかりあえるのだろう。
君の脳味噌に除草剤を撒きたかった。
将来の夢は『世界平和』だ。将来なりたいものは『綿飴』だ。それが無理ならせめて『優しい人間』になりたい。
『素晴らしい世界を実現するために暴力で世界を服従させようとする勢力』を倒すしかないと思っている僕は、反暴力主義の敵なのだろう。
平和にするためには、平和を脅かす者を駆逐しなくてはいけないと考えている時点で、僕は平和主義者ではない。世界平和を願う僕の夢と僕が将来なりたいものは相成れない。
だが、平和主義者ほど周りを平和にするために敵を殲滅させるものだと聞いた時に腑に落ちた。
そもそも世界は平和になれないのだと。
夢から覚めると外は土砂降りだった。
電車の中、マスク越しにくしゃみをしたら、向かいに座っていた背骨のないような中年男に睨みつけられた。男は黒いマスクから鼻を出していたので、二発目は男の目を見てかました。
不織布越しにくぐもった舌打ちが聞こえたような気がした。
車窓からは時速七十キロでゆったり景色が流れていく。乗客はまばら。電車が大きく揺れる度に、おはぎの入ったビニール袋が膝で跳ねる。
ばあちゃんの墓のある駅まであと四つ。
令和二年の彼岸が過ぎる。