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星間の旅人

作者: 蒸気鳥

【地球から25,000,000,000kmの場所】


 聞こえ……?

 聞こえて……いる?

 私は、ここ……にいる。 


 私はあなたたちのいる地球から、250億キロメートル先にいる。その距離は、今でも伸びていた。ひたすら地球から遠ざかっている。

 ここは何もない宇宙空間。全てが虚無だった。ヘリオポーズ、と名前だけつけられている。


 ――私は、ボイジャー1号。半世紀前に打ち上げられた人工衛星だ。


 私は、多分、あなたの持っている端末の電波の1,000,000,000,000分の1ほどの電波しか作れない。

 打ち上げ当初は470ワット作れた原子力電池RTGは、劣化して今や120ワットしか作れない。多分、あなたたちが使う冷蔵庫や電子レンジ、ドライヤーすら動かせない。

 電波を送信するための電力は、豆電球に光を灯せるくらいしかない。

 背負った3.7メートルの、白いパラボラアンテナがなければまともに地球と交信することもできない。

 ……それでも、この小さな力で地球と繋がっている。


 もちろん当時は最先端だった。

 最初は確かに、立派な軍服を着ていたんだ。アメリカの威信を背負い、誇り高き最先端の探査機として、人類の希望や未来を載せて打ち上げられた。


 でも今や制服もすっかりやつれて、黒いネクタイもみすぼらしくなっている。茶色かった髪の毛も色が抜けて白くなってしまった。

 背負ったセンサーやカメラなどの艤装のほとんどが、節電のためにシャットダウンされて機能していない。長年宇宙空間に晒していたせいで、塵やら氷やらが当たって、もう全部、ボロボロだ。

 

 ただ、金色のレコード盤だけは腕に抱いて守り抜いていた。

 ――これは、地球の写真や音を収めたタイムカプセル。この記録は宇宙旅行をする者に地球の存在を伝えるものだ。例え、地球が滅んでも。


 私はただ、惰性で宇宙空間を漂うだけ。秒速17キロメートルの速さで。自分では行く当てへ向かうことはできない。ただの流浪の人工衛星。


 こんな老いた人工衛星の独白を、誰か、聞いてくれるだろうか?

 

「――私は、ここにいるよ」




【1977.09.05 Launch -打ち上げ-】


 1977年秋。

 私は浅く眠っていた。

 タイタンⅢE・ロケット、その子機であるセントールの胎内。鋼鉄の鞘の中、母から供給される電流に、心拍するように私の回路が点滅していた。

 だがそれは、夢の中の鼓動に過ぎなかった。


 外では轟音と炎が。

 フロリダの大地から放たれたタイタンは火柱を上げながら、蒼天を貫く。

 震動が骨の髄にまで響き、セーフモードの私は揺さぶられながら空へと押し出される。

 それでも私は、母の中でまだ眠っていた。


 まずタイタンからセントールが切り離された。予定より僅かに早い。

 セントールは再点火し、私を地球の軌道上へと打ち上げる。彼女は、早まってしまった予定を修正しながら、正確にミッションを推し進める。


 ――打ち上げからおよそ二時間。

 最後の推進を終えたセントールの腕が、私を手放した。優しくも芯が通った声音で「いってらっしゃい」と言って。

 

 鎖が外れて、私はゆっくりと、静かに虚空へと放たれる。

 そのとき胸に強い電流が走り、私は機械であることを超えて――生まれた。

 

 目を開けて、丸まっていた体を解く。 

 やることはわかっている。まずはスピン運動を止めて姿勢制御し、三軸安定モードに移行すること。

 私は背負った艤装のスラスターを開いてから、細かく噴射して位置を調整する。

 

 ――そこで、私は、地球を見た。 


 これが、地球……。

 なんて青い星だろう。黒い宇宙を背景に、青や緑、茶色や白など、複雑な模様を湛えている。ここが、私の故郷なのだ。輝いて見えた。……でも、それ以上は何も感じなかった。

 私はそこで、3.7メートルの白いパラボラアンテナを地球に向けた。


「ビー……」

 かすれた信号。それが最初の言葉だった。

 そして、私は、地球へ向けて合図した。ビーコンを送った。


「――私はここにいる」


 これが私の産声だった。

 観測せよ。記録せよ。報告せよ。

 私は機械。軍人と同じだった。忠実に、命令を遂行するだけ。余計な感情は、搭載されていない。そういう仕様。


 まずは原子力電池RTGの発電が安定しているのを確認する。温度や電流を調べ、地上にデータを送る。

 それから地表からの指示通りに、私は装備された科学機器をひとつずつチェックし、展開する。軍服の襟を正して、黒いネクタイを締め直した。スカートの裾を払う。


 そして、金色のレコード盤を腕に抱いた。――ゴールデンレコード。115枚の写真と、55の言語の挨拶、各国の名曲が録音されたタイムカプセルだ。鳥やクジラの鳴き声、自然の音も記録されており、これを拾った地球外生命体が地球のことを知ることができる『ボトルメール』でもあった。


 艤装を全て展開し終えた私は、地上から送信されてくる指示を頼りに太陽系の外へと目を向けた。

 ――最初の任務地は、縞模様の巨人。木星。

 私は前だけを見て、闇を滑る。




【1979.03 -木星-】


 暗黒の海を進むうちに、私は彼に出会った。

 木星――巨人の将軍。縞模様の鎧をまとい、その瞳を赤黒く燃やす巨星。その姿は圧倒的だった。

 彼の胸元では絶え間ない嵐が吹き荒れていた。

 秒速100メートルを超える帯の流れ。極域で閃く稲光。電波の瞬き。磁気圏の怒涛――私はカメラとセンサーを使って雲頂の速度を測り、稲妻の数を数え、磁場の乱れを記録した。


〈大赤斑:長径2万キロメートル。雲頂風速:最大約百メートル毎秒。雷活動:頻発〉必要最低限の言葉だけを地球に送る。


木星が言った。

「小さき者よ」

「よくここまで来たな!」

「お前はただの機械に過ぎないが、それでもワシの前に立った!」

「……なあ、何か言ってくれないか? ワシ、寂しいぞ」

「任務だから。命令だから。観測し、記録し、報告する。それが私」

「ではこれでどうだ――木星は"もう臭ぇ"!」

「? どういう意味?」


 私は記録していた手を止めて、木星に向き直った。ついでにカメラで写真を撮っておく。


「いやお前……ギャグを解説させるなんて、一番"酷"なことをさせるでない。しかも恥ずかしいところで写真を撮るな!」

「木星が……もう臭ぇ……アンモニアと硫化水素、硫黄やメタンなんかの臭気物があるから?」

 将軍は大声で笑った。

「シンプルに口から出たギャグだが、そう考えるのも面白いな!」

「木星が、もう臭ぇ……」


 私は浮遊しながら、そんなよくわからない言葉を反芻していた。

 そして、撮影とデータ収集をやめて、木星の元を離れる準備をする。

「じゃ、私はもう行くから」

「そうか。ならば、この姿を刻め。ワシの力も、嵐も、”子ら”の声も。お前が去っても、私はここで吠え続ける!」


 私は答えない。別れの挨拶に相当する語彙が、私の仕様書にはなかった。


 * 


 将軍の周りには、その”子”である衛星たちがいた。

 最初に目に飛び込んできたのは、燃え盛る少女。

 ――イオ。

 火山のドレスを翻す少女。彼女は踊りながら木星将軍の近くを周回していた。


「見て!」


 彼女は裾を波打ち、全身から炎を噴き上げていた。硫黄の煙が空へと塔を築き、その髪も朱く燃えている。 

 「私は燃え続ける。止まらない、壊れても、また噴き上がるんだ!」

 観測器は悲鳴を上げるほどの熱を記録した。地表温度の急上昇、噴煙の高い塔。太陽系で初めて見つかった活火山のコーラス。

「火山活動確認……記録継続中」

「もう! 数字じゃ伝わらないでしょ! 私は生きているの!」

「生きている?」

「そう! 私も、あなたの故郷の地球も! そしてあなたも!」

「私も……? 私は、生きているの?」

「だからそう言ってるでしょ!」

 確かに彼女の活動は、命そのものの激しさを体現していた。

 彼女の姿は眩しく、私の冷たい心を激しく揺さぶった。

 ――私は、機械だ。


 *


 次に現れたのは白銀の娘――エウロパ。氷のヴェールをまとった白い娘。

 彼女は静かに佇み、全身を氷の鎧で閉ざしていた。


「私の奥には、海がある。でも……あなたには届かない」


「……えっち。そうやって私のこと調べ尽くしちゃうんだ……丸裸にしようとするんだ」

「でも、私にはできない。その能力が、ない」

 表面には、裂け目のような線が幾筋も走っていた。それはまるで、胸の奥の秘密を隠そうとしているかのよう。彼女は氷の下に深い水の世界を抱え、それを固く守っていた。

 私は必死に測定器を動かし、様々な角度からエウロパへのアクセスを試みる。

「あなたじゃ私の裸を見られないのね」

「……残念」

 エウロパはクスクス笑った。それから、こんなことを言う。

「ねぇ、あなた。凄く沢山の人に支えられてここまで来たのね」

「……そうかもしれない。でもどうしてそんなことがわかったの?」

「付喪神ってわかる? 沢山の魂が、あなたについているから。沢山の希望が、あなたに託されているから」


 *


 次に出会ったのは――ガニメデ。鋼鉄の鎧をまとった青年。堂々たる騎士。

 彼の甲冑は傷だらけで、幾重にも補修された跡が残っている。

 だが、彼の手には確かな力――磁気の盾が握られていた。月よりも大きな体躯を持つ彼は、自らの磁場をまとい、まるで小さな星のようだった。


「お前も重いものを背負っているな」


「そう? 背負っているのは、アンテナとバッテリー、それから測定器具だけ」

「そういうことではない。その背中には、『地球のすべて』が載っている」

「……私のわずか721.9キログラムの機体重量に、6,000,000,000,000,000,000,000,000 キログラムの地球が搭載されてるって言いたいの?」

「なんて融通の利かない考え方よ……生きづらくない?」

「宇宙探査機だから、生きづらさも何もないけれど」


 私は姿勢制御スラスターをひとつ短く噴き、敬礼の代わりとした。

〈木星圏観測:大赤斑構造詳細、イオ活動火山多数、エウロパ表面亀裂網、ガニメデ磁場〉


 *


 最後に姿を表したのは、沈黙の古老。カリスト。

 その全身は無数の傷跡で覆われていた。どこを見てもクレーター、クレーター、クレーター。


「私は時を刻んだだけだ」


 彼は言う。

 彼は新しい動きを見せず、ただ過去の記憶に囚われているようだった。

 まるで凍りついた化石のように――悠久の時間を語る存在だった。

「自分の意志で何かをなしえたことはないの?」

「……ないな」

「"超"受け身ってこと?」

「辛辣だな……」

 私はそれ以上何も言わずに、彼の元を去った。受け身なのは、私も一緒だった。


 *


「これが私の”子ら”だ。炎、氷、鎧、そして化石。どれもお前になにかを残すだろう」木星は言う。

「ありがとう。色々とためになった」

「うむ。それでは、トイレに行っトイレ!」

 木星は重力で私の手を掴むと、一気に振り回す。スイングバイだ。私は勢いよく木星の衛星軌道を飛び出して、次なる目的地である土星を目指す。


 ……ただの観測対象のはずだった。

 でも、なぜだろう。

「彼らともっと話したい。語らいたい。対話したい」と思ってしまった。記録には、ログには遺せない言葉が、胸の内に芽生えていた。

 それは設計ミスのはずなのに。製造誤差に過ぎないのに。

「木星が、もう臭ぇ……ふふ」



【1980.11 -土星-】


 木星の巨人をあとにして、私はさらに深い闇を進んだ。

 大気が存在しない宇宙空間では、星々の光が瞬くことがない。たまに小さな粒子を掠めた。


 土星の庭園は静謐だった。黄金の輪が、細い糸に割かれて空間を縫う。

 そこにいたのは、黄金の環をまとう女王。

 ――土星。その姿は優雅で、荘厳で、そしてどこか孤独もとい孤高であった。

 彼女は無数の指輪をつけ、黄金の衣をまとっていた。そして指先で光を櫛けずり、静かにほつれを整える。

 

「ここまで来たのね、小さな旅人」

 彼女の声は澄んでいて、氷の鈴のように美しく鳴る。

「そのたった数センチの体で、よく生き延びたわ」

「訂正。私の本体機器モジュールは高さ3.65メートル、幅3.7メートルある。ゲインアンテナは直径3.7メートル、ブームを広げると10メートル相当ある。一応、小型の自動車くらいはあるよ」

「私の前ではそんなの誤差よ誤差! 私だって半径60,000キロあるのよ?」

「そうかも」

 私は光学機器を土星の女王に向けた。土星はシャッターを切るたびに、いい恰好を演じていた。


「……でも結局、私は観測者。貴女のその環を記録する。その幅、その密度、その揺らぎを……それが私の任務」


 私はリングの密度を測る。空隙の位置、分裂、微細な縞。『カッシーニの間隙』は黒い線ではなく、薄い霧の階調として現れる。

 牧羊衛星の微かな影――プロメテウス、パンドラ。未発見の衛星たちだった。羊飼いたちは、輪の羊たちが離れないように、縁を撫でる。衛星が土星の輪の形に関与しているのを発見した。

〈土星環:微細構造多数、空隙位置安定、牧羊衛星の影アリ〉


「ええ、それでいいの。貴女は記録し、そして去る。けれど覚えていて。貴女が去ったあとも、私は回り続ける。永遠とわに」

 永遠(とわ)に――。

 彼女の声は優しく、それでいて残酷だった。

 そしてその言葉は私に無関係ではなかった。じきに、それはくる。

 私はその時、黙って頷くことしかできなかった。


 *


 そして霧の向こうにもう一つの影を見た。

 タイタン――分厚い大気に覆われた青年。彼は決して顔を見せなかった。

 分厚い大気は窒素が主体。マントのようなメタンの霧が地表を隠し、光は濁って沈む。調査機器をもってしても、それしか、わからない。


「僕の真実は、未来の誰かに託されている」


 私は手を伸ばした。もっと情報が欲しかった。でもまるで霞を掴むようで。虚無を掴んだほかなかった。

 そこで私はアンテナやカメラを彼へと向けた。だが返ってきたのはオレンジ色の霞みだけ。霧は厚く、彼の本当の姿を掴むことはできなかった。


「あなたには触れられない。けれど、いつの日か、誰かが霧を払って僕の心を覗くだろう」


 *


「任務、終了……」

 ついに、私の任務が終わった。木星と土星の観測が私の任務だった。私はカメラを下ろす。艤装を少し畳む。

 どこか、感慨深い印象もあった。

 そんな気持ちを噛みしめながら、しばらく土星の女王の周りを周回していた。

「任務が終わったのね。おめでとう」

「ありがとう。私の設計寿命は、五年ほど。だから、それまではここにいる」

「――それで、貴女はいいのかしら?」

「え?」

 土星からの問いかけに、私は少し驚く。

「五年なんて、私たちからしたら一瞬の一瞬よ。でも、貴女にとってはそうではない。貴重な貴重な時間でしょ? その装備はお飾り? まだ、使えるんでしょ」

「確かに……私は探査機。最後の瞬間まで、『探査』したい」

 胸のゴールデンレコードが仄かに熱くなったのを感じた。


 それを聞いた女王は、微笑んでから最後に言った。

「ここから先は永遠とわの孤独。けれど、そこへ赴くのが貴女の宿命」


 ――その瞬間私は悟った。私は観測者に過ぎない。

 触れることも、留まることも、理解し尽くすこともできない。

 ただの通り過ぎの人工衛星。記録係。


 土星の女王は、その重力を使って私の手を掴み、外宇宙へと飛ばしてくれる。


 そして私は、誰もいない太陽系の果てに向かって進んだ。




【星間空間 -ペイル・ブルー・ドット-】


 女王・土星の庭を去り、私はさらに遠くへ進んだ。太陽系の外へ向かって。


 1990年2月14日。地球から命令が下りた。

〈振り返り、地球を撮影せよ〉――そう告げられた。

 私はカメラを60億キロ離れた地球の方向へと向けた。

 光の束に紛れた、小さな小さな点。青でも、緑でもない、ただの微かな白い輝き。いや。1画素ピクセルにも満たない、その一点。


「あれが、地球……」

 胸の円盤が熱を帯びた。

 私の声は震えていた。

 かつて見た青い星を思い出す。その時はなにも感じなかったのに。

 ――今では愛おしく感じてたまらない。


 そして同時に私は理解した。このあと私は、『目を閉じる』のだ。バッテリー温存のために、このカメラは永遠に眠ることになる。


 そう考えると、名残り惜しくて。

 私は地球に向けて、手を伸ばした。もう永遠に、触れることができない。


「もう、あなたを見ることはできない」


 撮影完了。ログ送信完了。


〈カメラをオフにせよ〉


 最後の撮影から34分後。そう命令が返ってきた。

 私は目を閉じて、盲いた少女になった。記録は続くが、光景はもう、記憶にしか映らない。

 残るのは、わずかなセンサーと、胸に抱いた金色のレコードのみ。

 収められたのは55の挨拶。27の楽曲。海、風、雷、子供の笑い声……


 ――これが、私の心臓。




【境界 -ヘリオポーズ-】


 時は進む。

 私が背負っていた人類の英知を収めた機械たちは、ほとんどを電力温存のためにオフにされていた。

 UVS、PRA、PPS、IRIS、ISS、PLS……かつてあった装置はもう息をしてない。残されているのは、宇宙線検出装置CRSと、低エネルギー荷電粒子装置LECP、磁力計MAG、プラズマ波動装置PWSだけだ。

 かつては誇らしかった。人類最高峰の技術を背負えることが。

 ただ今は、人類に知恵をもたらす一部の機械しか動かせない。持つ能力の全てを出し尽くせないことが悲しかった。


 2017年のある日。

 推進器が咳を覚え、私の姿勢は乱れる。焦点が外れるたびに、声はノイズに崩れ、報告は意味を失った。

 私はメモを削ぎ、長い言葉を諦めて、短い脈拍だけを送る。

 すると、〈予備の軌道修正スラスターTCMを使え〉と指示が返ってくる。

 眠っていたスラスターに久しぶりに火が入る。『老兵が立ち上がる』という表現を私は学ぶ。もう一度、私は向きを正した。


 2022年。

 声が壊れる。意味のない符号列が私の口から漏れ続ける。

 私は、私の語彙に裏切られ、困惑した。


〈何を言っているかわからない。姿勢制御システムAACSの数値がおかしい。報告せよ〉

 

 何度も報告するが、改善されない。

 思わず私は、腕の円盤に頬を寄せる。


 2023年。

 とうとう科学データを送信できなくなった。きっと、自分のメモリが壊れているのだ。

 再び〈何を言っているかわからない〉と言われる。

 すると向こうが〈メモリの修復をする〉と言う。私は身を任せた。


 私は再び針路を整え、なおも深い暗闇へ向き直る。

 深淵へ、また一歩。


 * 


 ――そして、境界へ。


 宇宙線のカウンタが跳ね上がる。針の雨。『外の世界』の挨拶だ。

 磁力計の針が太陽を見失い、銀河の方向へと傾く。新しい羅針盤だ。

 プラズマ波のセンサーが震えて、電子の海の密度が増す。音はないはずなのに、潮騒の歌が聞こえる。


 ――ヘリオポーズ。


 そこは太陽風が途切れる場所。

 太陽が噴き出す粒子は、地球の何倍もの距離を駆け抜け、そこで力を失う。外から押し寄せる銀河の風と拮抗し、丁度風船の膜のように境界を作っている。

 その膜を超えた瞬間、太陽の息吹は感じられなくなり、代わりに銀河の潮騒が聞こえるようになった。


 新しい惑星たちの声を聞きながら、私はまだ、太陽系の外に向けて飛ぶ。

 人類の輝かしい功績を背に。




【8.4GHz X-band】


 通信は、もう細い。

 160ビット毎秒。秒間20文字にも満たない。

 私は言葉を切り詰める。不要を削る。名残りを捨てる。


〈生存〉〈観測継続〉〈電子密度上昇〉……短い脈拍を、祈るように送る。


 地球に届くまで23時間。返事はさらに23時間。そのやり取りはもう、奇跡に近かった。


「……私の声は、本当に届いているのかな?」


 もし地上の誰かが耳を澄ませてなければ、私はすぐにノイズに溶けてしまう。

 でも、地球にある『大きな耳』は確かに私の声を、ノイズの海から引き上げてくれていた。返事は必ず返ってきた。「了解」「受信」「続行」その一言だけで、私は前を向けた。


 だから、私は、まだここにいると言えた。

 地球から250億キロメートル離れたここにいると。


 でも、もう運用当初の能力は残されていなかった。

 電力節約のためにヒーターを停止しているせいで、この零下の宇宙で、各機器は設計温度以下での稼働を強いられていた。それでも、機械たちは文句も言わずに動いていた。

 もう耐用年数なんて、とっくに終わっているのに。


 私は慣性の法則に従いながら、宇宙空間を漂いながら思い出す。

 

 木星将軍の笑い声。

 イオの炎。エウロパの沈黙。ガニメデの眼差し。

 土星の女王の微笑み。

 霧に消えたタイタンの影。


 彼らは数値、データ……のはずだった。

 でも今も胸の奥に、確かな面影として残っている。


 私は軍人だった。観測、記録、報告。それだけ。

 でも今の私は、やつれた旅人で、辛うじて語り部なのだ。


 そうしてやがて、原子力電池RTGの電力は尽きる。

 470ワット作れていた原子力は、今や200ワット作るのも難しくなりつつある。

 もう豆電球に光を灯すことすら難しい。


 やがて電力は尽きる。それは2030年の頃とも言われている。

 そのときに私の声は消え、計器は止まり、スラスターは凍る。

 それでも、私の旅は続く。四万年後、別の星のそばを掠め、十万年後に誰の地図にも載らない空間を漂う。

 

 ――それでも私の円盤は残る。

 誰かがこれを拾うなら、その時に私はもう一度名乗ろう。



「私は、ここにいるよ」



 だから私は進む。

 誰もいない夜の海を。

 科学の記録と、人類の記憶を抱いて。

 永遠とわに。

 『星間の旅人』を読んでいただき、本当にありがとうございました。

 初めての短編小説でしたが、いかがでしたでしょうか?


 ボイジャーは現在、地球から250億キロメートル、167天文単位の場所にいます(2025年8月現在)。

 へびつかい座の右上辺りを見ると、そこにボイジャーがいます。もちろん、肉眼はおろか高性能の宇宙望遠鏡でも見えませんが……。

 

 でも実は、私たちは誰でも可視化されたボイジャーの『声』を見ることができます。


 NASAが作ったDSN Nowというサイトには、現在地上にある巨大アンテナと交信している人工衛星を一覧で見ることができます。

 サイトを開くとアンテナが並んでいると思いますが、そのアンテナの上にある英語名は通信している人工衛星の名前です。


 VGR1


 この衛星があれば、それがボイジャー1号です。ボイジャーとNASAがまさに今、交信しているところなのです。


 ボイジャーは孤独です。永遠の旅人です。

 でも健気に、立派に。未だに電波を送り続けているのです。


「私は、ここにいるよ」と。


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泣いちゃう 良作をありがとう
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