第8話 ふたりの距離、ひとつの馬車
朝焼けの王都。
まだ人通りの少ない通用口に、黒い馬車が一台、ひっそりと待機していた。
御者席には王立騎士団の護衛兵がひとり。
荷台には最低限の調査機材。
そして、後部の扉が開くと、ふたりの姿が現れた。
ユーリネス・シュヴァルツ。
そして、オレリー・ピエス。
「……乗って」
そう言ったのは、ユーリネスだった。
淡々とした声音。でも、どこかに迷いがにじむ。
オレリーは小さく頷き、彼の背を追うように馬車へ乗り込む。
車内は狭く、向かい合わせの長椅子がふたつ。
逃げ場はない。会話を拒めば、沈黙しか残らない空間。
ふたりは黙って腰を下ろした。
馬車が、ゆっくりと動き出す。
「……眠れましたか?」
オレリーの問いかけに、ユーリネスはわずかに目を細める。
「少しだけ。お前は?」
「ほとんど、ですね。緊張してて」
「……だろうな」
短いやりとり。けれど、その言葉の裏には“気遣い”があった。
互いにどこかぎこちない。
けれど、完全な拒絶ではなく、ただ“距離の測り方”を探しているだけのようだった。
しばらく沈黙が続く。
馬車の車輪が石畳を叩く音が、一定のリズムを刻んでいる。
やがて、オレリーがそっと口を開いた。
「王都の外って、久しぶりですか?」
「……数年ぶりだな。
任務以外で出ることは、まずなかった」
「覚えてる場所、ありますか?」
「ない」
即答だった。けれど、その声に含まれたのは怒りではなく――何かを“閉じ込めた”響きだった。
「……ない、か」
オレリーは、窓の外に目を向けた。
朝霧が薄く漂い、馬車の車輪が湿った土を踏みしめていく。
「私は、少しだけ思い出があるんです。
父と母と、一度だけ、郊外の果樹園に行ったことがあって……」
話しながら、オレリーの表情がやわらいだ。
その笑顔は、誰かを傷つけることを知らない光のように、穏やかだった。
「りんごの花が風に舞って、すごく綺麗でした。
あのときの匂い、たまに思い出すんです。ふわっと甘くて、懐かしくて……」
ユーリネスは、黙ってその話を聞いていた。
その横顔はどこか遠くを見ているようで、
彼の心が少しだけ、昔の何かを探っているのが伝わった。
「……思い出、か」
ポツリとつぶやいた声には、わずかな翳りがあった。
「俺にはそういう記憶がない。
気づいたときにはもう、王都の施設にいた。
魔力を抑える方法を覚えることだけが、毎日だった」
「……そんな」
「同情は求めていない。……そういうものだと思ってただけだ」
オレリーは、言葉を選びながらそっと言った。
「じゃあ、今日のこと
――わたしたちで、新しい記憶にしませんか?」
ユーリネスの紫の瞳が、かすかに揺れる。
「記憶は、つくるものじゃない」
「……でも、残るものです。
たとえば、こうして並んで外を見たこと。
今日がいつか、あなたの中に残ってくれたら
――私は嬉しい」
「……」
「……なんて、おこがましかったでしょうか」
馬車の中に、ゆっくりと沈黙が流れる。
けれど、それは先ほどまでの“重い沈黙”とは違った。
何かを受け入れようとするための、静かな間だった。
「お前は、強いな」
ふいに、ユーリネスがつぶやいた。
「……え?」
「魔力の話じゃない。
お前は、俺の知らない種類の……強さを持ってる」
オレリーは、驚いた顔のまま言葉を失っていた。
けれど、次の瞬間、ほのかに頬を染めて――小さく微笑んだ。
馬車は、ゆっくりと森の入口に差しかかった。
王都の外れにある、緩やかな丘陵地。
木々は朝露を纏い、鳥たちのさえずりがかすかに聞こえる。
「ここが……調査地点?」
オレリーが窓の外を見つめながら呟く。
「“魔力乱流”が起きているとされる地点だそうだ」
ユーリネスが答える。
騎士団から配られた簡易地図には、この森の奥に調査目的の魔力異常地点が示されていた。
馬車が止まり、護衛の兵士が扉を開ける。
「ここから先は徒歩です。調査範囲は狭いですが、足元にはお気をつけて」
「……了解」
ユーリネスが静かに立ち上がり、先に馬車を降りる。
続いて、オレリーも外へ。
差し込む木漏れ日が、ふたりの姿を斜めに照らしていた。
「……空が、ひろい」
ふと漏らしたオレリーの言葉に、ユーリネスは振り返る。
彼女は、森の木立を見上げていた。
その瞳はきらきらと光を映して、まるで何かを祝福するようだった。
「閉じ込められていたから
……すごく、久しぶりですよね」
「そうだな」
それだけ答えて、ユーリネスは前を向いた。
けれど、心の奥に確かに、小さな感覚が芽生えていた。
オレリーは、彼の背中を見ながらそっと思った。
(怖いと思ったこともあった。何を考えているのか、わからなくなるときもある。
でも今――この人のそばにいたいって、少しだけ、そう思ってしまう)
彼女の中に生まれたその感情は、まだ“名前”を持たなかった。
けれど、それがやがて、強く温かくふたりを動かしていくことになる。
森の奥へと歩き出すふたりの影が、朝の陽のなか、少しだけ近づいていた。