第6話 知らない理由、知られた理由
翌日の朝、共鳴室に“来客”があった。
カーテンのような魔力結界が開き、白衣の魔導官が二人、無言で室内に入ってきた。
ひとりは無表情な中年の男。もうひとりは若い女性で、手には魔力測定器らしき装置を持っていた。
「おはようございます。定期診断です。力を抜いてくださいね」
そう言いながらも、その目に親しみの色はない。
事務的で、まるで彼女たちを“被験体”として見ているようだった。
ユーリネスは、何も言わず立ったまま腕を組んでいた。
明らかに不機嫌で、警戒している。
オレリーは装置を装着されながら、昨日の“緑の光”を思い出していた。
(あれは……ただの魔力反応? それとも――)
診断はすぐに終わり、二人はメモだけ残して去っていった。
だがそのとき、ひとりの魔導官が落とした紙片が、オレリーの足元に落ちた。
「……あっ、すみません。拾いますね――」
魔導官が振り返るよりも早く、オレリーはその紙に目を落とした。
そこに記されていた文字は、こうだった。
共鳴確率75%。感情干渉による安定効果観測中。
被験者ピエスの影響範囲広がる兆候あり。
引き続きシュヴァルツの魔力誘導に活用を――
「……!」
オレリーは紙を見た瞬間、心臓が跳ねた。
「被験者」「影響範囲」「活用」――
まるで、自分たちが“何かの道具”であるかのような言い回し。
彼女が視線を上げると、ユーリネスがこちらを見ていた。
「どうした」
「……なんでも、ないです」
小さく首を振るしかなかった。
でも、そのとき確かに芽生えたのだ。
“この共鳴室は、自分たちの意思ではなく、誰かの思惑で作られている”という疑念が。
そしてそれは、やがてふたりの運命を激しく揺るがすことになる。
その日の午後、オレリーは落ち着かない気持ちのまま、共鳴室の端に腰を下ろしていた。
午前中の“あのメモ”が、頭の中で繰り返しよみがえる。
(被験者……活用……。やっぱり私たちは、実験の一部だったの?)
ただ傍にいるだけだと思っていた。
けれど、それすらも“役割”として決められていたのなら――
思考が堂々巡りを始めたころ、ユーリネスが無言で近くに腰を下ろした。
いつも通りの仏頂面、けれど少しだけ視線がやわらいでいる。
オレリーは意を決して、声をかけた。
「……ねえ、ユーリネス」
「ん?」
「もし、私といることに“理由”があったとしたら――
たとえば、あなたの魔力を安定させる“道具”みたいな理由だったら……どう、思いますか?」
彼の目が、すっと細くなった。
「その仮定、どこから出た?」
オレリーは言葉を詰まらせた。
さっきの紙のことは、まだ言うべきじゃない気がした。
「……ただの、例え話です」
「嘘だな」
彼の声が、かすかに低くなる。
冷たくはない。けれど、その下には明らかな“怒り”の熱が潜んでいた。
「お前、何かを見たんだろ。何を読んだ。何を聞いた」
「ユーリネス……」
「俺を……“制御できる存在”として、扱ってるのか?」
その言葉に、オレリーの顔が青ざめた。
「そんなつもりじゃ……!」
「なら、どうしてそんな話をする。
なぜ、“利用されているかもしれない”なんて言い出す!」
バンッ――
彼の拳が、壁に叩きつけられた。
魔力が震え、共鳴室の空気が一瞬で冷え込む。
「……俺はもう、二度と“人に使われたくない”んだよ」
その一言が、怒りよりもずっと深いところから絞り出されたのを、オレリーは感じた。
「私は……あなたを“利用しよう”なんて、思ってない。絶対に」
「……」
「でも、ここにいる“理由”が、私の知らないところで決められてる気がして……それが、怖かった」
オレリーの声は震えていた。
でも、目だけは真っ直ぐにユーリネスを見つめていた。
沈黙のあと、彼はそっと顔をそらす。
「……もういい。何も話すな。
俺が誰も信じない理由、お前は知らなくていい」
それは、はじめての“拒絶”だった。
共鳴室に、長い沈黙が降りた。
ユーリネスは、背中を壁に預けたまま目を閉じている。
けれど、その目元はかすかに強張っていた。
怒りではない。
恐れと、疲労と――もう誰にも触れられたくないという拒絶。
オレリーは、黙って彼を見つめていた。
話しかけるべきか。
でも、言葉は刃になる。
彼の中に深く刻まれた傷に、下手な言葉は触れてはいけない。
(わたしは……本当に、何も知らないままここにいたんだ)
彼を傷つけたくないと思いながら、
結果的に、一番痛いところを踏み込んでしまった。
けれど、だからといって目を逸らしていたら、
彼の孤独は――きっと、また氷の奥に閉じこもってしまう。
その夜、オレリーは一睡もできなかった。
ふたりの間に流れる空気は、昨日までとまるで違っていた。
会話はない。視線も交わらない。
それでも、同じ部屋の中にいるということが、こんなに息苦しいとは思わなかった。
(でも……逃げない。わたしは、彼と向き合うと決めたんだから)
魔力なんてほとんどない。
特別な力も、何も持っていない。
けれど、“誰かの孤独を放っておけない”という感情だけは、ずっと胸の奥にあった。
それが、わたしの魔法の核なのだと、どこかで思っていた。
「……おやすみなさい、ユーリネス」
ベンチの上に横になりながら、小さく呟いた。
返事はない。
けれど、それでもいい。
今日だけは、そっと彼の心に、灯を残せたら――
共鳴室の天井には、誰にも見えない小さな魔法陣が静かに回転を始めていた。
ふたりの感情の揺れを、黙って記録しながら。