第5話 氷結の衝動
共鳴室に、ぴしりと小さな音が走った。
壁の一角――魔力感知装置のひとつに、微細なヒビが生じていた。
ほんの僅かだが、それは異変の兆し。
誰も言わない。だが、ふたりは薄々感じていた。
この部屋が“ただの観察”ではないということ。
ふたりの魔力が“干渉し始めている”ということ。
「なんだ、また音……?」
オレリーが顔を上げると、ユーリネスは黙ったまま立っていた。
目を伏せ、拳を強く握っている。
「……ユーリネス?」
返事はない。
代わりに、空気が冷えた。
(また……だ)
彼の中で、あの夢の残響が続いていた。
父と母の背中、氷に包まれた庭。
そして、それを止められなかった“力”。
「俺のせいで、みんな消えていくんだ」
小さくつぶやいた言葉。
オレリーには、届いた。
「そんなこと、ない」
「お前も、いつか俺を怖がる。……いまは違っても、きっと」
「私は――」
「やめろ」
声が跳ねた。
「やめてくれ……これ以上、近づかないでくれ……っ!」
彼の足元から、冷気が爆ぜた。
床が白く凍り始める。
魔力が感情に引っ張られ、制御が効かなくなっていく。
「ユーリネス!」
「離れろ……俺は……っ!」
冷気の中心で、彼は息を切らしていた。
目を見開き、今にも魔力が暴走しそうな危うさを帯びている。
けれど、オレリーは動かなかった。
「わたしは、離れません」
凛とした声が、冷たい空気を裂いた。
その声は、冷気の中で、かすかに震えていた。
けれど、怯えているのではなかった。
恐怖の中にあってなお、彼女は立ち続けていた。
ユーリネスが顔を上げる。
その目は、驚きと――困惑に満ちていた。
「なぜ……」
「あなたが、怖いと思ってるのは……きっと、自分自身です」
オレリーの言葉に、冷気が揺れた。
それはまるで、魔力が耳を傾けているかのように。
ユーリネスの肩が、わずかに震えた。
「だったら、なおさら……わたしは、ここにいます」
彼女の声は静かだったが、どこか祈るようでもあった。
「わたしが、あなたにいてほしいって、そう思ってるだけです」
氷の気配が、音もなく静まっていく。
ユーリネスのまわりに浮かんでいた細かな結晶が、ひとつ、ふたつ……空気に溶けていった。
彼の足元の霜も、徐々に退いていく。
その中心で、ユーリネスはただ、茫然と立ち尽くしていた。
「……お前ってやつは」
かすれた声で、それだけを言った。
怒りでも拒絶でもなく、ただ呆れたような――諦めたような声音。
ふたりの間にあった距離は、少しだけ縮まった。
ほんの一歩。けれど、それは確かな前進だった。
そのとき、共鳴室の天井近くに埋め込まれた魔力感知装置が、
わずかに“緑の光”を点滅させていた。
それは、“共鳴成功”を示す信号だった。
共鳴室の外。
監視魔道具の並ぶ観測室では、ふたりの様子を見つめる視線があった。
「……見たか。あれが“共鳴”だ」
魔導技師のひとりが、データ板を見ながら呟いた。
淡い緑色の光が、ふたりの魔力の波形が重なった瞬間を示している。
「まさか、シュヴァルツの魔力が、あそこまで安定するとは……。
あの少女、完全に彼の“制動因子”になり得る」
「このまま実験を継続しろ。データが取れれば、利用価値はある。
必要なら、ピエス嬢にも“それなりの処遇”を与えよう」
「……彼女は、何も知らないんですよ?」
「だからこそ、いいんだよ。知らないまま、いてもらう方が」
その頃、共鳴室の中では、ようやく沈静化した空気のなか――
オレリーが、そっと腰を下ろしていた。
魔力の奔流が通り過ぎたあとの疲労が、静かに襲ってきていた。
目の前で座り込んだユーリネスは、まだ何かを言いたげだった。
けれど、その口は閉ざされたまま。
沈黙。けれど、不快ではない沈黙だった。
「……怒っても、よかったのに」
ふいにユーリネスが呟いた。
「俺がまた、お前を巻き込んで。凍らせかけたのに」
「……怒る理由が、ありません」
オレリーは、微笑む。
「あなたは、自分を止めようとしていた。
それに……わたしも、ここにいるって決めたのは、自分だから」
それは優しさであり、同時に“覚悟”でもあった。
ユーリネスは、視線を落とした。
彼女がいなければ、いまごろこの部屋は――いや、自分自身が壊れていたかもしれない。
(こんなふうに、誰かに救われる日が来るなんて――思ってもみなかった)
けれど、オレリーの胸の奥には、かすかな違和感が残っていた。
あの瞬間、部屋がわずかに光った。
どこかで何かが作動したような気配。
それは、彼女の魔力とは関係のない、冷たい“仕組まれた意志”だった。
(……この部屋、やっぱりただの観察室じゃない)
けれどその気づきは、まだ小さな種にすぎなかった。