第4話 夢を見た少年
「――ユーリネス、シュヴァルツ」
名前を呼ばれるたび、胸の奥が冷えるようだった。
それは昔からだ。
凍ったような声で呼ばれ、恐るような目で見られ、
その名がまるで呪いのように、彼の周囲に壁をつくっていた。
研究院の共鳴室――
光のない地下の部屋で、彼は今日も目を閉じていた。
横にいるのは、オレリー・ピエス。
何も訊かず、何も責めず、ただ静かにそこにいる少女。
最初は、その存在すら煩わしかった。
気を抜けば、彼女の無垢さに心を侵食されそうになる。
けれど、今は――
少しだけ、安心してしまう自分がいた。
「……どうして、そんなに静かなんだ」
壁にもたれながら、つぶやくように尋ねる。
オレリーは、ひとつ瞬きをして、笑った。
「あなたが騒がないから、です」
「……なるほど」
思わず口元が緩みそうになるのを、かろうじて堪えた。
(夢を見ていた気がする)
昨日の夜、短く眠った間に、久しぶりに“あの夢”を見た。
冷たい庭。夏なのに凍った芝生。
泣いている自分。去っていく両親。
気づけば、足元にひとりきり。
(……あの夢は、いつからか現実と区別がつかなくなっていた)
自分が感情を抱くことが怖い。
誰かに手を伸ばされることが、恐ろしい。
だから、氷で心を包んできた。
それなのに――
この少女は、ふわふわとした笑顔で、平然とそこにいる。
「……お前、怖くないのか? 本当に」
「怖いです。でも、あなたのことを怖がりすぎたら――あなたが、またひとりになる気がして」
その言葉に、胸がわずかに締めつけられた。
彼は、知ってしまったのだ。
自分がどれほど、“ひとりでいること”に慣れすぎているかを。
「ひとりになる気がして、って……そんなの、お前の気のせいだ」
ぼそりと吐き出した言葉に、オレリーは首をかしげた。
「じゃあ、本当は寂しくなんてないんですか?」
「……あるわけないだろ」
即答したのは、反射だった。
けれど、その声がほんの少しだけ、震えていたことを――彼自身が誰よりも知っていた。
「私は……ずっと、ひとりじゃなかったから、分かりません。
でも、ときに……ひとりで、真夜中の闇のような……
そんな目でいる人を見ます」
オレリーの声は、柔らかくて、でも真っ直ぐだった。
「あなたの目、もそうだった」
ユーリネスは、ぎゅっと奥歯を噛んだ。
心を見透かされるたび、呼吸が浅くなる気がする。
彼は、強い。
誰よりも魔力があり、誰よりも恐れられている。
それが、自分を守る唯一の方法だった。
でもこの少女は、そんな強さを――まるで、“包帯”のようにほどこうとしてくる。
「やめろ」
思わず声が出た。
鋭く、冷たく、距離を切るような音。
「お前が俺のことを気にかける理由なんて、どこにもない。
俺が誰かに守られるような存在だと思うな」
「……そんなつもりは」
即座に返されたその言葉に、彼は完全に黙り込んだ。
しん、とした空間に、ふたりの呼吸だけが響いている。
ユーリネスは立ち上がり、壁に背を預けたまま目を閉じた。
オレリーの方を、見ようとしなかった。
けれどその姿は、今にも崩れそうな氷の彫像のようで――
彼女には、ますます放っておけないものに思えた。
(この人は、自分の魔力だけじゃなく、過去のなにもかもを凍らせてる)
それを溶かす方法は、オレリーにもまだわからない。
でも、近くにいることで、ほんの少しだけ、その氷が緩む気がした。
その夜、ユーリネスはなかなか眠れなかった。
研究院の地下は、魔力の流れが静かすぎて落ち着かない。
かすかな気配すら響いてしまうほど、音がない。
隣で眠るオレリーの呼吸だけが、やけに鮮明に耳に残っていた。
(……どうして、あんなに無防備でいられる)
誰かを信じること。
誰かをそばに置くこと。
自分には、それがどうやるのかすら分からない。
けれど、彼女は何のためらいもなく、
ただそこにいて、ただ自分を見て、ただ微笑む。
まぶたを閉じた瞬間、夢が訪れた。
氷の庭。
夏の空。
泣いている小さな自分。
自分を抱こうとしない母と、目を逸らす父。
ほんの一言も言葉をかけられぬまま、去っていく背中。
「……こわい……」
夢の中で、幼い自分がつぶやいた。
そのとき、目の前に現れたのは――
「……大丈夫、あなたは、もうひとりじゃないよ」
ふわりとした髪。
琥珀色の瞳。
やさしい声で、まっすぐに自分を見てくる少女。
オレリー。
彼は、夢の中で初めて泣いた。
凍ったはずの心の奥に、なにかがにじみ始めていた。
ぱち、と目を開けると、すぐそばに彼女の寝顔があった。
規則正しい呼吸。落ち着いた表情。
彼の暴走に巻き込まれたというのに、警戒も恐怖もなかった。
ユーリネスは、小さく息を吐いた。
「……お前、変なやつだな」
声はかすれていたが、どこか安心した響きだった。
彼女の存在は、氷の結界の中に少しずつ、ぬくもりを落とし始めていた。
――そしてその氷が、溶け始めるとき。
世界は、確実に動き出す。