王子、婚約破棄でさえマウントが取れなくて残念でしたね。ああドーナツが美味しい
婚約破棄――それは貴族社会を大きく揺るがす行為だと、幼い頃から耳にしてきた。
公爵令嬢クリスティナ・メイフィールドも、かつては“もしそうなったら人生の終わり”くらいに考え、ひそかに恐れていた時期があった。
しかし、いま彼女は晩餐会の大広間で、まばゆいシャンデリアの光を背にした王子――フォルク・アシュレイ・ラグナロード殿下の前に立ちながら、まったく別の感慨を抱いている。
「――よって、クリスティナ・メイフィールド公爵令嬢との婚約は解消とする! もうお前とは結婚などできん!」
殿下の高らかな声が静まった大広間にこだまする。その音は、さながら芝居がかった演劇のワンシーンのようだった。いつもなら厳かな音楽が流れているはずの宮廷晩餐会は、今や微妙な沈黙に支配されている。
その中心で、発言の当事者であるクリスティナは、ドーナツをかじりながら落ち着き払っていた。
王族相手に無礼だと思われるかもしれないが、実のところ、このドーナツこそが彼女の精神を安定させる重要な要素だ。衣装が油で汚れないよう、気をつけながら揚げたての生地をほおばる。
――想像していたよりも柔らかくて軽い食感。口いっぱいに広がるバターの香りが美味で、甘さの中にほのかな塩味がアクセントになっている。やはり今夜は当たりだわ、と心の中で舌鼓を打つ。
一方、そんなクリスティナの姿を見て、フォルク王子の眉がピクリと吊り上がるのがわかる。いかにも「お前、真面目に聞いているのか?」と言いたげな表情だ。
が、クリスティナはまったく動じない。彼女には“そうしている理由”があった。
――これまで積もり積もったものが、とうとう形になっただけ。
そもそも彼女は、フォルク王子との婚約に対して、初めから強い憧れや恋心を抱いていたわけではなかった。ただ、王家と公爵家の間で取り決められた“政略”として、あるいは「お相手が王子様ならちょっとは素敵な物語があるかも」という淡い期待を持ち、従っていただけだ。
しかし、フォルクの“本性”を知るにつれ、その期待は見事に砕かれていった。
◇◇◇
最初にフォルク王子と対面したのは、クリスティナが十五歳の時。王宮の庭園で開かれた春の舞踏会で、大勢の貴族子女たちが集まる華やかな席だった。
高貴な身のこなし、黄金色の瞳、そして何より朗らかな笑顔に、クリスティナはそれなりに心をときめかせた。
――優しい王子様。そう思い込んでしまうには充分な第一印象だった。
だがその後、何度かの対面を重ねるうちに、フォルクはクリスティナにさりげなく厳しいしきたりを押し付けようとするようになった。
たとえば晩餐会の座席表をわざと前日夜に送り、急遽準備が間に合わないようにする。あるいは宮廷儀礼の進行手順を間違ったものだと教え、当日の場でクリスティナだけが変な動きをするよう仕向ける――等々。
当初のクリスティナは、「あれ? 王子殿下は忙しくて連絡が遅れただけかしら」「私が失礼なところを改めるよう、ご指導いただいているのかも」と、なるべく前向きに解釈しようとしていた。
しかし、ある晩、王宮の使用人からこっそり「殿下はわざと資料を間違えてお渡しになったらしい」と耳打ちされて、やっと理解する。
――なるほど、これは悪意のある嫌がらせなのだと。
それを知ってからは、フォルク王子のちょっとした会話の節々にも不自然さを感じ取るようになった。彼はしばしば「クリスティナは大人しそうに見えて意地が悪い」と口にしたり、周囲にもそれをほのめかしていた。
その頃から、クリスティナは彼に対する評価を急降下させる。政略的な事情で仕方なく仕えているにしても、“まさかここまで姑息なやり方をする人”だとは予想外だったのだ。
◇◇◇
「――公爵令嬢クリスティナとの婚約など、願い下げだ!」
そんなフォルクの一方的な断言に、大広間は静まり返っている。もっとも、すでに多くの者がその結末を暗に理解していた。
誰よりも王子と近いはずの取り巻きさえ、今ではフォルクの浅ましさにうんざりしているのだ。
目の前には王子が「これから新たな婚約者に迎える」と豪語している少女――パステラ・ロワゾー伯爵令嬢がいる。ピンク色のふんわりとしたドレスが華やかな彼女は、気の弱そうな瞳を王子へ向け、それとなく怯えていた。
クリスティナはドーナツを最後まで味わい尽くし、口元をハンカチで拭う。
――この会場、王族や貴族が集う晩餐会といえども、やはり美味しいものには心が和むわ。そんな余裕が生まれるのも、もはや王子への幻想が1ミリも残っていないからだろう。
彼女はふと、微笑を浮かべつつ口を開く。
「理由は私が冷酷で情のない女だから……というわけでしたね。ほかにも理由は何かありますか? たとえば、“急に相手を鞍替えしてしまうような王子にふさわしくない”とか、そういった理由など」
さらりと言い放った言葉に、王子は「むっ」と目を丸くする。
パステラが王子の腕を軽く引っ張り、何か言いたげなそぶりを見せるが、フォルクはそれを無視して続ける。
「そうだ! クリスティナ、お前は冷酷なだけじゃない。いちいち俺に口答えをしてくるし、公爵家を笠に着て我が物顔だ。こんな扱いづらい女、王族の妻には相応しくないんだ!」
どこからどう見ても“感情的な逆ギレ”にしか聞こえない台詞だが、王子はこれが正当な非難だと思い込んでいるらしい。
会場の貴族たちが、クスクスと苦笑を漏らす。誰も公然と笑い飛ばしたりはしないが、その空気感は十分に伝わってくる。
それでもフォルク王子は「自分が中心だ」という意識を変えられないのか、いかにも威厳を保とうとして大声で言い募る。
「何を笑っている! 俺は本気だぞ。お前たちは王族の意志に逆らう気か?」
「いえ、別に……。ただ、殿下がクリスティナ様をここまで“悪人”に仕立て上げようとしているのは、少々無理があるように見えますね」
ポツリとそんな声が聞こえたのは、会場の一角に立つある侯爵家の娘からだった。彼女はクリスティナと仲が良いわけでもないが、フォルクの暴言に堪えかねたのだろう。
フォルクの眉がぴくりと動き、険しい顔を向ける。
「おい、今のは誰だ……! 俺に逆らうのか?」
「逆らうつもりはありませんが、殿下。クリスティナ様は普段から慈善事業に熱心で、人への融資なども――」
「き、貴様。黙れ! お前に話しかけてなどいない!」
フォルクはあからさまに怒鳴り散らす。かろうじて王族としての尊厳を保とうと必死な様子が痛ましいが、すでに場の空気は彼にとって不利な方向へ進んでいた。
そして何より、パステラがずっと挙動不審に王子の隣でうずくまっているのが印象的だ。なにせ、フォルクが「新しい婚約者として紹介する!」と胸を張ったにもかかわらず、当の彼女はまるで歓迎して
いないように見えるからだ。
◇◇◇
やがて、パステラは意を決したように顔を上げ、王子の腕を掴んだ。
「で、殿下……すみません。本当は私、今日の晩餐会でクリスティナ様にお礼を言うつもりでした。どうしても無視できないことがあって……」
「やめろ、パステラ。今はそんな話をするな。お前は俺のことだけ考えていればいいんだ。わかったな?」
フォルクが彼女を制するように低い声を出す。けれど、その声色にはもはや説得力はなく、むしろ焦りが浮かんでいるようにクリスティナには見えた。
パステラは王子の言葉を無視し、恐る恐る言葉を続ける。
「……けれど、私はこれ以上黙っていられません。殿下に命じられたからといって、クリスティナ様を悪く言うわけには……私はそんなこと、もうできないです。実は、私の家が資金難で困っていたときに手を差し伸べてくださったのはクリスティナ様でした。王子ではありません」
そう――実はパステラは、困窮する自領を救うため、必死で助力を求めていたところ、偶然にもクリスティナと知り合い、無利子で融資を受けたのだ。
公爵令嬢であるクリスティナにとって、大金を動かすのはさほど難しいことではなかった。「困っているなら力になるわ」と手を差し伸べるのも、彼女からすれば当然のこと。
ところが、フォルクは自分が注目を集めたいがゆえに、パステラを“新しい婚約者”に仕立て、なおかつ“クリスティナは悪女”という風評を広めようとした。
パステラは最初、「王子に目をかけられるなら、家も安泰になるかもしれない」と思ったが、実際には王子にいいように利用されるだけの日々が続き、後ろめたい気持ちが積もっていたのだ。
「殿下は『クリスティナの悪い噂を広めるように協力しろ』と私に言いました。でも、私にはできませんでした。だって彼女は私を本当に助けてくれた恩人だから……」
「何を言っている、パステラ! 俺はそんなこと命じていないぞ。だいたいクリスティナは――」
「嘘です。私、殿下が伯爵家に直接来て『今後クリスティナを悪く言わないなら協力はしないぞ』と脅していらしたのを、全部聞きました」
パステラの言葉が爆弾のように会場へ落とされる。
突然の展開に、貴族たちからはざわざわと驚きの声が上がる。王子が脅しや策略で事を運ぼうとしていたとは、にわかに信じがたい――いや、実は薄々感づいていた者も少なくないのだが、それがこうして“公の場”で告げられた意味は大きい。
「殿下、私をどうにかしようとするなら、もう構いません。けれど、私はクリスティナ様を貶めるのには賛同できません。むしろ、この場でハッキリと申し上げます……クリスティナ様のほうが、よほど王族にふさわしいと思います!」
勢い余って言い切ったパステラは、はっと口を押える。王子の腕を離すと、気まずそうに視線を彷徨わせたが、もう言葉は覆せない。
「ま、待て、パステラ。お前……どこまで俺を陥れるつもりだ?」
「陥れる? そんな……私こそ、ずっと殿下にいいように利用されていただけです!」
まさかの言い争いに、晩餐会の出席者たちは完全に呆気にとられている。なかには口元を押さえて笑いを堪えている者も。
華麗で厳かな宴の場が、まるで茶番劇のように転じているのだから、やむを得ないかもしれない。
◇◇◇
クリスティナは静かに再びドーナツを手に取り、一口かじった。こんな場でドーナツを食べる行為は異例だが、もはや誰も咎めない。むしろ、ドーナツ片手に余裕の態度を保っている様子に、周囲は「彼女らしい」と思う人すらいる。
そのまま油断なく口を拭いてから、彼女はやっと口を開く。
「フォルク殿下。先ほど仰ったように、私との婚約を破棄されたいのでしたら、ぜひお願いしたいところです。私も、これ以上殿下の元で息苦しい思いをするのはまっぴらですし」
さらりと放たれたクリスティナの言葉に、フォルクは視線を震わせる。まさか、こうもあっさりと突き放されるとは思っていなかったのだろう。
内心でクリスティナはこう思う――“私は最初こそ王子という存在に少し夢を見たけれど、あなたは私の心を踏みにじった。私を貶めるデマを流すなど、姑息な手段まで使った。ならば、もう関わる理由など何もない”。
その気持ちが彼女の表情や口調にもあふれ出ている。
「くっ……き、貴様、俺に逆らって無事でいられると思うなよ? こんな場で王族に恥をかかせれば、公爵家だってただじゃ済むまい!」
「まあ、私の家がどうにかなる可能性もありますね。でも今更、殿下に何ができるのかしら? 私の悪評を広めるといっても、この通り、殿下自身のほうが悪名を集めてしまいましたし」
クリスティナが淡々と語る言葉に、フォルクは何も返せない。彼女の言うとおり、すでにこの晩餐会で暴かれた王子の本性は取り返しがつかないほど広まった。
もちろん、王子は王子だ。彼を完全に失脚させるには国王や大臣らの判断がいる。けれど、この場にいる貴族の多くが「フォルク殿下はどうしようもないな」と見限っているのは明白だ。
さらに言えば、このあと国王に報告が上がるのは間違いなく、フォルクがどんな叱責を受けるかは火を見るより明らかだろう。
「じゃ、冗談抜きで、婚約破棄ですね? それなら私といたしましても、晴れて自由の身になるというわけです。パステラさんはご愁傷さまですが……彼女にきちんと守ってもらえるといいですね、殿下」
そう言うと、クリスティナは新しく給仕が運んできたドーナツを一つ手に取る。パステラがそれを見つめ、「いいなあ」と視線を送るので、彼女はくすりと笑って差し出した。
「もしよければ、あなたもどうぞ。意外と油っこくなくて、お腹が空いたときにぴったりよ」
「あ、ありがとうございます。……私も、こうして公の場でドーナツを食べる日が来るなんて思いもしませんでしたけど」
パステラは控えめにそれを受け取り、一口かじる。ふわりと甘い香りが漂い、その美味しさにほころんだ顔を見せると、まるでホッとしたように笑った。
そんな二人を見たフォルクは、より苛立たしげに声を荒らげる。
「お前ら、ふざけるな……! 俺を抜きにして勝手に盛り上がりおって……!」
「盛り上がっているわけではないです。殿下が“私と婚約破棄したい”と言ったから、せっかくですし応じているだけ。ところでドーナツ、本当に美味しいですよ。殿下もお試しになれば、少しは気が晴れるかもしれません」
クリスティナのあくまで落ち着き払った口調に、フォルクは顔を真っ赤にして言葉を詰まらせる。まるで彼女のほうが“王族”の風格を持つようにさえ見える。
周囲では、貴族たちが遠巻きに好奇心を抱きながら、このやり取りを眺めている。王子への同情など、もはやほとんどない。むしろ「あそこまで浅慮だと、この国の未来が危うい」とささやき合う声すら聞こえてくる。
◇◇◇
ここで侯爵家の令嬢や男爵家の子息、さらには王宮の使用人たちが次々にフォルク王子が行ってきた“裏工作”を証言しはじめた。
- クリスティナへの招待状を意図的に届けないように指示した。
- 宮廷儀礼の情報を偽って教え、彼女に恥をかかせようとした。
- 彼女が不在の時に「クリスティナは人望がない」などと吹聴してまわった。
- 新しい婚約者候補であるパステラに対しても「クリスティナは悪女だ」と言い続け、彼女が味方だと思えないように誘導した。
それらが立て続けに表面化していくうちに、フォルク王子は為す術もなく唖然とするしかなかった。
どうやらパステラは、「あまりにも不自然な話が多い」と疑問に思い、裏で独自に調査を進めていたらしい。さらに、クリスティナの周辺からも証拠が出てきて、図らずしも“王子の策略”を裏付ける形となった。
「そ、そんな……俺は、俺はただ……!」
「どうなさったのです? 王族に恥をかかせるのはよくないと仰っていましたが、私にはもう、殿下ご自身が自分で恥をかいているようにしか見えませんわ」
クリスティナの言葉に、王子の目は絶望的に見開かれている。この分だと、王子が後ほど国王から烈火のごとく叱責を受けるのは確定だろう。
やがて“取り巻き”を自称していた貴族たちも一斉に彼との距離をとりはじめ、誰も助け船を出さない。ここにきて王子に肩入れするのはリスクしかないと判断したのだ。
「くっ……こんなことがあってたまるか……! お前、クリスティナ……俺と仲直りする気は――」
「仲直り? いいえ。私は殿下が王子だからという理由で当初は期待しましたが、もう愛想を尽かしました。そんな殿下と私が再び何かを結ぶことはありませんわ」
あくまで冷静な口調で引導を渡したクリスティナは、当初抱いていた淡いロマンスを自分の胸の奥底で弔うように、かすかに瞼を伏せる。
――さようなら、私の“ちょっとした夢”。悲しいと思うよりも、むしろ清々しさが勝っているのはなぜだろう。
◇◇◇
人々の視線の中、王子はついに反論もできず、やり場のない怒りに肩を震わせる。
少し離れた場所では、王宮の護衛隊長が国王への報告を行う準備を進めているようだ。いまやフォルク王子の将来は、国王や重臣たちの判断次第で大きく変わるかもしれない。廃嫡の話すら出てきても不思議ではない状況だ。
晩餐会の場も、もう“祝宴”という華やかさは失せ、重い空気だけが漂っている。とはいえ、一方のクリスティナはさっさと引き上げたい気持ちが満々だ。
ドーナツをほぼ平らげたパステラが、申し訳なさそうに頭を下げる。
「クリスティナ様、本当にごめんなさい……私、あまりに怖くて、あなたを悪く言うような嘘をつきそうになったこともありました。でももう、我慢しなくていいと思ったら、全部言わずにいられなくて」
「いいのよ。私がそれほど大した仕打ちをされたわけでもないし、あなたが勇気を出してくれたおかげでやっと解放されたわ」
パステラの瞳には薄っすらと涙が滲んでいる。まるで今までの恐怖から解放され、安心したとでもいうように。その表情を見て、クリスティナはほんの少しだけ心が温かくなる。
――この子もまた、私と同じように王子に幻滅した一人なのだろう。紛れもなく、フォルク王子の“被害者”の一人なのだ。
そう考えると、彼女に対して怒りを向ける気にはなれない。
クリスティナは微笑みながらパステラの手を軽く握ると、もう一度そっとドーナツを差し出す。
「まだ残っていますから、良かったらどうぞ。これで元気を出してね。……それにしても、宮廷シェフが一生懸命作ってくれているこの揚げドーナツ、なかなかクセになる味よね」
「はい……! こんなに美味しいものを緊張せずに味わえるのは、いつぶりでしょうか。ありがとうございます」
パステラは嬉しそうに微笑み、そのまま王子の側を離れるようにクリスティナと一緒に歩き出す。
王子は取り残されて、「ま、待てよ!」と声をかけようとするが、誰も振り向かない。貴族たちも、さっさとクリスティナたちに従って退場しようとしている。
その様子に、本来“主役”であるはずのフォルク王子が置き去りにされているのだ。最後にちらりと王子を見ると、すっかり呆然として動けなくなっているようだった。
晩餐会はそのまま“中断”という形で幕を下ろし、王家の関係者と重臣たちはフォルクの処遇について協議を進めることだろう。
もしかすると、フォルクには相応の処分が下るかもしれない。いや、むしろこのまま何事もなかったように処理されるはずがないという意見のほうが有力だ。
真実はどうであれ、クリスティナにはもう関係ない。念願の婚約解消が叶ったのだから、しがらみなど残るわけがないのだ。
◇◇◇
後日、クリスティナは改まった場で正式に「フォルク王子との婚約を解消する」旨を届け出た。
国王は渋い顔をしていたが、今回の騒動で王子の責任は明白だったため、仕方なく認める。むしろ、無理やり引き留めても公爵家との関係悪化を招くだけだという判断だったのだろう。
こうして、クリスティナは完全に自由の身となった。
以来、彼女は公爵家の領地の発展に力を注ぎつつ、変わらずドーナツを好物として食べる日々を送っている。王子との一件で偽りの噂もほぼ払拭され、むしろ「クリスティナは周囲に優しく、落ち着いた人柄だ」という評価が広まり、以前より評判が上がるくらいだ。
時折、パステラが領地の視察などで訪れてくるようになった。彼女は相変わらずピンク色のドレスを好むが、以前のように怯えた様子はなく、むしろ元気に新しい商売の話をしてくれる。
ドーナツを囲んで語り合う二人の姿は、一見すると親しい友人のようで、実際にそうなりつつあった。
王族の婚約者同士としては険悪な関係だったはずが、今ではほほえましい関係に落ち着いているのは皮肉なものかもしれない。
王子フォルクのその後について、クリスティナは特に詮索していないが、噂では国王から厳しい叱責を受け、しばらく王宮に軟禁状態で反省を促されているらしい。近いうちに廃嫡の話が浮上するかもしれない、という説もささやかれているが、それは王家内部の問題だ。
クリスティナには、もうどうでもよいことだった。
パステラが用意してくれたミルクを口に含みながら、クリスティナはさらにドーナツにかぶりつく。先の晩餐会であれほど苦い思いをさせられたはずなのに、どういうわけか今はこの味が甘く感じられる。まるで、未来がより明るく開けたようにさえ思えるのだ。
――これからは、自由を謳歌しながら新しい道を探せばいい。
思い返せば、王子に抱いていた淡い期待ももう吹き飛んだ。かといって深い悲しみはない。むしろ“心のつかえ”が取れたような清涼感すらある。
だからこそ、彼女は今日も変わらず笑顔でドーナツを頬張るのだろう。
小鳥のさえずる公爵家の中庭で、甘い香りを楽しむクリスティナ。彼女の物語は、ここで一つの区切りを迎えた――だが、その先にはきっともっと面白いことが待っているに違いない。
お読みいただきありがとうございました!
新作を連載中です!
https://ncode.syosetu.com/n3670ka/