【心渡し】其ノ4
彼女が黒目に一撃かますやいないや、部屋全体が揺れた。耳ではなく脳に直接響き渡るような嗤いが、部屋全体に反響する。笑い声と嗤い声がぶつかって跳ね返って飛び散って。眼球から湧き出る血涙が天井をつたって落ちてくる。あ、伝う感じで落ちてくるのね、という発見。
「調べることって物理的に殴ることなの?」
「いや、なんとなく殴ったら変わるかなと思って」
素敵な発想で涙が出ちゃいますね。(血)涙しているのは天井の方ですけど。
部屋の目という目、耳という耳が僕たちに集中する。こんなに注目されるのは小学生以来かなと危険信号の為か脳が機能不全を起こす。
そうして僕の脳はそれをミタ。
それは子供の一人称視点での映像だった。縁側に座り、食べかけのスイカに手を伸ばす。目の前には、風にそよぐ千日紅。隣に座るのは同じ年頃の女の子。笑いながら僕に何かを話しかけている。でも、その言葉は聞こえない。彼女の笑顔がどうしても暖かくて、何故だか少し悲しかった。
【ホワイトアウト】
家の中に響き渡る怒声。腹部に感じる温かい感触。刃物はまだ抜かれていない。まだやれる。目の前にいるその男相手に視線を固定する。にやにやした笑みを顔に張り付け、命が零れ落ちていく様子を見下ろしている男。テーブルの上にあった花瓶は粉々に砕け、一輪挿しが私の赤と混じる。この花を貰えたあの頃に戻れたら先にお前を殺してやるのに。
【オーバーラップ】
聞こえるはずのない音が私の耳に響く。俺は天井の梁から釣り下がり振り子運動に身を任せる。梁がきしむ音か?いや違う。俺の下半身から流れ出る排出物の音か。いつしかその音は蛇口からこぼれ落ちる水滴のリズムと混ざり合う。そして揺れる男の影法師と重なり合い部屋には調和が保たれる。
【暗転】
「好きだよ好きだよ好きだよ」
僕は彼女に囁き続ける。
「嫌いだよ嫌いだよ嫌いだよ」
彼女は埋められながら僕に呪詛を吐き続ける。
僕の想いは終ぞ彼女には届かなかったらしい。
「ギラ”イ”ギラ”イ”ギラ”イ”」
彼女の口からこぼれ出てくる言葉が僕にはひどく悲しかった。こんなにも愛しているのに、こんなにも想っているのに。彼女がこの状況を見逃すまいと見開いている右目にスコップの先をあてがい潰す。眼窩から流れる赤い涙は彼女の美しさをひときわ際立ててくれる素敵な装飾品となった。辺り一帯に響き渡る彼女の絶叫がただただ不快だった。
【フィルムロール】
口から鳩の頭を突き出している女。両目から鴉の頭を突き出している男。体中の至る所に小さな穴をあけられ、その穴という穴からアゲハチョウの幼虫のような芋虫が顔をのぞかせている少女。首がまるまるパンダの頭にすげ変わった老爺(?)。人間から隔絶された様々な人のカタチに取り囲まれ祝福される。彼らの体のパーツというパーツがばらけてそれぞれ接続される。そして僕の体もバラバラに、その瞬間左肩の一部が食いちぎられた。
激痛で目の前が赤に染まる。脂汗が滝のように汗腺から吹き出し、声にならない声が口から溢れ出す。これは彼女だ。クソが。
「気が付いたかい?全く簡単に飲まれちゃ駄目だよ。助けるこっちの身にもなってほしい」
口元に赤黒い液体の残りカスをつけながら笑みを浮かべる彼女を一瞥する。
「人の左肩を食いちぎって意識を戻すことを助けるとは言わないんだよ、遠見詩織」
「いやだなぁ、私だって好きで好きでたまらない人の肉を食うなんてことを好きでやっていると思うかい?」
「はい、思います」
この女はむしろ喜んで食べるタイプだ。自分が死ぬ原因は間違いなく彼女だと胸を張って言える。赤黒さの抜けない三日月形に歪んだ口元が視界に入るとその思いを強くせざるを得ない。
「てか、結構派手に噛みちぎってない?血が止まらないんだけど」
「君の中に入り込んだやつを吸い出す為もあったからな。少しばかりいつもより強かったかもしれないな。それと久しぶりに君の肉を食べたくなったのもある」
最後は聞こえないふりをしておいた。キモすぎる。
「僕の中に入り込まれたなんて気が付かなかったけど」
「まぁなかなか気づくのは難しいかもね。彼らは入り込むというより記憶を同化して接続させるみたいなやり方っぽいし」
「それってどういうこと?」
「君も見せられた?刷り込まれた?体験した?どれかはわからないけど味わっただろう。幾多の種類の記憶を」
さっきの様々な記憶の断片が脳裏にうっすら蘇る。しっかり覚えているわけではないが、なんとなく脳に粘りついてしまっていた記憶。
「その記憶はこの家、いや、この土地に染みついた記憶なんだよ。彼らはその記憶を他者に流し込んで、それをヨスガに人と同化するっていう戦略みたいだね」
部屋にある窓という窓に浮かび上がっている眼球が一斉に詩織の方に目線を向ける。様々な目の色を浮かべ視線を注いでいる眼球たちは、それだけでもう一種のアートみたいだった。
「よくわかってないんだけど、記憶をヨスガに人と同化するってどういうこと?」
「羽須美は人と人を分ける境界線ってなんだと思う?体?脳?心?」
彼女はTEDトークに出てくる教授のような立ち回りで僕に向かって語りかけてくる。こんな場所で哲学的議論なんてしたくないのだが。特に周りは怪異で満ち満ちている状態で。本当に勘弁してほしい。ここでこういう形而上的な話好きという趣味全開になった詩織は本当に厄介この上ない。僕の左肩の出血を慮ってほしい。
「そんなこと考えていたら日常生活に支障をきたすから考えたくない。僕は僕だし、詩織は詩織。これが厳然たる現実で、この事実以外に他人との境界なんてないじゃないか」
「現実的に考えると、自分と他者が今ここにいるという認識こそ、自分と他者を分ける物差しであれば問題ないっていうのはわかる。でも、私たちが今ここで相手にしているのは怪異という名の現実からはるかに距離のあるものだから、そういう現実から少し離れるような私の話も無駄にならないとは思うよ」
そうやって饒舌を振るう彼女に畳の床から生え出た無数の手と足が絡みつく。青白く所々経年劣化で皮膚が捲れてしまいくすんだ肉の見えるその手足は、異常事態のど真ん中で饒舌をかます彼女の側という側から生えそろっていた。そうやってカッコつけて魅せるように話し始めるから各方面から怪異の人気が集中してしまうんだ、と心の中で中指を(心の中重要)立てる。
「羽須美羽須美、可愛い彼女が怪異に捕まって食べられてしまいそうになっているから助けてくれない?」
さっきまでの話ぶりから急に頬を赤らめながらこっちに訴えかけてくる切り替えの速さを僕は見習いたいなと心から思う。やっぱり物事のONOFFを瞬時に切り替えられること、やることをしっかりできる人間は一般社会生活において必要なスキル(そもそもスキルというか初期能力??)だと僕は確信している所存です。そもそも怪異に捕まっているんじゃなくて、多分その状態は怪異が捕まっている状態だと思うんだ、うん。多分僕は間違っていない。この後の展開を予想しつつ僕は今日の夜も無事帰れたら肉ものは食えないな〜とか、魚でもいいけどここで生臭さがつかないといいな〜とか、思考を明後日の方向に飛ばす。それと肩の出血が本当に辛い。僕は普通の人間だから当然のことである(重要)。まぁ、ここからは議論と惨劇コミコミの愉快痛快ラブコメディーになってしまうはずだから。ラブはなるべく除外したい所存。
「縺ゅ≠縺薙>縺、荳贋ス榊ュ伜惠縺ョ繝舌こ繝「繝弱ム縲ゅ%繧薙↑縺ョ縺梧擂繧九↑繧薙※閨槭>縺ヲ縺ェ縺??ゆサ翫∪縺ァ縺ゥ縺薙↓縺?◆繧薙□縲」
この世から遥か遠く離れたところでしかお耳にかかれないような絶叫が僕の耳朶に触れる。空間全体に響き渡るその音源の中心に、ちゃんとしっかりと口から首筋にかけて赤黒く彩った液体を飾りつけた彼女が、腕と思わしき肉塊を骨付き肉よろしく咥えながら、鋭い目つきで僕をねめつけていた。
「君にとって大切で愛する人である私の、切実なピンチにも関わらず、君1人空想の世界へ逃避しているというのはとてもいただけないな」
「いや、ピンチに陥ったことなんてありましたっけ?」
海賊のような豪快さで咥えていた腕を吐き出しながら僕に不満をぶちまける彼女は、当然のように人外で、最高に美しくて、勘弁してほしいくらいにいつも通りだった。
「この状況で怪異に捉えられているヒロインはどう考えたってピンチだし、何より私と君の愛溢れる語りの途中だったじゃないか」
自他の境界問題についてのどこに愛があるのか。僕には理解しかねます。僕の怪我の具合を考えてください。
「僕の人生のヒロインはどこにいらっしゃいますか?いるなら今すぐに僕をここから連れ去ってほしいものです」
「では、ちゃんと責任を持ってこの場所から羽須美を連れ去ることにするとしようかしら」
ナニカイッテラッシャル。そんなこと言いつつ自分にまとわりつく腕や足を食べ進める詩織。うーん、実にシュール。
「でだなぁ、羽須美。自他を分ける境界線のことなんだがなぁ、私は」
「食べながら話さないでもらいたいものです。お行儀がお悪いでゴザイマスヨ」
「これは言うなれば前菜だし、食事を彩るもののひとつに会話というものは欠かせないと思うのだよ」
彼女の姿を見ているとため息しか出ないのは、絶対に僕だけではないはずだ。
そう今日も元気に彼女は怪異を喰らう。
人が腹を満たしエネルギー供給することが生存に必要不可欠であるように、彼女もまた怪異を喰らうことが生存の必須条件であるのだから。そして僕は血を流し続けるのである。