【心渡し】其ノ3
その家は宵闇の中で希薄と濃密が混在しているかのような曖昧な雰囲気を纏っていた。
ゴミ屋敷や廃屋とまではいかないが、その家の周りには季節の為か残骸となった種種様々な植物が纏わりついていて、一目で人が長い時間出入りすらしていないことがわかる佇まいになっている。ここまでの姿をしていれば、辺りは閑静な住宅街という様相をていしている分だけ、その家が浮き立つはず。しかし何故だかそこに存在するはずの違和感は雲散霧消してしまっていて、それが何故かはわからないけど、ここにあるのが当たり前であり、至極何事も問題ないという印象を抱かせる。
「実際に視てみると本当になんだかよくわからない家だな」
闇の中に白磁の肌が浮いている。詩織はいつの間にか空中闊歩仕様の完全防寒着を脱ぎ去り、オフショルダーのグレーのニットに黒いショルダースカートとヒールブーツというなんだか夜に溶けたような姿をしていた。一体防寒着はどこへ。
「寒くないの?」
「そこはまずは可愛いねだろ」
生憎だがそんな感性は出会ってからここまでですり減ってしまって最早原型をとどめていない。というかその格好でこの家に突撃するつもりなのか。この異様な雰囲気を纏う家におしゃれしていく女子は貴女だけだよ、詩織。
「それにしても詩織が視ても何もわからないの」
「…まぁ、うん、なんていうんだろう。難しいな…家の輪郭がひどく曖昧なんだよ。十重二十重と境界が連なっているというか、そもそも輪郭として体を成していないというか…」
相変わらずだが、今回は輪をかけて彼女の言っていることがさっぱりわからない。彼女と僕では視えている世界が違うので仕方のないことではあるんだけれど。でも、視ることにかけては他の追随を許さないはずの彼女でさえ、この家の本質が視えないというのはどういうことなんだろうか。
「詩織がそこまで掴めないなんて珍しいね。結構本格的にやばいやつ?」
「うーん、やばいとかまずいとかそういうものじゃない気もする。本当にわからないんだ。ただただ初めてのことでね。まぁ、取り敢えずわからないなら飛び込むしかないって、おばあちゃんも言ってたから、行くよ、羽須美」
「詩織のおばあちゃんなんて存在してないだろ。嘘をつくな、嘘を。そして僕を道連れにしながら家へと入ろうとするな。僕から見たら君が厄災だよ」
平然と僕を正真正銘得体の知れない家へと引っ張り込む彼女は、怪異に引き込む幽女のように思えてならない。厄災に巻き込んでくるモノは案外身近にいて、それは厄介にも大胆に何度も何度も引き込もうとしていくのである。
「何をごにょごにょ言ってるんだ。行かぬ後悔より行く後悔。というわけで行こう羽須美」
僕にとっては行かぬ後悔は存在しないわけで。こうして毎度毎度僕は災難の渦中へと吸い込まれていく。
これでもかと家の周辺に賑わっていた枯草の群れは、何故かドア周辺には全く見受けられず、無駄に歓迎されているような気持ちになった。鍵なんかかかっていることなどなく、あっさりと入れた家の中は、荒れ果てていた外観とは違い、逆に昨日まで人が住んでいたのではないかと思うくらい生活感溢れたものになっていた。玄関から右手に見える2階へ続く階段には、さっきまで人が使っていたであろう温度感があり、左手には談笑が聞こえてきそうな温かい色が漏れ出ているリビングへと続くドアがあった。そんな雰囲気と玄関に活けてあるアネモネの花に出迎えられ、僕は少し面食らっていた。でも、アネモネの香りも人の色も何故だか感じることはなかった。
「なんか外見と違って随分中はきれいなんだね」
「あ~なるほどな。そうかそうか。君にはそう視えているのか。これは厄介だな」
「え、どういうこと?」
詩織の言葉の意味がつかめない。
「私がこの家に踏み入れた瞬間にまず目に入ってきたのは、人が幾重にも重なり折り合いくっつき合い、人の形を成しているように見えて成していない化け物だよ。そして壁一面に張り巡らされた目という目、耳という耳、鼻という鼻。こんな歓迎を受けたのは初めてだよ」
え、僕たちはここで死ぬのかな。そんな詩織の嫌な想像力を無理やり掻き立てさせるような言葉が、死刑宣告のように鼓膜を通して脳に伝わり意味を処理したとき、アネモネの花が、ドアが、電球が、部屋全体がブレた。花の姿形が変容する。アネモネなのかヒナギクなのかユリなのか金木犀なのか紫陽花なのか、いや、これは人の顔だ。花瓶に無数の人の顔が活けてある。老若男女ありとあらゆる顔顔顔顔顔。まるでタイムラプスのようにものが変質していく。気持ち悪い光景なはずなのに何故だか素敵に思えてしまい感性のバグが忌々しい。そして思う、あ~やっぱり死ぬなこれ。
「羽須美ぃ、走るぞっ」
詩織の怒声と共に彼女が僕の手を引き全速力で駆けだす。彼女に半ば引きずられるような形で家の中へとばく進する。リビングに続くドアも2階へ続く階段も忽然と消失しており、様々な部屋が無限の回廊を形成するかの如く連なっている。寝室リビング子供部屋に応接室。囲炉裏のある土間や畳敷きの居間。時代も様式もバラバラな部屋を次々と駆けていく。まるで部屋の万華鏡だ。千変万化するその間取りは、空間の有限性などあざ笑うかのように僕たちを家の中に捉えて放さない。障子に目あり壁に耳あり。諺じゃなくてリアルな光景。嬌声哄笑叱責慟哭。様々な声という声も漏れなくついてくる、異界のハッピーセット。
「キリがないな」
詩織が走りながらつぶやく
「これどこまで行っても部屋部屋部屋だし、ずーっとわけわからない声も、聞こえてるし、そもそも、いきなり景色が、変わったりで、僕全くついていけてないんだけど」
僕は走りながら懸命に必死に、この状況を自分が受け入れられていないこと、理解できていないことを彼女に伝える。彼女なら何かしらの答えが視えているはずだと信じて。
「うーんそれが私もまだよくわかってないんだよ。こうやって走り回りながらもいろいろなものが視えているんだけど、この家が何なのか、この内部空間はなんなのか、ほぼわからないといっていいかな。ただ1つ、これは夢でも幻でもなく、本当にある、ということは確かっぽいといえるかも」
「そっか、中に入っても、正体が、視えずなんだね」
存在を疑うことは怪異を体験すると往々にあることな気がする。こういったところに迷い込んでしまうと尚更だ。そんな中で自分自身が今いる地点を確認し、自分の状態を確認することは大切だし、今はそれがわかっただけでもヨシか。
詩織の眼は万能ではない。でも、いつでも明快に怪異を見通してきた彼女の姿を見てきたので、彼女がいつも答えを出してくれると頼ってしまう僕を、神様がこの空間でも見れているのであれば、どうか許してほしいものである。
「大丈夫。どんなことがことがあっても羽須美だけは守るから安心して。君の部位のどこも全部私のものだから、渡すことはないよ、誰にも」
「いや、僕自身は僕が所有権を有しているので、そういうキモいことやめてもらえないでしょうか」
「つれないなぁ。1年以上も一緒にいるんだからこういう状況なら、愛の一言でもささやいてくれてもいいんだよ」
この家と彼女の頭の中は同じくらい異界であることは間違いない。ちなみにこの状況下で彼女に愛をささやける男は彼女以上の化け物じゃないと不可能だと思う。ところで、彼女が強すぎるくらいに握っている僕の手は、一体どちらに所有権があるのだろうか(微危機感)。
「でも、この家の中が、本当にあるって、なんか改めて認識すると、変な感じ。家の外観からして、あり得ない内側の広さがあるし。そう考えると、あるって言葉が、存在って言葉が、なんかすっごく難しい」
「存在なんてひどく曖昧なクセに何故だか重量感のしっかりある酷い言葉だと思うな。ただ今は哲学を考える時間じゃない。僕と君が確かにあるこの場所で生きて必至で走っている、今はそれだけが確実で大切なこと」
「そうだね。まぁ、取り敢えず、まだ、死んではいないっぽいなら、よかった。後、もう1つ、僕たちは、いつまで、こうやって、無限と続く、部屋の中を、走っていればいいの」
その瞬間、詩織が突如脚を止めた。僕は慣性の法則と走りつかれた体のおかげで壁に生えてる耳の穴にホールインワン一直線と思われたが、直前で詩織に手を引かれ胸元に引き戻された。女の子の柔らかさは彼女以外で感じたいものだ。
「それもそうだな、なんかマズいと思って咄嗟に走り出したけど、特に何も追ってきているわけではないもんな」
化け物から逃げてるとかそういうんじゃないのかい。僕は息も絶え絶えなので目で不満を訴えておく。届いたかどうかはわからない。きっと届いているが届いていない(いつも通り)。
「よし、少し色々調べて見よ―か」
彼女はいたずらな笑みをこちらに向け、嬉々とした声で天井から視線を送っている目をめがけて跳躍。そして人間の頭くらいある黒目にこれでもかと拳をお見舞いしていた。何故だか右目の奥が痛んだ。