【心渡し】其ノ2
彼女と手を取り合って雲一つない夜空を僕たちは歩く。決して比喩なんかではない。辺り一面に広がっている、少し前まで残っていた太陽の残滓をすっかり塗りつぶしきってしまった暗い風景の中を歩く。冬の空を吹き抜ける風は地上のものと比べて一段と冷たく、街中では少し浮いてしまう山登りでもするんじゃないかという服装で臨んできて正解だと改めて思う。
「ところで詩織、今日はどこに行くのさ。毎度毎度行先を教えてくれないけど、事前に行先を教えてくれていれば現地集合もできるし、こんな目立つ方法で向かう必要もなくなるし、僕が2時間以上も待つ必要もなくなるんじゃ…」
「そんな無粋なことを言うなんて君は本当にヒト科ヒト属ヒトの雄として風情も何も持ち合わせていないんだね」
「詩織相手にそんなものを持ち合わせて何になるのさ。人の風情を指摘する前に自分の遅刻をなんとかしなさいや」
「私の好感度を上げて日々の付き合いをもっと濃密なものにすることができるよ」
「遅刻のくだりに触れろよ。そして僕はそんなこと望んでいないから却下で」
彼女と交わされる普段通りの他愛もないであろうやり取りが、彼女の手から伝わってくるほんの少しの温かさと相まって、空中闊歩の非現実的な時間を歴然とした現実のものと僕に認識させてくれる。彼女との付き合いが少しずつ長くなっているが、この非現実感には一向に慣れることができずにいる。
「今日はね、海老原町にあるなんでもない一軒家さ」
「ちょっと遠いじゃん。絶対電車で行った方がよかったよ」
いくら最短距離で行ける空の上だからって、ここ片倉町から海老原町までは電車で4駅くらいの距離がある。それを歩くのは四季を通して引きこもり推奨の僕からしたら遠慮願いたかった。特にこのクッソ寒い季節であるならなおさらだ。
「本当に君はヒト科ヒト属ヒトの雄として風情も何も持ち合わせて…」
「同じ会話の流れはやめやめ」
「なんなんだ、君は。じゃあストレートに、『私は羽須美と一緒の時間を1分1秒でも長く過ごしたいから一緒に4駅分の距離になるが歩いてくれないか?もちろんデートっぽく待ち合わせもしたい』と言わないと伝わらないのか」
月の光のような色をする彼女の顔に微かな紅が差す。こういうところは可愛いんだけど、その他の欠点が多すぎて僕には手に負えない。僕と詩織が付き合うことは決してないだろう(願望)。
「そう思っているなら人を待たせることを本当にやめた方がいいと思います」
少しでも一緒にいたいのなら、まずはその遅刻癖を直すことから始めてはどうだろうか、というおそらく一生涯聞き入れてもらえないであろう僕からの提案。
「わが辞書に遅刻の文字なし」
世界一可愛いであろう笑顔で糞みたいな発言をなさる彼女はすがすがしいくらいの人間の屑である。どうしてだろうか。初めて手を握った時は、それはもうドキドキして、緊張して、この世で最上級の可愛さを、美しさを持つ女の子が隣にいて、周りの暗闇にありもしない星々が輝いて見えてしまっていたこともあった。でもここ1年で嫌というほどに味わわされてきた彼女の問題点は、そんな記憶を遥か彼方に追いやるくらい強烈で鮮烈なものだった。
紆余曲折あるにもかかわらず、人生における獣道を通って彼女をまこうとしたにもかかわらず、先行逃げ切りを試してみたにもかかわらず、どうやっても詩織から逃げ切ることはできなかった。故に彼女との付き合いは、時計の長短針を無理やり足並みそろえて動かしているが如く、長くなっていっている。そのせいで彼女との距離が嫌でも縮まるのは致し方ないことだし、時間の成り行きとして避けられないことでもあった。だからこうなってしまったのは、僕のせいではないし、ここのポジションが僕でなくても起こったことだから僕は決して騙されない。
「まぁ、もうなんでもいいや。で、そんなことは置いておいて、今から向かう一軒家、なんでもないってわけはないんでしょ。なにがあるのさ」
詩織のなんでもないは彼女にとってのなんでもないであり、僕たち一般人にとっては大いに迷惑があるということだ。そうに決まっている。そうじゃなかった試しがない。これは経験則。
「そんなことではない。私にとってあなたと一緒の時間を過ごすことはとてもとても大切なこと」
心なしか握りしめる手の力が強くなった気がした。
じゃあ遅刻をするなと、その性格を直せと(n回目)。
「わかったわかったから」
「私たちって傍から見たらどう見えるかな」
「冬の空にいるときの僕らは完全防寒着だし、さながらアイスクライマーって感じじゃない」
ここで詩織の冷たい視線に負けてはいけない。
「…まぁ、今はいいさ、そうやって逃げていても。いつかは、ね」
彼女の声は冬の夜空に吹く風に載せられて消えていく。その呟きは僕には届かなかった。
「じゃあ、その一軒家のことだけど、それが正直に言うと私にもいまいちちゃんと掴めていないんだよね」
「どういうこと?」
「何故だか取り壊されもせず、売りに出されもせず、かといって誰かが住んでいるわけでもない。そんな風にしてずっとそこにあるんだ。それが今から行く一軒家。誰もそこが元々なんだったのか、その家がいつ建てられたのか、誰の持ち物なのかわからないらしい」
どういうことだろう。そんなもの存在できるんだろうか。詳しくは知らないけど、役所とかに建物って登録しなきゃいけないんじゃなかったっけとか、じゃあこの辺一帯の地図にはどうやって記載されてるんだとか、色々な疑問が湧いて出てくる。
「そんなことありえるの?誰もが知っているようで何も知らない。それでも見過ごされているかのようにそこに存在できているって」
「そうだね、一種の認知的に空白地帯と言ってもいいかもしれない。そんな不可思議な家が今日のターゲットというわけさ」
「まぁ、でももし、それだけがその家についてわかっている情報の全てだったらめちゃくちゃ行くの嫌なんですけど」
「どうしてだい?羽須美が危なく感じる要素は何一つないじゃないか」
彼女の嫌な微笑みが月の光に照らされて余計に腹立たしく感じる。
「詩織がその程度の情報しか得られないってことは、それだけその家の力で現実を捻じ曲げているってことだろ?じゃあ、やばいじゃん、間違いなく」
彼女はさらに歪な微笑みを顔に張り付け、握りしめている手を強引に自分の手元に引き僕を無理やり抱きしめた。
「あああああ、羽須美可愛いよ。可愛いよ。可愛いよ。可愛いよ。そんな危ないところにでも嫌々私についてきてくれる。そんな羽須美がとっても可愛いよ。大丈夫僕がちゃーんと君を守ってあげるから。君の髪の毛一本、指一本たりとも奴らにあげないから。だから、羽須美は絶対私のそばを離れちゃだめだからねエ」
彼女は僕の頭を両手で抱きながら脳に刷り込ませるかのように耳元で呟き続ける。
お前が情報を事前まで伝えなかったんだろうが。そして帰っていいならもちろん帰りますが。ということは一切口に出してはいけない。そうそれも経験則。なので、無言で彼女の抱擁を受け入れる。まぁ、これは現場に着く前のイニシエーションみたいなものなので気にしてはいけない。というか気にしていたら、生きていけない(物理)。
そんなこんなで与太話を繰り返していると何故だか現場に着いている。これもまた経験則。