プロローグ
アイドル。
主に芸能や音楽の分野で、歌やダンスで多くの支持を集める者を呼ぶ。
華やかなスタイルと洗練されたパフォーマンスで歓声を浴びる姿は、まさに成功を体現した存在だ。
しかし、華やかな舞台とは裏腹に、彼らが生きる世界は脆く過酷である。
アイドルとして生計を立てられるのはほんの一握り。頂に到達する者だけが富と名声を手に入れる。
頂きに立ったとて限られた椅子を巡る争いは絶えず起こり、心休まることはない。
その笑顔の下には惜しまない努力が存在し、光を浴び続ける代わりに、私生活や本心を犠牲にすることも多い。
そして、全てのアイドルに全盛期は存在し、加齢と共に人気が陰るのが宿命だ。
その刹那を駆け抜ける儚くも美しい姿に、人々は魅了されるのかもしれない。
そんなアイドルの活動を応援し、支える者がいる。
その者達を、『ファン』と呼ぶ。
***
「キャー! 今日の叡智ビジュやばっ! 死んでまうわ!」
リビングに置かれたパソコンの前で、ペンライトとうちわを振りながら歓声を上げる。
二十五歳会社員彼氏なし実家暮らしの『私』は、仕事に忙殺される日々の中で推し活に潤いを見出だしていた。
今日はアイドルグループ『エスプリ』のアリーナツアー最終日で、不本意ながらオンラインコンサートでの参戦である。
「くそぅ、推し活の邪魔する仕事ってなんやねん。全通のはずやったのに」
「なーにブツクサ言うてんの」
洗いものを終えた母がテレビのリモコンを持ち上げた。
「ちょっ部屋で観てや!」
「パソコンで観てるならそっちが部屋行きや」
「ここのが広いねん!」
ダイニングテーブルの上には、デリバリーピザとコーラにお菓子、アクスタとぬいぐるみなどのグッズがところ狭しと広げられていた。
「もうアンコールやん。はい終わった終わった」
「まだ! 最後に重大発表があんねん! 頼むから邪魔せんといて!」
テコでも動かない娘に、母は悔し紛れにピザを一枚強奪して出ていった。
「さーて、『ドームツアー決定』かはたまた『ベストアルバムの発売』かぁ!?」
公式アカウントでは、今夜メンバーから重大発表があると告知されていた。
ドーム決定ならメンバーとファンの悲願が達成される。
胸の前でペンライトを握りしめた。
『えー、みなさんに報告があります!』
『なになに~?』
『なになに~? じゃねーだろw』
『僕達エスプリですがー、なんと!』
『なんと~!?』
『ドームツアーが決定しましたー!』
『イエーイ!』
「キターーーー!!」
『さらにさらに! 年内にベストアルバムが発売されまーす!』
「わ、や、両方きたこれどないしよ!?」
デビューから苦節6年。ドームに立つ夢がついに叶った。更にベストアルバムという楽しみを引っ提げてのツアーだ。
これまでの苦労を思い浮かべ、歓喜の涙を流した。
『えーそして、実はね、もうひとつ報告があります』
公式タオルに埋めていた顔を慌てて上げた。
「わ、なに? まだあるんか!?」
ヘラヘラとしまりのない顔で画面にかぶりつく。
『ドームツアーをもって僕達は……、解散します!』
メンバーの言葉に、二万人収容するアリーナと、十畳のリビングが同時に静まり返った。
「…………え?」
汗と涙と鼻水の付いたタオルが肩からするりと落ちる。
口角が痙攣し、しまりのない顔が強ばっていった。
『笑顔で言いたかった!』
『心配しないで!』
『俺らは前を向いてる!』
『エスプリ最終章がはっじまっるぜい!』
「勝手に進めんといてくれる!? こっちの情緒ガン無視でめっちゃ励ましてくるやん。えマジで解散する気!? は? 嘘やろぉぉぉぉウオエッ」
推しグループの解散発表という衝撃で、ピザをリバースしリビングは地獄と化したのであった。
***
翌日、気がつくと腰の痛くなる安い椅子に座り仕事をしていた。
「エスプリの解散トレンド乗ってたで」
仕事中、先輩の雑談にも手を止めず冷静に対応する。
「はい解散言うてもまだ公式から発表出てへんのですわこれメンバーが先走った可能性もあると思うんです個性強いグループやから衝突は何回かあって今回はそのエグいパターンかなって私だけやなくて考察垢プリッピーさんも言うてたんですけどまだ決まったわけちゃうし決めつけはアカンと思うんですよ新メンバー甲斐さん加入の可能性もゼロではないので」
「こりゃあかんわ!」
先輩はかなしい生き物でも見たかのように目頭を押さえ、机にそっと飴ちゃんを置いて去っていった。
アイドルに出会う前の私は、特に趣味もなく平凡な日々を過ごしていた。
それが社会人一年目でブラック企業に就職し、心身を壊して離職。同時に大学で出来た彼氏には浮気され、なぜかこちらがフラれた。
まさに人生どん底の中、出会ったのが『エスプリ』の叡智だった。
真っ暗な部屋で垂れ流していた動画から聞こえて来た歌声。目を向けた瞬間心奪われた。
傲慢で自信に満ちた性格。それに驕らない努力。立ちはだかる壁。エスプリのデビューまでの軌跡を描いたシリーズを見て、空が白んでいく布団の上で私は悟った。
これまでの苦労はこの人に出会うための茶番だったのだと。
エスプリを応援したい。
そのためには資金を稼がなくてはならない。
私は一念発起して社会復帰を果たした。
一生ファンで居続ける確信めいた運命を感じていた。
結局それは、昨日のコンサートで一方通行の想いでしかなかったと思い知った。
これまで積み重ねてきた想いや投資したお金が脆く崩れていく。
ああ、ファンとはこんなにもちっぽけな存在だったのかーー。
「家族や恋人ちゃうねんから当たり前や」
「お母ちゃんえぐるのやめてぇ……!」
気付くと家に帰っていて、夕飯を食べ終えたところだった。
「ファンごときがアイドルに何を求めてんねん。いてくれるだけでありがたいと思え」
「その存在自体がなくなるんやって!」
目の前のスマホ画面には、さきほど公式から届いた解散のお知らせが表示されていた。
「詰んだ……」
子供のように机に突っ伏して泣く。
終わった。全部終わりだ。
明日からどうやって生きていけばいい。とりあえず仕事行きたくない。毎日行きたくないけどこれは無理。
「グスッ、お母ちゃんが言うてた『推しは推せる時に推せ』の意味がようやっと分かった。もっとCDやグッズ買うとけばよかった。握手会も『叡智は見たいけど私は見せらんない』なんてアホなこと気にせんと行っとけばよかった。後悔だらけや!」
「運営からしたらあんたはええオタクやったと思うで? ただアイドルは不安定で寿命の短い生き物やねん。解散の理由も一つ二つやない。金落とせば解散を避けられたかはわからんぞ」
「だけどこんな、急に終わりがくるなんて思わんやん。好きすぎて憎しみすら湧いてくる……!」
「気持ちは分かる。けど闇落ちはアカン」
「むりー」
「推しだって人やから変わっていく。それってアイドル側だけやない。推す側のファンだって変わってくねん。相手にだけ変わらんといてーってのは都合のいい話や」
「うっ、うぅー」
「そのお互いが変わってく中で、「良い」って思える瞬間が重なるのって奇跡やねん。その奇跡の瞬間に全力で愛すのが、『推しは推せる時に推せ』やねん。感謝こそすれど恨むのはナシや」
「正論はいやや~私今めっちゃしんどいねんて!」
「まーな。だから今は泣いて嘆いてもええと思う。たださ、いつまでもウジウジすんのはアカンよ。だってあんた、このままなんもせんかったらもっと後悔するで」
「?」
「ずっと大好きで応援してたんやろ? ならエスプリのファンとして最後まで一緒に駆け抜けた方が絶対ええよ。年末までまだ時間はあるんやし。今こそ『推しは推せる時に推せ』や」
「!」
そうだった。
解散は決まったが、活動はまだ半年以上も残っている。
残りわずかな時間を、このまま泣いて過ごすわけにはいかなかった。
「それに叡智君、個人活動増えてきてるし、なんやったっけ」
「……映画の主演決まってん」
「それ! めっちゃすごいやん。グループ活動はなくなるけど、個人でこれからも芸能続けるんやろ? そしたらもっと大変なるで」
「……せやな。泣いてる暇ないな」
グループ活動はなくなるが、叡智が引退するわけではない。
荒れ地を駆け抜けた元ドルオタ戦士の母から慰められて、少し元気を取り戻した。
目の前で同じような境遇を乗り越えた先人がいるのは心強かった。
「お母ちゃんありがとう。少し元気出た」
「うむ。例には及ばんよ」
するとダイニングにエスプリの着信音が鳴った。
スマホの画面上には、大学からの友人であるマリの名が表示されていた。
通話ボタンをスライドし、急いで階段を上がる。
「おーマリどしたー……泣いてんの!?」
駆け上がった階段を数分後には駆け降りる。
「お母ちゃん、ちょっと出かけてくるわ」
「遅いから気を付けてなー」
マリに話があると呼び出された私は、パーカーを羽織って家を出た。
外は空気が重く、今にも雨が降り出しそうだ。
駅は飲み会帰りのサラリーマンで賑わっていた。
地下鉄に乗り込むと、吊り広告には大手事務所所属のアイドルARAREが、爽やかな笑みを向けて行き交う人々を見送っていた。
***
「に、妊娠!?」
ワンルーム三階建てのアパートに住む友人の部屋では、予想だにしない話が待っていた。
神妙な面持ちでクッションを抱きながら頷くマリ。
「あああんた、彼氏おったっけ?」
「おらん」
「ど、じゃ、誰の子よ!?」
仕事の愚痴か失恋話でも聞かされると思っていた私は、想像以上のヘビーな話に動揺する。
妊娠はおめでたいことだが、マリの反応を見るに祝福できる状況ではなさそうだ。
それにーー。
「なんやその顔。殴られたんか?」
化粧で隠してはいるが、よく見ると頬が青く腫れあがっている。
「私が悪いねん」
「暴力振るう男庇う必要ないで」
「ちゃうねん。あんたに……申し訳なくて……」
「私?」
この状況でマリが私に謝ることがあるだろうか。
考えを巡らせたが思い当たる節がない。
マリが口を引き結んでいる間に、考えを巡らせた。
「ハッ! 優介の子か!?」
「優介?」
「私の元カレ。浮気されて別れたやん。あいつマリにも手出したんかー!」
「いつの話してんねん」
「どこが優しい男や! おかんの腹に優しさ返してこい!」
「だーから優介ちゃうわ!」
「え? じゃあなんで私に悪い思てんの? お腹の子の父親と関係あるんちゃうの」
「……うん。この子は――」
観念したようにがっくりと肩を落としたマリが、ようやく父親の名前を口にした。
「叡智の子や」
「ん? 誰て?」
「叡智や。私……、あんたの推しと寝てん」
ワンルームの部屋は、外界の音を遮断して二人が黙ると無音になった。
「……ごめん」
「殴られて頭打ったんか」
「正気や」
「正気か。その、叡智って、エスプリの叡智? 小学校の跳び箱で骨折した英知君やなくて?」
「跳び箱で骨折した英知君やない」
「歯も折れてん」
「かわいそうやな」
推しが、友達と、寝た?
「いやいや意味わからん。天上人が地上に降りてくるわけないやろ」
「それが降りてきてん。それも地上やなくて地下や。私、地下アイドルやってん」
「待って。地下アイドルやってたのも初耳やし。情報量多すぎて混乱する」
「叡智映画出るやん? あれ撮影が関西なんよ」
「知ってる。無駄に街中歩いたわ」
「あいつ撮影終わりに女の子と遊んでん」
「急に生々しい!」
「プロデューサーの紹介で私もホテルで叡智に会って。そこで叡智と……寝た」
「うそやん! マジで言ってたんか!?」
「マジや。ごめん。あんたが推してるのは知ってたけど、実物かっこよすぎてん」
「かっこいいのはわかるけども……! なんやその芸能界の闇みたいなチャラい遊びは。なにしてんねん叡智アホちゃう!?」
推しに対する怒りが沸々と込み上げる。
友人と推しに裏切られた悲しみもそうだが、二人の無責任な行動にはもっと腹が立った。
「あんたも地下アイドルのくせしてなにしてん!」
「売れてへんから固定ファンはキモオジ10人だけや」
「おい……10人でも10万人でもファンはファンや。自分のファン『キモオジ』言うなボケ!」
「……ごめんなさい」
「ぐあー! 叡智も叡智や! 恋人作らん言うてたくせにミジンコアイドルに手出すとか最悪やん!」
「ミジンコて」
「うちらには『アイドルとして大事な時期やから応援頼む余所見すんなよ」とかほざいといて自分は子作りしてたってこと!? は!? なんやムカついてきたで。どこが叡智やどアホやないかい! おかんの腹に知恵と道理返してこいこのクソボケカスがぁあ!!」
「ちょっ、落ち着け、音漏れる」
「これのどこが落ち着けるんじゃ、ああん!?」
「そやな。ごめんな」
「ハァア? なーんであんたが謝るんですかぁ~?」
「いや、私のせいでもあるやんか」
「もう彼女気取りかこの横取り女がぁ!」
「彼女ちゃう! 遊ばれたんや!」
「自業自得や!」
「! 分かっとるわ。う、ううー……」
「おおん!? 泣くのか!? 泣いたら許されると思うなよ! 泣きたいのはこっちや!」
「うわーん!」
「負けるか! ヴォエエエエエエ!!!」
マリの泣き声に被せる様に負けじと泣いた。というか叫んだ。アパートの住人から苦情が入ってもざまーみろだ。
「はー……。そんで? 妊娠したのは叡智の子やんな?」
二人で一通り泣いて箱ティッシュを開けた頃には、頭がすっきりしていた。
「うん……」
グスン、とマリは小さくなってまだ少し泣いていた。
マリのお腹に視線を落とす。
ここに子供がいるのか。すごいな。
「子供のこと、叡智に言うたん?」
「言うた。堕ろせって」
「ホンマもんのクズやないか! あーも一気に熱が冷めた。目も覚めましたわ」
「ほんとごめん……」
「そんで? あんたはどうすんの。産むんか?」
「産みたい」
「……ちゃんと考えた? 叡智が反対してるってことは産んでもシングルの可能性あるんやで?」
「考えた。叡智と一緒になろうとは思ってへん。一人でもこの子産んで育てるって、覚悟決めたんや」
マリの言葉と瞳には力強さが宿っていた。
「でも養育費と生活費はきちんともらう」
「当たり前や。もしかしてエスプリの解散理由てそれ?」
「ちゃうよ。妊娠は事務所も知らんはずや。実はこの前週刊誌の記者から接触あってん」
「アカーン!」
「叡智の女遊びを追ってたみたい。妊娠はバレてへんけど姿消したら怪しまれるかな」
マリは地下アイドルとバイトを辞め、数日中にアパートを引き払って実家暮らしを決めるそうだ。相手が相手なだけに、両親にも父親の素性は話していないという。
「父親のこと、誰にも言わんと産むのが怖かってん。誰かに知っててほしかったんや」
「それで叡智のファン選ぶとか性格悪すぎ」
「ごめん。性格悪いから口固いマトモな友達、あんたしかおらへんかった」
「まぁ、子供に罪はないしな。ここまできたら応援したるわ。いっぱい愛したれよ! 」
「……うん……」
「もー泣くなて! ティッシュないんやから。ストックくらい置いとけや」
「ごべんー」
お腹を大事そうに抱えて泣きじゃくるマリ。
仕方ないと、立ち上がり飲み物とティッシュを買いに部屋を出た。
外は小雨が降っていた。
傘をさすほどではないのでパーカーのフードを目深に被り、向かいのコンビニに小走りで向かった。
少しお高い箱ティッシュと、マリには温かいココアを買ってビニール袋に入れる。
自分用のドリップコーヒーは、出来立てが完成するまでのわずかな数分間だけ、肩の力を抜いて物思いに耽ることが出来た。
鼻腔をかすめるコーヒーの香りに慰められながら、再び雨に当たる。
「コンビニ近いと便利やな~」
濡れた階段をパシャパシャと音を立てながら上る。
三階に辿り着くと、前から水溜まりを踏む音がした。
フードの隙間から男性用のスニーカーが見えた。アパートの住人だろうか。
階段を塞いでいたので手刷り側にずれてやり過ごした。
ところが、せっかく道を譲ったというのに住人が動こうとしない。それどころか、男の手が延びて左肩を掴まれた。
「は!?」
驚いて顔を上げた瞬間、お腹に強い衝撃が加わる。
「ぐっ!」
下腹部に鈍痛を感じてくぐもった声が出た。
痛みに耐える暇もなく、次の瞬間には雨粒が頬を叩いていた。
なぜか、私は仰向けになって空を飛んでいた。
なんの前触れもなく、スニーカーの男に腹を殴られた後、階段から思い切り突き飛ばされたのだ。
落下していく中で、一瞬男の顔が垣間見れた。
「えい、ち――?」
2階の踊場で柵に首を強打する。枝が折れるような音の後、バウンドして階段を転げ落ちた。
水溜まりと泥の上にうつ伏せになって着地する。
衝撃で脳が揺れたのか視界は霞んでいた。経験した事のない痛みが首を襲い、全身へと広がっていく。
「……マリ、ごめんな」
マリ? 私マリじゃないです。
もしかして勘違いで突き落とされたの?
「ざ、けん……」
私あんたに給料の半分注ぎ込んだんだけど? 来月の支払いどうしてくれんの。
しかし叡智はバシャバシャと音を立ててその場から逃げ去った。
「ーーっ」
私は懸命に身体を動かし、ポケットに入ったスマホを取り出した。かろうじて動いた指で、誰でもいいからと発信ボタンを押した。
ガンガンズキズキドクドクと、体中でライブハウス並みの大音量が響いていた。
これ以上はもう、指一本動かすことも出来ない。
雨も止み、静かになった。
視界も暗くなっていく。
コーヒーの香り……。
「アイドルなんて……もう、懲り懲りや……」
この怪我が治ったなら、アイドルとは無縁の人生を送る。
そう、心に誓って意識を手放した。
しかしその目は二度と開くことはなかった。