第六話
「……まずい」
五限目の授業が始まり、静まり返った教室の中、俺は静かに呟いた。
カバンに入れておいたはずの数学の教科書が入っていないのだ。
五限目はお昼休みの後。
普通ならそのうちに準備をしておくものなのだが、その時間をすべて睡眠に費やしてしまった俺にはそんな暇がなかった。
……まあ別にいいか。一時間くらいサボっても大丈夫だろう。
諦めて再び熟睡しようとすると、数学の教員でもあり、担任でもある花園から声がかかった。
「あれ? 谷上、教科書ないのかー?」
……バレちまった。何でだよ、忘れてもいつも何も言わないだろ。
何で今日に限って……と、そこで自身の席が『デッドシート』であることを思い出す。
「ないなら隣の席のやつに見せてもらえー」
「……」
隣を見ると、花野井さんはものすごく嫌そうに顔を歪めていた。
これで見せてください、などと言える肝の据わった者がいれば名乗り出てほしい。
ちなみに俺にそんな度胸はない。
……やはり今日はサボらせてもらおう。
隣に見せてもらうことを諦め、机に伏せようとすると___ゴンッ。
俺の机が振動した。
驚いて顔を上げてみて、俺の机に花野井さんの机がくっついていることに気がつく。
「……えぇと」
「教科書、忘れたんでしょう? 言ってくれれば見せてあげるわよ」
「……すまん、ありがと」
素直にお礼を言い、一つの教科書を二人で眺める。
尤も、俺の視線はといえば花野井さんの横顔へと注がれていたのだが。
近くには花野井さんがいて、継続的に甘い香りを漂わせていた。
「……谷上くん。鼻息がうるさいのだけど」
「そ、そんなにうるさくないだろ……!」
「いえ、ね。耳元でクンカクンカと聞こえたものだから」
「そ、そんなに激しく嗅いでないし……!? そんなに激しく嗅いでないし……!?」
「……嗅いでいたことは認めるのね。あと聞こえてるから二回言わなくても大丈夫よ」
周囲の人間に聞こえないよう、ヒソヒソと話す俺。
他人に気を使わないがモットーの彼女らしく、花野井さんの声のボリュームはいつも通りだった。
そんなことよりも、だ。
よくよく考えれば、これはチャンスなんじゃないだろうか。
これからこうして密着して授業を受ける機会などあるだろうか___いや、ない!
これまで距離をなんとか縮めようとして失敗してきた。
今日こそ、ここで花野井さんと距離を詰めて見せる……!
そう決め込むのと同時。
花野井さんの手が消しゴムにあたり、そのままコロコロと地面を転がっていった。
チャンスだ、と。
ここで颯爽と消しゴムを拾ってあげれば、多少なりとも俺のことを意識してくれるはず。
俺は消しゴムを拾い上げようとし___同じく拾おうとしていた花野井さんの手に当たってしまった。
「ぶっヒャア!?……げえっほげほ!」
「……びっくりした。どうしたの?」
「……ゲフンゲフン。いや、気にしないでくれ。ちょっと発狂したい気分になっただけだ」
「……そう(引)」
引かれている……!
くそっ……カッコ悪いところを見せてしまった。
惚れさせるなどと息巻いておいて……なんてザマだ。
これからの行動で挽回せねば……!
それから俺の醜い個人競技は幕を開けた。
「花野井さん、教科書俺がめくるよ___あれ、やぶれちゃった……」
「花野井さん、消しゴムなら俺のを使って___あれ、コレお昼に食べ損ねたかまぼこだ……」
「花野井さん、そこの問題はこうやってやるんだよ___あれ、ここからどうやるんだっけ……」
そんなことが何度か繰り返された頃。
「谷上くん、いい加減にしてもらえるかしら……」
「……すまん」
俺は椅子の上で正座させられていた。
俺だってしたくてしてるわけじゃない。
「いや、でもな、花野井さん……」
「なにかしら……?」
「……なんでもありません」
花野井さんの怖すぎる視線に圧倒され、俺は言い訳すら口にすることができない。
ただ、今回はどう考えても俺が悪い。あまりにもやらかしすぎだ。
やってしまったことに対して落ち込んでいる俺を見て、花野井さんは疲れたようにため息を吐いた。
「……まあ、私のために何かしてくれようとしてたのはわかってるから。一応お礼は言っておくわ。……ありがとう」
「……!」
その一言だけで、全てが報われたような気がしてしまう。
俺がしていたのは、彼女からしてみれば単なる迷惑行為でしかない。
それなのにここまで言ってくれるなんて……。
「あの、俺も……」
「谷上ー授業中だー静かにしろー」
しかし、俺の言葉は先生によって遮られてしまった。
チッ、と心の中で舌打ちをする。
……まあいい、まあいいさ。今のところ、俺と花野井さんの中は順調だ。
俺は花野井さんに向き直り、中断されてしまった言葉の続きを紡ごうとし。
「……あの、花野井さ……」
花野井さんは前を向いてノートを取っていた。
「今はノートを取ってるから話しかけるな」
そんな心情が目に見えてわかる。
「……………」
俺は恋路を邪魔した担任教師である花園を睨みつけた。
よし、こいつはあとで呪っておこう。