水色の客人を追う
屋敷に帰還したおれを出迎えてくれた使用人たちは、口々に獣人を連れ帰ってきたことを喜んでくれた。
口説き中だ、といえば微笑ましいとでも言いたげな視線を寄越されたのはちょっと恥ずかしかったけれど。
彼女は屋敷の至るところに祀られている神具を眺めている。
興味があるのか聞いてみたが、きょとんとした瞳でこちらを見返してきただけだった。
まるで「あれがそんなに大事なものなの?」とでも言いたそうだ。
彼女には理解できないかも知れないけれど、あれはカエルレウム家には無くてはならないものたちだ。
代々水神様を祀り敬ってきたおれたち一族の大切な歴史。
まぁ、代々祀っているのはカラの神なんだけど……。
それでも水神を祀る一族として成り立っているのは、水の精霊からの加護を多く得ている歴史があるからだ。
(その加護さえもおれは受けられていないんだけど……)
「前夜祭に間に合ってようございました」
「そうだね。討伐が長引いちゃってどうなることかと思ったけど、なんとか間に合ってよかった」
執務室に入り、机に積まれた書類に目を通していると執事長のジャンがやってきた。
本邸のことは全て任せっきりにしていて申し訳無いとは思っているが、正直有り難い。
「エルヴィス様がいつお帰りになってもいいように、屋敷の者総出で準備したかいがありました」
「準備はジャンがしっかりとやってくれるって思ってたから、心配はしてなかったよ」
代替わりしてまだ日が浅いおれは、実のところあまり領地経営に深く着手できてはいない。
父がまだ健在なこともあり、実質領地を切り盛りしているのは父であり、父の腹心であるこのジャンだ。
領地経営は代理を立てることができるが、この祭事だけは当主であるおれが必ず行わなければならない仕事だ。
(初めてだから、しっかりしなきゃ……)
ジャンに渡された資料に目を通しつつ、要所に書き込んでいく。
予め覚えなければならない祝詞は叩き込んできたけれど、随所の所作なんかは先代の見よう見まねだ。
本来なら、契約している獣人や祝福を与えてくれた精霊が補佐してくれるのだけど、おれにはどちらも居ないから……。
「――外が騒がしいようですが……」
「なにかあったのかな……?」
屋敷の少し奥まった場所にあるこの執務室にも聞こえてくるくらい、外が騒がしくなってきている。
「エルヴィス様! 申し訳ございません、お客様が……!」
「えっ!? どこっ!?」
「神域の方へ行ってしまわれて!」
いつも冷静で物静かなエイダが息を切らしておれの執務室へ駆け込んできた。
何ごとかと問えば予想外の言葉をかけられ絶句するも、一刻を争う事態だと己を鼓舞して部屋を飛び出す。
祀る神不在のこの屋敷だけど、主祭神が降りている社と同様に神域が存在する。
普段はそう簡単に出入りできない空間だけど、今日は前夜祭。
今日と明日の二日間は神域との境界が曖昧になるため、注意しなければいけなかったのに……!
神域は文字通り神の領域だ。何かの拍子に入れたとしても、出口を見つけられず命尽きるまで彷徨い歩く可能性も無くはない。
カエルレウム家の神域で安全に立ち回れるのは当主であるおれと、前当主と契約を交わしているトーチだけ。
そのトーチだって獣人の本能が引き出され、自制が効かなくなってしまうような危険な場所だ。
契約もしていない野良の獣人が迷い込んだらどうなってしまうかなんて想像もしたくない。
「あの子はどこ!? どこから神域にはいったのっ!?」
「エルヴィス様!」
「甲乙の方です!」
トーチの言葉に従い甲乙の門を意識する。
トーチは入り口から入るだろうから、おれは途中から入るのがよさそうだ。
彼女が深みにはまる前に挟み撃ちできれば消耗は最小限だろう。
神域は神の領域だから、基本的に神または神に属するモノしか侵入を許されていない。
満ちる神気は許可無き者には身体を蝕む毒となる。
最悪、神域に踏み込んだものの存在自体が消滅してしまう可能性もある。
「トーチ! 退けっ!」
神域へと続く門を抜け、トーチの気配を感じて近付けば《狩り》の本能を剥き出しにしてあの子に迫るトーチの姿。
反射的に命令すると、即座に応じるトーチに安堵する。
ここは生き物を狂わせるから、早いとこ退散しないと。
おれと彼女との距離はおおよそ十歩。
ゆっくり近付けば警戒される距離でもないだろう。
怖がらせないように、ゆっくり、慎重に……。
なにか怖いことがあったのか、と問うても首を横に振り、嫌なことがあったのか聞いても同じ反応。
嫌われてはいないと思うのだが、一言も口を開いてくれないのは結局のところ避けられているのだろうか。
怖がらせないようにゆっくりと一歩踏み出せば、息を詰めながら半歩下がった彼女の後ろでトーチが手に鎖を構える姿が見えた。
「トーチ」
「――すみません」
諫める声かけをすると、すんなり腕を降ろしたが、トーチはそろそろ神域で活動する限界が近いのかもしれない。
本能に支配される前にここから戻さなければ。
トーチに向けた表情はそのまま彼女も見えるわけで。わずかに強張った彼女に意識して柔らかな笑みを浮かべる。
「先に夕食でも食べようか。湯浴みはその後でもいいし」
おれの誘いに少し困った表情をしていた彼女が、突然遠くを見詰めて動かなくなった。
彼女との距離はあと三歩。
もう少しで手が届く。
「どうし――っ!? え、っちょ!?」
「っ! エルヴィス様! いけません!」
「待って!!」
突如駆け出した彼女をすんでの所で取り逃がす。
真横を通っていったのに全く反応できなかった。
伸ばした手の先には小さくなっていく彼女の背中。
神域のさらなる深みへ駆ける彼女の背を追い走る。
トーチの制止は聞こえているけれど、今はそんなこと聞いてられない。
「――居たっ! って、あそこは!」
やっと彼女に追いついたのは神域の最深部に近い場所。
過去に一度だけ、父に連れられて来た場所だ。
「ダメだっ! 戻って! ねぇってば! おれの声、聞こえてるっ!?」
さっきまではこちらの声に反応を見せていた彼女が、今はおれの言葉になんの反応も示さない。
こちらは彼女の足音まで聞き取れるのだから、音が届いていないなんてことは無いだろう。
ゆっくりと歩みを進める彼女に追いつけと、精一杯駆ける。彼女は何かに注意を奪われているようだから、おれが駈け寄ってもきっとすぐには気がつかないだろう。
(早くあそこから離さないと……!)
昔、一度だけここを訪れたとき、あの囲いの下に封印されている神の名を聞いた。
『神の宿らぬこの社は、元々はあの御神を祀っていたのかもしれないね』と寂しそうに語った父の表情は今でも鮮明に思い出すことができる。
なぜ神が封印されなければいけなかったのか。なぜこの社を護るおれたち一族はなにも知らないのか、聞きたいことはたくさんあったけれど父が教えてくれたのは一つだけ。
『今はもう、世の中に忘れ去られてしまった神だけれど、わたしたち直系だけには口伝でのみ、語ることを許されている。名すら忘れ去られた神は、神で居られなくなってしまうから』
「ねぇ、だめ、だよ……。だってそこは瀬織津――っ!? え! 嘘っ!?」
その場所に眠るとされる神の名を無意識に口に出そうとしたとき、進む彼女が突然うずくまる。
慌てて手を伸ばすが、支えを失った彼女の身体は自然の摂理に従って落ちていく。
だめ! 待って! やっと、やっと出逢えたおれだけのひと!!
「待ってて! すぐにっ!」
「エルヴィス様っ!? なにをっ――!!」
トーチの声が背後から追いかけてくる。
カエルレウムの当主ならば、踏み留まるべきだ。
そう、頭ではわかっていても身体は彼女を追って落ちていく。
落ちきった水中世界で、おれは無数の星を視た。
井戸から差し込む光が梯子のように輝き、澄み渡る群青色の世界を照らし出す。
太陽光に負けじと輝くあの小さな星たちはいったい何なのだろう。
全身が凍えるように冷たくなっていくはずなのに、こうも柔らかな暖かさを感じるのは……
あぁ、やっぱり、綺麗だ……
薄れゆく意識が闇に溶ける間際、群青を優雅に泳ぐ気高くも美しい龍を視た。
……気がする。
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