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第16話「誰も知らない大偉業」

「高貴なる風の精霊王よ。今一度、私に力を貸してくれ……!」


 深碧に輝く巨大な魔法陣が現れ、空気が震える。同時に金切り声のような風が噴き出して、落下する飛空艇の落下を緩やかにした。ヒルデガルドは自身の身体を浮かせるだけの魔力放出を保ちつつ、魔法陣を生成してありったけの魔力を注ぎ込んだ最上級の風魔法を使うという荒業を行いながら、遥か遠い地上までをゆっくり、ゆっくり落ちていく。


()ってくれ、頼む!」


 全身が凍えるような寒さに襲われる。視界が霞む。脱力感に苛まれる。やがてやってきた全身を貫くような痛みに顔を歪ませながら、それでも必死に耐え抜く。とても人間に成せる業ではない。まさしく大偉業。世界を救った二人の英雄、その片割れであるヒルデガルド・イェンネマンの実力は、誰もが認める最高峰だ。


 千人以上を収容する巨大な飛空艇を支えるほどの風を起こすこと自体が常軌を逸している。にも関わらず、それをどこまで落ちれば辿り着けるか分からない地上まで安全に降ろそうと言うのだ。普通の人間にはまず不可能、もし可能だったとして、間違いなく命を落とすことになる。不老不死の肉体には感謝するほかない。


「……フッ。これはだめかもな」


 泣き言が出た。思わず笑ってしまう。


 地上まではまだ遠い。あと少し、もう少しだけでも耐えられれば違ったかもしれない。だが、まだ遠い。今、風が消えてしまえば確実に飛空艇は墜落して大爆発を引き起こし、周囲を更地に変える。乗っている人々も無事では済まないし、不死身の肉体とはいえヒルデガルド自身もただでは済まないだろう。消し炭になってしまえば霊薬の効果など意味もない話だ。


 しかし、分かる。魔力が足りない。誰も死なせたくないと覚悟を決めて臨んだことも、結局は実力不足。アバドンとの戦いで想像以上の魔力の消耗を余儀なくされたおかげで、あと一歩が届かなかった。もう終わりだ、と諦めそうになった。


 今日だけでどれだけの人間が犠牲になっただろう。冒険者たちが必死に繋いでくれた命を、どうして生かすことができないのだろう。全員を救いたいと願うのは傲慢なのか。私には、こんなちっぽけな偉業さえ成せないのか。大賢者と呼ばれておきながら、なぜ、こんなにも無力なのだ。何が大賢者だ、馬鹿馬鹿しい。──彼女の中には、怒りと悔しさばかりが込みあげた。


「諦めちゃだめだよ、ヒルデガルド」


 そっと背に触れる温かな手。溢れる翡翠の輝きがぼやけた視界に映った。


「あなたは独りじゃない。そうだろ、お師匠様」


「……馬鹿弟子め。待ってろと言ったのに戻ってくるとはな」


 凄まじい量の魔力がヒルデガルドの身体に蓄えられていく。凍えて千切れそうだった手足には温もりが戻ってくる。竜翡翠の杖を通じて、イーリスは自身の魔力のありったけをヒルデガルドに注ぐ。これが弟子である自分の役目だ、と。


「この大偉業を手伝えるのなら、ボクの人生に悔いはない。たとえ魔力が枯渇して死んだとしても、あなたの役に立てるならそれでいい」


「ハ、馬鹿を言うな。死ぬものか。必ず生きるんだ、仲間のために」


 再び魔法陣から強烈な風が噴く。これが最後。何がなんでも飛空艇を降ろさなくてはならない。誰もが知ることのない大偉業を、二人で成すのだ。ヒルデガルドにしがみつき、魔力を注ぐだけでせいいっぱいのイーリスは、目を瞑って必死に祈った。これが自分の役割ならば死んでも構わない。だから全員を助けたいと祈り続けた。


「もういい、イーリス! 無茶をするな、これ以上は限界だ!」


「だめだ、あと少しなんだよ!? もう地上はすぐそこだから……!」


 わずかに高いだけでも飛空艇の墜落の影響は大きく、まだ乗っている人々は無事では済まない。あとわずかだと言えども、限界が近づいていた。イーリスの持つ魔力の量は、ヒルデガルドに劣らず、無理が利くならやるべきだと本人は顔を青くして全身を震えさせながらも気力だけで耐え抜いている。


 ヒルデガルドも同じだ。いくら魔力を注がれても限界がやってくると、再び全身が呪いに包まれたような感覚に陥る。だが、ひとつの希望。たった小さな砂粒ほどの希望が、彼女の中には芽生えた。それは、自分たちが地上に降りたことだ。


「……ああ、私たちはつくづく運が良いな」


 彼女たちが辿り着いた場所は大きな森だ。木々がクッション代わりになれば、被害は最小限に抑えられるかもしれない。あともう少しだけだと、息も詰まった状態で、一瞬だけ魔法陣から風を止めた。


 飛空艇がわずかに落下速度を速め、森へ落ちる直前に、彼女は自身を浮かせるためだけに残していた魔力のすべてを吐き出すように使って再び風を起こして、ほとんどの衝撃を与えないまま地面へ辿り着かせることに成功した。


 もう立ち上がる余力もない。二人がその場に倒れ込んで、ぜえぜえと息をする中、飛空艇からは大歓声が聞こえた。彼らには、いったい何が起きたのかは分かっていないが、ともかく助かったのだと理解はしている。誰かが助けてくれた、きっと大賢者様が近くにいたんだと声高に叫んでいるのが二人の耳に届く。


「い、生きてる……ボクたち生きてるよ……」


「ああ。流石に私も今回ばかりは死んだかと思ったよ」


 そんな二人の傍に漂ってくる強烈な魔力にヒルデガルドはハッとする。なんとか起き上がろうとするも、身体がぴくりとも動かない。


『あれまあ、本当にやりやがったよ。凄いじゃないですか、さすが大賢者。ワタシも驚きの結末だった。どうせ助かりっこないと思ったんだけど、予想が外れちゃったなあ。だけど中々に面白いものが見れて大満足!』


 何ができるものかと眺めて待っていたアバドンが、二人を見下ろしてケタケタ笑いながら手を叩く。万事休す、動けない身体では抵抗のしようもない。今度こそ死ぬかと思ったそのとき、彼は真剣な様子でぽつりと尋ねた。


『……なぜ見捨てない? たかが千人、死んだとして世の中は変わらない。おまえたちだけが助かったとして、それを咎める者も消えるのに、わざわざ自らの命を擲ってまで助ける価値のある人間たちだったか、あれらは』


 ヒルデガルドは目を瞑り、静かに答えた。


「さあな。だが、あの場で何もせず、自分たちだけ助かろうとするほうが、よほど無価値に思える。それだけのことだよ」


 アバドンにはそれが理解できなかった。人間は裏切りを必定とした生き物だと思っていたのに、ヒルデガルドとイーリスの二人は違ったから。


『面白い。おまえの夢はなんだ、ヒルデガルド?』


 考えるべくもなく、彼女はすんなりと口にする。


「正しい世の中。世界中の人々が笑って、安心して、手を取り合って暮らしていける未来。……君には理解できないかもしれないが、それが夢だ」


 言われたようにアバドンには理解できなかった。だが、彼はその答えに満足したのか、可笑しそうにしながら空を見上げて。


『ヒッヒ……ホーッホッホ! いやはや、そんな夢を語る人間がいるとは面白い! 面白いついでに、せっかく楽しませてくれた礼だ、そのまま聞け』


 ずいっとヒルデガルドを覗き込む。


 顔はニヤニヤしているふうに感じられた。


『真の敵は手強いぞ、ヒルデガルド。ワタシをもっと楽しませてくれる、その日に期待させてもらおう。……それでは、またお会いいたしましょうね、大賢者』

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