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第1話「思い出せない」

 コーヒーの香りがする。それから目に映ったのは見るからに豪華な造りをした小さめのシャンデリア。


 ふわりとした肌に触れる感触。横たわる体を支えてくれるのは、大きなベッドだ。ヒルデガルドは見知らぬ部屋のベッドで目を覚ました。


「ようやく目を覚ましたようだな」


 瞳に映ったのは黒髪の若い男。気品ある身なりをしていて、すらりと背が高いが服の上からでも分かるそこそこに鍛えられた体。世俗にいささか疎いヒルデガルドでも知っている〝大陸の大槍〟と呼ばれる騎士。


「……プリスコット卿」


 名前を呼ばれて、コーヒーを飲む手を止めて嫌そうな顔をした。


「俺のことはアーネストと呼んでくれと言ったはずだ、ヒルデガルド。あなたには俺自身の名前で呼んでもらいたい……と、まあ、それよりも」


 頬を仄かに紅くしたアーネストが咳払いをする。


「怪我をして倒れてただろ。あの路地裏で何があったんだ?」


「路地裏……そうだ、たしか私は路地裏で……」


 頭のなかを霧が満たしているかのように、うまく思い出せない。誰かと話していたことまでは覚えていたし、自分がそのあと胸を刺されたのも分かっている。なのに犯人の姿が──その身に着けていたものひとつさえ──浮かんでこなかった。


「すまない。怪我を治すのに薬を飲んだのだが、その副作用か記憶が抜け落ちているみたいだ。時間が経てば思い出せるかもしれない」


 おそらく一時的な記憶障害だろう、とため息をつく。


 誰に襲われたのか、その理由もはっきりしない。なぜ自分が路地裏で会うことになったのかも、かなりぼんやりとしている。自分の立場もあるので、わざわざ人目に付かない場所を選んだのだろうことは想像できるが、確実なことは何ひとつとして言えなかった。


「誰かと会う約束があったことまでは覚えているんだが……」


「……あなたを騙して襲撃できる相手がいたと?」


「ああ、たぶん。でなければ私も会う約束などしない」


 もし路地裏に何の迷いもなく誘い込まれ、そこで刺されたのだとしたら、相手はよほどヒルデガルドにとって信頼できる人物だ。だからといって心当たりはアーネストも含めて、ひとりやふたりではない。まさか彼女も、その相手がよりによって誰よりも信頼を置くクレイ・アルニムだとは思わなかったが。


「それで、どうするんだ。犯人捜しをするのか。俺にも手伝えることは──」

「……いや、帰る。忘れたことを気にしても仕方ない」


 アーネストが目を丸くして「えっ」と聞き返した。もしまた襲われたらどうするつもりなのだろう、と純粋な疑問が胸の内から湧き上がる。


「町はずれの森で暮らしているんだろう、人目に付かないのに危険じゃないのか? また襲われでもしたら危険だ。ヒルデガルド、やはり俺の屋敷にしばらくいたほうが……」


「気持ちはありがたいが遠慮しておくよ。研究の続きがしたい」


 ヒルデガルドは魔法薬の研究で忙しい。まだ子供の頃から、ずっと追い求めてきた霊薬の完成が間近で、いまさら刺された如きで中断などしてはいられないのだ。どうしても帰りたくて仕方ない。材料には使える期限があるし、誰かもわからない暗殺者に怯えるつもりはなかった。


「研究に必要な道具があるのなら俺が取りに行こう。屋敷には使っていない部屋もあるから、そこで続けてみるのはどうだ? ここなら俺もいるし、困ったことがあれば従者たちに言えばなんだってしてくれる。なんなら改装してくれたって構わない、俺が許可を出しておこう」


 命の危険がつきまとう人間を前にして、どうしても行かせたがらないアーネストに彼女はフッと笑って首を横に振った。


「いつも好意を寄せてくれるのは嬉しいが、私は自由気侭に生きていたいんだ。研究は一人でしたい、自分の一番落ち着ける場所で。勝手な女だと思うだろうが分かってほしい、プリスコット卿」


 彼女の言葉に、アーネストは少しだけ寂しそうに俯く。


「そう、だよな。すまん、頭では分かっているつもりなのに諦めがつかなくて。あっ、だが、これからも良き友人ではいてほしいと思っているんだ。あなたが嫌だと言えば無理を言うつもりはないが……」


「ハ、別にいいとも。もし旅に出たとしても手紙くらいは出そう」


 ベッドから降り、用意してくれたのだろう壁に掛かった真っ白のローブを着る。もともと着ていた服は『血まみれだったから』という理由でメイドに処分させたらしく、そっくりなものを探してきたのだと彼は自慢げにした。


「……まあ、礼は言っておこう。違和感もない」


「もう帰ってしまうのか。食事くらいして行けばどうだ?」


 流石に空腹だろうと思っての誘いに、彼女は少し考える。しかし、やはり「研究のほうが気になってね」と断って部屋を出た。自分を殺そうとした何者かが自宅を荒らしている可能性も十分あった。だから急ぎたかったのだ。


「ふう、やれやれ。さっさと帰るとしよう」


 屋敷の前庭で大きなあくびをひとつする。彼女が紐を掴むような仕草でゆっくり腕をあげてから下ろすと空間がぱくっと裂けるようにして、目の前に森への道を開く。目前に見える我が家の無事な姿にホッとした。


「……完成まであとすこしだ」

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