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第10話「怪物との契約」

 掴まれた腕が紫紺色に輝き、黒ずんでいく。ディオナは危険を感じて、「放しなさい!」と振り払おうとするが、びくりともしない。アバドンは異常なまでの膂力で、弱ったとはいえデミゴッドである彼女の腕の骨を軽々砕いてみせた。


「ああああああああっ!!」


 悲鳴が広がり、誰もが固唾を呑む。


『実に下らないですねえ。最強のデミゴッドだなんて言うわりに、この程度。ワタシとは随分、差があるように見えるだが、まさか? あ、まさか、本当はすごく弱いとか!?……ま、当然ではあるか。たかが夢魔のおまえでは』


 砕かれた腕から灰になっていく。それは死を直感させ、ディオナが慌てて自分の肩から先をもう一方の腕で千切り落したが、アバドンは容赦なく、今度は彼女の背後からがしりと頭を掴んで放さない。


「い、いや、やめて! なんであなたが私を殺す理由が──」


『つまらないから? 興味のないものは壊しちゃえー。なんつって』


 今度は光ると同時に、ディオナの上半身が瞬時に灰になる。残った下半身も、徐々に灰となって散り、がくんと崩れて倒れた。あれほど全員が苦戦させられたデミゴッドを、なんの苦労もなく、容易く消滅させてしまった。


 目の前にいる怪物のおぞましさが伝播し、誰も言葉を発せず、ぴくりともできない。むしろ、ただ彼が立っているだけで強烈な威圧感を覚え、足を震わせたり、うずくまったり、あるいは涙を流す者もいた。たった数名を除いて、ほぼ全員がそうなった。


『あれあれ? おかしいなあ。おまえたちが困っているから助けてやったのに、感謝をするどころか怯えるだなんて、ワタシ泣いちゃう』


 地面からずるりと出てきた髑髏の杖を手にして、彼はけらけら笑った。


『だがまあ、面白い見世物だった。希望と絶望、果たしてどちらが勝つのか?──なんてことはない、最初から決まっていたことだ。ただ、少々手強い駒を揃えていたというだけで、知力のない者に勝機などない。どれだけ優れた道具も、扱う知識がなければゴミ同然。実に、いやあ、実に、おまえこそ優秀だと言わざるを得ない』


 ヒルデガルドは静かにかぶりを振った。


「私だけじゃない。イルネスやシャロムのような魔物、多くの冒険者や、魔導師たち。あらゆる者が、あらゆる知恵と力を駆使して勝ち取ったものだ」


 アバドンが笑うのをやめて、ぬっと身体を傾けて彼女の顔を覗き込むように近付く。


『……実に謙遜のできる人間もいたものだ。だからこそ、平和の祈りを捧げられるんだな。ホーッ、こりゃあ、面白いじゃないか。誰にも何も言わず、ここまでよく戦った。まさか、まさか、あの大賢者が、魔導師としての力を失ってでも構わないからと冥界を出るために、ワタシと契約まで交わしたんだから!』


 彼が暴露したことに、ヒルデガルドが目をばちっと開く。


「……おい、それは言わないでくれと──」


 瞬間、駆け寄って来たイーリスが彼女の肩を強くつかんだ。


「ヒルデガルド、それどういうこと!? 魔導師としての力を失うって、それは君の身体から完全に魔力が消滅するってことじゃないのか!?」


 目を逸らすしかなかった。


「どうしても、そうする必要があった。……結論から言って、私だけの力では冥界を出ることはできなかった。アバドンに賭けるしかなかったんだよ」


 アバドンがうんうん頷いて、わざと涙を拭うような仕草で。


『本当にね、可哀想だよね。だって冥界から出るには死神から許可を得るか、あるいは殺すしかないんだから。そのうえ冥界の管理は、イルネス・ヴァーミリオンに匹敵してもおかしくない怪物がやってる。一人で頑張ってたけど、厳しかったもんね』


 語るも涙とばかりにアバドンは大きく手を広げて言った。


『大賢者は捕まって二か月間、おまえたちを助けるためにムリな戦いを繰り広げ、その魂さえひび割れて消滅しかけるほどの痛手を負ったんです! ああ、なんて可哀想に!……そこで、気付いた私は助けてやったんだ。優しいだろう?』


 指をぴんと立てる。輝く瞳が、ニヤニヤしているようだった。


『こいつはおまえたち虫ケラみたいな連中のために、死ぬかもしれなかった。だから、ワタシは提案したんだよ。冥界から出してやるかわりに、おまえの持つ魔力を私に寄越せ、とね。ああでも安心したまえ。おまえたち虫ケラをわざわざ殺してまわる低俗な残忍さなど、クレイやディオナだけで十分だ』


 まだヒルデガルドから魔力は奪っていないが、それでも大勢を殺すのは今でも簡単に出来る。そんな脅しを掛けられているようで、ぞくりさする。だが、イーリスだけは彼女の前に立ってアバドンを睨みつけた。


「……だめだ。それならボクの魔力を持っていけ」


「おい、イーリス! 君は何を言って──」


「ヒルデガルドは黙って! これはボクの交渉だ!」


 間違いなく怒っている。そんなのは許されない、と。アバドンは興味深そうにイーリスを見つめて『ふーん。面白いじゃん、おまえ』と顎をさすりながら。


『別にいいよ、おまえでも魔力の巨大さはヒルデガルドにも劣らない。ただ、その意味分かってるよな? 大魔導師を目指す者が、魔導師でいられなくなる。その精神的苦痛を受けるのは間違いないだろう。ワタシは別にいいんだけど』


 イーリスはこくんと頷いて──。


「構わない。ボクよりも、ヒルデガルドのほうが大事だ」


 じろっと見下ろして、アバドンは退屈そうに。


『やっぱ駄目。面白くないから』

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