第八話 見え透いた罠
家で一人でいる時に静かだと感じていても周囲は意外と音に満ち溢れている事は多い、普段は気にも留めないような電化製品の小さな駆動音や外から聞こえる車の音……マグフォンの画面を擦る指の音、本を読んでいればページを捲る音がするし、フローリングを歩けば軋む音がする。
──だが深海を模しているのであろうこの暗いプールの水が頭のてっぺんまで浸かった瞬間、本当に周囲の全ての音はかき消され、耳が塞がってしまったかのような感覚に襲われた……水の性質に手を加えているのか天井から差し込むいくつも並んでいた照明の光も水面付近で途切れてしまい、殆ど感じる事が出来ない……じわじわと、しかし確実に体を蝕む恐怖心を誤魔化す為に大きく咳払いをすると想定外にマスク内に音が響き、耳がキンと痛む。
「……ら、ラブ? 聞こえてる?」
『ええ、聞こえていますし……ちゃんとここにいますよ』
ふわりと暗闇をかき混ぜるように水中を泳ぎながら目の前に現れたラブの姿に俺は気がつけばそっと胸を撫で下ろし、その姿に見入っていた。水面から差し込んだ僅かな照明の光がラブの全身を彩る金属質な青色を反射してゆらゆらと輝いており、とても綺麗だ。
『さぁスーツを操る練習を始めましょう、まずは左手のデバイスに指を当ててください』
「こう?……おお」
言われた通りに操作するとバイザー部分のフィルターが切り替わったのか塞がっていた視界が一気に開け、思わずキョロキョロと辺りを見渡してしまう。まるで深淵に飲まれていたかのように想えた暗闇も、見えるというだけでこんなにも違うものなのか……段々と気持ちが落ち着いてきたところで次の問題が発生した、体が浮かないのだ……先程までは暗闇に包まれていたので気が付かなかったが両手で水をかいても足をバタつかせても浮力を得る事は出来ず、ゆっくりとだが確実に沈んでいっている。
「ら、ラブ! これっ……泳げない! このままじゃ沈んじゃうよ!」
『大丈夫です修吾、どうか落ち着いて……今度はデバイスをスワイプすると現れるアイコン群の中から、緑色のアイコンを押してください』
「そうは言っても……! 沈んでるしっ……なんだか息苦しい気もしてきたんだっ……!」
デバイスに手を伸ばそうとしても沈んでいるという恐怖が勝り、無駄だと分かっていてもジタバタと暴れる手足を止める事が出来ない……! 呼吸も荒くなりこめかみの辺りが酷く痛んできた、『溺れる』という三文字が脳内を激しく駆け巡る……もうダメだと悲鳴を上げかけた瞬間、ずっしりと重かった全身がふわりと浮き上がり……水中で停止した。
『私が傍にいますよ修吾……さぁ、ゆっくりと息をして。私が傍にいる限り、修吾に命の危険なんて起こりません……必ず、私が貴方を守りますよ』
気が付けば俺と同じ……いや、俺よりも一回り以上大きい姿になったラブに抱えられていた。何とかというウミウミの体色はそのままに女性のような姿になったラブはこちらに優しく微笑みかけており、まるで神話に登場するような美しい海の女神のようにも見える。
『先程私が言った操作を覚えていますか?……そうです、その中から緑色のアイコンを押してください』
まるで赤子のように抱き抱えられた俺は今まで事が嘘のように落ち着きながらデバイスを操作した、すると両手足のメタルリングから小さな駆動音が響き、ラブの手から僅かにふわりと浮き上がった。
「浮いてる……?……っと、操作が難しいけど……沈まない!」
『フローティングシステムと宇垣は言っていました、両手足のそのリングが修吾の体の向きなどに合わせて自動で周囲の水流を操作して姿勢の制御や自由な水中移動を可能にしてくれます、両手を腰の辺りにまで下げてみてください』
頷いて返事をしてぎこちなく両手を腰まで下げるとゆっくりとだが水中を移動する事が出来た、浴槽の水面で小さな波に流されるアヒルよりも更に遅いが、自分の意志で動けると実感出来たのが堪らなく嬉しい。
「出来た、出来たよラブ! めっちゃ遅いけど!」
『はい、ちゃんと見ていますよ。デバイスで速度を調整する事も出来ますが、速度を上げればその分操作が難しくなるのでまずは最低速度で慣らすところから……修吾?』
「えっ?」
少し泳げた事で調子に乗っていたのであろう……俺はラブの話を聞き終わる前にデバイスを操作してしまっていた。とはいえビビりなのでほんの少しだけ上げたつもりだったが、リングから発生する推力は先程までの比ではなく、静止するだけでもぎこちなかった俺の体はあっという間にバランスを崩し、ぐるぐると回転し始めてしまった。
「わわわわわ、止まらなっ……うわっ!」
恐らく無理矢理姿勢を制御しようと咄嗟に足をまっすぐに伸ばしたのが悪かったのだろう、それまで回転するだけだった俺の体は一瞬で矢のように飛び、凄まじい勢いでプールの壁面に全身を叩きつけてしまった。
『だ、大丈夫ですか修吾!?』
慌てて泳いできたラブが叩きつけられた姿勢のまま、更に俺を壁に押し続けようとするトリトンスーツを操作して最低速度まで戻してくれた。
「も……問題なーし! 衝撃はあったけど、どこも痛くはないよ。凄いね、このスーツ」
へらへらと笑ってなんとか誤魔化そうとしたが……駄目だった、バイザー越しにぐっと顔を寄せながらこちらを見つめるラブはどう見ても怒っている。
『説明は最後までちゃんと聞いてください! そのトリトンスーツは最大で時速八十キロ以上の速度が出るんですよ! 危険なので操作に慣れるまでは速度を上げるのは無しです、いいですね!?』
「……ごめん。ていうかそんな速度出るんだこれ、車並みの速度で泳げるのか……」
『はぁ……元々は巨大深海魚から逃げ切る事も想定されてのスーツですからね、表示速度は車並みでも直線だけじゃなく立体的な移動も出来るので体感速度は表示以上、更に操作難易度も別格です』
「それは……うん、身に染みた」
さすがに何度も壁に叩きつけられるのは御免だと苦笑して返事をすると、ラブは安心したように一つため息をついて頷いた。俺が突っ込んだ事で壁を壊してないだろうかと不安になったが、振り向いてみるとプールの壁面には小さな傷一つ無く、スーツもそうだが施設の頑丈さが窺える。
「そういえばさっきから宇垣さんの声が聞こえないけど……どうしたんだろ、宇垣さーん? 聞こえてますかー?」
『ああどうやら水に入った辺りから通信機器に何か異常が起きているようですね、私の耳には先程から慌てた様子で修吾に呼び掛けている宇垣の声が聞こえていますよ。ふふん、やはり私の方が宇垣よりも貴方のパートナーに相応しいようですね』
「ははは……いや、聞こえてたなら教えてよ……あんまり心配かけるのも悪いしさ」
自慢気に胸を張るラブに思わず笑みがこぼれるが、小さい時と違って今は女性的な体のラインがはっきりしているので目のやり場に困ってしまい思わず視線を逸らしてしまった、そんな俺の態度が気になったのかラブからの更なる質問攻めに遭ったのはもはや言うまでもない。
「六号観測所……ですか?」
「そうだ、三か月後に修吾君が向かうのはその六号観測所になる」
温かな湯気を上げるラーメンに舌鼓を打っていると宇垣が俺の所属する予定の観測所について教えてくれた、具は魚肉を使ったつみれやネギとシンプルだが濃厚な貝の出汁が効いていて疲れた胃を優しく温めてくれる……ちなみにだがプールから出るとラブはすぐに縮んでしまった、ホッとしたような少し残念なような……複雑な気分にさせてくれる。
「あの、俺の勘違いだったら申し訳ないんですけど……今の日本の観測所って、全部で五号までじゃありませんでしたっけ?」
今や学校の授業でも習う事だ、巨大深海魚出現から日本だけでなく世界各国で深海の調査に乗り出す国が現れ……その一環で行われたのが深海への観測所の投下だ、詳しい構造などは分からないが巨大な筒状のカプセルを海中に射出し予め設定された深度で展開、収納されていた観測所が現れる……といった具合で観測所の設置は行われ、それが日本では現在までに五回行われており全部で五基が沈んでいる……筈なので六号となると数が合わない。
『修吾さんの認識で間違いありませんよ、一般に公表されている情報でも日本製の観測所は全部で五基となっています』
「ただ……それは有人施設として投射された観測所の事でな、実は無人観測所の投射自体は巨大深海魚の出現前から行われていたんだよ」
「え……じゃあ巨大深海魚の存在は、出現以前から分かっていたって事ですか!?」
「分かっていた……とは言えないな、『説明のつかない巨大な何かが深海には潜んでいるかも』……当時見つかった痕跡などはせいぜいその程度のものでな、言ってしまえば幽霊やUMAみたいなオカルトにすぎないものだったんだ。存在が確認できればよし、見つからなくても壮大な事をしている風に見せて一瞬でもお茶の間を沸かせればよし……テレビなんかで取り上げられた事もあったが扱いはその程度のもんさ、だから国からの費用も今に比べたら雀の涙ほどのものだったらしい」
「でも……それを強く信じていた人がいたって事ですよね?」
「……そういう事だ」
言葉を区切り、ラーメンを啜る宇垣から視線をそらして残り少なくなった自分のラーメンにスープに映る自分の顔をぼんやりと見つめる……確かに、俺だって今のこの時代でなければ巨大深海魚の存在なんて信じたかどうか……いや、きっと軽い気持ちで動画を開いて流し見しつつご飯でも食べて、見つからなかったという結果に鼻を鳴らしながら『だろうな』と一言吐き捨てて動画を閉じ、すぐに忘れてしまっていただろう。
安全な場所で知った風な事を言うその他大勢だった自分に嫌気がさし、首を振ると割り箸で少量の麺を掬い上げ……その姿勢のままふと首を傾げる、当時は変人扱いだったかもしれないが巨大深海魚の出現した今であれば第一人者として名前や姿を目にしていない筈が無い、だというのにいくら記憶を辿ってもそれらしい人物が思い浮かばないではないか。
「宇垣さん、その人って何て名前なんですか? 今の話を聞いても、正直ピンとこなくて」
「無理もない、彼は……既に自殺してこの世にはいないからな、彼の言った事は正しかったが死に方が死に方だけに表には出せないんだろうさ」
「なっ……!?」
驚く俺に苦笑し、丼を両手で持ってスープを飲み干した宇垣が大きく息を吐いた。
「……過去に投射された無人観測所は全部で四基。その内最初の一基は投射前に破損して失敗、続く二号と三号は投射には成功してしばらくは深海のデータを送ってきていたが、何らかの原因で機材が破損したのかデータの送信が止まり座標データも取得出来なくなって今はどこかの深海で沈没船の仲間入りさ」
「それで……四基目はどうなったんですか?」
「……四基目は当時の研究員達の命運を握るものだった、もしこの四基目が何の成果も挙げられなければ国からの追加費用が下りず、研究そのものが頓挫する事になっていたからな……様々な思いを乗せてその時点で搭載できる最高の機器を乗せた四号機は投射され予定深度での展開までは成功。しかし設備の不調は検出されていないにも関わらず徐々に観測所は座標がずれていき、信号も弱くなり……約二時間後に全ての反応が消失した。当然すぐに失敗と判断され、結果として研究は永久凍結扱いとなった……責任者でもあった博士が命を絶ったのは、その数年後だ」
当時の研究者達の事を思うと酷く胸が痛む……不意に右手に何かが触れ、ハッと視線を向けるとラブの手がそっと俺の指に触れていた……自分でも気が付かない内に水の入ったグラスを力一杯握っていたようだ。お礼を言ってグラスの水を流し込み、ゆっくりと息を吐くと全身から少しだけ力が抜けた。
「でも……その消えた無人の四号機と、今回の六号機に一体なんの関係があるんですか?」
『……巨大深海魚の出現後、凍結されていた深海研究はこれまでとは比べ物にならない費用と共に再開されました……私達はこれまでの研究データを振り返り、その中に『ある書類』の存在が発見されたんです。国に提出されたものとは明らかに違うその書類に書かれた四号機の搭載物には大量の食糧などをはじめとして、寝具や調理器具など明らかに無人機には必要の無い筈のものが当時の責任者のサインと共に記入されていたんです。しかもそれだけに終わらず……調査を進めている内に微弱ではありますが私達は四号機の反応をキャッチする事が出来ました。それも、本来はあり得るはずの無い地点から……』
「つまり、たまたま四号機の投射した座標にマントル海域への転移ポイントがあったって訳だな……しかも書類に記載されている内容が事実なら当時は許可されていない有人で、だ。さすがにこれが分かった時は俺達全員、驚きを隠せなかったよ」
『恐らくは元々存在していた小さな穴が巨大深海魚がこちらに現れた事で大きく広がり、そのお陰で向こうの信号を拾えたのでしょう……皮肉な話ではありますけどね』
「ま、待ってください……! もしかして、六号観測所っていうのは……?」
聞けば聞く程とんでもない話だ、さっき水を飲んだばかりなのにもう喉がカラカラに乾いている。
「そうだ、六号観測所と旧四号無人観測所は同じものだ。事実に気付いた所長が上に報告したんだが……当時の研究員たちは既に一線を退いているし、上の連中は上の連中で責任を負いたくないといった風でな。転移地点の話も全て事実無根だと突っぱね、結果俺達はこんな僻地に追いやられたってワケだ。それでも何かしらの結果を出せば利益になるとでも思ったのか生かさず殺さず、旧四号を六号と表記する事だけ指示してな」
「ひ、卑怯だ……!」
思わず立ち上がり声を荒げた、嫌がらせにしたってさすがにやる事が陰湿すぎる。
俺が結果を出せれば最良……失敗しても観測所の存在ごと飲み込まれれば良、失敗した上で観測所の存在が明るみになっても青海深海研究所の独断だという事にして責任を押し付けて尻尾を切れば可……といったところか? あまりに分が悪く、見え透いた罠だ。
「修吾君の言う通りだ、これが罠だって事はここにいる全員が分かっている……だが、所長の元で働くと決めた俺達にはこの分の悪い賭けに乗る理由があるんだよ」
「何が……どんな理由があれば、結果次第では全部台無しになりかねない罠に乗るって言うんですか……?」
ラブに支えられながらヨロヨロと腰掛けた俺の質問には答えず、宇垣は上着の内ポケットから一枚の書類を取り出し、こちらに差し出した。
古い紙をコピーしたそれは文字が擦れており殆ど読み取れなかったが、最後に大きく書かれたサインだけは読み取る事が出来た。
「青海……誠一郎?……これって、まさか」
「そうだ、無人観測所による深海研究の責任者は所長の……青海琴子の親父さんなんだ。さっきも言った通り、彼は研究の凍結後、責任を一人で背負って退職し……数年後にその命を絶っている」