第七話 トリトンスーツ
「二つ目の海って、そんなバカな事……」
「ある筈が無い……信じがたい気持ちは分かりますが事実です、回収した無人探査機の持ち帰った情報が無ければ私も信じたかどうか……」
投影機が映し出す画像が切り替わり、何枚もの写真が順番に映し出され……そのどれもが俺の知っている海のものでは無かった。
魚の頭部から触手のようなものが何本も生やして泳いでいるものや背中から幾重にも鱗を重ねた翼のようなものを広げて海上を浮かんでいるもの、深海魚たちの大きさもまちまちで写真に写り切らない程に大きなものもいれば探査機のアームと思われるものに掴まれているものまであるではないか。
「この写真のどれか一枚でも海洋学者がひっくり返るものばかりです、現状のままでは発表したところで何も証明できず鼻で笑われておしまいなのは目に見えていますけどね」
「あぁ……えっと、まぁ……そうかもしれませんね」
そっと差し出された桃色の飴玉を振るえる指で受け取って口に放り込むと果実の甘味がじんわりと舌に広がり、混乱しかけた頭が段々と落ち着いてきた……完全に想定外だ、ここへ来てからというもの想定内だった事など一つも無いがこれはさすがに俺の理解出来る範疇を大きく超えている。
「疑う訳じゃないんですが、合成とか加工とかじゃないんですよね……? それと、どうしてこの写真はどれも画質が悪いんですか?」
投影機が今もなお表示している写真はその全てがひび割れたようになっていたりボヤけていたりしており、中には何が映っているのか分からないものまである、まるで古いフィルム映画を見ているかのようだ。
「原因は分かっていませんが……撮影媒体が何であれこの現象は起きるので恐らくは転移の際の影響だと考えられています、画像については間違いなく探査機が持ち帰ったものですが……今申し上げた通り証明する方法はありません、こればかりは塩見さんに信じていただくしか……」
ただ俺を騙す為にこんな用意周到なドッキリをする訳が無い、そんな事は分かっている。
という事は信じがたい事だろうがこれは青海の言う通り全て真実なのだ、海の底にはもう一つの海へと繋がるワープゲートみたいなものがあって、そこには生態も何も分かっていない文字通りのモンスターのような深海魚がウヨウヨいて……三ヶ月には俺はそこに行って残りの約九ヶ月を過ごさなければ、いや……生き延びねばならない。
『……正直に言うと、もう少し取り乱すかと思っていました。だってそうでしょう? この二日間、今までの常識がひっくり返るような事ばかり伝えられて百日もしない内にそこへ送り込まれる予定なんですから、むしろそっちの方が正常な反応ではないかと』
「まぁ……ね、多分まだ実感が無いだけかも」
所長室を後にした俺達が次に向かったのはトレーニングルームだった、部屋に入るやいなや中で待っていた宇垣によって体中に何かの機器が手早く取り付けられ、今は酸素マスクのようなものを着けながらランナーマシンの上を低速で歩いているところだ。
「一応俺の認識違いかもしれないから確認するけど……この広い海のどこかにもう一つの海へと繋がるワープポイントがあって、そこにはモンスターみたいな深海魚がウヨウヨいる……と」
『付け加えると、恐らく地上に出現した巨大深海魚もそのワープポイントに飲み込まれたか……もしくは意図的に帰ったというのが私達の説ですね』
「……穴を塞ぐっていう選択肢は無いの?」
『それも案としては上がりましたが……転移地点の規模が掴めない点と、例えドーム状に覆ったとしても巨大深海魚の前には壁にもならないでしょう?』
「確かに……」
フワフワと目の前に浮かぶ相棒としばらく見つめ合い……フッと笑うと大きく息を吐いたせいか酸素マスク内が真っ白に曇ってしまった。
「おいおいお二人さん、仲が良いのはいいけど今が測定中な事忘れないでくれよ?……そろそろ三キロだが疲労度の方はどうだい修吾君、足が痛んだりとかは?」
少し離れた位置でテーブルの上に三つ並んだパソコンの前に座り、何やら捜査していた宇垣がこちらに目を向けて片手を挙げた、計測は終わりだろうか? 離していたお陰か、あまり疲労感は感じない。
「まだそこまでは……うん、平気です」
「なるほど、普段はあまり外に出ないと診断書には書いてあったがこれなら大丈夫そうだな……よし、一旦機械を止めるからしばらく歩いてから座って休んでいてくれ」
「分かりました」
『凄い汗ですね……タオルで拭きます、少し頭を下げてもらえますか?』
「あ、ありがとう……止まったら急に……ふぅ」
近くに設置されていたベンチに項垂れるように座るとラブが触手のような腕を器用に操って汗を拭ってくれた……久しぶりの運動のせいか、拭いた先から次から次へと汗が噴き出てくる。
「……さっきの話だけど」
『はい?』
「例のワープポイント、存在を知ってるのは世界中でも青海さん達だけなんだろ? もう一つの海に行ったのもまだ無人探査機だけ……だから、俺が無事に証拠を手に帰還すれば青海さん達はもう一つの海の存在を世界で初めて証明出来る、先駆者って言われた時はピンとこなかったけど……今ならハッキリ理解出来るや」
『しゅ、修吾……誤解の無いように言っておきますが、回収した無人探査機には映像写真の不備はあれど損傷はありませんでした、つまり修吾を無事に帰還させる方法はあるという事です! もちろん初の有人ですので危険性は否定できませんが私達、いえ私は……!』
慌てて話すラブに思わずニヤリとしてしまう、どうやら俺が任務に対して疑問や強い不安を抱いたのではないかと思ったらしい……グッと顔を上げ、床に落ちたタオルを気にする事無くラブにニヤケ顔を見せつける。
「逆だよラブ、なんて言うかな……初めて月に立った人とか、そういうのと同じ立場になれるかもとか考えたら……正直、ワクワクしてる自分がいるんだよ。もちろん怖いは怖いし死にたくなんてないけど、そこはラブがサポートしてくれるんだろ?」
『っ! もちろんです! それに、転移地点の事を知っているのは青海さん達ではなく……私達、ですよ? 修吾も既に私達の仲間なんですからね!』
「……ん、頼りにしてるよ」
頷き合い、床に落ちたタオルを拾い上げると埃を払うような仕草をしたラブが再び汗を拭き始めた……ここへ来てから別人にでもなったような気分だ、自分の中の変化に俺が一番驚いている。
「随分代謝が良いんだな……歩行中の酸素消費量も正常値だしラブとの会話もしっかりと受け答えが出来ていた、基礎体力に問題は無さそうだ」
汗を拭き、一息ついていると飲み物を持った宇垣が感心したように何度か頷きながら戻ってきた。お礼もそこそこに受け取った飲み物に口をつけると薄いスポーツドリンクのようなそれはカラカラに乾燥した口内や喉にしっかりと染み込んでいき、体から湧き上がっていた熱をしっかりと冷ましてくれる。
『当然です、私が見込んだのですからね』
「はいはい、おみそれしました……っと」
ラブの言葉を受け流しつつ小型のデバイスに何やら打ち込み終わった宇垣が上を見ながら何かを思案しているかのように首を傾げた。
「さて……所長からは実践的なスキルを身に着けさせろと言われてるんだが……修吾君は何から覚えたい? マリンドローンの操縦やソナーの操作からでもいいし、トリトンスーツの練習でもいいぞ」
「……トリトンスーツ?」
聞き慣れない名前にふと顔を上げると宇垣がニヤリと笑った、掲げるように見せてくれたデバイスの画面には既にそのスーツの画像が表示されており、俺が食いつくと予想されていたようでなんだか悔しい。
「帆吊が開発した強化ダイバースーツ……に俺がちょっと改造を加えたものだ、高い耐久性と自由自在な水中移動能力を兼ね備えていてな、全く新しい水中体験が出来るぞ」
「新しい……水中体験」
気がつけば俺の口元にも笑みが広がっていた、宇垣の差し出した拳に答えるように自らの拳を打ち鳴らし……男同士の暑苦しい儀式に呆れたのか、ラブの小さなため息が聞こえた気がした。
『大丈夫ですか修吾? 足、震えてませんか?』
「だ、大丈夫だよ!」
宇垣と二人で意気揚々と作業場だという格納庫のような場所に案内され、そこで仰々しいケースに納められた例のトリトンスーツなる装備を身につけるまでは俺のテンションも最高潮だった。
まるで変身ヒーローにでもなったかのようにはしゃいだ俺はすぐにでも試してみたいと宇垣にせがみ、水中訓練用のプールまで来たのだが……これがまた想定外にデカく、そして深かった。
「これ……どれくらい深いの?」
『現在の設定は約十二メートルほどですね、ちなみに修吾は知っていますか? 一般的に深海とは水深約二百メートルほどからなんですよ、マントル海域への転移地点は更に深くて約……』
「今最も聞きたくない情報をありがとうラブぅ? どうしてそんな意地悪を言うのかなー?」
『ふーんだ、何ででしょうねー』
『はっはっは! 俺に修吾君が取られたと思ってヤキモチを妬いてるのさ、それより無線の感度はどうかな?』
「大丈夫です、ちゃんと聞こえてますよ!……というかラブってロボットですよね? ヤキモチって……」
『おいおい、確かにラブはロボットだし思考は全て人工知能のパターンと言えるかもしれないがそれがイコール感情が無いって訳じゃないんだぞ? その証拠にラブにだって個人個人に対して好き嫌いがあるんだしな、なんならラブはその傾向が強いぐらいだ』
「え……そうなんですか?」
もしかして俺は今、とんでもなく失礼な事を言ってしまったのか……? ラブの方を見ると普段よりも不機嫌そうに両ヒレをバタつかせながらそっぽを向いてしまっている。
『ちなみに、今の発言で修吾の事が二パーセントほど嫌いになりました』
「うっ……ごめん、ところでそれは何パーセント中の……?」
『……まだ七十八パーセントほど残っています、ですが! 私だからいいですけど、本来はそういう事を聞くのも駄目なんですからね! 修吾に恋人が出来ない理由が今分かりました』
「うぐ……いや、うん……本当にごめんね」
『はい、今回は許しますが次からは何かしらの意地悪をしますからね?』
被っているフルフェイスマスクをペチペチと叩きながら文句を言うラブを見て謝りながらもどこかホッとしている自分がいた、もう口をきいてくれないんじゃないかという不安もあったので文句を言って発散してくれるだけありがたい。
『さて仲直りしたところでスーツの調整に入りたいんだが……着心地はどうだい?』
「最高ですよ! 改造ダイバースーツだと聞いていたのでもっと全体的にゴムっぽいのかと思ってたら金属の鎧みたいなのも付いてるし……あと、結構ゆったりしてるんですね」
『ゆったり? ああそうか……修吾君、左腕のデバイスの側面にある緑色のボタンを押してくれるか?』
「側面……これですか? うおっ!」
左腕に腕時計のような三本のバンドで固定されたデバイスのボタンを押すと圧縮袋のようにスーツが体にフィットした、それにしてもこのスーツを見て誰が水中用だと思うのだろうか……楕円形のヘルメットからはフジツボのような突起が等間隔で生えており、関節部分に干渉しない腹部や腕部などにはふんだんに金属のパーツが使われておりまるで鎧だ、両腕には先程のデバイスの他にはグルグルと手の甲にかけて柔軟性のある金属製のチューブが巻き付き、両手首と足首には複数の小さな穴の開いたメタルリングが二つずつ付いている。
「よし……それでスーツが修吾君を認識したぞ、いつでもプールに飛び込んでみるといい」
「は、はい!」
さぁいくぞ……さぁ今行くぞと何度か屈伸を繰り返している内にふとラブの事が気になり、顔を向けるとそれに気付いたのかラブが不思議そうに首を傾げた。
『修吾? どうしました?』
「いや……ちなみにラブって水の中とか平気なのかなって」
『私ですか? さすがに単体で深海は無理ですが、このぐらいなら全然平気ですけど……ははーん、もしかして寂しくなったんですか? それならそうと、素直に……』
「うん、寂しいから出来れば一緒に来て欲しいんだけど……駄目かな?」
『えっ……? えっと……はい、そういう事でしたらご一緒しま……す』
意表を突かれたのか両手をワタワタとくねらせたラブだったが小さく頷き、肩にそっと乗った……うん、一人じゃないってだけで安心感が随分と違う。
意を決してラブを振り落とさないように慎重に飛び込むと、僅かな水飛沫の衝撃と共に普通のプールとは違う真っ暗な水中が俺の体を一瞬で包み込んだ。