第五十五話 新生・青海研究所
『……おや、今朝はどうしたんですか? アラームが鳴る前に起きるなんて珍しいじゃないですか』
俺の変化に目ざとく気付いた優しい声が耳に届く、別に隠していた訳では無いが気付かれては仕方ないと最早私物と化したベッドからのそりと上半身を起こし、ぼやける目を擦る。
「よく分かったな……今何時だ?」
『修吾の大嫌いな音が鳴り響くニ十分前ですよ、それにいつも見てるんですから呼吸が変わった事なんてすぐに分かります』
「……そうか」
毎晩のようにラブに血圧だの心拍数だの計ってもらっているのだからそりゃ分かるかと一人で納得してベッドから立ち上がる、両腕をこれでもかと伸ばすと日々の疲労からか全身から骨の軋む音が鳴り響いた。
「何だか妙な気分だな、ふわふわと浮足立っている気もするし……鉛を飲み込んだように緊張している気もする」
『この日の為に修吾も、他の皆さんも沢山頑張ってきましたからね』
「だな……よし、なら俺も気合入れないとな」
ベッド脇のテーブルからお気に入りの黒いマグカップを掴み、同じテーブルの上に置いてあるドリンクディスペンサーにセットするとボタンを操作してマグカップに紅茶を注ぎこむ……内部に予め茶葉だのミルクだのを入れておくと設定した分量で紅茶やコーヒーを作ってくれる優れものだ、去年の誕生日に帆吊から貰った物だがすっかり重宝している。
『修吾、今日はどのループタイにしますか?』
「ん?……そうだな」
ラブがいつもループタイを収納しているケースを横開きにして俺の前に持って来た。元々はサラリーマンだった俺だが実はネクタイってやつが大の苦手だ、窮屈だし息苦しいし……だからといって公式な場で何も着けないというのも……と滝谷に相談すると提案されたのがこのループタイだ、苦しくもないしまだまだ未熟な俺にぼんやりと知的な雰囲気を与えてくれる……気がする。
緩くボタンを留めたワイシャツの上に白衣を羽織り、その上にこのループタイを着ければ完成……着替えも楽だと喜んで身に着けていただけなのに、まさか一時的とはいえブームにまでなるとはさすがに思っていなかった……当時の事を思い出しクスリと笑うとラブが首を傾げた。
『修吾? どうしたんですか?』
「ああいや、何でもないよ……そうだな、やっぱり今日はこれにしよう」
そういって手に取ったループタイには引き込まれるような深海の青を模したオーバルストーンがあしらわれている、豪奢でもなければ高価なものではないが慣れないアクセサリーショップに足を運んで最初に買った思い入れのあるものだ。
『よく似合っていますよ修吾、ますます立派になりましたね』
「ふっ……もし本当にそう見えるならラブが俺を立派にさせてくれたんだよ」
『あら、言うようになりましたね』
お世辞を鼻で笑いながら受け流すとラブが嬉しそうにふわりと浮き上がった。
もちろん褒められて嬉しくない筈は無い、こんなものはただの慣れだ……以前の俺だったら顔を赤くしていたに違いないがな!……ラブにいいようにからかわれていた頃を思い出しながら白衣に袖を通し、わざと音を立ててループタイの紐を締める……こうする事で俺の中のスイッチがようやく切り替わる。
「──行こう」
前日に必要な資料を詰め込んだ鞄を手にすると、ラブを引き連れて部屋の扉を開け放った。
「おはようございます、主任! とうとう今日ですね!」
「おはよう、絶対度肝を抜いてやるから見ててくれよ?」
「ここで研究員一同応援してますよ、主任!」
研究所エリアに足を踏み入れるやいなや多数の研究員が口々に挨拶と応援の言葉を口にしてくれた、すれ違う皆とも挨拶し──改めて振り返り研究所エリアを見回すと、俺が初めて来た時よりも随分と賑やかになった事がよく分かる。以前帆吊がどこに行っても誰かに捕まるから気軽に出歩けなくなったとぼやいていたっけ。
「……ここも随分変わったよな」
「おいおい、まだ昔を懐かしむような歳じゃないだろう?」
ハッとして振り返るとガタイの良い大男がニンマリと笑っていた、俺をこの研究所に迎えに来た張本人……その一人だ。
「宇垣さん……でも宇垣さんこそ、この光景は予想を超えていたのでは?」
「む?……ん、まぁ……そうだな、まさかここまで人数が増えるとは確かに思っていなかったよ」
ゴツゴツとした腕を組んで辺りを見回した宇垣が噛み締めるように息を吐いた、昔と重ねているかのようなその瞳には複雑な色が浮かんでいる。
『それに今では修吾もこのエリアの主です、どうです? 私の目に狂いは無かったでしょう?』
「分かった分かった……おみそれしましたよ、それじゃあ早速だが行こう修吾君。我らが所長が上で待ってる」
自慢気に胸を張るラブに苦笑いを浮かべると太い指で上を指差した宇垣に頷きで返し、更に数人の研究員に挨拶すると懐かしさすら感じる長いエスカレーターをゆっくりと上り始めた。
「おはようございます、修吾さん」
研究所から出られないラブと挨拶を交わして別れ、照り付ける太陽の元に出ると宇垣の車の隣に青海が凛とした姿で立っていた。
白衣を袖に巻ききっちりとネイビー色のスーツを着込んだその姿に一瞬気圧されてしまう、あの白衣は後で羽織るつもりなのだろうか?……相も変わらず綺麗に整った顔だけにスーツを着ているだけでも、何となく威圧感を感じてしまう。
「おはようございます青海さん、随分と……何ていうか、気合が入ってますね」
「渚からスーツは戦闘服だと聞かされましたので、それっぽいのを用意してみましたが……変じゃありませんか?」
「めちゃくちゃ強そうですよ、ね? 宇垣さん?」
「ああ、暴漢の一人や二人なら蹴りで瞬殺しちまいそうだ」
「もうっ! 絶対からかってますよね!?」
地団太を踏んで怒り出す青海に思わず吹き出してしまった、落ち着いてきたところで改めて真剣に似合っていると伝えると怒りは収まったようだがへそを曲げてしまったのかそそくさと車に乗り込んでしまった。
「……修吾さんも随分意地悪になりましたよね」
「あはは、帆吊さんに日々鍛えられてますからね……そういえば今日は帆吊さんは?」
「資料をまとめる為に徹夜で確認作業をしていたみたいなので部屋を出る時はベッドで心地良さそうに寝息を立てていましたよ、修吾さんの出番には起きると言っていましたが……あれは多分、寝過ごしますね」
帆吊の寝顔を思い出したのか機嫌もすっかり戻りクスクスと笑みをこぼしていた、名前呼びの事もそうだが相変わらず関係は良好のようだ。
『あー、あー……それじゃあ出発するぞ、皆様シートベルトをご着用ください──だ』
おどけたような宇垣のアナウンスに青海と苦笑しながらシートベルトを装着する、すると地面から噴き出すようなエンジン音が小さく響き車体がふわりと浮き上がった。
「修吾さん、飴食べますか?」
食べますか? と聞きながらも既に缶を傾けている青海の前に手を差し出すと、深い緑色のキャンディが手のひらに転がった。
「ああ頂きます……これは?」
「ペパーミント味です、強力ですよ?」
「それは怖いですね……んっ!?」
所詮は菓子だろうと半信半疑で口に飴玉を放り込んだ瞬間、爽やかを通り過ぎて寒冷地のような吹雪が口の中で巻き起こった。
寒い!……いや痛い! 呼吸で行き交う空気までひんやりと冷やし舌の上でピリピリとした刺激を与え続ける凶悪な飴玉はいつまでも溶ける気配が無く、この極寒地獄の終わりが見えない!
「……さっきの仕返しです、なんて」
悪戯っぽく笑う青海の表情からようやく騙された事を悟り、空中を滑るように走る車内でしばらくの間一人孤独に寒さに震えるハメになってしまった。




